3.ショウネンノ ヤボウ
ここでは、ママハハの愛人の正体が判明する事件をきっかけに、かれとユミちゃんとの構造的な異同性が明らかにされます。
a. ぼくは、大学生、セックスマシーン。吉野といいます。
b. ぼくはオフクロといってもおかしくない女の愛人です。
c. あたしは、仕事でSMプレイの写真をとられた。その人はいい人だった。
d. あたしは、同じホテルでママハハと愛人の現場をみつけ、その愛人が万引きの大学生であることを知り、後をつけた。
e. あたしは、追跡のタクシーの中で思う。スリルとサスペンスだわ、面白い。
f. 愛人は、ボロアパートに住んでいた。見つかって、かれの部屋に入る。
g. かれの部屋は本で一杯だった。
h. テレビでは、わたしの客が逮捕されていた。
i. あたしはホテトル孃をやってる、とかれに教える。
その少年には、たくさんの野望がありました。しかし何ひとつ実現できないまま、今の大学生になり、そしてまだ夢を捨てることができず、ふらついています。それが、セックスマシーンと大学の友人に冷やかされる「かれ」の今なんです。
セックスマシーンという点では、かれとユミちゃんは同じです。しかもかれはオフクロみたいな女(ユミちゃんのママハハ)の愛人ですし、ユミちゃんにからむ男はなぜかお父さん(バカオヤジ)のような年寄りばかりです。2人は、ともに親もどきの大人とのセックスを強要されています。いわば疑似的なインセスト・タブーに挑戦するかのような関係にあります。つまり父親と娘、母親と息子という近親相姦の疑似的な関係がみられます。しかし本来の近親相姦ならば、娘は母親と競争して価値ある父親を勝ち取るはずですし、また息子は父親と競争して価値ある母親を奪うはずです。でもここでは、そのようにはなっていません。かれにとって、疑似的な母親(愛人)はそれ自体としては価値をもっていません。ですから、彼女とのセックスは完全に仕事ですし、またユミちゃんにとっても、父親もどきはピンクを買う手段として有効な場合にのみ価値を発揮する対象であって、それ自体は価値をもっていません。だからホテトル嬢という商売なんです。ユミちゃんは、ホテトル嬢が好きでたまらない、というわけではありません。ピンクを買うには、この商売がもっとも効率的なのです。
セックスマシーンは効率的で生産的な仕事という意味です。だから吉野くんもユミちゃんも、近親相姦もどきのタブーに挑戦するんです。オフクロもどきにたいしてセックスマシーンになりきるのも、そして父親もどきにたいしてセックスマシーンになりきるのも、それは儲かる商売だからなんです。もどき程度でおいしい商売になるのなら、かれらはなんでもやります。
セックスマシーンに徹する、その潔さがユミちゃんと吉野くんを結びます。
違いは、ピンクとヤボウにあります。まだかれの野望の実態が明確にはなっていませんが、本に関係しそうなことは確かです。万引きも本ですし、部屋は本でいっぱいだというところから、野望の実現には本というオールドメディアが関連しそうなことが暗示されています。対照的にユミちゃんはいままで5冊の本しか読んだことがありません。彼女はテレビ・メディアしかみません。それは、SMもどきのプレイを楽しんだ今日の客がテレビで逮捕された場面から推測されます。
もうひとつの違いは豪華なマンションとボロアパートです。おなじセックスマシーンなのに、吉野くんは貧しい生活をしいられています。本とボロアパートと野望は完璧なモダン(豊かさへのテイクオフ)のライフスタイルです。それは1960年代の大学生のスタンダードでした。過去の時代に生きる野望の少年(田舎から東京にのぼってきた下宿ボーイ)と、あふれる豊かな”いま”を楽しむピンクの東京ガールとでは、しょせん生まれも育ちも違うということなのです。
ですから、違いはアーバンライフにあります。同じ東京に住みながら、貧しさの中で野望を実現するために頑張る田舎青年の今どき懐かしい東京ライフと、豊かさの中でピンクに生きることに「セイをだす」東京ガールのイマドキの東京ライフとの違いなんです。60年代と80年代の東京ライフの対照性が吉野くんとユミちゃんによってきれいに描かれています。
東京ガールと田舎ボーイとでは、アーバンライフに20年の格差があります。
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