崩壊は突然に

 Foreign Affairsの最新号に出ているNiall Fergusonのエッセイがおもしろい。

 帝国はダラダラと衰退してサイクルを描いたりするものではない。帝国は複雑システムであり、崩壊は突然やってきてあっという間に進むといっている。米国は衰退フェーズのどこにあるかなんて考えるのは時間の無駄だそうだ。

 歴史学者はやたらと長期間で物事を考えすぎで、歴史学者の視点で政治家たちは考えられないという指摘もおもしろい。歴史はスポーツカーみたいなもので、一気にクラッシュしてしまうかもしれないのだそうだ。

東アジアの国際関係

20091216east_asia.jpg大矢根聡編『東アジアの国際関係—多国間主義の地平—』有信堂、2009年12月16日、本体3900円+税、ISBN978-4-8420-5564-0

「第3章 世界情報社会サミットと中国外交——インターネット・ガバナンスをめぐる単独主義?」(72〜96頁)担当。

2006年10月に日本国際政治学会で発表したペーパーが本に収録されました。脱稿後に大きな動きがあり、追記という形になってしまったのが残念。

インターネットの話が国際政治学の枠組みですんなり取り入れてもらえるようになったのは時代の変化ですね。ありがたいことです。

他の執筆陣は以下のようになっています。

序章 東アジア地域協力の展開——多国間主義の視点による分析へ:大矢根聡

第1章 中国の多国間主義:現実的リベラリズム?——「中国の台頭」下における新たな役割の模索:浅野亮

第2章 貿易分野における中国の多国間主義——「協力と自主」の現れとしてのWTO対応:川島富士雄

第3章 世界情報社会サミットと中国外交——インターネット・ガバナンスをめぐる単独主義?:土屋大洋

第4章 多国間主義とインド外交——核保有と経済成長:竹中千春

第5章 大国化するインドにおける多国間主義の動揺——現代「実利」外交の展開:伊藤融

第6章 韓国におけるFTA戦略の変遷——多国間主義の推進と挫折:磯崎典世

第7章 タイの多国間主義外交——経済外交の変化と持続:永井史男

第8章 オーストラリア対外経済政策の転換——多国間主義から二国間主義へ:岡本次郎

第9章 ASEAN外交の改革と東アジア共同体の功罪——政府志向の多国間主義から市民志向の多国間主義へ:勝間田弘

第10章 アメリカの多国間主義をめぐるサイクル——消極的関与と急進的追求の振幅とその背景:大矢根聡

アメリカ後の世界

ファリード・ザカリア(楡井浩一訳)『アメリカ後の世界』(徳間書店、2008年)。

昨年、MITの本屋でThe Post American Worldというタイトルを見て気になっていた。翻訳が出ているのに気がついて読み始めたらあっという間に読めた。ジャーナリストの本なので注もほとんどなく、エピソードがたくさん入っていておもしろい。

著者はインド生まれのアメリカ人で、彼の目から見るアメリカ、中国、インドは新鮮だ。アメリカ人はアメリカの民主主義や政治が世界最高だと思っているけど、インド人から見ると「インドと同じくらい混乱している」ように見えるらしい。確かにそうかもしれない。アメリカ人が自信をなくしている経済は逆に世界最高だといっている。

インドは中国の成功から限定的にしか学べないという。インドは民主主義であり、中国ほど指導者が力を発揮できないからだ。中国では18ヵ月で町を更地にできるけど、インドではできない。インドでは経済成長が進むと与党が選挙に負けてしまうという不思議なことも起きる。

この本の仮説は、アメリカが衰退しているのではなく、「その他の国」が猛烈に台頭してきているので、「アメリカ後の世界」がやってくるというものだ。これはジョセフ・ナイが最初にソフトパワー論を展開した時のロジックと似ている。アメリカが弱くなったんじゃない。アメリカの援助で日本やヨーロッパが復興し、アジアが台頭してきたというわけだ。

常々感じていたことをそのまま言ってくれたのは以下のところ。

 英語の世界的広がりを例にとろう。英語の共通言語化はアメリカにとって喜ばしい出来事だった。なぜなら、海外での旅行とビジネスが格段にやりやすくなるからだ。

 しかし、これは他国の人々にとっては、ふたつの市場と文化を理解し、ふたつの市場と文化にアクセスする好機だった。彼らは英語に加えて北京語やヒンディー後やポルトガル語を話せる。彼らはアメリカ市場に加えて地元の中国市場やインド市場やブラジル市場に浸透できる(これらの国々では、現在でも非英語市場の規模が最も大きい)。対称的に、アメリカ人はひとつの海でしか泳げない。他国に進出するために能力を磨いてこなかったつけと言っていいだろう。(271ページ)

エルサレム、ベツレヘム、帰国

イスラエルは行ってみたい国候補の上位に入っていた。カンファレンスだけで帰るわけにはいかない。

カンファレンスの最終日、知り合いになった地元の日本人が、ヤッフォという港町まで夕飯に連れていってくれることになった。他にシンガポール人2人とドイツ人1人も一緒で計5人。シンガポール人男性とドイツ人男性が、異様に仲が良いのがおかしい。すでに夜だったので簡単にヤッフォを見て歩いてから、テルアビブの夜景が見えるレストランで夕食会。帰りの車を途中で降りた2人はどこへ行ったのやら。

翌日は金曜日。イスラムの休日。おまけに9月11日。毎年この日になると複雑な気分になる。自分の仕事も何となく振り返ってしまう。

この日は無理をお願いして、車でエルサレムとベツレヘムに連れて行ってもらった。金曜のイスラムの休日と、土曜のユダヤの安息日は避けるらしいのだけど、週明けまでイスラエルにいるわけにはいかない。

まずは一度見てみたかった死海文書のミュージアムへ。ここには最近できたばかりのユダヤの第二神殿時代の巨大屋外模型もある。エルサレム旧市街の発掘調査ができないので想像の部分もあるらしい。お目当ての死海文書は、一番良いところだけ展示されているそうだが、当然さっぱり読めない。しかし、ようやく本物を見ることができてうれしい。

次に、イスラムのお祈りの時間を避けるため、オリーブ山へ。ここからはエルサレムの旧市街が一望できる。この日は特別空気が良かったそうでラッキーだった。旧市街からは大音響でイスラムのお祈りの声が聞こえてくる。

