子供たちに明日はない

教育批判をしたいわけではない。12月21日の日経夕刊一面左上の「今どきキッズ」という特集記事で、子供たちの放課後が習い事などで忙しくなってスケジュール帳を持ち歩くようになっているという話が紹介されている。それは大変だなあと思う一方で、千葉大学の明石要一教授の言葉が印象に残る。「本来、明日を忘れて夢中で遊ぶのが子供の特権」だという指摘だ。

確かに子供は明日のことを考えなくて良い。夏休みが終わるなんてこと考えずに私は遊びまくっていた。大人になるってことは、明日のこと、その先のことを考えるようになるということなんだろう。学生を見ていても、子供っぽいところが残っている学生は、翌日の授業や一週間後の課題のことを忘れて残留(SFC用語で学校に泊まること)している(いや、先が見通せなかったから残留しているというべきか)。

年内の授業が終わって解放感を感じるのは、明日の授業の準備をしなくちゃという重しがなくなったからだ。深夜まで読みたい本を読み続けて、多少寝坊しても問題なくなった。これは実にうれしい。

ところで、レバノンの知り合いから憤怒のメールが届いている。9月のザルツブルグ・グローバル・セミナーで会ったとき、レバノンの大統領になると言っていたが、冗談だと思っていた。しかし、彼からセミナーの参加者みんなにメールが届くようになり、まったく興味の無かったレバノン情勢に興味を持つようになってきている。Googleニュースで「レバノン」と検索してもらえば分かるように、大統領選挙がメチャクチャになっている。

彼自身の名前はニュースに全然出てこないので、たぶん泡沫候補なんではないかと思う。しかし、NYタイムズのニコラス・クリストフが支持を表明しているぐらいだから、全く注目されていないわけでもない。レバノンの子供たちは明日を考えているのだろうか。

1994年のジャック・バウアー

ドラマ『24』のパロディ。1994年はこんな感じでしたね。携帯電話もブロードバンドもないとジャック・バウアーは間抜けになってしまう。他の人が電話を使うとネットが切れてしまうなんて不便な時代でした。おまけに従量課金。逆に、今の状況も、何年か後には滑稽に見えるのでしょう。

http://www.collegehumor.com/video:1788161

学会

たぶん初めて三日連続で違う学会に参加した。本当は東北大学で開かれていた公共政策学会にも行きたかったけど断念。

土曜日は情報社会学会。午前中のセッション二つの司会。休八の学会タイマーに手伝ってもらったので、それほど大変ではない。それぞれ興味深い発表でいろいろ勉強になる。

日曜日はアメリカ学会。といっても津田塾の中山俊宏先生他のセッションだけ聞きに行く(出かけるときは大雨だったが帰りは晴れていた)。中山先生はさすがディープかつ詳細にアメリカ政治を追いかけている。たまたま私の後ろに座っていらした某有名な先生がコメント&質問で吠えていて少しびびる。立教大学はきれいでいいね。

月曜日は警察政策学会のシンポジウムのパネル・ディスカッションに招待参加。休講にしてしまって学生には申し訳ない。鶴木眞先生の基調講演の後、午後3時から6時まで、途中10分の休憩を挟んで長時間のパネル・ディスカッション。他のパネリストは現役の警察庁企画官、防衛研究所主任研究官で、コメンテーターは元警察庁長官。フロアで聞いている方々のほとんどは警察関係者とメディア。長時間でやたらと緊張度の高いパネル・ディスカッションに疲労困憊する。しかし、得たものも大きかった。

懇親会を早々に引き上げ、別の打ち合わせに参加。帰り際、シニアのTさんに「あなたの本は読んだけど、分かりやすすぎるね。そういうのが大事なのかもしれないけど」とのコメントをいただく。やはりそうですか。ううむ。

