佐々木智弘「1999年の中国電信再編案策定の政治過程―国務院指導者と信息産業部の役割を中心に―」『アジア経済』51巻、3号、2010年3月、2〜24ページ。
なかなか中国の通信政策の内幕を描いたものはなく、貴重な論文。
土屋大洋のブログ
佐々木智弘「1999年の中国電信再編案策定の政治過程―国務院指導者と信息産業部の役割を中心に―」『アジア経済』51巻、3号、2010年3月、2〜24ページ。
なかなか中国の通信政策の内幕を描いたものはなく、貴重な論文。
土屋大洋「党国体制と情報社会——インターネット規制を事例に」加茂具樹、小嶋華津子、星野昌裕、武内宏樹編著『党国体制の現在——変容する社会と中国共産党の適応』慶應義塾大学出版会、2012年、235〜261ページ。
同僚の加茂さんたちと行ってきた共同研究の成果が出版された。「党国体制」をキーワードに現代の中国を考える本。
実はハワイには行ったことがなかった。そんな軟派なところに行けるかという思いもあったし、用事もなかった。
ところが、共同研究の一環として、毎年ホノルルで開かれているPTC(Pacific Telecommunications Council)に行かせてもらえることになった。授業を休講にしてしまって学生には申し訳なかったけれども、太平洋島嶼国のデジタル・デバイドが最近のテーマの一つで、その関係者がたくさん集まる会議だ。それと関連して、海底ケーブルのこともいろいろ調べていて、そっちの話もたくさんある。
PTCは何十年も前から毎年ハワイで1月に開かれている。もともとは国際料金精算の交渉をする場だったらしいが、最近はパケット通信全盛になってしまい、そんな交渉はほとんど行われず、今は業界の最新情報を交換する場になっているようだ。学者よりもビジネスマンが多いところを見ると、毎年経費で行ける休暇先ということで続いているのかもしれない。
学者中心の学会とは違って、基調講演なんかもリラックスした雰囲気。悪くいえばグダグダ。パワポもハンドアウトもなく、壇上でソファに座って座談するみたいなセッションが多い。しかし、学者が仕切っているパネルは、学会風になっている。
期待していたほど、太平洋島嶼国の話は出てこなかったが、海底ケーブルのほうはいろいろおもしろい話が出てきて来た甲斐があった。北極海に海底ケーブルを通そうというプロジェクトもおもしろい。1980年代からいくつも同じようなプロジェクトが浮かんでは消えていったらしいが、また新たにやろうとしているところがある。そういえば、同僚の村井さんもその話をしていた。
人工衛星のほうも気になってセッションにいくつか出てみたが、こっちはそんなにイノベーションの徴候をつかめなかった。
日本の総務省から審議官も来ていて、規制のパネルと震災のパネルに出ていた。研究者も何人か発表している。しかし、日本企業はスポンサーになっていなくて、ちょっとプレゼンスが足りない感じ。
最終日の表彰式を兼ねたランチが終わると、同僚とともに、ハワイ大学へ。TIPG(Telecommunications Information Policy Group)というプロジェクトを主催するノーマン・オカムラ教授にインタビューする。太平洋島嶼国の光海底ケーブル敷設問題はあまりにも政治的で、国際政治学者としてはおもしろすぎる。これはしばらく追いかけたいテーマだ。恥ずかしながら、TIPGのウェブに写真が載っている(パーマリンクがないのでそのうち消えると思う)。写真を撮ったとき、同僚はすでに空港に向かうタクシーに乗ってしまっていたので私しか写っていない。
私はもう一泊あったので、インタビューの後はハワイ大学の図書館で資料を漁る。1900年頃にどうやってハワイが海底ケーブルを敷設したか分かる資料が残っている。しかし、17時で書庫が閉まってしまい、すべてをコピーできず。またハワイに来る理由ができてしまった。
