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24.恋愛の絆では、ネットワークを維持できない。
国威発揚の映画を観て、多くの人は、そのイデオロギー性に呆れ、「なんで、あんなに国家のために、自分のすべてをささげることができるんだろう」と、疑問に思うことだろう。しかしあの『タイタニック』しかり、今の僕たちの社会には、その国威発揚の代わりに、「恋愛至上主義」のイデオロギーがある。これは、近代社会が産んだかなり歪んだ歴史的な産物である。
このイデオロギーがもっとも鮮明に反映されるのが、家族関係である。そこで、簡単にまとめると、家族形成の原理は、その歴史的展開において、まずは親子関係(血縁)を核にして形成されてきた。父系か母系かの差異はあっても、血縁によって家族は維持されていた。それが近代以前のことであり、その家族形態の拡散として、上記のような国威発揚のイデオロギーがあるのだ。そこでは国家(主席)は父であり、人民は子である。これが、近代以前の社会形成の原理である。
それが、近代社会になると、親子関係に代わって、男女関係が優位になった。そのシンボルが恋愛関係である。血のつながりから、愛のつながりが優先させる家族へと、家族形成の基本原則が変化したのだ。だから、近代社会における核家族は、まずは男女の恋愛から形成されなければならない。愛の絆は、血の絆を超えるものになった。今のハリウッド映画で、執拗なまでに恋愛の価値が高揚されているのは、このような社会的な理由があるからである。無意識に、ぼくたちは、そのイデオロギーに浸り、これこそが人間のあり方なのだ、と信じている。まさに恋愛至上主義によるマインドコントロールの成果である。つまり核家族では、愛がすべての本質なのだ。それを無視して、核家族は成立しない。ほんの少し前までは、誰もが血縁によるイエの継承こそが家族(伝統的家族)のあるべき姿だ、と信じていたのに、今では、誰もが、愛がすべてだ、と信じきっている。
問題はここからである。恋愛は、近代社会の根幹を支える『私的所有』の概念を素直に継承しているので、つぎのような2つの排他性のルールにしたがっている。1つは、「もしも、ある人Xが、他のある人Yを自分のものだ、と主張すれば、他のいかなる人Zは、ある人Yを自分のものだとは主張できない」というルールである。もう1つは、「もしも、ある人Xが、ある人Yを自分のものだ、と主張すれば、その人Xは、ある人Y以外のいかなる人Zをも自分のものだ、とは主張できない」というルールである。これが私的所有のルールであり、これに恋愛も準拠している以上、男女がともに、相互に排他性のルールに従うので、相互に一人の相手しか愛さず、ここに愛の独占が二人の愛を正当化する、という論理が成立する。恋愛・結婚そして愛の結晶としての子供の誕生という一連の核家族の生成・維持のプロセスは、愛の排他性をもとに構築された近代社会そのものの縮図である。もっとも、現実的には、ジェンダー論者が批判したように、この原理を遵守させられたのが女性だけで、男性は排他性の原則をかなり無視していた、という事実は自明であり、それが、ジェンダーの非対称性として、核家族批判の論拠とされたことも事実である。ただ基本的なコンセプトとしては、愛の相互的な排他性のルールによってしか、核家族の成立はありえないのである。
さて、ここで問題にすべきことは、恋愛が排他性という私的所有概念そのものから構成されていることである。なぜそれが問題なのかといえば、ネットワークの関係では、排他性を重視する私的所有は基本的には拒否されているからである。ということは、ネットワーク環境と核家族は真正面から矛盾する関係にある。とすると、ネットワーク環境を優先するとしたら、核家族を支えた恋愛価値に代わる、第3の関係生成の原理が想定されなければならない。とすると、すでに親子関係(血縁)と男女関係(恋愛)は却下されるので、残りは、ただひとつ「きょうだい関係」しかない。これは、親子関係のような上下・権力関係でもなく、男女関係のような排他的・独占的な恋愛関係でもなく、弱い者同士の、しかもジェンダーを超えた、相互依存・支援的な友情(パートナーシップ)を原則とする絆である。ここから、新しい家族を形成しようとすると、まったく今までとは異質な家族形態ができるはずである。これが、携帯家族を支える根本的な原理になるかもしれない。
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