リチャード・ドーキンス(日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳)『利己的な遺伝子<増補新装版>』紀伊國屋書店、2006年。
30周年を迎えた遺伝子についての名著である。 その主張は、
われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。この真実に私は今なおただ驚きつづけている。(p.xxx)
私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には個体でもないことを論じるつもりである。それは遺伝の単位、遺伝子である。(p.16)
などに表されている。そして、われわれ個体は、不死身といっていい遺伝子の乗り物(ヴィークル)に過ぎないという。
読み進めると、生きるとはいったいどういうことなのだろうと考えさせられる。
救いに感じられるのは遺伝子とのアナロジーで語られるミームである。
われわれが死後に残せるものが二つある。遺伝子とミームだ。われわれは、遺伝子を伝えるためにつくられた遺伝子機械である。しかし、遺伝子機械としてのわれわれは、三世代もたてば忘れられてしまうだろう。子どもや、あるいは孫も、われわれとどこか似た点をもってはいよう。たとえば顔の造作が似ているかもしれない、音楽の才能が似ているかもしれない、あるいは髪の毛の色が似ているかもしれない。しかし、世代が一つ進むごとに、われわれの遺伝子の寄与は半減してゆくのだ。その寄与率は遠からず無視しうる値になってしまう。われわれの遺伝子自体は不死身かもしれないが、特定の個人を形成する遺伝子の集まりは崩れ去る運命にあるのだ。エリザベス二世は、ウィリアム一世の直径の子孫である。しかし彼女がいにしえの大王の遺伝子を一つももち合わせていない可能性は大いにあるのである。繁殖という過程の中に不死を求めるべきではないのである。
しかし、もしわれわれが世界の文化になにか寄与することができれば、たとえば立派な意見を作り出したり、音楽を作曲したり、発火式プラグを発明したり、詩を書いたりすれば、それらは、われわれの遺伝子が共通の遺伝子プールの中に解消し去ったのちも、長く、変わらずに生き続けるかもしれない。(p.308)
いずれにせよ、人生あくせく生きてもそれほど意味はないのかもしれない。何せ「獲得形質は遺伝しない」のだから、われわれがいくら意識的に頑張ってみても、子供に伝えられるものは遺伝子レベルで決まっている。無論、子供は環境にも影響を受けて育っていくから、遺伝子で人生すべてが決まるわけではない。しかし、われわれは単に遺伝子の乗り物に過ぎないのだ。そんな人生にどんな意味があるというのだろう。