大学からバスに乗ってホテルへ戻ろうとするが、どこで降りたら良いのか分からず、ワイキキの繁華街まで連れて行かれてしまった。夕暮れの中をブラブラ歩く。みんな楽しそうに騒いでいる。
ホテルに戻り、日本から持ってきたプリンタをたくさん回して論文と資料を印刷し、翌日の機内では9時間半のフライトの中、7時間ひたすら読みまくった。エコノミーの3席を占領できたのでとても集中できた。来年も行けるといいなあ。予算があるかなあ。休講にするとひんしゅくかなあ。
梅棹忠夫「情報産業論」梅棹忠夫『情報の文明学』中央公論新社、1988年、27〜52ページ。
もともとは『放送朝日』および『中央公論』の載せられた先駆的論文。
御本人によれば授業はひどいものだったらしいが、文章は分かりやすい。
松尾守之「情報が歴史を変える 第118回望星講座」『無限』1993年1月25日。
7月に東海大学の望星講座で講演させていただいた。その際、東海大学創設者である松前重義が海底ケーブルに大きく貢献したという話になり、何か資料はないかと聞いてみたところ、松尾守之東海大学工学部教授が講演されたときの講演録があるはずということで、わざわざ探して送ってくださった。
松前は無装荷ケーブルを発明し、1932年に吉田正および篠原登と共著で「長距離電話回線として無装荷ケーブルを用ひたる実験」という論文を発表しているそうだ。1939年に実用化され、東京〜奉天間の3000キロに無装荷ケーブルの長距離電話が開通、ヨーロッパまで延長することを構想していたが、第二次世界大戦で実現しなかったようだ。
佐賀健二「e-APEC Strategy—APEC(アジア太平洋経済協力)の共同IT戦略—」『海外電気通信』2002年9月号、7〜26ページ。
デジタル・デバイドについてはデジタル・ディビデンド(デジタルの配当)に転換するという議論があったそうだ。
APECだと枠組みとしては大きすぎるかなあという印象。
佐賀健二「アジアにおけるICTを利用した人材育成」『海外電気通信』2006年7月号、7〜50ページ。
人材育成という視点からアジア太平洋島嶼国における国際機関や各国政府の政策を紹介。
太平洋島嶼国関連では、フィジーの南太平洋大学の取り組みが紹介されている。
佐賀健二「アジア開発途上国のICTインフラ整備の課題と展望—アジア・ブロードバンド計画実施に向けての提言—」『海外電気通信』2005年1月号、7〜33ページ。
太平洋島嶼国も含めたアジアにどうやってブロードバンド・ハイウェーを作るか。
カンボジャ、バングラデシュのように海に面していながらどの光海底ケーブルも陸揚げされていない国や、太平洋島嶼国のように数ある太平洋横断海底ケーブルが、フィジーを除いて全てバイパスし、約20カ国・地域がブロードバンドの幹線網を構成する国際光海底ケーブルを利用できない状況にあり、ブロードバンド接続のボトルネックとなっている。
パラオについても書いてある。
パラオからヤップを経てグアムに至る光海底ケーブルの敷設提案が提出されているが、建設コストと運用コストが高くパラオの電気通信事業者は敷設に踏み切れない状況にある。
誰が提案したのだろう。
パラオでは、現在、全ての国際通信回線をインテルサット衛星にアクセスする1基の地球局のみに依存している。
人工衛星を使った日本のWINDS(Wiredeband InterNetworking engineering test and Demonstration Satellite)への期待も書かれている。
U.S. Department of State, “Defining Internet Freedom,” eJournal, vol. 15, no. 6, June 2010.
