長崎でのシンポジウム

 見学ツアーの後、シンポジウム「長崎からつなぐ <過去・現在・未来> ―日本の電信電話事業の幕開けと現代におけるケーブル事業の展開―」に参加。開会挨拶は菅谷実先生(慶應義塾大学メディアコミュニケーション研究所教授)、総合司会は吉光正絵先生(長崎県立大学国際情報学部准教授)。

 基調講演のブライアン・バークガフニ先生(長崎総合科学大学教授)がとてもおもしろかった。この先生、40年前にカナダから来日し、10年間お寺で修行していたそうだ。その後、独学で日本語を学び、長崎の外国人居留地を中心とする研究をされている。講演のジョークも、使われている資料もすばらしい。50分間、よどみのない日本語で講演された。

 内容はそれほど海底ケーブルとは関係ないけれども、グラバー亭のトーマス・グラバー一家の話や、長崎の最初の電話架設の話など、とても興味深い。長崎のことをもっと知りたいなあという気にもなった。

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 バークガフニ先生のお話、国際交流の意味についても深く考えさせられた。ただ単に集まるだけでは国際交流にならない。目的を持って一緒に活動をしないとダメとのこと。本当にそうだと思う。

 休憩の後のパネル・セッション。司会は菅谷先生。ツアーの解説もしてくださった岡本健一郎さん(長崎歴史文化博物館研究員)、河又貴洋先生(長崎県立大学国際情報学部准教授)、安田豊さん(株式会社KDDI研究所代表取締役会長)、それぞれおもしろい話だった。

 焦ったのは、皆さんのお話で私の話すネタがだいぶなくなってしまったこと。他の皆さんのお話の最中に急遽、パワーポイントを作り変えた。重なる話はなるべく控えて、海底ケーブルのデジタル・デバイドやケーブルの物理的な保護について話をする。

 最後に少し相互に議論したり、フロアとの対話をしたりする時間があって良かった。フロアからの最後のコメントが強烈で、おもしろかった。長崎は昔話だけしているだけじゃだめで、これからのことを考えないとということだった。閉会挨拶はKDDI総研の東条続紀社長。良い締めの言葉だった。年末は遠くの家族に電話しましょう。

 シンポジウムが終わって、空港に急ぐ。飛行機には間に合う見込みだったが、空港で長崎名物トルコライスを夕食に食べたかったからだ。トルコライスの由来はよく分からないらしく、トルコのものではないだろうとのこと。内容も、ピラフとトンカツとスパゲティの盛り合わせというだけなんだけど、トルコライスというのをこの旅行中に初めて知ったので、試してみたかった。

 空港2階のレストランに駆け込み、頼んで出てきたトルコライスはものすごいカロリーと思えるしろもの。

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 トンカツのせいでピラフは見えない。スープも付いている。空港価格だったけど、おなかいっぱいになって良かった。

 今回、たくさん長崎の方々とお知り合いになれて良かった。SFCの卒業生2人にも会えた。活躍している様子でうれしい。長崎にまた海底ケーブルの調査その他で行きたい。実は来月も長崎には行くのだけど、市内には行けず、時間的余裕もなさそうなのが残念。

長崎海底ケーブル資料見学

 シンポジウムに参加するため、長崎に行って来た。今回はKDDI総研さんが全面的にサポートしてくださり、とても良かった。

なんと言っても、前回は外から眺めるだけだった小ヶ倉の陸揚庫の中を見せてもらえたこと。

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中身は空っぽなんだけど、広さ/狭さを体感できたのがうれしい。

案内してくださった岡本健一郎さん(長崎歴史文化博物館研究員)によると、場所はもともと千本松といわれた半島の中にあったが、港湾整備のために女神大橋近くにいったん移され、その後に今の場所に移ったので、正確ではないとのこと。

中にあったものは、先日訪問した栃木県小山の国際通信史料館と長崎歴史文化博物館に分けて保存されている。長崎歴史文化博物館には、机や通信機、電信文の記録などが展示されている。

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この博物館は今回初めて訪問した。時間がなくて全体は見られなかったが、今度是非全部を見たい。昼食を博物館の中にある銀嶺というレストランでいただいた。ここはもともと市内でも有名だったレストランだそうだ。トルコライスを是非いただきたかったが、シンポジウム参加者用のメニューが決まっていたので残念だった。

シンポジウム「長崎からつなぐ <過去・現在・未来> ―日本の電信電話事業の幕開けと現代におけるケーブル事業の展開―」

日曜日に長崎でシンポジウムに出ます。他の方々の話がとても楽しみ。

http://www.jotsugakkai.or.jp/operation/nagasaki-symposium.html

主 催:長崎歴史文化博物館

共 催:情報通信学会/社会情報学会(SSI)九州・沖縄支部/公益事業学会九州部会

協 賛:KDDIグループ

日 時:平成24年12月16日(日)13:30〜16:50 

場 所:長崎県歴史文化博物館ホール(〒850-0007 長崎市立山1丁目1番1号)