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オリーブ山の急な坂道を徒歩で下る。途中にはユダヤ教徒のお墓が並んでいる。下に降りると、礼拝に向かうイスラムの人たちでごった返している。旧市街の中に入ってもイスラムの人たちの人波が続いている。ラマダンも重なっていて、大きな礼拝がある日だったそうだ。

ユダヤの嘆きの壁を見て、迷路のような道をたどって、キリストが十字架を背負って歩いたとされるビア・ドロローサをたどる。狭い道だ。そして、磔になったゴルゴダの丘があったとされる聖墳墓教会を見る。複雑に入り組んだ教会で、人で溢れている。おもしろいのはこの教会のカギを管理しているのはイスラム教徒だということ。一歩脇道にそれるとアルメニア人の教会もある。

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対立しているはずの宗教を背負った人々が背中合わせで暮らしている。エルサレムは不思議な場所だ。

そこからまた車に乗って30分程でベツレヘムへ。ベツレヘムはキリストが生まれたところだが、今はパレスチナ自治区の中になっている。車に乗ったまま自治区に入ると景色が変わる。道路の質が悪くなり、鉄条網がいたるところにあり、ゴミが多くなる。別世界だ。

基本的にユダヤ人は自治区に入れないそうだが、キリストの生誕教会には外国人観光客が押し寄せている。あまりにも長い列ができていて、地下にあるキリストが生まれたという場所には時間の関係で行けなかった。

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帰り際、駐車場でちんぴら風の若い男たちに囲まれた。言葉は分からないし、何を求めているのかも分からない。何かを話しかけてきているが、友好的な雰囲気ではない。そのうちの一人が握手を求めて手を差し出してきたが、その手を握り返すまでずいぶん時間がかかってしまった。たいした会話はせずに車に乗り込んで事なきを得たが、彼らは何を言いたかったのだろう。イスラエルが作った壁に囲まれて暮らす若者は、どんな思いで成人していくのだろう。

自治区を出て、ホテルのあるビーチへ戻ると、楽しそうな人で溢れている。親子連れが海水浴をして、若者はサーフィンをしている。老夫婦はチェアに座って雑誌を読んでいる。大音響で音楽をかける屋外スポーツジムまである。インストラクターのかけ声で何十人も一緒にバイクをこいでいる。黒服の敬虔なユダヤ人もイスラエルにはたくさんいるが、世俗的で享楽的といっても良いユダヤ人も多い。このギャップの存在を受け入れるのは、部外者である私にも容易ではない。

帰国するため、テルアビブからウィーン行きの飛行機に乗る。午前6時45分発で、セキュリティのために3時間前に来いとのことなので、午前2時半に起きて、3時にホテルを出発する。ヨーロッパ便は夜中に着いて、早朝に出発するスケジュールになっている。

ウィーンまでの機中、たくさんの黒服のユダヤ人たちがいた。少年も混ざっている。もみあげが長くて編んだようになっている。離陸前、もう動き出しているというのに何やら立ち上がってお祈りらしい動作をする人、食事前のお祈りなのか座席で頭を激しく前後に振る人、着陸時に拍手喝采する人。違和感は否めないなあ。

往復の機中、ポール・ジョンソンの『ユダヤ人の歴史(上・下)』を読む。カール・マルクスはユダヤ人として生まれながらキリスト教に改宗したために、激しい自己矛盾を抱えていたそうだ。そして、彼が破壊しようとした資本主義とは、金貸し・投資家として資本主義を発展させてきたユダヤの伝統だというのも考えさせられる。

イスラエル初訪問

IDCとかICTとか言えば、これまでの私ならInternet Data CenterとかInformation and Communications Technologyのはずだが、今回は違う。

イスラエルのテルアビブ郊外にあるIDC(Interdisciplinary Center)のICT(International Institute for Counter-Terrorism)によるWorld Summit on Counter Terrorismというカンファレンスに参加した(発表はなし)。このカンファレンスは2001年の9月11日に第1回が開かれるという因縁めいたカンファレンスで、今年で9回目になる。

イスラエルで開かれるテロ対策のカンファレンスということで、少し敷居が高く、参加にあたっては簡単な審査がある。私は昨年日本から参加した方に紹介していただいた。

イスラエルは日本のメディアを通してみると物騒な国というイメージが強い。実際、テロもあるし、ガザ侵攻もある。しかし、そうした現場以外では一見すると平穏で、テルアビブの西に広がる地中海の海岸線はとても美しい。ホテルから見える日没は写真では伝えきれない。この国は治安の問題がなければきっとすばらしい観光大国になるだろう。

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カンファレンスは、「ワールド・サミット」と言いつつ、アラブ系の人はいないし、各国首脳が来るわけでもない。初日の夜の主賓はアメリカの下院議員とイスラエルの野党の党首だった。野党と言いつつ、議会では実は第一党で、連立工作に失敗したために、野党になっているらしい。

話がイスラエルと中東の話に偏っているけど、それなりにおもしろいカンファレンスだった。リピーターが多いのも特徴だ。昨年は1100人も参加者がいたらしいが、今年は金融危機の影響か、800人らしい(しかし、本当に800人もいたのかなあ。水増しされている気がする)。

ミスター・アルカイダと呼ばれているシンガポールの人がいて、彼の発表はアフガニスタンとパキスタンの国境付近の詳細な地図と写真がいっぱいでとてもおもしろかった。他にもテロリストがどうやってインターネットを使っているかとか、欧米のメディアがハマスやヒズボラのメディア戦略に引っかかっているとか、おもしろい話が聞けた。ただ、全体としては、イスラエルと米国の意識合わせ&諸外国へのパブリック・ディプロマシーという感じが強い。イスラエルの立場をこれでもかと主張する論者が多い。

中東はこれまでチュニジアとトルコしか行ったことがなかったので、初めてのイスラエル経験はおもしろかった。

しくじったのは入国審査。飛行機を降りたらいきなりセキュリティにつかまって質問されてしまったので、入国審査で別紙にスタンプを押してもらうはずが、すっかり忘れてしまった。イスラエルと国交のないアラブの国は、イスラエルのスタンプがあると入国を拒否する。そもそも、乗り継ぎを含めて20時間のフライトの後、夜中の1時(日本時間の朝7時)に到着というのがいけない。しっかりパスポートにはイスラエルのスタンプが押されていた。これでシリアには行けなくなりましたよ、O先生。

