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16.ネットワークは、信頼関係の根拠を自己責任に求める。
ネットワークでは、知らない人とコミュニケーションをすることが、基本だ。この場合、知らない人とのコミュニケーションを支える信頼の根拠は、どこにあるのだろう。そこで、信頼の根拠を、昔のコミュニケーションから振り返ってみよう。
みんなが知り合い同士の昔のコミュニティ、原理的にはパーソナルコミュニケーションの世界では、身体的な接触を伴った知り合いという日常的な事実(「いま」と「ここ」の共有)が相互の信頼を成立させる根拠になっている。だから、知り合いの関係なのに、もしも信頼を損なうような事件(相手の予期を裏切る行為)を起こすならば、その人は、知り合いの関係から排除され、法外者としてコミュニティから排除させるだけである。だから信頼は、知り合いという日常性のなかにすでにセットさせている。だから知らない人は信頼されず、コミュニケーションはここでは成立しない。
つぎにマスコミュニケーションの時代になって、はじめて一方的にしか知らない関係がうまれ、スターと大衆の関係のように、知られている人(だが、このスターは、相手を知らない)と知られていない人(大衆という、スターを知っている人)という関係が発生した。ここでは、知られているスターは大衆を知らない人で、知っている大衆は知られていない人という歪んだ関係になっている。このような、一方的な認知と場の非共有(テレビなどのマスメディアでしか会えない)という状況のなかで、相互の信頼はいかにして生成させるのか。ここでは、スター(それを支える大組織)という情報発信サイドが所有する権威が、大衆からの盲目的な依存(価値委託)を誘発するのである。この階層的な関係そのものに潜む権威が放つオーラに、大衆は価値(貨幣・権力・威信・尊敬)を無条件で譲渡するのである。こうしてマスコミュニケーションのなかでは、権威による信頼関係が形成される。マスメディアは権威そのものである。
さらに、サブカルチャーの時代になると、どうなるのか。いわゆる「おたく」のコミュニケーションを支える信頼の根拠が問題である。ここでは、似たもの同士の共感という関係が信頼をもたらす。サブカルチャーという特殊なコミュニティメディアを通して知り合うことで、外部に対して閉じたところから発生する自分たち固有のジャーゴンを用いることで、自分たちだけにしか理解しえない密室的な共感をもとに、信頼が生成される。おたくは、この独自の共感をもとに信頼関係を築き、だからこそ、その領域に閉じこもることで、自由なコミュニケーションを相互発信させるのである。
このように、信頼をもたらすキーコンセプトは、日常性・権威・共感であったが、では、ネットワークの世界では、なにが信頼を呼ぶのであろうか。ここでの関係は、お互い知らない同士である。知らない者同士が、では、いかにして信頼関係を築くことができるのであろうか。それは、自己責任である。つまり知らない同士であるから、知り合いの裏返しで、裏切られることを自明として関係を形成するしかなく、また同時に、ここでは、情報は探索ー支援の関係を優先するので、未知の人からの支援は、相手の優しさに依存するものではなく、単純にシステム(つまり支援はエイジェントの探索の結果だから)に依存するものなので、支援情報の評価はすべて自分の自己責任においてなされなければならない。自己責任がルールとして確立していないと、裏切られた、などの無用な騒ぎになるので、そもそもそういった無用な情報が支援として飛び込んでくるから、その混交玉石の情報の束のなかから自分に必要な情報を選択することが、自己責任において実行されないかぎり、ネットワークはうまく作動しないのである。とすれば、自己責任のルールによってのみ、知らないもの同士の信頼関係は生成させない。かくして、ネットワークは、信頼関係の根拠を自己責任に求める。ネットワークを活用するには、自己責任の原則が確立していないと、とんでもないことになる。ネットワークがボランティアの精神を求めるのと同時に、そこでは自己責任のルールも十分に了解されていなければならない。ここは、甘い世界ではないのだ。
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