ワシントン・ポストに出た図をスキャンして載せている人がいる。これを見るとブッシュ圧勝の様子がよく分かる。ケリーは都会人にしか支持されていない。アメリカの田舎に住んでいる人はブッシュが大好きなのだ。得票数でも今回はかなり差が出ていたようだから、これでケリーが選挙人をとって当選していたらそれこそ暴動でも起きそうだ。だから、一つ前のエントリーは訂正が必要。民主党は都会派政党になり、共和党はアンチ都会派政党になったのだろう。
分裂
その昔、アンソニー・ダウンズが『民主主義の経済理論』(邦訳もあるけど絶版)で確か説明していたと思うのだが、二大政党制といっても、できるだけ得票するためにはどうしても過激に走るのではなく中道にならざるをえない。だから二大政党制でも結局は政策は近づいてきて、差が分からなくなるといわれた。クリントン政権の時には中道化が顕著に出ていた。
今回の大統領選挙を見ると、それがあてはまるのかどうか分からない。ケリーとブッシュで政策に大きな差はなかったように見える。ケリーも「私のほうがうまくできる」というぐらいで、ラディカルに政策に差があった気がしない。
しかし、有権者は二人の政策以上に分裂していたのではないかと思う。ブッシュにうんざりしたアメリカ人がカナダの移民局のウェブサイトに殺到しているというニュースは、米国民の間の分裂があまりにも深いことを示している気がする。
何が彼らを怒らせているのか
残念ながら日本人の人質が遺体で見つかったようだ。
私は9.11以来、何が彼らをそこまで怒らせているのかについて考えてきた。以前、このブログで下記の本を紹介したが、この本の著者(匿名になっている)の見方に私はだんだん与するようになってきている。
Anonymous, Imperial Hubris: Why the West is Losing the War on Terror, Washington, DC: Brassey’s, 2004.
米国の自由や民主主義という価値観を彼らは嫌っているのではない。ただ単に「彼らの土地に異教徒がいる」ことが問題なのだ。もともとイスラムは異教徒に必ずしもひどい仕打ちをする宗教ではない。特に同じルーツを持つユダヤ教とキリスト教には比較的寛容だった。しかし、それは彼らが主導権を握っていた時代の話だ。今は(理由は必ずしも石油だけではないだろうが)異教徒が入り込み、大きな顔をしている。それがアメリカ人だろうが、日本人だろうが、本質的には関係ない。
われわれの価値観で見ようとするから本質を誤っている気がする。29日にアルジャジーラが流したビン・ラディンのテープでは、「米国の不実」が批判されている。そして、「ブッシュ政権は堕落したアラブの政府と変わらない」とも言っている。彼が批判しているのは、イスラムの教えに忠実ではないアラブの政府と人々であり、異教徒だ。だから、彼がサダム・フセインと手を組むはずもない。サウジ・アラビアから追放されたのも、サウジ・アラビア政府の姿勢を批判したからだ。イスラム諸国が民主化されるということにはビン・ラディンは関心を持っていない。イスラムの教えに忠実な政府と国を確立することがねらいなのだろう。そうだとすると、こちら側の目的が何であれ、招かれざる客人としてイラクを訪問することはとても危険だ。自分の家に他人が入り込んで騒いでいたら誰だって不愉快なはずだ。
無論、私はまちがっているかもしれない。だが、以前よりは問題がクリアになりつつある気がする。
上記の本で筆者が指摘しているポイントは下記の六つだ。
- 米国の指導者たちは明白な事実を受け入れなかった:われわれが戦っているのは犯罪でもテロでもなくイスラムの反乱(insurgency)であり、これに対処できていない
- 軍事力だけが米国のツールになっている:パブリック・ディプロマシーやさまざまな外交対話が成り立っていない。13億のイスラムが米国を嫌うのはその価値ではなく行動
- ビン・ラディンは正確に理由を語っている:フリーダム、リバティ、デモクラシーは無関係。イスラム世界での米国の行動が問題
- ビン・ラディンが遂行している戦争はすべてイスラム教の教義に関係がある:イスラム教徒たちがイスラム教を信仰していなかったら彼の成功はない。イスラム教徒たちは自分たちの土地が米国と西側に蹂躙されていると思っている
- ペルシャ湾の石油と代替エネルギー開発の欠如が問題の核心である:石油がなかったらサウジアラビアのような専制国家を米国が支持する理由はない。ビン・ラディンはこうした専制国家を破壊しようともしている
- この戦争は子供の代までの戦いになり、米国本土が戦場になる可能性がある
もうすぐ大統領選挙
こんなご時世だとのん気なことも書けない。地震の時は車に乗っていたのでまったく気づかなかった。ラジオの生演奏が中断して地震のニュースが入ってきたので、ミュージシャンは怒っているだろうなとのん気なことを考えていた。今週は雑事に追われて、新聞も読まず、テレビも見ずという生活になってしまった(ニュースはみんなのブログを通じてなんとなく追っている。RSSリーダは便利だなあ)。