Harvard Political Network Conference

昨年、第1回が開かれたハーバード大学の政治的ネットワーク・カンファレンスの第2回が6月11日から13日まで開かれるそうで、プログラムが決定したようだ。

http://www.hks.harvard.edu/netgov/html/colloquia_HPNC2009.htm

それほど名前の知られていない人が多い。昨年の感じからすると、若い大学院生などの発表が多いのだと思う。しかし、今年のトリは『新ネットワーク思考』のバラバシだ。

とても行きたい。久しぶりにケンブリッジの空気が吸いたい。6月は良い季節だ。しかし、13日か14日のどちらか、日本で学会発表をしなくてはいけない。13日の朝に発表があるとすれば、11日の朝にアメリカを出て12日の夕方に日本着になる。どう見ても無理だ。実に、実に残念。

海上保安庁観閲式

先月26日には、同僚の清水さんにお誘いいただき、海上保安庁の観閲式へ行く。船が大好きな学部長と高汐さんも一緒。海保の観閲式は『海猿』人気以来、なかなか入手が困難だそうで、うれしい限り。乗船したのは割とおおきな「やしま」という巡視船。

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MITでお世話になったリチャード・J・サミュエルズ教授の『日本の軍事大戦略』の翻訳がもうすぐ出版されるが、彼は海保の役割に注目している。その影響もあって、海保についてもっとよく知りたいと思っていた。海保は国土交通省に所属しており、自衛力の一角を担うわけではなく、警察庁の下にはないが、海上における警察力を担っている。しかし、海難救助や環境保全、災害対応、海洋調査も担っているというから幅広い。

海上自衛隊の観艦式は相模湾沖までかなりの時間をかけて行くが、海保の観閲式は羽田沖なので移動時間が短いのが良い。晴海からレインボーブリッジをくぐって船が出て行くと、右舷に見える東京の街並みがマンハッタンのように見える。

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告知されていなかったようだが、特別観閲官として麻生首相が乗り込んできた。現役の首相をこんなに間近に見るのは、首相官邸で開かれた研究会に鞄持ちで付いていったとき、小渕首相を見て以来だ。テレビの中で見ている人は、実際に見てみると意外に小振りであることが多い。麻生首相もそんな印象だ。船内ではテレビで見る弁護士や軍事アナリストも見かけた。

眺めの良い場所に陣取ることができ、途中までは巡視船やヘリコプター、航空機を楽しんだが、途中から風が猛烈に吹き始め、艦上のアナウンスも聞こえなくなる。プログラムも変更があったようだ。風は吹いても陽が当たっているせいでそれほど寒くない。3年分の風に吹かれた気分で爽快だった。終了間際には海の向こうにうっすらと富士山も見えた。

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防衛省見学

久しぶりの授業の毎日で、慌ただしく一か月が過ぎた。こんな毎日だったなあと体が思い出し始める。その一方で、ふとした瞬間にMITでの生活の光景が思い浮かぶ。写真を撮る気もしなかった日常的な風景が懐かしくて仕方ない。最後にはとっとと帰国したいなんて思っていたのに。

アメリカの大学は先週辺りで一年の授業が終わってしまう。だから今の時期にカンファレンスが開かれることが多い。例年ならゴールデンウィークは出張に行くことが多いのだけど、今年は諸事情あってやめた(豚インフルエンザが出る前の話)。今頃ボストンは一気に暖かくなって良い季節に違いない。ボストン・コモンでもブラブラすると楽しいはずだ。

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先月23日は慶應の開校記念日で授業は休みだった。学生たちと防衛省の見学へ出かけた。ボストンで知り合った防衛省の若手の皆さんにご尽力いただいた。感謝。

実は防衛省の見学ツアーは毎日2回行われていて、団体でなければ当日フラッと行っても参加できる。

見どころの一つは市ケ谷記念館。東京裁判が行われたり、三島由紀夫が自決したりした建物を移築・復元したもの。元の建物よりも小さくなっているが、復元した講堂や部屋には元の建材が使われており、三島由紀夫が付けた刀傷も残っている。東京裁判の写真は何度も見ているが、実際の現場がどこかは考えたことがなかった。

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現在の防衛省の敷地は、陸軍参謀本部なども置かれていたところで、歴史ある場所であり、現代史を考えるには良いところだと思う。

ネットワーク分析による政治的つながりの可視化

帰国してからもうずいぶん経つが、3月中はほぼ全く仕事をしなかった。帰国前に決まっていた数件の予定以外は、申し訳ないが断って、4月以降に回してもらった。原稿を書いていたわけでもなく、気晴らしに本を数冊読んだり、どうしても必要なメールの返事を書いたりするぐらいで終わった。こんなに仕事をしなかったのはいつ以来だろう。

仕事をしないと決めると、かえってたまっていた疲れがどっと出てきて、12時間ぐらい寝室にいるような日が続いた。研究は頭だけじゃなくて体力がないとできない。集中力の維持の元になるのは体力だし、図書館やアーカイブで文献資料を探すのもかなり体力がいる。ましてフィールドに出て行く際は言うまでもない。

回復した気はしないが、4月になったので、昨日からギアを入れ直して仕事を再開しつつある。アメリカ滞在中は今までの研究の棚卸し・在庫一掃をねらっていた。しかし、予想外の展開がいろいろあって、体力と気力を使い果たして帰ってきた。夏までになんとか挽回したいなあ。

数少ないアメリカ滞在中のアウトプットの一つが届いた。

土屋大洋「ネットワーク分析による政治的つながりの可視化—米国議会上院における日本関連法案を事例に—」日本国際政治学会編『国際政治』第155号「現代国際政治理論の相克と対話」2009年3月、109-125頁。

めずらしく学会誌に投稿した。特集に関連した論文なので、査読が付かないのかと思っていたら付いたそうだ。

私の研究テーマが比較的新しいせいか、あるいは私の筆力が単に足りないだけか、大学院生のころは学会誌に投稿しても全然相手にされず、別の学会へ出せとか、テーマが合ってないとかいわれることが続いた。10年前はインターネットや情報なんてのは際物扱いだった。だから、私は学会誌には書くのをやめて、主に書籍の形で成果発表を行ってきた。そういう意味で、今回載せてもらえたことで、テーマが少し受け入れられるようになってきたのかなと思う。