その後、数人で11時までスペイン料理屋でくだを巻く。アルコールは控えるが、疲れがどっと出てきた。帰宅しても疲れすぎて眠れない。明日の授業は大丈夫だろうか。

インテリジェンスの分析官による分析と学者による分析

私は2002年にアメリカから戻ってきたとき、インテリジェンス・コミュニティの研究をやろうと決意して、いろいろなところに書き散らしながらも遅々として本をまとめられずにいた。ようやくそれが何とか形になりそうで、がんばって作業をしている(はしかによる休講は、不謹慎だがうれしい)。

ある情勢分析の研究会でのこと、日本版NSC論議の裏で、情報機能強化検討会議というのも開かれていて、それについて少し話をした。

この研究会は大学や政府系研究機関などで地域研究などに携わる研究者たちの集まりで、それぞれ一家言を持っている人たちだ。質疑応答の際、ある人が、「民間と日本のインテリジェンス機関との間で相互交流をすれば質が上がるだろう、われわれのような連中が入っていくことで良い結果が生まれるだろう」と発言した。

確かに、米国ではそういうことも行われている。たとえば、ジョセフ・ナイが米国政府のNational Intelligence Councilの議長をしていたこともある。

しかし、一般論として言えば、これはうまくいかないと私は答えた。「ここにいる研究者や学者がインテリジェンスの分析をやってもまずうまくいかないだろう」とまで言ってしまった。この発言には一部の人たちが反発した。当然だろう。それぞれ北朝鮮や中国、ロシアなどの専門家である。常日頃、自分たちに政府の情勢分析をやらせろと思っているに違いない面々である。

それでもおそらく無理だろう。学者の分析とインテリジェンス機関の分析官の分析とでは責任の重みが違う。インテリジェンスの分析には人命が文字通りかかっている。分析に失敗すれば人命が失われる。

それに対し、学者の分析でそこまでの厳密さが求められることはまずない(情勢分析を間違えたからクビになった学者なんて聞いたことがない)。むしろ、分析としてのおもしろさ、鋭さに力点が置かれていることが多い。現実をいかに説明するか、それも統合的に整理しながら説明できるかに力が注がれている(前のエントリーで述べたことだ)。

しかし、現実の情勢はそれほどおもしろくないかもしれない。現実は時に複雑怪奇で、時にあっけないほど単純で説明がつかない。インテリジェンスの分析で求められているのは、おもしろいかどうかではなく、正確かどうかだ。それも、答えがないかもしれない問題に答えなくてはならない。おもしろおかしく無責任に答えるわけにはいかない。

学者は自分の学者としての名声・評判くらいしか最終的には求めるものがない。研究を追求して金銭的に儲かることはほとんどない。大学や研究所では、人事的な昇進もたかがしれている。仲間内での評判、世間での評価ぐらいしかモチベーションがない(他にあるとすれば単なる自己満足だ。まあ、私はこれに近いところがある)。そうすると、「う〜ん、なるほど」と人をうならせる分析に喜びを見いだしてしまう(人が多い)。

インテリジェンスの世界ではそんなものはない。誰もが無名で国家に奉仕している。米国の国家安全保障局(NSA)のモットーは「They Served in Silence」である。自分の分析によって国を守れるというところに喜びを見いだしている。マインドがあまりにも違う。

こんなことを考えていると、前回のエントリーで書いたようなことが私に起きたのは、ひょっとすると、現場でビジネスをやっている人たちにとっては、私の発言が軽すぎて気に入らないということなのではないか。分析力うんぬんの話ではなくて、「そんなに軽々しく言うなよ」という反発なのかもしれない。

つまり、「難解な物事をさらに難解に説明する」のが大事なのではなく、「難解な物事を簡単に、しかし、重々しく説明する」、これが大事なのかもしれない。

どうも私は苦労しているように見えないらしく、実年齢より若く見えるらしい(最近は年齢不詳とまで言われる)。同僚の一人は、眼鏡をかけないと学者らしく見えないからといって、コンタクトではなく眼鏡をわざわざかけている。もったいぶって理論武装しながら話すのは私は好きではないのだが(理論そのものは好きだけど)、そこら辺がポイントか。