ある研究会の準備用に読み始めて、数ページでいろいろ思いついて作業してしまい、結局読み終わらなかった。
大川恵子「SOI-ASIA Project—インターネットによるアジア諸国の高等教育推進プロジェクト—」『海外電気通信』2006年7月号、51〜60ページ。
SFCにいるとSOI(School on the Internet Project)の話はしょっちゅう出てくるんだけど、その仕組みはよく知らなかった。
衛星回線は、周囲のインフラ整備レベルに左右されず、比較的短期間で場所を選ばず回線を構築できるという特徴を有したインフラである。衛星回線を利用することにより、地上線の有無に関わらず、島嶼や山間部でもインターネット環境を構築することができ、学生はどのような地域にいても、広帯域なインターネット環境を利用して授業を受けることが可能となる。
確かに、衛星がすでに打ち上がっていて使えればそれに越したことはない。SOIは衛星を受信のみで使うようにしていて、アジア各国のパートナー校からの発信は128kbps以上の既存のインターネット回線を使うようにしている。例えば、コンテンツをダウンロードしようとするとき、IETFで標準化しているUDLR(UniDirectional Link Routing)を使って、有線でリクエストを出し、衛星経由でコンテンツが落ちてくるようにできる。
しかし、そもそも有線アクセスのない島嶼国ではやはりこのシステムも難しいのだろうか。
宇高衛「開発途上国における競争環境下での電気通信インフラ整備資金調達—ユニバーサル・サービス基金の可能性について—」『海外電気通信』2005年1月号、34〜49ページ。
開発途上国が通信インフラの整備を進める場合、内部相互補助、免許条件による地域網整備の義務づけ、赤字補填負担金、ユニバーサル・サービス基金の四つの方法があると指摘。ペルーとマレーシアを事例に検証している。
国内インフラの整備にはその通りだと思うのだが、海底ケーブルを引く際にはどれも使えないような気がする。どうだろう。
佐賀健二「太平洋島嶼国・地域のICT政策・戦略計画」『海外電気通信』2003年2月号、28〜33ページ。
論文というほどの分量はなく、最初のページに著者の解説があり、残りは文書の要約(翻訳?)になっている。
太平洋地域組織協議会(CROP:Council of Regional Organizations of the Pacific)という組織があるらしい。まったくもってこういう地域機構は多すぎてよく分からない。このCROPは、22の太平洋島嶼国・地域が加盟する8地域組織(太平洋島嶼開発計画、太平洋島嶼フォーラム、太平洋島嶼電気通信協会、南太平洋観光機構、南太平洋地域環境計画、南太平洋大学など)の連合体だという。
このCROPが太平洋島嶼国・地域共同のICT政策・戦略計画を合意し、発表した。その内容の紹介になっている。
おそらく、米国議会図書館で見つけたパラオのICT戦略というのは、これを契機に作られたものなのだろう。二つの文書の内容は似ている気がする。
インフラ開発についてもやはりあっさりしていて、戦略2.1.1での行動計画で「太平洋島嶼国地域をループ上に結ぶブロードバンド海底ケーブル敷設の調査」と書いてあるだけである。「調査」で、敷設そのものではない。及び腰だなあ。
佐賀健二「アジア太平洋地域における電気通信政策の現状と課題」『亜細亜大学国際関係紀要』第1巻1号、1991年、117〜149ページ。
まだインターネットが世の中に普及する前の論文なので、インターネットは一言も出てこない。また、「太平洋地域」とあるが、取り上げられているのはニュージーランドとオーストラリアで、太平洋島嶼国は出てこない。パラオはまだ独立もしていない。
メイトランド委員会によるThe Missing Linkの背景が書いてあるのはありがたい。この報告書はもう一度読み直したい。
また、結論部分で、BOT(Build, Operation and Transfer)方式を活用せよと提言してある。この論文後の20年間で実際にどうなったかは検証に値するだろう。
「先進国の電気通信市場にますます民間資金が集中し、開発途上国に資金が回らないこと」が懸念されているが、この傾向はいまでも続いている。
