23.専業主婦は、もういない。
ネットワークは、境界を曖昧にする。この命題が家族での役割に関して適応されたら、専業という考え方は否定させる。主人は外で働き、主婦は内で家を守る、という機能的な関係は放棄される。しかも機能的な関係は、フェミニズムからの批判にあったように、非対称的な特性をもつから、外で働く主人は、内を守る専業主婦よりも、高い地位/権力をもつことになる。確かに、主人と主婦の役割分担がないかぎり、核家族としての目的達成(頑張って、一戸建ての家を築く)は、困難ではある。頑張って残業して高い給料を取る主人と、それを節約してたくさん貯蓄するしっかり者の専業主婦というコンビは、貧しい生活から逃れ、豊かな生活を目指す過程では十分に有効なコンビであった。しかし豊かさの階段を一歩一歩上るにつれて、そこで賢明に頑張る姿に、自己矛盾を感じてくるようになった。とくに女性には、対等なコンビのはずなのに、地位が低い、という不満があった。その不満は、豊かさの獲得過程で、どんどん拡大し、ついにバブルの崩壊と同時に、主人の社会的地位の低下(悲劇的なミドルのリストラ)が決定的になったことに呼応して、夫婦の危機、そして核家族の危機はもはや回避できないまでにいたった。
その危機を、新しいフレームで再構築すれば、危機は危機でなくなり、みんなハッピーになれる、と予告したのが、ネットワークなのである。ネットワーク環境の浸透は、今までのような分業/役割分担の考え方を放棄させる。女性は、このとき自らの意志で行動する自由を獲得する。その自由は、専業主婦の地位を放棄させ、自らの力を試すべく、社会に進出することを強要する。主人の給料の何割が専業主婦の値段だ、といった姑息な手段ではなく、自力で稼ぐという正当な根拠に基づいて、女性は社会の波に足を突っ込んでいくのだ。
ネットワーク環境では、女性は、そのジェンダーのハンディキャップを足枷とすることなく、あるいは家庭に閉じこもることを正当化することなく、専業主婦であることを止めることが賢明な選択なのである。そうしないかぎり、女性に未来はない。
しかしここで発せられる疑問は、弱い子供や高齢者の面倒を誰が見るのよ、ということだろう。その解決の基本は、核家族という境界に閉じたままでいる状態を、思い切り解放することである。つまり家族は閉じてはならない。家族の境界を解き、もっと広い空間の中で、社会的弱者の面倒をみることである。そのとき、弱者はもはや弱者ではなくなる、というトリックがここには隠されているのだ。それが、ネットワークがもたらす、新しい家族へのプレゼントなのである。だから、専業主婦は、もう、そろそろ卒業しなければならない。携帯家族に、専業主婦は似合わない。
以上は、まだ現実的な話ではないのかもしれない。でも、コンセプトとしては、これしかない、という論理は正当であると確信している。現実は、いつも保守的で、最後は否定されるものなのである。
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