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21.携帯家族のすすめ
ネットワークが自明になる世界で、家族はどうなるのか。現在、まだ家族といえば『核家族』こそがその原点である、と確信されている。現実は、もっとダイナミックに家族の実情が変容しているのに、理念としては、核家族こそがもっとも家族らしい形態である、と信じられている。
核家族とは、何か。それは、外部との間に明確な境界を引いて、役割分化と専業化をもとに、もっとも効率的に目標を達成するために仕組まれた家族形態である。夫は外の組織で働き、その給料で家族の経済を支えることで主人の地位を維持し、妻はその給料をもとに、家族内の家事・炊事・育児など、あらゆる家族問題の解決の専門家として機能することで専業主婦の地位を不動なものにし、子供は、その両親の庇護のもとで、賢明に勉強していい子になろうと頑張らなければならない。ここに、家族の強い結束は保たれ、家族の団欒が維持される。家族の絆は、ここでは一番大切なものである。そのシンボルが、夫婦間に独占されたセックスであり、その愛の結晶としての子供の誕生である。こうして、核家族は、近代産業社会を支える社会基盤として重要な機能を担うのである。
ネットワークの社会になると、このような家族は、その歴史的な使命を終え、まっかく新しい家族へ、その地位を譲ることになる。では、どうなるのか。箇条書きにししてみよう。
1)専業主婦はなくなる。つまり家事専門で無給という専業の女性の仕事は廃棄される。大人は、ジェンダーの関係なく、みんなフルタイムで働くことが、基本原則になる。
2)働く場所は、どこでもいい。家庭は、もはや団欒だけの場所ではない。十分の仕事をする場所として復活する。単純な意味での職場という考えも消滅する。
3)家事は、誰でも、家族のメンバーならば、当然のこととしてシェアされる。主人は、外で働くから家事免除という特権は一切ない。炊事洗濯も、男らしい仕事の一部となる。専業主婦がなくなれば、主人という考えもなくなる。
4)家族は、物理的な家という空間によって定義されない。家族は、家庭という場ではなく、絆という関係によって定義される。これは、同居という概念が放棄されることを意味する。夫婦が別居していても、そこに絆が維持されているかぎり、家庭は存在する。ネットワークは、空間よりも関係を支持するのだ。
5)夫婦間でのセックスの独占というルールは、場の共有(同居)の放棄に伴い、解除される。セックスと愛情の蜜月は、同居という場の共有を前提として成立する関係なので、その前提の崩壊に伴って、新しい関係が生成される。そもそも、愛情とセックスと生活(経済的な扶養)という三位一体は、核家族を構成する原理であるが、それはネットワークの社会では、その有効性を失う。
6)家族は、その境界を閉じない。そのシンボルがセックスの独占であるが、それ以上に、境界の曖昧さは、さまざまな変化をもたらす。その兆候は、すでに昔から、テレビと電話という、過去のメディアが家庭に入った段階からすでに始まっていたが、この傾向は、ネットワーク社会では、さらに一層徹底される。ネットワークは、従来のマスメディア以上に、境界を乗り越え、外部とのコミュニケーションを積極的に誘発させるメディアである。
7)子供や高齢者という、社会的弱者にたいする扶養の問題は、すでに家族の境界の中で解消されるテーマではない。専業主婦が一人でじっと我慢して、この弱者の世話をするという事態はなくなる。弱者は、家族の境界を超えて、コミュニティにはきだされなければならない。ここに、新しいコミュニティが必要になる。核家族を超えるには、家族だけではなく、ネットワークに支えられたコミュニティが不可欠である。
こうして、家族はネットワーク環境によって根本的にかわるはずである。少なくとも、ネットワークの論理を詰めれば、核家族の終焉は自明である。そこで、ネットワーク社会に期待される新しい家族形態を、ここでは携帯家族と呼ぶことにする。
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