この論文の元になるネタは、富士通総研経済研究所(FRI)の客員研究員をしていたとき、FRIの皆さんと行っていた勉強会にさかのぼる。その時の成果は2006年2月23日のFRI社内発表会で出したのだが、あまり評判が良くなかった。たった3年前なのにとても昔のことのように感じる(懐かしいのでその時のファイルをアップロード)。

評判が良くないのでそのままペーパーにしないでやめてしまったのだが、昨年の6月、ハーバードで開かれたワークショップとカンファレンスに行き、もう一度やっても大丈夫だと確信したので、今回の投稿につながった。論文は早い者勝ちというところがあるが、早すぎても受け入れてもらえないことがある。査読システムは、品質を保つためには必要だろうけど、知のスピードに追いついて行けるかというと難しい。

確か、『国際政治』には謝辞を入れてはいけなかったような記憶があって入れなかったのだが、他の人はなんだかんだ入れている。関係者の皆さん、ここに書いておきますので、お許し下さい。富士通総研の吉田倫子さん浜屋敏さん湯川抗さん、サイバー大学の前川徹さん、SFCのインターリアリティ・プロジェクトの皆さん、特に西田亮介くん、京都大学の待鳥聡史さん、ありがとうございました。

ISA

ニューヨークで開かれているISA(International Studies Association)に参加。全4日の日程のうち、最初の2日間しか出席できなかったが、初日にポスター発表、2日目にパネル発表をこなした。

ポスター発表はたぶん初めてやった。多少不安があったが、グーグルで指定の大きさに合ったフォーマットのパワーポイントをダウンロードして、コンテンツを埋めて、キンコーズに持ち込んで印刷してもらった。かなりの大筒を持って飛行機に乗らなくてはいけなかった。案の定、開けて中身をチェックされたらしい。

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普通、ポスターは学会の間ずっと掲示されていて、指定時間にポスターの前に立って説明するというスタイルだが、ISAではポスター発表はまだ実験段階のようで、指定時間だけ掲示して、そこに立っていれば良い。指定時間が終わったらはがしてしまい、掲示板は次のポスター発表に使われる。

実際に始まるまでは、1時間45分は長い気がしたが、やってみると割とすぐに終わってしまった。インテリジェンスに関連する発表だったのだが、Fのビューローに17年いたとか、Cのエージェンシーに35年いたとか強者がいろいろ現れて、私の研究発表をするよりも、こちらからインタビューする感じになって、けっこう楽しかったし、いろいろ聞けて良かった。それと、ポスター発表になれていない人が多いらしく、「ポスター発表ってどうやるの?」と後でポスター発表する人から質問を何回か受けた。

翌日のパネル発表はサイバーテロに関して。日本の国際政治学会もそうだけど、ISAもまだパワーポイントを使う文化が無くて、わざわざホテルと交渉しないとプロジェクターを持ってきてくれなかった。実際、3人のパネリストのうち使ったのは私だけ。

そもそも5人のパネリストがいたのだが、2人がドタキャン。国際学会はno showが多い。私以外の二人はヨーロッパの大学の同僚同士なので、何となく分が悪い。二人はお互いの研究をよく知っているからリファーしながら発表している。しかし、ヨーロッパの人は飾りっ気なしで、とうとうと話すスタイルがいまだ主流のようだ。

サイバーテロについてのパネルといいつつ、あまり中身の話はなくて、聞いている人は若干つまらなかったのではないかと思う。他の二人のうち一人は予告と違う内容で、テロリスト系ウェブサイトの静的な分析、もう一人はYouTubeでテロに関するどんなメッセージが流されているかという話だった。欠席した一人はペーパーだけ出したのだけど、彼の結論はサイバーテロはただのハイプだというもの。それはちょっと言い過ぎで賛成できない。現に起きているわけだし、使われる技術は核兵器と比べたら実に簡単でどこでも手にはいる(だから軽視されているともいえる)。

ま、私の発表はやはり準備不足の感は否めないが、まあまあだろう。終わった後にポーランドの先生から自分が編集している雑誌に載せるからペーパーを送ってくれと頼まれた。ちょっとうれしい。

今回の大きな収穫は、実積寿也先生の紹介で福田充先生とお知り合いになれたこと。地元ニューヨークのコロンビア大学で在外研究をされている(実積先生もコロンビア大学にいらしたがすでに帰国)。研究の関心が重なる部分もあり、大いに刺激を受ける。私のプレゼン中の写真まで撮っていただいた。

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7月以来のニューヨークはやはり楽しい。寒い季節のニューヨークのほうが良いと思う。

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大統領就任式

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大統領就任式はMITの研究所の会議室で、同僚たちとランチをとりながら見た。午前11時からCNNのネット・ストリーミングをプロジェクターで投影し、隣に音声を切ったテレビでFOXの中継を見る。ネット・ストリーミングはテレビより35〜40秒ほど遅れていて、LIVEと出ているのに何か変な感じだ。

11時45分ぐらいにCNNのストリーミングがかなり乱れた。世界中から一気にアクセスが増えたのだと思う。しかし、その後はかなり安定していて、見事なものだった。MITの回線が太いことも良かったのだろう。MITではキャンパス内の5カ所ぐらいの大きな部屋で中継していたらしい。個人的に見ていた人もいるだろうし、よくCNNのサーバーはパンクしなかったものだ。

就任式を通しで見るのは初めてで、かなりおもしろかった。元大統領や現職大統領、その他の要職にある人、家族たちが順番に呼ばれて登場する。座っているだけで良いブッシュ大統領は余裕綽々だ。チェイニー副大統領が車椅子に乗っているのは知らなかった。オバマの娘二人が登場したとき、研究所の黒人女性スタッフは「かわいらしい〜!」と実にうれしそうだった。

最初の笑いが起きたのは、オバマが登場するときに「Barack H. Obama」と呼ばれたため。「フセイン」というミドルネームを使うかどうかに注目していたのだが、「妥協したんだね」とみんなにやにやしていた。

次の笑いは、オバマが宣誓の言葉を言いよどんでしまったとき。彼でもさすがに緊張するんだなあ。

スピーチそのものは、それほどインプレッシブではなかったように思う。研究所のみんなも、あれ、終わったのという反応で、拍手もなかった。

演説の後の国歌斉唱では、元CENTCOMの司令官ウィリアム・J・ファロンがすっくと立ち上がり、半分ぐらいの人が立ち上がって一緒に歌う。しかし、さすがリベラルなケンブリッジ。立ち上がらない人もけっこういる。

