コンテンツ政策学会へ向けて

前のエントリーにあるとおり、コンテンツ政策研究会の総会があった。三部構成のうち、第三部は「コンテンツ学会の設立に向けて」というものだった。その場でも発言したけれども、十分に言いたいことが言えなかったので、ここにメモしておきたい。

■コンテンツ学とは

コンテンツ学とは何なのかという議論が出ていた。いったいどの学問分野に立脚するのかという議論もあった。しかし、これはあまり議論しても意味がない。新しい学問を作るために学会を作るのだから、既存の学問との接点を気にしすぎるのは良くないと思う。

コンテンツ学は、吉田民人や公文俊平が言うところの設計学であり、これまでの学問がやってきた認識学ではない(注)。「いったいどうなっているのか」を研究するのが認識学であり、「いったいどうやるのか」というのが設計学だ。昔ながらの言葉で言えば、理学と工学に近い。理学と工学は一緒になって理工学(部)になっているが、本来は別物だ。法学や経済学、政治学なども理学的な要素が強い。それに対して、どうやったら新しい概念、政策、組織、そしてコンテンツを作れるかというのが工学である。そして、工学は単なる応用研究ではなく、現場から見えてくる新しい知見もある(そちらのほうがおもしろいことも多い)。

別の言葉で言えば、分析学と総合学の違いである。1990年に慶應は総合政策学部を作った。「総合政策学」とは何なのかと17年も議論してきたわけだが、その中身は設計学であり、実践学であるという合意がほぼ固まった。出来事や対象物をバラバラにしてその構造や仕組みを明らかにしようとするのが分析学であり、いったんバラバラにしたものを組み立て直す、もっと新しくするのが総合学である。分析学がどちらかというと過去志向であるのに対し、総合学はどちらかというと未来志向であるといってもいいだろう。

コンテンツ学もそういう意味では、設計学であり、既存の認識学・分析学の視点からそれを評価しようと考えるのには無理がある。だから、新しい評価軸を作らなくてはいけない。

学問であるためには、一般的に体系と方法が必要である。コンテンツ学の体系は徐々に作っていけば良い。その体系が確立すれば、科研費の新しい項目としても追加されるし、図書館の分類表にも追加してもらえるだろう。そして、認識学・分析学のための手法は「どうなっているのか」を明らかにするための手法であり、設計学・総合学のための手法は「どうやるのか」を明らかにするための手法である。

そうすると、コンテンツ学における手法とは、コンテンツをどうやって作るかという手法である。コンテンツにはニュース番組や映画、アニメ、漫画、ブログ、音楽などさまざまなコンテンツがどうやって作られるのかを明らかにすることだろう。もしコンテンツ学部ができたとすれば、アニメ学科やウェブ学科ができても良い。映画の作り方に一定のノウハウがあるとすれば、それを体系的に(つまり効率的に)学べるようになれば良い。それを法学や政治学の視点から評価し直すというのはナンセンスだろう(ただし、分析学と総合学をブリッジするということは当然必要だ)。

■学会にするということ

学会にするということには手放しでは賛成できない。学会というのは一般にイメージされているよりも楽しくないし、運営が大変である。現在のコンテンツ政策研究会は非常にフレキシブルであり、誰でも参加できるようになっている。しかし、学会にして日本学術会議に正式に認めてもらうには、会則を定め、会長を選び、学会誌を作らなければならない(情報社会学会の設立でも同じことをやった)。そのためのコストは馬鹿にならない。

時間的なコストだけでなく、金銭的なコストをカバーするためには学会費を集めなくてはならない。学会誌を出すためには金銭的なコストがどうしても必要である。情報社会学会は入会金だけをとり、年会費をとっていないが、この方式で運営を続けるのは大変である(情報社会学会はイベントごとに参加費を集めている)。

「学会」という名前が付き、会費を集めることになると、敬遠する人が出てくるだろう。ビジネスマンはコンテンツの分野を研究するならまだしも、学術的な議論をしたいわけではないだろうし、お金まで払いたいとは思わないかもしれない。学生にとっても敷居が高くなるだろう。しかし、コンテンツ学には若い世代のクリエーターたちの参加が不可欠だ。その人たちが参加するインセンティブをうまく設計しないと空論だけになる。コンテンツを作る手法を見いだすためなのだから、クリエーターがいなければ意味が無い。

念のために言うと、コンテンツ学会に反対ではない。ただし、学会にすることのデメリットも少なからずあるので、うまく設計しないといけない。金正勲さんが言っていたように、志ある人が集まって作らなければいけないだろう(コンテンツ政策研究会とパラレルに動かすことも一案だと思う)。世の中にある学会の数だけ親分がいる。親分職を作るための学会設立はいけない。コンテンツの研究が既存の学会で認められないという主張も十分に理解できる。私も自分の研究を既存の学会で認めてもらうのにはとても苦労した(いまだに認められていないかもしれない)。しかし、だからといって内輪の学会を作ればいいということにもならないと思う。緩く開かれた、おもしろい学会にしたい。楽しいコンテンツについて研究する学会がおもしろくないのはしゃれにならない。

一言だけおわびを言えば、私もコンテンツ政策研究会の幹事の一人であり、学会化に向けた動きが進んでいることは知っていたのだから、今さらこんなことをいうのはフェアではないかもしれない。ごめんなさい。しかし、強く意識はしていなかった。前のエントリーにあるとおり、「学会になってしまうらしい」というのが正直な認識だった。今回、パネル・ディスカッションを聞いて、ようやく頭が反応した(その点、集まって議論するということはやはり重要だ)。このメモが建設的な議論につながればと思う。

注:公文俊平「一般認識学試論」『KEIO SFC JOURNAL』第7巻1号、2007年、8〜27頁。吉田民人「理論的・一般的な<新しい学術体系試論>」『新しい学術の体系—社会のための学術と文理の融合—』日本学術会議、2003年。

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