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19.ネットワークは、行動ではなく、情報の論理に生きる。
ネットワークでのコミュニケーションを考えるとき、そこでは、当然のことだけど、生身の人の行動で語ることはできない。つまり行動としてではなく、情報としてのコミュニケーションが問題なのだ。ネットワーク以前の段階では、人は、コミュニケーション行動を重視するが、新しい環境では、行動はみえない。あるのは、情報であり、情報からみたコミュニケーションが問題なのだ。
では、行動と情報では何か違いがあるのか。おおありである。行動は、行動する主体と不可分であるから、時間と空間つまり「いま」と「ここ」の制約の中で、あることを選択する結果が行動として採用される。ここには、時空間の制約と、無限の行動選択肢のなかから一つを選ぶという制約が2重に重くのしかかってくる。しかも行動は、行動が起こった瞬間に消去される。これが行動の原理である。しかも行動の選択基準として、合理性が優先されるとき、それはモダンマンを特徴づける基本的な行動選択ルールになるのだ。
これにたいして、ネットワーク環境では、いつでも・どこでもが前提であるし、生身の人間を介したコミュニケーションはそもそもできない環境だから、必然的に、行動という視点は消去される。行動にかわるのは情報しかない。情報は、行動が瞬間ごとに選択され、そして次の瞬間にはすでに消えているものであるのにたいして、永遠に消去されず、アーカイブとして記録保存される。だから、情報はデータベース化される。記録され保存されれば、時間と空間を超えて存在し、いつでも・どこでも活用されるものになる。しかもそれ自体は、選択される結果ではないから、選択以前の存在として、ばらばらのまま(つまり多様な存在として)格納される。それがデータベースとなって、情報は記録の宝庫になる。しかも情報それ自体の価値は減らない。情報は、コミュニケーションの過程で、相手に伝達されても、それによってなくなることはない。ものが伝達によって、所有移転され、手元には残らないのとは対照的に、情報それ自体は消滅しない。情報は、流通されて、はじめて価値が発生する点では、ものの流通と共通するが、さらに重要なことは、情報は流通によってどんどん拡散するのであって、拡散することで情報が共有されないかぎり、情報の価値は産まれない。情報は密かに所有していても、ネットワーク環境では意味をなさない。情報を希少性で考えること自体が、ここでは意味がない。情報のアバンダンスが重要なのだ。
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