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17.ネットワークは、個人をかえる。
のぞき趣味は悪い、と、誰もが思っている。同じように、露出狂も、一種の狂気なのだろうから、誰もが悪いことだと確信している。なぜ、誰にも見せたくないことを、のぞき見したくなるのだろう。なぜ、誰もみたくないことを、見せたくなるのだろう。この2つの行為には、越えてはいけない境界を越えるという共通点があり、その越境が、いまの社会的なルールでは悪いというレッテルを貼られる行為なのである。ここには、プライベートな世界という明確な境界があり、それを外から了解なく侵害することは許されないし、また外のパブリックな世界が求める「あるべき姿」に違反して、寝間着姿で公式のパーティに出席するように、本来プライベートな世界に封じ込めておくべきことがらを、節操なく外にばらまくことは、はしたない行為である、というルールがある。これが、公私のルールである。
しかしネットワークの環境では、このルールはもはや無効である。最近流行のCCDカメラをネットワークにつなげて楽しんでいる場面を考えてみよう。自分の私的な部屋にCCDカメラをセットすると、通常ならば、ドアを閉じれば、そこは完全に私的な空間になるけれど、ここでは、外部から部屋の様子を覗くことができる。インターネットのホームページにこうやってカメラをつなげているサイトはたくさんあって、それなりに新しいのぞきの環境が提供されている。これは、あきらかに、自分の部屋と外部との境界を曖昧にすることで、新しい世界を生成している。この環境では、昔ならばプライベートな自分の世界に封じ込められるべきことを、そのまま外部に公開して、そのことで、新しい自分のあり方を表示しているというわけである。自分という個人を、プライベートとパブリックに明確に区分することで、自己の存在を証明する(つまりアイデンティティを確認する)のではなく、積極的に境界を曖昧にすることで、新しい自己のありかたを追求しているのである
自分の毎日の日記をネットワーク上で公開する、ということも同じような試みである。ここには、私的な世界を外部に露出することで、また外部も積極的に私的な世界に踏み込むことで、自他の社会関係を根本から変革する。のぞきも露出も、ネットワークの環境では自明なのである。これは、個人のあり方を根本から変える刺激的なメディア環境である。
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