佐賀健二「わが国のIT国際協力—戦略の動向と展望—」『ITUジャーナル』第34巻3号、2004年3月、43〜47ページ。
2000年の沖縄サミットの際に日本政府は150億ドルの支援を明言したが、実際にはそれほどの規模で行われることはなかった。
問題は、包括的協力策を発表して以来、わが国が具体的なIT国際協力戦略と行動計画を持っていないところにあるのではないか。
これ以降もどんどん日本のIT国際協力は減少してしまっている。得意分野のはずなんだけどなあ。さらに、
わが国の伝統的なODAの枠組みは、ODAやOOFを活用したIT分野の国際協力の実施に適合しないものがある。
という指摘もされている。
Republic of Palau Communication Information Technical Advisory Group (CITAG), 5-Year ICT Plan, January 2003. (LOC Call Number: HC 79.I55 P35 2003 Copy 1)
オンラインで見つからなかったので、TPRCの合間に米国議会図書館でコピーしてきた。閉架式なので出てくるのに2時間半もかかった。
海底ケーブルについては
Review, make recommendation and identify potential funding sources for connecting the Republic of Palau to an appropriate international fiber optic cable (p. 2)
としか書いてない。私が考えすぎなのか、パラオの認識が甘いのか。国際回線を確保しないで国内の話をいくらしても意味ないんじゃないだろうか。これを書いた人にインタビューしてみたい。S先生はアドバイザーだったのだろうか。
Mito Akiyoshi, Motohiro Tsuchiya, Takako Sano, “Missing In the Midst of Abundance: The Case of Broadband Adoption in Japan,” The 39th Research Conference on Communication, Information and Internet Policy, Arlington VA, United States, September 24, 2011.
TPRCで発表。TPRCはもともとは、Telecommunications Policy Research Conferenceの略だったのだけど、最近はResearch Conference on Communication, Information and Internet Policyになった。しかし、通称はいまだにTPRCのまま。
総務省情報通信政策研究所から支援を受けた行った共同研究の成果発表。なぜ安いブロードバンドが使えるようになっているのに、日本のブロードバンド利用率はそれほど高くないのか(OECDで16番目)について分析。
高平仁「国際海底ケーブルの現状」『ITUジャーナル』第27巻10号、1997年10月、52〜60ページ。
14年前の第1〜4世代の光海底ケーブルの状況がよく分かる。これの現在版が読みたい。
小菅敏夫、岡育生、田中正智、飯田尚志、江戸淳子、牧野康夫「北西太平洋情報通信調査報告II—ミクロネシアの新たな可能性—」『電気通信大学紀要』第4巻1号、1991年、45〜65ページ。
この報告では、ミクロネシア連邦(FSM)とマーシャル諸島共和国(RMI)が中心。
グアム〜パラオ〜チュウク〜ポンペイ〜コスラエ〜クワジュリン〜マジュロ〜ホノルル等を結ぶ、ミクロネシア海底ケーブル(仮称)の敷設という提言が書かれている。残念ながら現在でもまだ敷設されていない。
政府開発援助(ODA)による通信インフラストラクチャの支援も書き込まれているが、現実には日本のODAによる支援はほとんど行われなくなっている。ODA白書によれば、二国間政府開発援助分野別配分の通信は0.26%である。
通信事業は民間でできる商業性の高いものだからというのが、ODAを使わない理由とされている。しかし、太平洋島嶼国のようなところでは、少なくとも海底ケーブル敷設のような大規模な初期投資は、商業ベースではできない。日本のODA予算が減り続ける中、ここに日本の援助を期待するのは残念ながら難しくなっている。