とまあ、どうでもいいことをグズグズ考えるよりも、研究の原稿を書いた方がいいのでこれで終わり。

学者に求められていること

このエントリーは、一部の方には気に障る言い方があるかもしれませんが、ご容赦ください(このブログは検索エンジンになるべく引っかからないようにしているので、さほど読者はいないと思いますけど)。

***

大学院プロジェクトの課題図書なのでクリス・アンダーソンの『ロングテール』を読んでいる。ワイアードの元の論文は読んでいたし、まだロングテール論がそれほど話題になる前にアンダーソンの講演も聴いたことがある。しかし、こうやって一冊の本になって読み直すとやはりおもしろい。

読みながら、別のことを考え始めた。学者に求められていることだ。「ロングテール」というのは分かりやすいキーワードで、コンセプトもシンプルだ。シンプルなコンセプトで多くの事象を切れるところが理論的には優れている。しかし、シンプルであるが故にみんな分かった気になって軽視してしまうところがある。「ああ、またロングテールね」というわけだ。自分でも分かってしまうことを聞かされるとなぜかがっかりする人が多い。アンダーソンは編集者であって学者ではない。しかし、外国の「有名」な人という点では何となく「学者っぽい人」というイメージになっているのではないかと思う(しかし、アンダーソンが何者かということは話の本筋ではない)。

私はこれまで、書くときも話すときも、できるだけ分かりやすくしようと心がけてきた。意味不明の文章では出版しても仕方ないし、聞いている人が理解できない話をしても時間の無駄になるだけだろうと思ってきた。そのためには少々誇張した言い方や、単純化した言い方もしてきた。

しかし、それは学者に求められていることではないということがだんだん分かってきた。というのは、上記のような書き方、言い方をすると腹を立てる人がたまにいるのだ。つい先日、私がしたコメントに対して「ずいぶん乱暴な言い方でつまらない。もっと本質を議論するべきだ」とコメントしたビジネスマンがいた。私が「では本質はどこにあると思うのか」と質問すると、「私より経済学や専門のことが分かっている人が集まっているのだから、もっと議論すべきだ」というのが彼の答えだった(私が経済学者ではないということを知らないのだと思うし、まして私が何を研究しているのかも知らないで彼はコメントしたのだろう)。自分で答えを持っていて批判するのではなく、おそらくは自分が理解できてしまうことを、学者と呼ばれている人が話しているのが気に入らないのだろう。

こういう経験はこれまでも何度となくあった。学者相手だと、議論をシンプルにして原則論で戦おうという雰囲気になるが、学者ではない人は(まだ仮説の段階だが)難しくて高尚な話を聞きたがる。パネル討論の司会を任されたとき、議論を絞ってシンプルなフレームワークを設定したのだが、パネルの最後になってパネリストの企業役員が、物事はそんなに単純じゃないと一言けちを付けて帰っていったことがある。

実業界から学界に移ってきた人は二つのパターンに分かれる。第一に「自分は学者ではない」と開き直って自分の経験してきたことを再生しながらやりすごそうとする人。第二に、やたらと「学者とは」「学問とは」ということにこだわって生きていこうとする人だ。端から見ていてそんなにこだわらなくてもあなたは十分学者ですよといいたくなるほど思い詰めて研究する人もいる。何か自分の知らない学問奥義があるに違いない、それを知りたいと息巻くのだ。

文章についても同じことが言える。難解なものほど読み甲斐があるのだ。解釈の余地が大きいほどおもしろいとされる。私の原稿についていえば、分かりやすく書いてあるものほど評判が悪い(ただ単に私の原稿がおもしろくないというだけなら話は別ですけどね)。自分で読んでも難解なものほど引用されることが多い。「本当に分かっているのかな」と不思議になる。

つまり、私の今のところの作業仮説はこうだ。「人は分かってしまうほど不満になる。理解できないことにこそ知的喜びを見出す。」学者には分からない話をして欲しいのだ。難解な古典が読み継がれているのも同じ理由だ。ほとんどの人が挫折してしまうような難解な本でも、それが古典とされるとすばらしいものに思える。自分が理解しているかどうかは実は関係ない。