時間があると、話題のp2p-politics.orgの動画を眺めている。しかし、ほとんどのコンテンツはInternet Archiveに入っているので、別にp2pじゃないと思うのだが、自分のサイトに置いておくと、p2p-politics.org経由でアクセスが大量に来るから耐えられないのだろう。大統領選の結果が楽しみだ。
Vote for Changeは終わっていた
いろいろお世話になっている浜村さんのブログによれば、Vote for Changeのコンサートは終わっていたらしい。考えてみれば大統領選は11月3日だから、来月の出張の時にコンサートは見られる訳がない。
私はまだブルース・スプリングスティーンをライブで見たこと無い。いいなあ。妻は見たことがあるらしいが、無理矢理連れて行かれたので有名人だとは知らなかったらしい。まったく。
GSG
立命館大学に行ったときに気になったのが、関寛治先生がやっていたグローバル・シミュレーション・ゲーミング(GSG)。今も続いているとともに、コンピュータとネットワークをフル活用するようになっているらしい。今年はもう終わってしまったが、来年は見に行ってみたい。
米大統領選を風刺する動画
hotwiredの記事で紹介されていたこのサイトの「This Land」というアニメはとてもおかしい。
ユーロダラー
経済学を落第したことがある身としては、ユーロダラーとかユーロ市場というのはどうも分かりにくいので、古い本だけど、及能正男『国際マネー戦争』(講談社現代新書、1987年)で少し勉強した。
ヨーロッパ(EUROPE)に集まったドルであるためにユーロ・ダラー(EURODOLLAR)と略称されるようになった、巨大な無国籍的な国際資金市場の誕生である。(22ページ)
米国をはなれたドルがユーロ・ダラーと呼ばれるように、ドイツ国外にあるマルク建ての預金がユーロ・マルク、スイス国外にあるフラン建ての勘定がユーロ・スイス・フランと称されており、同様に日本国領土以外に所在する銀行が取引する日本円はユーロ円と呼ばれている。(78ページ)
広く非居住者に金融システムを開放し、居住者・非居住者間で当該主権通貨以外の通貨を自由に貸借する市場をユーロ通貨取引市場と呼んでいる。つまり、ロンドンで英ポンドを居住者間、居住者非居住者間、非居住者間で取引するのはいわば国内金融取引である。しかし、同じ関係の下でマルクやドルや円を定期預金の形で貸借する市場がユーロ・カレンシー市場である。(87〜88ページ)
結局のところ、最初はヨーロッパ(特にロンドン)で取引されるようになった米ドルのことだったが、徐々に、自国以外で取引される通貨をユーロカレンシーと呼ぶようになってきたようだ。
グローバリゼーションは80年代後半になって突然使われるようになった言葉だというが、この本でははっきりと次のように書いているのも興味深い。
グローバリゼーションとは経済規模の拡大、開放経済体制の進展、情報の迅速化と緻密化、取引内容の統一化、国内法・慣行規制の形骸化などによって、金融市場を第一義的な国内市場と第二義的な海外市場とに分断するという既定概念を放棄して、双方をひとつの合体した金融市場として見ることである。(191ページ)
それと、長年疑問だったことも解決した。
たとえば日本における国際金融市場のひとつの形態である外国為替市場をとらえてみても、丸の内界隈になにか特定の外国為替市場ビルというものがあって、そこの一室内で毎度NHKニュースにおなじみの、ワイシャツ姿の若い男性たち(最近は女性の進出もさかんであるが)が、マージャン台を特別に大きくしたような四角なテーブルをかこんで、両手に電話受信機を握りしめ、猛り狂い、怒鳴りあい、目をつりあげながら叫びつづけているのが、いわゆるトーキョイガイタメ市場だと思うのは錯覚である。あれはたとえば東京短資とか山根短資とかの公認ブローカー業者の事務室にすぎないのであって、実は同市場はほとんどが電話の市場、テレフォン・マーケットとして形成されているのである。テレビ局は具象的な視覚対象を放映上必要とするので、やむをえず怒鳴り合いの修羅場じみた場所を放映しているのである。(85ページ)
ちなみに山根短資は合併でセントラル短資になったらしい。
しかし、だとするとテレビのニュースで流れてくる数字はどこで誰が決めているのか。たぶん、さまざまなデータをどこかで集計して平均しているのだとは思うけど。
報道機関の自己批判
Paul Krugman, “America’s press has been too soft on Bush,” International Herald Tribune, May 29, 2004.