日本のニュースで見ると大統領の宣誓と演説ぐらいしか見られないが、副大統領の宣誓や、アレサ・フランクリンの歌など、いろいろおもしろいものも見られた。なんと言っても詰めかけた群衆がすごい。オバマの姿は全く見られなかった人も多かったはずだが、あれだけの人が集まるのは大変なことだ。銅像や木によじ登っている人も多い。

パレードが始まる前、少しハーバード・スクエアを歩いてみたが特に何もなく、地下鉄に乗るとき政治集会のビラをもらったぐらいだった。レストランではいろいろサービスをやっていたらしい。リーガル・シーフーズではメインの料理を頼むと第44代大統領にちなんで名物のクラム・チャウダーが44セントだったとか。

帰宅してパレードを見ると、装甲車のような車からオバマ夫妻が出てきて、ペンシルベニア・アベニューを手を振りながら歩き出した。このときが一番感動的だった。シークレット・サービスは嫌がっただろうが、オバマ夫妻の覚悟が伝わってきた。

本当はワシントンで見てみたかったが、テレビで通しで見られただけでも良かった。アメリカに新しい時代が来た。日本の首相がいちいちこんなイベントやったらお金が続かないし、人も集まらないかもしれない。任期が決まっている大統領制だからこそできることだ。

チョムスキー講演

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MITで最も有名な人の一人がノーム・チョムスキーだ。現在79歳で、名誉インスティチュート・プロフェッサーである。彼の著作は英語でも日本語でもたくさんあるが、恥ずかしながら読んだことがない。私の所属する研究所の主催で講演会が開かれるというので聞きに行ってきた(ビデオもすでに公開されている)。会場は学生や一般の人でいっぱいで、立ち見が出ていた。

何となく過激な発言をする人というイメージがあったのだが、実際に見てみると物腰は柔らかい。開始時間になってもなかなか現れないので、キャンセルになるのではないかと思っていたのだが、よろよろと階段教室を降りてきた。ほっそりした人を想像していたが、割と体つきはがっしりしていて、裾をまくったゆるめのジーンズに愛嬌がある。

テーマはイスラエルのガザ侵攻だ。口ぶりは過激ではないのだが、やはり内容は辛辣で、今回の侵攻はイスラエルとアメリカが周到な準備を行い、周到なプロパガンダの下で展開されているという。

そう言われてみれば、「侵攻がまもなく始まる」と一報が流れ、CNNが中継をするとすぐにイスラエル側のスポークスマンが現れ、しかし、ガザの内部の様子はよく分からないという状態だった。

講演はその後、ガザをめぐる問題の詳細なクロノロジーになっていったので、私にはいまいちつかみきれないところがあったが、チョムスキーは2時間弱、立ったままよどみなく話し続けた。一緒に聞きに行ったY先生によれば、1960年代から彼の発言は日本でも影響力を持っていたという。本来の言語学から離れて政治的な発言を続ける彼のエネルギーはどこから出てくるのだろう。

科学政策とオバマ政権

連日、最低気温が摂氏で氷点下になっている。木々の葉はすっかり落ちた。雪はまだ降らず、空は真っ青で快晴になっていることが多い。

科学政策とオバマ政権:新大統領へのアドバイス」と題する講演会がMITで開かれた。メインのスピーカーはMITスクール・オブ・サイエンスの学部長Marc Kastnerで、司会は名誉教授のEugene Skolnikoffである。

スコルニコフは、私がMITで所属している研究所の何代か前の所長で、私は『国際政治と科学技術』(NTT出版、1995年)という本の翻訳に大学院生のときにかかわった(残念ながら絶版で、出版社のホームページからも消えている)。今まで会ったことはなかったが、すごい年寄りで、よく分からない英語を話す人というイメージがあった。実際は、まだかくしゃくとしていて、英語も分かりやすい。英語が分かりにくいというイメージは彼の文章のせいだろう。残念ながらスコルニコフは司会なので少ししか話さなかったが、実際に会うことができたのはうれしかった。

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スコルニコフは、アイゼンハワー(共和党)、ケネディ(民主党)、カーター(民主党)の各大統領の下で科学技術政策に関わってきた。オバマ政権で返り咲くことは年齢的に見てもないが、新大統領にアドバイスしようと思えばできる立場なのかもしれない。

メインスピーカーの話はやや物足りなかった。時間が短かったせいもあるだろうが、質疑応答では、核兵器はどうするのか、なぜ宇宙には触れないのか、といった質問も出た。情報通信技術への言及もない。主たる関心はエネルギーとライフ・サイエンスのようだった。確かにエネルギーは大統領選挙の争点だったし、MITも力を入れているので分からなくもないが、もっと広範に議論しても良かっただろう。

ヴァネヴァー・ブッシュ以来、MITは政府の研究開発において積極的な役割を果たしてきた。現在のブッシュ政権(ヴァネヴァー・ブッシュとジョージ・ブッシュは何の関係もないと思う)はヒトゲノムなどには関心を持っていたが(しかし、宗教的なしがらみもあった)、一般的には科学技術政策への関心は薄かったように思う。オバマ政権ができることで、少なくとも情報通信政策の関係者たちは大いに沸き立っている。昨今の経済悪化で、大学の収入も悪くなると予測されている。大学もヘッジファンドなどに大金を預けているからだ。MITにとっても、オバマ政権の動向は、研究資金源がどうなるかという点で関心があるに違いない。

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質疑応答の中でもうひとつ、へえっと思ったのは、予算配分の偏り。過去10年ぐらいを見ると、ライフ・サイエンスに突出して予算が割り当てられていたが、それもピークを越え、最近は落ちてきている。そのため、オーバードクターの増加問題はどうしたらいいのかと詰め寄る学生らしき人がいた。講演者の答えは、意訳すれば、研究バブルに踊らされるなということだったように思う。特定の分野がもてはやされても、学部・大学院と時間が経ち、トレーニングが終わる頃にポストが残っているとは限らないということだ。その通りだが、それだけの見通しを持って大学院に行ける人も多くはないだろう。

