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25.第3の絆、友情で家族は生成できるのか?
きょうだい関係は、広がりをもつ。「きょうだいは、他人の始まり」という諺があるように、きょうだい関係は、親にも配偶者にも拘束されないから、つねに外部へのつながりをもって家族を維持している。
核家族では、恋愛の絆が男女関係に閉じているので、家族の境界を越えて、家族としての広がりはない。どこまでも閉じることで、核家族が機能する。これにたいして、親子関係からなる伝統的家族では、血縁が、その縦のつながりとして、家族を拡張する機能を果たすので、ここに親族が形成される。その親族の最大の拡張として、伝統的な国家が成立するのである。
きょうだい関係は、血縁の縦系列の拡張とは対照的に、横のつながりの拡張をもたらす。家族を超えた拡張性をもつという点では、恋愛の絆とは違って血縁に似ているが、その拡張性の方向にかんして、血縁とは明らかに異なっている。では、それは何か。
(1)きょうだい関係は、よわい者(フラジャイル)同士のつながりである。したがって、この関係を維持するには、権力(血縁における親)と恋愛の場合ように、所有による関係づけではなく、非所有(何もない、だから助けて)をもとに生成される「探索と支援」の関係に頼らざるをえない。
(2)その探索と支援は、狭い家族の領域では、まったく充足されないから、つねに外部へと関係づけが拡張される。自分の家族は、その意味では、非常に弱い拘束しかもたず、その境界は柔らかくならざるをえない。自分の家族は、したがって、閉じることなく、外部への依存(探索と支援)を前提として構成される。
(3)きょうだいは、性別を問わないから、家族は、男女のカップルを前提とすることはない。ゲイ/レズビアンの家族も、ここでは成立可能である。
(4)通常の弱者である子供や高齢者は、その扶養を外部に委託される存在である。しかし、そもそも家族の主たる構成者さえも弱い存在(概念としてであるが)であるから、ここでは、家族全員がみんな弱い者でしかない。とすれば、子供や高齢者を、自分の家族の内部に抱えて面倒をみなければならない、という資格も規範もここにはない。素直に外部との関係で扶養することが望ましい、という論理が導かれる。
(5)きょうだいの絆である「友情(きょうだい愛)」とは何か。恋愛の愛が相手を奪うことであるのに対して、友情の愛は、相手を支えることである。自分が強いから奪うのと対照的に、ここでは、自分は弱いから相手を支える(尽くす)のである。これは、ボランティアの精神そのものである。友情(友愛/フレンドシップ/パートナーシップ)は、その意味では、ボランティアとしての振る舞いである。つまり友情はネットワークにおける精神そのものである。ネットワーク環境になかで家族を構成しようとすれば、二人は、それが男女関係であっても、恋愛である以上に友愛(ボランティアの精神)の絆を優先して、自分の家族を生成しようとする。
このようにみると、ネットワーク環境と家族との関係では、きょうだいの絆の原理がもっともふさわしい。親子関係にみる階層的な関係(血縁)も、男女(夫婦)関係にみる機能関係(恋愛)も、ネットワーク環境を支える関係としての適合性が欠落している。そして第3の絆であるきょうだい関係が示す友愛/ボランティアの精神だけが、ネットワーク的な関係を支持する。とすれば、新しいネットワーク社会には、新しい第3の絆をもとに、新しい家族が構成されなければならない。それが、携帯家族を支える新しい絆である。
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