プログラム:

12:30 開場・受付開始

13:30-13:35 開会挨拶 菅谷実(情報通信学会会長・慶応義塾大学教授)

13:35-14:25 基調講演 ブライアン・バークガフニ(長崎総合科学大学教授)「情報交流地としての長崎〜過去から現在へ」

14:25-14:40 休憩

14:40-16:40 パネル・ディスカッション

テーマ:「海底ケーブルは何をどのようにつないだのか?!」

  コーディネータ:菅谷実(慶應義塾大学メディアコミュニケーション研究所教授)

  パネリスト:

   「近代化の魁・長崎〜電信電話事業の幕開け」

     岡本健一郎(長崎歴史文化博物館研究員)

   「電信電話事業から見た日本の近代化における世界認識」

     河又貴洋(長崎県立大学国際情報学部准教授)

   「海底ケーブルの現状と将来展望」

     安田豊(株式会社KDDI研究所代表取締役会長)

   「海底ケーブルの国際政治学」

     土屋大洋(慶應義塾大学大学院政策メディア・研究科教授)

16:40-16:50 閉会挨拶 大堀哲(長崎歴史文化博物館館長)

  総合司会:吉光正絵(長崎県立大学国際情報学部准教授)

(敬称略)

概要:近代化の魁(さきがけ)となった長崎。その一つに電信電話事業の発祥の地としての長崎の存在がある。幕末の国際情勢動乱期に、長崎に持ち込まれた電信電話技術は、国際と国内を結ぶ交易都市としての長崎のみならず、国際情報流通ポイントとして長崎の戦略拠点的役割を高めることともなった。

 本シンポジウムでは、近代化という社会改革の胎動期にあった長崎の遺産を手掛かりに、その後の近代・現代化を推進することになる情報通信技術の役割と機能拡大に伴う、歴史、政治、経済、技術の観点からとらえた「世界認識」の視点を探究しようとするものである。そして、今日のグローバル化の進展の中での世界情勢と情報メディア環境の動態に照射しうる視座を得るための議論の場を提供する。

参加費:無料

参加申込:下記にメールアドレス宛に、件名を「シンポジウム参加申込」とし、お名前、所属、連絡先を明記の上、お申込みください。

申込先:3bu@kddi.com

問合せ先:KDDI総研 3bu@kddi.com  電話:03-6678-6179

ソウル(11/2〜4)

 8月、9月、10月は海外出張に行かず、おとなしくしていた。

 11月はじめに急遽、ソウルへ行くことになる。SFCで展開している日本研究プラットフォーム(JSP)の活動の一環だ。2日間で昔からの友達と新しい友達にたくさん会い、ネットワークを広げる。

 最近の日韓関係はあまり良くないが、実際にソウルに行ってみると、ニュースを通じて伝えられる雰囲気とはずいぶん違うなと感じる。

 印象的だったのは国民大学校の日本学研究所。スタッフの厚さと資料庫に驚かされる。日韓関係を支えているのはこういう研究者たちでもあるのだなと感心。

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 3日目早朝の便で金浦空港から羽田空港へ。そのまま三田へ行って午後1時からの会合に参加。こういうことができるのも近いからだ。

スティーヴン・ヴォーゲル『新・日本の時代』

スティーヴン・ヴォーゲル『新・日本の時代―結実した穏やかな経済革命―』日本経済新聞社、2006年。

 大学院生たちとの輪読の課題書。父親のエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』から30年。日本はバブル崩壊以降の多大な課題を抱えている。そうした課題にどう日本が対応しているのか、比較制度分析などの成果を使って分析している。

 読後感は、とにかく単純には説明できなくなってきているということ。著者の関心が労働と金融にあって、そこからの説明は興味深い。企業が改革の一環としてダウンサイジングを進めたことが、今の大学生の就職難につながっている。それを吸収する新産業や新企業が育っていない。外国人が経営を握るほどダウンサイジングの幅が大きくなる傾向も見られ、日本市場における外資の役割を考える点でも興味深い。

 いずれにせよ、日本も多かれ少なかれ変わっている。エズラの『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』では企業経営者に外国人はおらず、大学では外国人は教授になれないと書かれていたが、もはやそんなことはない。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第10章「教訓」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第10章 教訓——西洋は東洋から何を学ぶべきか(261〜296ページ)