テキサス

先週の後半、テキサス州ヒューストンに行ってきた。正確にはそこから車で1時間半ぐらいのカレッジ・ステーションという町である。レンタカーを借りて片道4車線ほどあるフリーウェイを走り続ける。テキサスはまだまだ暖かくて気持ちがよい。気温は27度くらいあるらしいが、乾燥しているせいか、不快感はない。

途中、牧場が続く田舎道を通るのだが、道はナビに任せて(ようやくアメリカでもナビが普及してきた!)、ちらちらと横を見ていると、マケインとペイリンの名前が入った看板が目立つ。オバマ陣営の看板を出しているところは無かった。やはりブッシュ家の牙城なのだろう。

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カレッジ・ステーションには、その名の通り、テキサスA&G大学という大学がある。巨大な大学で、スポーツが盛んらしい。スタジアムやフィールドや体育館がずらっと並んでいて、車がないとキャンパス内も移動できないのではないかという感じだ。

このテキサスA&G大学のキャンパス内にパパ・ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュ)のライブラリーがある。すっかり私は大統領図書館のファンになっており、レーガン、クリントンに続いて三つ目である(もっと行きたいが、たぶんこれで打ち止め)。なぜこんなところに作ったのかと元大統領はよく聞かれるらしいが、展示の最初に見せられるビデオでは、「分からないと思うけど、この雰囲気が好きなんだ」と言っていた。

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アーカンソーのクリントン・ライブラリーでは、そこそこの資料は見つかったものの、大ヒットはついに出てこなかった。FOIA(情報自由法)請求はしてみたものの、まだ結果は来ない。私が調べているテーマは国家安全保障にも絡むので、ほとんどの文書が非公開になっている。

ブッシュ・ライブラリーにも事前にメールを送って問い合わせてあったが、「あまりないよ」というつれない返事だった。だから、それほど時間は必要ないだろうと短めの日程を組んでいた。

ヒューストンのホテルで朝寝坊したせいで、レンタカーを借りてカレッジ・ステーションに着いたのは昼過ぎだった。アーキビストも私のテーマを聞いて、気乗りしていないのがありありと分かる。失敗だったかなあという思いがよぎる。

結局、欲しいと思っていた大統領時代の文書はほとんど何も出てこなかった。しかし、「ブッシュ大統領は、CIA長官だったこともあるよね」とふと言ってみると、「その時代の資料なら少し公開されているわよ。見てみる?」というので、是非見たいと頼んだ。これが、私にとっては宝の山だった! その重要性に気づいたとき、手に汗がにじんでくるのが分かった。来た甲斐があった。

一日目の夜、テキサス・ビーフを食べようと、安っぽいステーキハウスに入った。大繁盛していて少し待たされたので観察してみると、店員がパリス・ヒルトンみたいな雰囲気の若い女性しかいないのが異常だった。ボストンなら体格の良い中年女性や男性もたくさん働いている。食事に来ている客を見ると白人ばかりだ。バーに座っていた黒人男性一人と私だけが、見える範囲で白人ではなかった。テキサスってこわいなあ。多様性を重んじるアメリカには思えない(ヒューストンのような大都市ではもちろん違うだろうけど)。こういう州が共和党政権を支えているのだろう。

二日目、閉館間際に展示も駆け足で見る。ブッシュ家はテキサスというイメージが強いけれども、パパ・ブッシュの父親(現大統領の祖父)はオハイオ州出身、母親はメイン州出身、自身はマサチューセッツ州で生まれている。テキサスとのつながりは、大学卒業後に石油ビジネスに身を投じてからだ。ブッシュがテキサスで政治の世界に進んだとき、今では想像も付かないが、テキサスは民主党が圧倒的に強かったらしい(共和党員は飲んだくれて選挙に行かなかったのだとブッシュは言っている)。息子のジョージ・W(現在の大統領)は父親がイェール在学中にコネチカット州で生まれているから、テキサスとブッシュ家のつながりは、新しいものだと分かる(息子も後にイェールに進学)。息子のブッシュ大統領が休暇を過ごしにテキサスの牧場に行くのも、州知事だったとはいえ、政治的なポーズなのかもしれない。

ライブラリーからヒューストンへ戻る際、金曜日の夕方の渋滞にはまってしまう。フリーウェイで車が動かなくなってしまった。ふと前の車の窓を見ると、オバマのステッカーが貼ってある。おおっと思ってよく見ると、「STOP OBAMA EXPRESS」と書いてあった。やっぱりアンチ・オバマらしい。ボストンではマケインのステッカーを貼っている人は見たことがない。やはり土地によってはっきりしているようだ。

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イラク復興計画

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研究所の定例ランチ・セミナーがあり、テーマはイラク復興だった。発表者はChristopher Kirchhoff(Lead Writer, SIGIR [Special Inspector General for Iraq Reconstruction])で、いつもより聴衆が多い。

軍と民間のそれぞれで多大な努力が払われているが、しかし、(1)行政権限が欠如している、(2)どんな復興が行われているかについてほとんどコンセンサスがない、(3)ネイション・ビルディンを実行する能力の制度化よりも、その理論の構築が重要である、というのが彼の結論。

発表中、Iraq Reconstruction 1.0から4.0までの発展を示した後、ひそかにブッシュ政権が計画の後退を始めていると示唆していた。やはりうまくいってないのかなあ。2003年5月(?)の大規模戦闘終結宣言で手を引くことができれば良かったのだろうが、やはり誤算だったのだろう。

しかし、ブッシュ大統領としては、華々しい成果が上がらない以上、退任までやり続けるしかない。退任後に新政権が何をしようとも、自分のせいではなく、新政権の対応が悪いと言えばすむ。経済がメチャクチャになりつつある中、争点としてのイラク戦争は相対的に小さくなりつつあるが、避けては通れない。いよいよ今週の金曜日、最初の候補者討論会が行われる。

変わるアメリカ、変わらぬアメリカ

私も参加していた研究会の成果発表シンポジウムが行われます。関西方面の方は是非ご参加ください(またしても私は参加できませんが)。登壇者はまちがいなくおもしろい人ばかりです。


サントリー文化財団「社会と思想に関する特別研究助成」成果発表

シンポジウム「変わるアメリカ、変わらぬアメリカ ―世界とアメリカ」

The symposium “Continuity and Change in America”