そうすると、学者に求められていることとは、物事をシンプルに説明する仮説や理論を提示することではなく、難解な物事をさらに難解に説明する理論を提示することなのかもしれない。難解な議論で煙に巻いてしまう方が学者の行動としては正しいのかもしれない。なるべく分かりやすく、(できればユーモアも交えようと努力しながら)議論しようとしてきた私の努力は、世の中が求めているものと違っていたのかもしれない(ただし、アメリカでは私のやり方はおそらく間違っていない。他の日本人の話が相対的に退屈なせいもあると思うが、シンプルなアイデアで本筋を話した方が活発で有益な議論につながる)。

この仮説を検証してみたい誘惑に少し駆られている。授業ではあまりやらない方がいいような気がするが、これからしばらく、学会パネルの司会、学会発表、ビジネスマンの前での講演などが続く。どうしようかなあ……。

(しかし、私の仮説が正しければ、このエントリー自体も批判を受けることになるはずだ。単純な仮説で説明しようとしているからだ。「バカにするな」とか「それはお前の問題だ」とか、そんな感じかな。まあいいや。)

ドクター・フィッシュ

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先週、シンガポールで魚に足をついばまれる。ドクター・フィッシュと呼ばれているそうで、足がつるつるに。世の中には不思議なものがいるもんだ。

春休み

20070205yugawara研究会(ゼミ)合宿と採点を終え、ようやく苦しい時期を切り抜けた(写真は帰りに真鶴半島で撮ったもの)。秋学期の採点量は春学期よりはるかに少ないけど、手抜きはできない。卒論の数もこれまでで最も多かった。しかし、自分が学生だった頃は同期のゼミ生が20人以上いたから、先生はもっと大変だったに違いない。

今日は、春から九州の大学に赴任する旧友の送別会。旧友と馬鹿話ができるのは良い気分転換になる(N夫妻のイタリア仕込みの料理も最高だった)。彼のゼミが軌道に乗ったら合宿はぜひ九州でやりたい。それぞれの分野は全然違うけど、それもまた楽しいだろう。頑張って欲しいなあ。

ようやく春休みに入ったが、もうすぐ入試シーズンだ。志願者が増えた。オープンキャンパスやら模擬講義やら出前講義やらをやった甲斐があった。出て行く学生に負けない、おもしろい学生に入ってきて欲しい。

箱根駅伝

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箱根駅伝を沿道観戦。写真は順大のアンカー。長い時間待っているのにランナーはあっという間に走り去ってしまう。速い。

我が校が出るのはいつのことやら。

スター・プレーヤーの中途採用は危険である

ボリス・グロイスバーグ、アシシェ・ナンダ、ニティン・ノーリア「スター・プレーヤーの中途採用は危険である」『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2004年10月号、135〜148ページ。

二年前の記事だが、たまたま読んでおもしろかった。金融アナリスト1052人の調査の結果、スター・プレーヤーが引き抜きにあって移籍すると、たいていはパフォーマンスが落ちてしまうという。

スター・プレーヤーは、個人の能力の要素も大きいものの、組織やチームワークによってもそのパフォーマンスは大きな影響を受けている。元の実力が移籍先で簡単に出せるわけではない。高額の報酬で入ってくるスター・プレーヤーを元からいる人たちがよく思わないことも多い。組織になじむのに二、三年かかるし、一度移籍した人はまた移籍しやすくなるともいう。

プロ野球を見ていてもそうだし、大学でも当てはまる気がする。

筆者たちの結論は、忠誠心の高い生え抜きのスター・プレーヤーを育てるべきだというもの。

組織は人事。難しい(私は人事に一切関わっていない。念のため)。

プリンストン大学

プリンストン大学を訪問。アインシュタインジョン・ナッシュがいたところ。村上春樹江藤淳も滞在したことがある。

国際関係論でいえば、ウッドロー・ウイルソン大統領がかつて学長を務めていた。写真はWoodrow Wilson School of Public and International Affairsの外観。

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下は、ウイルソンが学長時代に使っていた部屋(二階)だそうだ。

