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13.ネットワークは、匿名性(マス)を嫌う。
ネットワークでのコミュニケーションは、匿名性を前提に行われる、という誤解がある。まったく、その反対で、ネットワークは匿名性を嫌う。これを、自覚しなければならない。このような誤解は、すべて、マスメディアとネットワークを同じ情報環境にあると信じているところに帰因している。マスメディアの環境では、情報が発信され受信される関係を基本的なコミュニケーションとするから、一方的に受信するだけにすぎないマス(大衆)は、基本的には匿名にならざるをえない。ここでは、受信者は誰でもマスという存在でしかなく、個人としての存在は期待されていない。ただじっとして、情報を受信すればいいので、それ以上の自己の存在証明を求める必然性はマスメディアの環境にはない。
しかしネットワーク環境では、そこで情報行動を行う人は、マスではない。しっかりとした名前(メールアドレス)をもっている。これは、世界市民の名前であり、世界に1つしかない、自分そのものの名前である。ネットワーク上の名前は、親から授かった生まれながらの名前よりも、ある意味では、もっと大切なものである。それは、決して匿名ではなく、個人ひとりひとりに固有の、かけがえのない名前である。その名前を、多くの人は、ヴァーチャルと呼ぶことで、あたかも匿名性があるような言い方をするが、それは、まったくの誤解である。この名前は、どこまでも個別の名前であって、そこに匿名性はない。つまり代替不能な名前である。たとえばken@・・・という名前は、ぼくという個人以外のいかなる人にも使えない名前であり、ぼくという個人の存在を証明するに十分に値する名前である。
すると、つぎのような発言が聞こえてくる。一人の人で、多くのプロバイダーからメールアドレスをもらうことで、たくさんの名前をもつ人はいるだろう。それは、どうなのか、と。この事実は、名前は、そもそも個人にとって1つである必要はない、ということにすぎない。人は、本来、名前をたくさんもつ。たとえばあだ名は、その人にとって重要なもう1つの名前である。人は、状況に応じていろいろの顔をもつように、また偉くなるほど、いろいろの名刺をもつように、そもそも人は多くの名前をもつものである。しかしその個々の名前は、決して匿名ではなく、その人個人に固有の名前ばかりなのである。
ネットワークの環境では、いろいろの名前をもつことが可能である。1つでもいいし、いくつもってもいい。その数自体が、その人の個性の表現である。繰り返すが、名前をたくさんもつことは匿名性ではない。ネットワークは、匿名でコミュニケーションすることを許さない。ネットワークでは、いろいろの顔や名前をもつが、それはすべてその個人の存在を証明する印である。
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