土建屋とソフト屋

先日、某SI(システム・インテグレーション)会社の課長さんにお会いした。情報産業の将来をどう思うか意見を聞きたいとのことだった。彼の意味する情報産業は、デバイスというよりも、ソフトウェアを含めたSIの話だったので、私は門外漢だ。だから逆にこちらがいっぱい質問をする形になって申し訳なかったが、得るところが大きかった。

一番おもしろかったのが、土建屋とソフト屋のアナロジーだ。一円入札が話題になるなど、SI産業は土建産業に近い側面を持っている。政府が大規模な発注をするとそれに群がるという構図がよく似ているからだ。最近の電子政府がらみの動きは、公共事業的側面がよく出ていた。

しかし、ソフトの発注を受けて各社が入札するわけだが、ハードウェア・メーカーも兼ねているようなところは、SIで儲けずに、抱き合わせのハードウェアで儲けることができる。ハードウェアを持たない純粋SI会社だと、同じ条件では競争できない。仮に入札に勝ったとしても、いざシステム構築という段階ではハードウェア・メーカーの世話になる。そこのレイヤーが分離されていないから、とても平等な競争条件とはいえない。

さらに問題なのが、ソフトウェア開発をどう評価するかだ。ここでは土建屋のアナロジーはきかない。土建屋が造るものは、道路にせよ建物にせよ、はっきりと目に見える形で残る。そこで誰がどれだけの時間と労力を掛けて作業したかがよく見える。しかし、ソフトウェア開発においてその工程とアウトプットがそこまではっきりと見えることはない。

ソフトウェアの価格はいわゆる人月で決まる(『人月の神話』で論じられた問題だ)。何人がどれだけの時間をかけたかを積み重ね、人件費単価で掛けるわけだ。このルールに従えば、ダラダラと無駄なプログラムをゆっくり時間をかけて作ればいいことになる。しかし、優秀なプログラマーは短時間で美しいプログラムを書いてさっさと仕事を終わらせてしまう。なのに彼の給料は安いままになるだろう。

産業の発展形態としてみれば、(1)土建産業のように、現在の工房的ソフトハウスの段階を脱して大量生産型のマス・ソフトハウスが登場するという見方と、(2)プログラミングは芸術的産物としてプログラマーのカリスマ化が進むという見方を考えることができる。しかし、現在のところ、大手ソフトハウスや大手SI会社が会社を飛び出して自立するという例はほとんどない。カリスマが存在しないのだ。建築家がやがて独り立ちするのとは大きく異なる。

結局のところ、ソフトウェア開発の仕事をどうやって評価するのかというメソドロジーが確立していないのが問題だ。ここが確立しなければ、SI産業は成熟へ向かうことはできない。なかなか悩みは深いのだと教えてもらった。

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