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今、一番の有名教授といえば、経済学のポール・クルーグマンだろうか。国際政治学だとG・ジョン・アイケンベリーがいる。それから、ファカルティの写真を見ていて気がついたのだけど、ロバート・コヘインがデューク大学から移籍してきている。おもしろそうなところだ。

残念なのは、プリンストンにはロー・スクールがないこと。学部教育が重視されており、大学院は、エンジニアリング、アーツ(建築)、公共・国際問題(ウイルソン・スクール)の三つしかないそうだ。ロー・スクールがないとネットのことを論じる人が少なくなる(アメリカではネット問題を論じる人の中で法律家の割合が非常に高い)。

いろいろ話を聞きながら、SFCと比較してみておもしろかった。プリンストンでは(まだ?)一般教養の必修授業があり、二年生が終わるまで自分の専門を決める必要がない。SFCはいきなり一年生から専門科目が学べるので早熟教育になっている(学部の四年生になると学会発表までやってしまう)。プリンストンでは97%がキャンパス内の寮に住んでいるが、SFCには寮がない。大学といってもいろいろなスタイルがあるものだ。

こちらの新聞を読んでいると、ローレンス・サマーズ学長を追い出したハーバード大学関係の記事が目に付く。3月4日付けのOP-ED欄には、John Tierney氏が「Free Harvard! (Or Not)」(有料)というコラムを書いている。大学教授はテニュア(終身在職権)こちらも参照)で守られているため、人事権を持たない学長(や学部長)が改革を実行できず、大学はいつまでたっても旧態依然としているというわけだ。テニュアを正当化する理由の一つは、テニュアが無くなると、自分のポジションを危うくするような優秀な若い研究者を既存の教授たちが採用しなくなり、大学自体のレベルが下がるというものだ。それは一理あるだろう。コラムでは、結局のところ教授たちに変革を促すのは冷笑しかないという。教授たちのプライドを傷つけるというわけだ。

ついでにいうと、大学というところは、採用するにあたっては研究が重視され、採用されると教育が義務になるというおかしなシステムになっている。素晴らしい教育者であっても研究業績がないと採用されない。素晴らしい研究をする人は素晴らしい教育もできるに違いないという前提で成り立っている。しかし、現実には必ずしもそうではない。まして、テニュアを取ってしまうと、頑張るインセンティブが極端に減る。特に日本の場合は頑張っても給料が増えることはまずない。アメリカの場合は、高額の移籍金と好待遇によって引き抜きがあることはある。しかし、現状に満足している人は、何もしないで過ごすこともできる。

ハーバードはどうなるのか、日本の大学はどうなるのか。

【追記】

明日、アカデミー賞ということで、テレビで『ビューティフル・マインド』が放映されていた。調べてみると、まだジョン・ナッシュはプリンストンで研究している。

http://www.math.princeton.edu/directory/

http://www.math.princeton.edu/jfnj/

懐の広い大学だ。下記にはナッシュの短い自伝が出ている。

http://nobelprize.org/economics/laureates/1994/nash-autobio.html

吹雪で立ち往生

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午前10時、レンタカーでNYを出る頃には雪がちらつき始める。イェール大学に着く頃には吹雪。さらさらの雪なので、はたけば落ちるが、傘を差していても体中が真っ白になる。アメリカ人はやっぱり傘を差さない人たちだね。

歴史学部を訪問して、その威厳に打たれる。教授会の部屋は古めかしくてうなってしまう。

雪の勢いが増すばかりなので急いで退散するも、目的地までたどり着かない。ハンドルは取られ、前が見えず、道路標示もよく分からない。日没間近で断念し、ハイウェイ沿いのホテルに飛び込む。幸い、部屋が空いていて助かった。おまけに無料でブロードバンドもある。ビジネス・センターで無料で印刷もできる。今日はここで締め切りを過ぎた原稿を仕上げる。すみません、E編集長。

