|
22.新しい家族の絆---幻想から構造へ--
携帯家族になると、家族の絆は強くなるのか、それとも弱くなるのか。
核家族の時代、実態としての家族の絆は、家族メンバーが家にいるときだけ、さらに厳密にいえば、居間で一家団欒を楽しんでいるときだけ確認されるものでしかなかった。だから、家から一歩外に出たとき、家族のメンバーは誰でも、外向けの顔をした。たとえば、主人は、満員の通勤電車に乗れば、単なるオヤジの顔になるし、やっと会社に到着すれば、その瞬間から、部長とか課長という組織の顔になった。つまり家から一歩でて、周り近所の顔見知りとの接触がなくなる瞬間から、彼は主人ではなくなり、ストリートでのマス(大衆)というまったく別の個人に変身する。そして顔の見えない誰かという顔をした後、会社について、もうひとつの仮面をかぶることになる。課長なりの地位は、その人のもうひとつの明確な顔である。家での主人と会社での課長が、彼の自己イメージを確定する素顔で、ストリートや盛り場での匿名性のなかのマスという顔は、もうひとつの隠された自分である。
こうしてみると、家族での主人の顔がいかに少ない時間しか演じられていないことが理解されよう。核家族での主人の典型は、郊外の団地に居住して、夜遅くまで都心の会社で仕事をし、帰ったらすぐに寝て、朝は早くから通勤電車にもまれて出勤するまじめなサラリーマンである。とすれば、まじめなサラリーマンであるほど、家族との団欒はますます限定されざるをえない。彼にとって、家に仕事を持ち込むことはタブーであり、だからこそ、家庭を出たら、すぐに主人の顔を放棄しなければならない。ということは、主人である時間はものすごく少ないから、そこでの家族の絆は実態としてはかなり細く弱くなる。だから、逆に、彼は「幻想としての家族の絆」に固執する。現実には、家族の絆を維持できないからこそ、幻想としての家族の絆に価値をもたせ、家族はいつも一体なのだ、という意識の洗脳が不可欠になる。その洗脳の核が、愛情とセックスと扶養の三位一体の原則である。
しかし携帯家族には、そのような幻想は皆無である。その意味では、家族の絆はあまりにも危うい。イデオロギー(幻想)がない分、簡単に絆は解消されてしまう。 しかし携帯家族は、その現実において、家族の絆を大切にする。理由は、携帯家族には、その絆を維持するのに必要なネットワーク環境があるからである。24時間、いつでも、どこでも、家族の絆は生活環境として維持されている。その「構造」がこの新しい家族の絆を支える。核家族での幻想は、ここではネットワーク環境それ自体に代替される。この変容は大きい。イデオロギーとしての絆から、構造としての絆へと、家族を支える絆は、その実態を大きく変化させる。
このようなネットワークの構造に支えられると、家庭での主人は、会社でも、ストリートでも、家庭の主人の顔をもつことが可能になる。会社でも、主人の顔をもち、反対に家庭でも課長の顔をもつ。かつてのように、いくつもの顔を場所によって使い分けるのではなく、いつでもどこでも、いくつもの顔をみせることが可能になる。これが新しい家族形態を構成する基本原則である。仕事をしながら、子供の世話をする、それを、SOHOのように自宅でもすることもでき、また都心のオフィスでも、ネットワーク環境を利用して、子育てを実践することもできる。その結果、家族の絆は、構造として、しっかりしたものになる。もはや幻想の絆に翻弄されることはない。ネットワーク環境という構造が、新しい家族の絆を支えるのである。
|