クルーグマンは、自分がコラムを書いているニューヨーク・タイムズを含めてアメリカの報道機関がブッシュ政権に甘すぎたと批判・反省している。9.11後のアメリカの報道機関は愛国精神を鼓舞するためにブッシュ政権批判を弱めてしまったがゆえに、数々の問題を招いてしまったという。
戦争の時に報道機関が体制寄りになるのはよくあること。しかし、異常な時期でも反対意見を許容しておけるか、異常な時期が過ぎたら元に戻れるかが重要だろう。
ソフトパワー
「コンテンツ産業強化がソフトパワー強化ではない」がホットワイアードに掲載された。少し反発を買うかもしれないけど、ホントの話。
アメリカのビザ
Steven C. Clemons, “Visas for America: The Folly of Discouraging Visitors,” International Herald Tribune , 10 April 2004.
メールを交換したことのあるクレモンスさんが送ってくれた。
アメリカは9.11後にビザの申請料を65ドルから100ドルに上げた。しかも、ビザ発給が認められなくてもこの料金は返金されない。途上国の人々にとっては大金だ。おまけに発給拒否率は9.11後に上がってきている。アメリカが内向きになって外から来る才能を拒むのは、結局はアメリカのためにならない、というのが彼の主張。
ビザ拒否率のデータも公開。
http://www.steveclemons.com/visafees.htm
でも、こういうまっとうな意見は無視されるんだろうなあ。
グランド・ストラテジー
坪内淳「「アメリカ時代の終わり」と日本のグランド・ストラテジー―日米同盟という「応急措置」の先にあるもの」『世界と議会』2004年3月号。
坪内先生は相変わらず歯切れがいい。なるほど「イラク問題」ではなく「アメリカ問題」のほうが深刻という指摘。
この戦争に「大義」があったのかどうかは、問題の本質ではないのである。アメリカがそのように「判断」し、それを単独で実行する「能力」を持っているということこそが、現在の国際関係の最大の特徴であり、それが「アメリカ問題」である。
日本の対米政策が「忠米」という指摘も面白い。きっと日米同盟堅持派からは批判が浴びせられるのだろうが、それこそがおかしいというのが坪内先生の指摘だ。
「グランド・ストラテジー」という言葉は、リデルハートが『戦略論』の中で使い、最近では(坪内先生が翻訳した)カプチャンの『アメリカ時代の終わり』で使われている。
「ポスト・ポスト冷戦」の時代(9.11後の時代)は、「グランド・ストラテジーを競う時代」になるかもしれない。言い換えればそれが「新しい帝国主義の時代」かもしれない。
日本でもグランド・ストラテジーを研究する研究者や研究所がたくさん出てこないとまずい。まずいぞ!
日米交流150周年記念式典
横浜で「日米交流150周年記念式典」が開かれた。1854年に日米和親条約が結ばれたことを記念したもの。小泉首相やベーカー駐日米大使などが来ていた。日本語で挨拶した米国人学生のスピーチが見事だった。
式典の後で開かれたレセプションはあまりの大人数で芋洗い状態。食べ物もぜんぜん足りなかった。