"PINK"(岡崎京子:1989)の世界「消費する幸福論」
 
1. スリルとサスペンス
2. 夜、妹がやってくる
3. ショウネンノ ヤボウ
4. 裸でランチ
5. ノベリストのユウウツ
6. HAPPY SEED
7. 女子大生は尾行する
8. 無関心な彼女はマニキュアをぬる
9. 屋内熱帯の洪水
10. おままごとはいつもたのしい
11. サザエさんのゆめ
12. 不能と鏡と毒リンゴ
13. 王女様は労働する
14. 動物としての人間のさまざまな思わく
15. ハサミでチョッキン
16. ブラッディ・ラヴァーズ
17. すてきな食事
18. もう、やめてよ
19. 愛と暴力
20. すべてトランクにつめて
21. せいりのせいり

7.女子大生は尾行する

a. ハルヲくん、安アパートに戻る。彩子が料理をつくって待っている。
b. どうして女はこーゆーフリルのついたボーリョク平気で使うんだろ?
c. 彩子、ハルヲを尾行する。そして、ばれる。
d. 彩子、ユミちゃんの部屋で、ハル君としたいの、と迫り、する。
f. した後、トイレにいって、ワニをみて、彩子は失神。
g. ユミちゃん、二次会から帰宅し、その失神現場に驚き、怒る。
h. オレはこの部屋の酸素体系を壊してしまったんだ。

女子大生の彩子は、早くも攪乱要因として、見事な役割演技に走ります。フリルのついた暴力を平気で使い、掃除洗濯料理の主婦3点セットを見事にこなし、これでもかとハルヲをフリルでいじめます。やっとその暴力から逃れてみても、彩子はしたたかです。バイトといったハルヲの嘘に感づき、そっと尾行します。勝負はもうミエミエです。女子大生は強い、それだけです。
しかし本当のゲームはこれからです。女子大生とOLは、東京ガールの意地を賭けて闘わなければなりません。価値のないハルヲをめぐって、その無意味さがなんともいえない快感なんです。ゲームは意外な展開で決着がつきました。ワニです。彩子は、トイレでのワニとのご対面で3秒でノックアウトされ、失神し、そしてユミちゃんに捕らえられます。ユミちゃんは、ワニを飼う強みで、東京ガールの地位を掌中におさめました。
しかし大切なことが失われました。部屋の酸素体系が崩壊しはじめたのです。ユミちゃんが一瞬みせた「文句ある?」の顔は、本書のなかでみせた最初にして最後の「本物の顔」です。これがユミちゃんの正体です、といったら、しかし、間抜けです。本物はどこまでも嘘の顔なのです。リアリティがありすぎる顔だからこそ、それは嘘なんです。ユミちゃんには、似合わないから、嘘なんです。でもそんな本物の嘘の顔をしなければ、その場が納まらないところに、このシーンの深刻さがあります。それが、酸素体系のほころびなんです。

そもそも60年代の田舎ボーイでしかないハルヲくんを許したのが、間違いなんです。「おちつくつーか、不安つーか、なつかしいつーか、不思議な湿度と温度と匂いがする」この部屋が、ハルヲくんには「いつもなんか息苦しいのはサンソが足りないせい」ということでしか、かれの身体が反応できなかったところに、悲劇がすでに予定されていたのです。
この部屋は、常識的な酸素体系で維持されているのではありません。高地の乾燥地帯を基準にして酸素体系の均衡がとれるように調整されているのです。ですから、ここで気分よく暮らすには、ユミちゃんらしさが求められます。それがハルヲくんには無理なんです。それが東京ガールと田舎ボーイの違いなんです。
田舎ボーイは、どこか重たいんです。貧しさが、その重たさをひきよせるのです。その重たさが、酸素体系を壊すのであって、女子大生の彩子のせいではないんです。彼女はユミちゃんのライバルではあっても、同じ酸素体系に棲む子であって、ハルヲくんとは違うのです。だから、彼女が酸素体系を壊すのではなく、貧しくて重たいハルヲくんが壊すのです。

彩子さんは、たんなるトリガーです。

指をかけて弾くのはハルヲくんです。

ワニは、希薄な酸素体系の守護獣です。ぼっーとしているだけで、なにもせず、ただ空腹の時だけは食べる欲に目覚めます。その一瞬の卑しさだけが濃密なリアルワールドをみせますが、それいがいは静かな虚が支配する豊かな時間です。