読んでばかり

最近、他の人の文章を読む機会が多い。学生の卒論、修論、博論はもちろん、学会やジャーナルの査読を頼まれることも増えた。コロンビア大学の博士論文の謝辞に入れてもらう光栄にも浴した。別の人がこれから出版する本の原稿にもコメントを求められている。

おそらくこういう仕事をもっとしている人がいると思う。しかし、私の研究テーマはニッチだったので、頼まれることは少なかった。それが増えてきたということは、関連する研究テーマをやっている人が増えてきているということかもしれない。そう思うと、うれしい反面、少し焦りも感じる。ほとんど人のいない荒野でこつこつ開拓していたはずなのに、気がつくと周りに人が増えているという気分だ。

他の人の文章を読むのは、時には苦痛だ。先日読んだ論文は、全28ページのうち、イントロダクションが14ページもあって、どういう構成をしているのかとあきれた。しかし、出版される前の最新の研究に触れられるというのは一種の特権でもあり、こうして研究コミュニティが発展・成熟していくのかとも思う。

しかし、自分の文章を読み直すのが一番苦痛だ。いつまでたってもうまくならない。ゲラの校正をするのが至上の喜びという人もいるらしいが、私は書き散らして忘れてしまいたいタイプなのだろう。

二日前、日本からゲラが届いた。なんと二年前に書いた原稿のゲラだ。このプロジェクトはつぶれたと思っていたのですっかり忘れていたのだが、突然のように動き出した。二年間原稿を遅れさせた執筆者がいるらしい。のんびりした人がいるものだ(あるいは、よほど忙しいのか)。幸い、ほとんどアップデートしなくても使えそうなので、最小限の手直しで返送する。

そういえば、同じく二年前に書いた原稿が、別の本に収録されるらしいが、こちらは出版助成取得に時間がかかっているらしい(同じく原稿出さない人もいるらしい)。学術出版はどうしても時間がかかる。

二つの原稿は重なる部分があって、当時の問題意識を思い起こさせる(ネタがなかったのか)。ボストンでの在外研究も2/3が終わる。この一年の成果はどうなることやら。なかなか筆が進まない。

なんでそんなに書けるんですかと聞かれることがある。もっとたくさん書いている人はいると思うのであまり自分ではそう思わないが、そうしないと気が済まないからだろう。私は自分がこの仕事が好きなのだと思っていたが、こちらの話を読んで、ひょっとすると違うのかもしれないと思い始めた。好きであるより、得意であることのほうが重要だという。私にとっては他の仕事よりこの仕事が得意なのだろう。

大学院に行きたいんですけど、という相談もよく受ける。しかし、勉強が好きなだけ、成績が良いだけでは生き残れない。勉強と研究の違いが分かっていて、研究することに苦痛を感じない人でないとものにならない。まして衰退・縮小する大学業界では生き残りは大変だ。

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