無事仕事終了

Japan Societyでのパネル・ディスカッションを無事終える。直前に話す内容を変えたのが功を奏して好評だった(ジョークも受けて良かった)。

MITのIan Condryは秋にHip Hop Japanという本を出すそうだ。彼のお気に入りは、サムライ・チャンプルーというアニメ番組。アメリカの若い人たちが勝手に字幕をつけているらしい。これを「fan subbing:ファンがサブタイトル(字幕)を付ける」というそうだ(ちなみにKappa Mikeyのことは知らなかった)。

Gross National Coolで有名になったDouglas McGrayは、なんと今は刑務所の取材をしているらしい。日本研究をしたのも偶然だったとか。

ハーバードのKostas Terzidisが、クリエイティブな人々は言語以外の方法でコミュニケーションできるといっていたのも印象的だった。

日本のクリエイティビティがテーマだったけど、日本のとらえ方が確実に変わってきているというのを実感できた。いろいろな出会いがあっていい一日だった。

確定申告何とかならんかなあ

ブログで悪口や愚痴を書くのはどうかと思うのだけど、「私は頭が悪いなあ」と毎年屈辱感を与えてくれるのが確定申告。意味不明の言葉と理解不能な計算式に腹が立つ。書類を整えたり、計算したりでえらく時間がかかる。以前kk氏はフォームにしたがって計算するだけだよと言っていたけど、どうも私はそうできない。税金払いたくないわけではないので、もっと簡単にならんのかなと思う。税理士雇うほど稼いでもいない(粉飾できる人っていうのは頭がいいのだろうか。やっぱり面倒なんだろうか)。

たいていこういう時は、「アメリカでは……」なんて話をするのが筋なのだろうけど、アメリカで確定申告やったときはもっとひどかった。アメリカではSSN(社会保険番号)持っている人は全員確定申告をしなくてはいけないらしい。会社が天引きして代行してくれるわけではないから自分で全部やる。だから税金に対する意識が高いという説もある。しかし、確定申告のフォームの内容がまったく理解できなかった。仕方がないので、ウェブで誰かが「こう書けばいい」と解説しているのを信じて写して書いた。「日米租税条約の何条で免除されているので何とかかんとか」とか書くのだけど、あれで正しかったのか今もって自信がない。

日本でも電子申告ができるようになりつつあるけど、源泉徴収票などの紙書類を電子的にやりとりできないと意味がない。無税国家にせよとは言わないし、きちんと払うので、もっとフレンドリーにして欲しいなあ。私の場合は原稿料なんかがあるので確定申告しているのだが、株取引やる人が増えると確定申告する人が増えるはず。フレンドリーにしたほうが政府にも国民にもプラスだと思うのだけどなあ。

Delicious Library

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同僚の内藤さんから教えてもらった「Delicious Library」を使うためにiSightを買った。今までiSightに興味はなかったけど、このソフトウェアはおもしろい。

このソフトウェアからiSightのカメラを起動すると、横に線が走っている。ここに本やCDのバーコードをかざすと、それを認識し、アマゾンから詳しいデータを自動でダウンロード、それをライブラリにしてくれるというわけだ。ソフトウェアは英語だけど、日本語の本にも対応している。

スキャンにはコツがいるけど、慣れれば速くできるようになりそうだ。これで蔵書整理がはかどるかもしれない。貸し出しにも対応しているところがにくい。

さらには、ライブラリを共有することもできる。テキストファイルで吐き出して、それを自分のDelicious Libraryで読み込めばいい。画像はソフトウェアが自動でダウンロードしてくる。ちなみに今日私がためたライブラリはこのテキストファイルに入っている。他人と蔵書情報の共有ができるというのはiPodのプレイリストの共有みたいだ。

今のところはマックだけみたいだが、SFCのCNSも来年あたりからインテルマックが入るらしいから、広く使われるようになるかもしれない。

シンガポール

同僚のKさんと一緒にシンガポールに来ている。遊びではないのだけど、楽しい部分だけ報告。しかし、ホテルにブロードバンドが、下りはそこそこのスピードだが、上りが遅いので、小さな写真を少しだけ。

朝ご飯はホテルの近くのモールで食べた焼きそば。上に乗っている湯葉の味がしない。

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昼ご飯は後輩のNさん(こちらで数か月の調査中)が連れて行ってくれたチャイナ・タウン近くの屋台でチキン・ライス。残念ながら文東記と並んでおいしいという店は大人気で売り切れ、昼過ぎに行ったらすでに閉店していた。残念。写真は別の店のチキン・ライスだが、おいしかった。店によって少しずつ味が違う。

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いろいろ見て歩くうちに見つけた店のショーウインドー。やっぱりこういうのが人気か! 