10月20日(月) 午後1時30分〜5時30分

大阪大学中之島センター「佐治敬三メモリアルホール」

拝 啓

 仲秋の候、益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

 さて、「文明論としてのアメリカ研究会」では、2006年から2008年にかけて、これまでのアメリカン・スタディーズの枠を超えて、歴史、文化、宗教、憲法、政治、経済、安全保障など各方面から、改めてアメリカという文明について考え、議論し、思索してまいりました。

 この度、本研究会の成果発表として、「変わるアメリカ、変わらぬアメリカ」をテーマに、大阪と東京でシンポジウムを開催する運びとなりました。日本にとってアメリカとは何か。世界にとってアメリカとは何か。そして、将来100年のスパンで見た場合、我々にとってアメリカはどういう意味を持つのか。本シンポジウムで、今後の日米関係の発展に資する、思想的・学問的・実務的な知的インフラを構築したいと考えております。

 つきましては、ご多忙のところ誠に恐縮に存じますが、世界の中でのアメリカを、普遍的な視点で考える大阪でのシンポジウムに、何卒ご出席を賜りますようお願い申し上げます。

敬 具

2008年9月

文明論としてのアメリカ研究会

代表 阿川尚之

財団法人サントリー文化財団

理事長 佐治信忠

主催:文明論としてのアメリカ研究会

共催:国立大学法人大阪大学(21世紀懐徳堂)

慶應義塾大学(慶應義塾創立150年記念)

財団法人サントリー文化財団 

後援:読売新聞社、中央公論新社

協賛:サントリー株式会社


シンポジウム「変わるアメリカ、変わらぬアメリカ ー世界とアメリカ」

The symposium “Continuity and Change in America”

*日時:2008年10月20日(月) 午後1時30分〜5時30分

*場所:大阪大学中之島センター10階「佐治敬三メモリアルホール」

大阪市北区中之島4-3-53(TEL 06-6444-2100)

*趣旨説明:午後1時35分〜

文明論としてのアメリカ研究会代表 阿川尚之(慶應義塾大学教授)

*基調講演:午後2時〜

白石 隆氏(政策研究大学院大学副学長)

「アジアの中のアメリカ」

谷内正太郎氏(外務省顧問、前外務事務次官)

「日本の外交戦略から見たアメリカ」

*パネルディスカッション:午後3時50分〜

池内 恵氏(国際日本文化研究センター准教授)

ロバート・D・エルドリッヂ氏(大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授)

細谷雄一氏(慶應義塾大学法学部准教授)

松田 誠氏(外務省大臣官房人事課企画官)

コーディネーター:待鳥聡史氏(京都大学大学院法学研究科教授)

*参加方法

お手数ですが、参加申込書(MS-Wordファイル)にご記入のうえ、10月14日(火)までに、FAXにてご返送ください。参加費は無料です。

*ご同伴者の参加について

ご同伴者の参加も歓迎いたします。

特に、アメリカ及び日米関係をご研究の方、あるいはこれらにご関心をお持ちの方に多数ご参加いただきたく、お知り合いの皆様に広くご紹介いただければ幸いです。

*お問合せ

 〒530-8204 大阪市北区堂島2-1-5 財団法人サントリー文化財団 / 担当:小島

 TEL :06-6342-6221 / FAX:06-6342-6220 / E-MAIL:sfnd@suntory-foundation.or.jp

プロフィール

阿川尚之(慶應義塾大学総合政策学部教授、文明論としてのアメリカ研究会代表)

1951年生まれ。ソニー株式会社勤務、米国及び日本での弁護士事務所勤務などを経て、99年より現職。専門は米国憲法史、日米関係史。2002年から2005年まで在米日本大使館の広報文化担当公使を務めた。『海の友情』、『憲法で読むアメリカ史』(吉野作造賞受賞)など著書多数。

白石 隆(政策研究大学院大学副学長、アジア経済研究所所長)

1950年生まれ。コーネル大学アジア研究学科・歴史学科教授、京都大学東南アジア研究センター教授などを経て、現職。専門は、インドネシア政治を中心とした東南アジア地域研究。『インドネシア』(サントリー学芸賞受賞)、『海の帝国 -アジアをどう考えるか』(吉野作造賞)など著書多数。

谷内正太郎(外務省顧問、早稲田大学客員教授、前外務事務次官)

1944年生まれ。在アメリカ日本大使館参事官、在ロス・アンジェルス日本領事館総領事、外務省条約局長、内閣官房副長官補などを経て2005年外務事務次官、2008年退官。事務次官として3年の任期を務め、「凛とした志の高い外交」を目指し、価値観外交、対北朝鮮政策における「対話と圧力」の基本方針などを策定し実行。

池内 恵(国際日本文化研究センター准教授)

1973年生まれ。日本貿易振興会アジア経済研究所研究員を経て、現職。専門は、社会思想を中心としたアラブ研究。著書に、『現代アラブの社会思想』(大佛次郎論壇賞)、『アラブ政治の今を読む』などがある。

ロバート・D・エルドリッヂ(大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授)

1968年生まれ。平和・安全保障研究所研究員などを経て、現職。専門は日本政治外交史、日米関係論。著書に『沖縄問題の起源』(アジア・太平洋賞、サントリー学芸賞)、『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』などがある。

細谷雄一(慶應義塾大学法学部准教授)

1971年生まれ。現在、在外研究のため、プリンストン大学客員研究員。専門は国際政治学・外交史。著書に『戦後国際秩序とイギリス外交』(サントリー学芸賞)、『外交による平和』、『大英帝国の外交官』などがある。

松田 誠(外務省大臣官房人事課企画官)

1965年生まれ。京都大学原子核工学科卒業、同大学経済学部経済学科卒業後、外務省入省。1993年オックスフォード大学卒業(哲学及び政治学専攻)。在米日本大使館勤務などを経て現職。

待鳥聡史(京都大学大学院法学研究科教授)

1971年生まれ。大阪大学大学院法学研究科助教授、京都大学大学院法学研究科助教授を経て、現職。専門は、比較政治・アメリカ政治。著書に『財政再建と民主主義』(アメリカ学会清水博賞)、『日本の地方政治』(共著)、『比較政治制度論』(共著)がある。

