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5.ネットワークは、グローバル・シチズンを求める。
ある人がネットワークに自分をつなげたとしたら、その人は一気にすべての人につながってしまう。かつてのように、まずは何人かの仲間から始めよう、という発想はない。「小規模から始めよう」は、典型的な「境界」の考え方なのだ。まずは小さく、そして徐々に大きく、という段階的拡大の発想(これは、境界と階層をミックス)は、ネットワーク以前では自明ではあっても、ネットワーク環境では、無視されなければならない。
ネットワークでは、自分はストレートに世界につながる。これがネットワークのおもしろいところだ。最初から、世界のなかに放り出されて、さあ、自由に好き勝手に動きなさい、と解放させられてしまう。いまから、あなたは世界市民(グローバル・シチズン)だ、と、一方的に宣言されてしまう。ネットワークは、容赦なく、すべての人に、まったく新しい自分のアイデンティティを求めよ、と迫る。
どうすれば、いいのか。「自分は小さい、世界は大きい」。その大きさの違いを、どう縮めればいいのか、そのために自分の世界を徐々に拡大して、本物の世界の大きさに少しでも近づけよう、と発想することだろう。しかしこの常識は、間違っている。間違っていないとしても、時代遅れの発想で、ネットワークには似合わない。ネットワークでは、最初から自分は世界そのものなのだ、という自覚が必要である。グローバル・シチズンになりきることがネットワーク市民(ネチズン)には不可欠である。
ken@sfc.keio.ac.jp。これは、ネットワークに入るとき必要なアイデンティティ(自己証明書)である。これは、グローバル・シチズンとしての新しい自分の名前で、世界に一つしかない名前だ。これは、もっとも重要だとされているローカルな自分の名前(熊坂賢次)よりも、もっと大切なものだ。自分というアイデンティティは、ローカルな自分ではなく、グローバルな自分としての存在証明が必要になってくる。それがネットワーク社会なのだ。ネットワークは、必然的に、世界市民というもう一つの自分を要求するのだ。
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