牧野康夫、小菅敏夫、潮田厳、田中正智「北西太平洋情報通信調査報告—ミクロネシアへの新たなアプローチ—」『電気通信大学紀要』第1巻1号、1988年、69〜82ページ。
パラオを中心にミクロネシアの通信事情がよく分かる。しかし、いかんせん1988年と古い。パラオの独立は1994年だから、その前になる。
当時としてはミクロネシアの通信事情に注目するのはとても先端的だっただろう。なにせ、インターネットすら普及していない時代である(当然、インターネットへの言及はない)。
今、海底ケーブルのことを研究テーマの一つにしている。「今」というよりはずっと関心があって、博士論文の中にも書いている。日本は海に囲まれているのだから、海底ケーブルなしでは情報通信のインフラストラクチャは成り立たない。そう思って1840年頃に海底ケーブルがイギリスで発明されて以来の歴史を折に触れて振り返ってきた(『情報とグローバル・ガバナンス』および『ネットワーク・パワー』に収録)。
「今」また関心があるのは、昨年、パラオに行ったとき、海底ケーブルがつながっていないために、パラオが大変な苦労をしていることを知ったからだ。パラオだけではない。少なからぬ太平洋島嶼国が苦しんでいる。海底ケーブルにつながっている勝ち組と、つながっていない負け組で結果がはっきり出てしまっている。例えば、国ではないが、グアムは米領になっているので複数の光海底ケーブルがつながっている。軍事基地でもあるグアムは、太平洋のネットワーク・ハブの一つになっている。しかし、そこから1300キロほど離れたパラオにはつながっていない。1300キロという距離は現代の海底ケーブル技術からすれば何でもない距離だが、いくつかの理由でつながっていない。
パラオを中心とする太平洋島嶼国について調べるとともに、海底ケーブルの現状も知りたくて、事業者へのヒアリングにも行った。特に、3.11の大震災で茨城沖の海底ケーブルが複数箇所で切断されたものの、すぐに復旧した努力には驚いた。
そうした関心の一環で、長崎の海底線史料館に行ってきた。長崎に行くのは初めてなので泊まりがけで行きたかったが、予定が立て込んでいるので日帰りにした。朝4時半に起きて羽田空港に行き、8時過ぎに長崎に到着した。レンタカーを借りて長崎市内へ向かう。長崎空港は大村市にあるので、40分ほどかかる。長崎駅で、福岡に帰省中のゼミ生K君と落ち合う。
11時前にNTT-WEマリンへ。長崎駅から20分ぐらいだっただろうか。NTT-WEマリンはNTTコミュニケーションズの関連会社で、ケーブル敷設船すばるの母港になっている。あいにくこの日はすばるは出航中で見ることはできなかったが、この場所は岩場に挟まれた天然のドックになっているとのことだった。普通の港では嵐が来ると船を沖に出さなくてはいけないが、ここではそのまま港の中に係留しておくことができるそうだ。
海底線史料館は普段は閉まっているので、予約が必要である。私も1ヶ月ほど前に電話してアポイントをとっておいた。案内してくださったのはSさん。上司のTさんにもご挨拶をして、まず見せてもらったのは修復用のケーブルである。大きな工場のような建物の中に合計六つの丸い大きな穴が開いており、その中にさまざまな海底ケーブルがぐるぐると輪になって保管されている。一つの穴の中に何層にもなって複数の種類のケーブルが入っている。これは現在使用されているケーブルが何らかの理由で切断されたり故障したりした場合の修復に使われるそうだ。したがって、最新の光ファイバが入ったケーブルだけでなく、昔の同軸線のものもある。
この工場のような倉庫の隣にある煉瓦造りの建物が海底線史料館である。長崎は日本で一番最初に海外との海底ケーブルがつながった場所である。19世紀から20世紀の変わり目頃に世界の海底ケーブルを牛耳っていたのは大英帝国である。しかし、日本に海底ケーブルをつないだのはデンマークの大北電信(Great Northern Telegraph Company)であった。海底線史料館の建物は明治29年(1896年)に海底電信線貯蔵池の電源舎として作られたようだ。しかし、とても風情がある。取り壊しの話もあったようだが、保存の要望があって残すことになった。そして2009年には経済産業省から「地域活性化に役立つ産業遺産」に指定された。
