駒村圭吾「国家と文化」『ジュリスト』第1405号、2010年8月1日〜15日、134〜146ページ。
先の「国家なき立憲主義は可能か」を探したときについでにコピーしてきた論文。論文ではあるのだが、どうやら座談会の席の基調報告で、この後に長い座談会の記録が付いている(147〜169ページ)。
国家は文化に介入すべきではないという何となくのルールがあるような気がする。しかし、駒村先生は、「文化を掌握すれば意味の秩序を支配できたのである。国家は文化を支配することにより意味の秩序を支配しようとした。同時に、国家は、革命による政府転覆と同様に、急進や退廃による意味秩序の崩壊を常に恐れてきたのである」とある。なるほど。この視点はおもしろい。
戦後直後の日本に「文化国家」ブームというのがあったのもおもしろい。
座談会の最後に近いところに、こんな話が出ている。
私たちの業界で言えば、研究者・研究会を含む学界、査読システム、出版編集者……、ジュリストに寄稿するのに辿り着くまでは結構大変なわけです。下積みや修業の時代があって、同期・同僚の目を気にしながら、指導教授からいろいろなことを言われたり、出版社の人と飲み会をして執筆内容を揉んだり、あるいは長谷部[恭男]さんに鍛えられたりと、そういったことがあったと思うのです。(168ページ)
たしかに、こういう「業界秩序」は崩れつつあるなあ。
いまさらながら、ご一読いただきありがとうございました。