 これで『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』は終わり。

 外国人は日本の大学で教授になれないと書いてあるけど、今はたくさんいる。企業の社長やCEOにも外国人がなっている。この時代からずいぶん日本も変わった。

 訳者あとがきによると、グレン・フクシマさんの奥さんの咲江さんも翻訳に参加していたそうだ。咲江さんはヴォーゲルの助手をしていたようだ。この頃留学して人たちの奥さんたちもその後活躍している。訳者で、広中平祐夫人の和歌子さんは、その後、国会議員にもなっている。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第9章「防犯」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第9章 防犯——取り締まりと市民の協力(237〜258ページ)

 インテリジェンスに対するアレルギーが強いのとは対照的に、警察への協力度が高かったのはなぜなんだろう。案外、インテリジェンスに反対しているのはマスコミだけなのかもしれない。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第8章「福祉」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第8章 福祉——すべての人の権利としての生活保障(214〜236ページ)

 やはり福祉と雇用は一体なんだなあ。雇用があれば、福祉への負担は軽減される。好景気を維持することが重要。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第7章「教育」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第7章 教育——質の高さと機会均等(189〜213ページ)

 予想通り、大学生は勉強してないと書いてある。外国人は日本の大学に留学するのではなく、小学校〜高校に留学したほうが良いかもしれない。日本語も学べるし、学力は上がり、日本人のコミュニティの中で居場所を見つけられるだろう。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第6章「大企業」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第6章 大企業——社員の一体感と業績(160〜188ページ)

 月末までの仕事でアップアップだったけど、ようやく少し余裕が出てきた。

 この大企業の話も、今では考えにくいな。おもしろいのは、日本の大企業の成功は「日本民族のなかに流れている神秘的な集団的忠誠心などによるのではなく、この組織が個人に帰属意識と自尊心を与え、働く人々に、自分の将来は企業が成功することによってこそ保証されるという自覚を与えているからである」という点。なぜこういう組織が維持できなくなったのだろう。経済のパイ全体が小さくなったからなんだろうか。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第5章「政治」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第5章 政治——総合利益と公正な分配(122〜159ページ)

 日本は共同体の団結が強く、フェア・プレイよりもフェア・シェアが重視される。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第4章「政府」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第4章 政府——実力に基づく指導と民間の自主性(79〜121ページ)

 エリート官僚が幸せだった時代の話。

 もうこんな時代は来ないんだろうなあ。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第3章「知識」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第3章 知識——集団としての知識追求(47〜78ページ)

 この第3章の記述はおもしろいなあ。日本人がどうやって知識を集めているか。そして、それを元にコンセンサスを作っているか。知識と組織のあり方は日本では直結している。

 常々、なんで日本ではこんなに翻訳本が多いのか、なんでこんなにわれわれは海外調査をしているのかが気になっていた。進んでいる国から学ぶのは当然だと思っているけれど、それにしても好き。閉鎖的で内向きだといわれているけど、海外を見てくる、海外から学ぶのはとても好き。私自身も、アウトプットのために海外に行くのと、インプットのために行くのとを比較すれば、後者が多い。

 ヴォーゲルがこの本を書いた頃に比べれば、米国も海外に学ぼうとしている。先日も日本の通信政策を調査に来た人のインタビューを受けた。でも日本からアメリカに調査に行く人のほうが圧倒的に多いだろうなあ。

エズラ・F・ヴォーゲル『Japan as No.1』第1章「アメリカの『鏡』」、第2章「日本の奇跡」

エズラ・F・ヴォーゲル(広中和歌子、木本彰子訳)『Japan as No.1—アメリカへの教訓—』ティービーエス・ブリタニカ、1979年。

第1章 アメリカの「鏡」(19〜25ページ)

第2章 日本の奇跡(26〜43ページ)

 これも明日の大学院の授業の課題文献。今回は第2章まで。

 ずっと前に読んだはずなのに、全然覚えていない。読んでないのかなあ。

 こんな時代もあったんだねえと思うと同時に、今の中国とも重なる部分がある。

 また、日本や韓国がアメリカと経済摩擦でさんざんやり合った後に出てきた中国は、いちいちアメリカとそうした交渉をしなくて済んでいるというのも感じる。特定の品目について米中経済交渉が行われて、中国側が輸出自主規制をしたなんて話は聞かない。中国は日韓の遺産をうまく使っているな。

 2008年〜09年にボストンに滞在したとき、ヴォーゲル先生は「ヴォーゲル塾」というのを主宰していて、日本の若手官僚たちを鍛えておられた。私は参加できなかったけど、一度ご自宅にお邪魔してお話をうかがうことができた。しかし、その日はずっと面会の予定が続いていて、相変わらず精力的に活動されているのに驚いた。

 また、中国語を勉強されていて、中国語で講演されていたのも印象的だった。

 日本の大学の先生は年取ると新しいことに挑戦するのをやめてしまう人が多いし、退職したら何もしなくなってしまうこともあるけど、本当に終身のテニュアを持っている先生たちは、いつまでも元気にやっている。