史料館の中には予想を超えるさまざまなものが保存されていて驚いた。最初の部屋には各時代の海底ケーブルを短く切断したものが展示されている。KDDから提供された最初の太平洋ケーブルもあった。海底ケーブル自体の技術革新がよく分かる。隣の部屋にはまず最初に大英帝国の有名なケーブル敷設船Great Eastern号の模型がある。何度も本で読んだ船だ。第二次大戦末期に使われていて、ソビエトに撃沈されたとする説のある日本のケーブル敷設船小笠原丸の大きな模型もある。三つ目の部屋はロフトのように二層になっていて、巨大なケーブル移動用の装置が置かれていた。まだ整理し切れていないと思われるものも置かれている。
何よりも興味を引かれたのは、年代物の戸棚に収納されている文書である。背表紙のタイトルからして興味をそそられるものが多い。しかし、どれもかなりの年代物なので簡単に手にとって見られるものでもなさそうだ。時間をかけて丁寧に中身を見なくてはならないだろう。その量からして日帰りではどうにもならない。
会議を終えられてTさんとNさんが史料館にやってきてくださった。そこでお話を伺うと、私と同じような目的でこの史料館にやってきて、この文書をすでに見た研究者がいるとのこと。「いとうかずお」さんという方だったとのことで帰宅してから調べてみると、おそらく、伊藤和雄『まさにNCWであった日本海海戦』(光人社、2011年)だろうと分かる。この本はつい先日注文してあって、もう大学の研究室に届いているはずだ。一番乗りでなかったのは残念でならない。本の中身を確認して、私がまだやれる範囲があれば、もう一度この史料館に来て、文書を見てみたい。
NTT-WEマリンを辞去して、市内でK君とチャンポンを食べる。チャンポン発祥の店だそうだ。食後、すぐ隣の全日空ホテルの入り口へ。ここに「国際電信発祥の地」と書かれた記念碑が建っている。新しく見えるが昭和46年(1971年)のものだそうだ。隣には「長崎電信創業の地」と「南山手居留地跡」の碑もたっている。なぜここに記念碑があるかというと、港近くで陸揚げされた海底ケーブルが陸線につながり、全日空ホテルの敷地にかつてあったホテル・ベルビューで通信業務が行われていたからだそうだ。
また車に乗り、今度はやや離れた国際海底電線小ヶ倉陸揚庫へ。ここには海底ケーブルの陸揚げに使われた小屋が残っている。港のすぐそばで、民家の隣にぽつんと立っている。しかし、ここは柵で囲われていて中に入ることはできない。柵はそれほど古いものではなく、最近作られたように見える。この建物の手がかりになるものは、外側の石碑だけである。それによれば、「原形を復元し」となっている。1971年頃に復元されたらしい。管理しているのはKDDIのようなので、もし長崎再訪のチャンスがあれば、中を見られるかどうか聞いてみよう。
この時点ですでに14時近くになっている。時間が十分に余れば、グラバー園に行くか(グラバーも海底ケーブルに関係していたらしい)、長崎県立図書館で資料を調べようと思っていたが、16時半には市内を出ないと帰りの飛行機に間に合わない。そこで、市内を車で走っている最中に見つけた出島を見に行くことにした。出島は明治の開国で不要になった後、周囲の埋め立てが進んだり、運河の整備で一部が削られたりして、場所がよく分からなくなっていたようだが、最近の調査で境界が確認され、復元された。復元と行っても何度も火災があったので時代によって出島の姿はさまざまだったようだ。
この日、長崎は台風の影響があって、午前中は雨、午後は非常に蒸し暑かった。出島はそれほど大きくないが、ここでバテてしまう。長崎駅前で土産物を少し物色して、K君は電車で福岡へ戻っていった。私はまた車で空港へ。帰りの機内で、出島の売店で買った小冊子を読む。出島についてよくまとまっていて勉強になった。国際政治のパワーの中心がポルトガルからオランダへ、そしてイギリスへ移っていったことが出島にも影響した。
帰宅は21時頃になった。見たいと思っていた史料館が見られたという点では大いに満足した。しかし、そこに宝物のような文書が眠っていることも分かり、心が騒ぐ。次にケーブル敷設船が戻ってくる時期に行きたいが、授業があってその頃は難しそうだ。春休みにまた行けるかどうか考えてみよう。