このまま秋に

先週の金曜日の昼過ぎ、研究所の同僚の一人が、「今度はロシアと戦争かな」とぼそっと言った。私は論文のデータ処理をずっとやっていたので何のことかよく分からなかったが、ロシアとグルジアに関する報道が始まっていた。アフガニスタンとイラクを抱えていてアメリカがすぐ参戦するとは考えられないが、今のうちからそういう可能性を考えておくのが東部エスタブリッシュメントの頭の中なのだろう。グルジアとアメリカは近年関係が密になっているので、戦争の可能性が全くないわけではない。

ちょうどその晩、オリンピックの開会式の録画がNBCで放送された。アメリカ時間だと金曜日の朝に行われたことになるが、朝のニュースではスタジアムの中は見せず、録画を午後7時半から夜12時まで流した。インターネット時代に録画放送はないだろうと思ったが、視聴率を稼ぐためには仕方ないのかな。

マスゲームを見ていたアナウンサーが驚いて「あごが落ちちゃう(jaw dropping)」と言っていたのには笑った。中国に秩序があるところを見せたかった中国の気持ちも分かるけど、アメリカ人は多様な個性を称賛するから、アメリカ人はたぶん違う受け止め方をしてしまったと思う。その辺の感覚のずれを感じるなあ。

この日、小島朋之先生の最後の著書が届いた。国分良成先生の巻頭言を読み、小島先生の圧倒的執筆量に改めて驚く。きっとオリンピックもごらんになりたかっただろうな。先月末の偲ぶ会に出席したかったが、諸事情あって東京には戻れなかった。今書いている論文が終わったらこの本を読もう。

小島朋之『和諧をめざす中国』(芦書房、2008年)。

ケンブリッジ(ボストン)は雨ばかり。気温も上がらず、このまま秋になってしまいそうだ。今日は冷房も止まり、薄手のコートを着ている人もいた。暑そうな北京とはずいぶんなちがいだ。

大西洋を見てくる

もうすぐ渡米4ヵ月になる。生活が軌道に乗ってしまうといろいろ忙しくなる。あっという間に一日が過ぎていく。夢中で時間が過ぎていくのは良いことなんだけど、もっとじっくり味わって時間を過ごしたい気もする。

先日、ふと丸一日空いている日があったので、車に乗ってポーツマスまで出かける。まずはポーツマスを少し通り過ぎて大西洋を見てくる。日差しは強いのに涼しい風が吹いていて心地よい。

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ポーツマスは言わずとしれた日露戦争の講和条約が結ばれたところである。先日ポーツマスを訪れたSさんとOさんがとても良かったと言っていた展示を見に行く。確かにここの展示は良くできている。いわば、政策過程分析を詳細にやっているのだ。国際交流基金日米センターの支援があったそうだが、良い仕事を支援しているなと関心。講話成立は両国政府代表団の努力だけでなく、米国政府やポーツマス市、ポーツマス住民の支援があって初めて可能だったのだということが分かる。

出口のところで売っている資料を物色しているうちに私は出口をふさいでしまっていた。アメリカ人のおじさんがやってきて、「ちょっと失礼」と言う。それも日本語。おじさんはそのまま出て行ってしまった。買い物が終わって外に出てトイレに行こうとすると、さっきのおじさんが出てきて、「左です」とまた日本語。話をしてみると、早稲田に留学したり、同志社で先生をしたりしたこともあるアメリカの大学の先生だった。コロンビア大学で日本政治の博士号をとり、今はバージニア州の大学で先生をしていて、専門はなんと公明党の政治。いやはや恐れ入ります。

情報自由法請求

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リトルロックに着いたのは月曜日の夜中、荷物がホテルに届いたのは水曜日の午後。その間、必要品を揃えようと思って街を歩いたけど何もない。ワシントンやボストンではいたるところにある薬局兼雑貨屋のCVSもない。ついでにボストンではうじゃうじゃあるダンキン・ドーナッツもない。南部は別の国だ。

リトルロックは州都なので行政都市である。大きくて無愛想なビルが並んでいるだけで、繁華街と言えるものが見あたらない。リバー・マーケットというアーカンソー川沿いのエリアが観光ガイドには書いてあるが、ちょっと物足りない。

ここに来た目的はクリントン・ライブラリー(William J. Clinton Presidential Library)での公文書探し。外交文書は公開まで30年かかるので、クリントン時代の外交文書公開はまだまだ先だ。そのためか、文書アーカイブは閑散としている。しかし、内政に関する文書は、差し支えなければ公開されている。また、情報自由法(FOIA:アメリカでは情報公開法を情報自由法と呼ぶ)で公開が決まったものも出てくる。恒例のエリア51ロズウェル事件についてはもう文書が公開されていた(好きな人がいるんだなあ)。

本当に欲しかった文書はまだ見つかっていないが、関連するものは見つかった。クリントン政権の中堅幹部だった人にワシントンでインタビューしたことがある。その人が教えてくれた会議の議事録が出てきて驚いた。文書には「sensitive」とスタンプが押されているが、非公開にはなっていない。外交にも少し関係する文書なのだが、そのままあっさり出てきた。閲覧室には私しかいないことが多いので、アーキビストが私の動きをじっと見ているのだが、良い文書が出てくると思わずにやりとしてしまう。

しかし、一番欲しい情報はどうも見つかりそうにない。アーキビストに相談したところ、FOIA請求してみてはどうかとのことだった。10年前にFOIAがデジタル対応したことについて調べて書いたことがある(『ネットワーク時代の合意形成』という本に入っている)。いよいよ自分でFOIA請求するとはと思うとちょっと興奮したが、手続きは実にあっさりしたものだった。紙一枚に連絡先と欲しい情報を書くだけ。出てくるといいなあ。最短で1ヵ月ぐらいは待たないといけない。

クリントン・ライブラリーに行こうと思っている人のためにちょっとアドバイス。上述の通り、外交・安全保障関連の情報、大統領自身についての情報はほぼ全く公開されていない。内政についての情報はだいぶ出ている(基本的にはホワイトハウスの補佐官たちが保有していた書類が中心)。福祉政策関係の情報はかなり出ているようだった。アポは必要ないものの、事前にコンタクトをもらった方がスムーズだとアーキビストは言っていた(せっかく行って何もないとつらい)。きちんと調べるテーマが決まっていないと追い返されると思う(簡単には入れない)。一番近いホテルはCourtyard Little Rock Downtown(521 President Clinton Avenue)。ここからなら歩いていける。ホテルの隣にあるFlying Fishのなまずのフライがおいしい。

今日の教訓:やってみれば意外に簡単なこともある。