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IT関連のショップがぎっちり詰まったビル。品揃えは豊富で素晴らしい。マックもある。しかし、安くないので、何も買わない。

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夕飯はOさんがメールで教えてくれたRendezvous Restaurantでカレーなど。豪華なレストランではないけど、とてもうまかった。Oさん、ありがとう。

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シンガポールは来るたびにいいところだなと思う。東京の24番目の区だといわれるのも納得する。街を歩いているとしょっちゅう日本語が聞こえてくるが、だいぶ日本人は溶け込んでいる。私も普通にしているとお店で中国語で話しかけられる。

S. Jayakumar, “People, Principles, Policies: Why Singapore Succeeds,” The Straits Times, February 13, 2006, p. 21.

この新聞記事によると、シンガポールの成功は、原理、政策、人材ということになる。シンガポールは国土が小さいことが弱みだと考えられてきたが、国家よりも都市が重要だという視点に立てば、まちがいなく成功例の一つだ。

ついにやった

大学の教員をやっていて一番いやな季節がまたやってきた。採点だ。何の因果で学生の格付けをやらなくてはいけないのかと嫌になる。そもそも履修者全員が素晴らしい答案やレポートを出してくれれば文句はないのだが、そうでもないのがたくさん出てくると、「おまえの教え方が下手くそだ」と言われている気がする。もっともだ。

それでも締め切りまでに採点はやらなくてはいけないので、ここ数日必死にやっているのだが、ついに昨晩、出席するはずの研究会のことを完全に忘れてしまった。気づいたのは今日の午後。まっずいなあ。すみません。居眠りしていたわけではないので許してください。

全然関係ないけど、気分転換に読んだニュース記事で、「いわゆる『ショベルカー攻撃』のほうが実際に起きる可能性は高く、『コード・レッド』をはじめとする、これまでに起きたいかなるサイバー攻撃よりもその地域に与える影響は大きいはずだ」という話には笑った。全くその通り。サイバー攻撃だといっても、物理インフラを攻撃できるのならそれが一番手っとり早い。

正月

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おととい、新年会の道すがら、浅草寺でお参り。トシノスケさんの酔っぱらいぶりが楽しかった。

昨日は歌舞伎座で坂田藤十郎の襲名披露公演を見る。歌舞伎に詳しいわけではないが、イヤホンガイド聞きながら観るとよく分かる。小泉首相が観劇した際にもイヤホンガイドを使っていたそうだ。「夕霧名残の正月」で悪役をやった吉右衛門や「曽根崎心中」で悪役をやった橋之助が素人には印象に残った。この写真を撮っていたら目の前に立命館大学のO先生が立っていてびっくりした。

それにしても坂田藤十郎を襲名したのは二百数十年ぶりとのことだけど、なぜそれまで誰も継がなかったのだろう。

帰りに松坂屋で「古九谷浪漫 華麗なる吉田屋展」を見る。吉田屋というのは知らなかったけど、古九谷を一時的に復興させたらしい。私のお気に入りは、「海老図平鉢」だ(実際はもう少し明るい色に見えた)。古九谷はそもそも誰が注文して作られたのかよく分からないらしい。吉田屋は技術を取り戻したのに、復興させた伝右衛門が死んでしまうとマネージメントができなくなり、7年で廃窯になってしまった。現代にも通用する話だ。技術だけじゃダメ。マネージメントも重要。

もうすぐ正月休みも終わり。今年は比較的ゆっくりできて良かった。一年通してこれぐらい余裕があるといいのに。

今年一年

卒論のドラフトが全員出てきた。ちょっと遅刻はあったけどまずは順調。

自分の原稿もここ数日でだいぶ進んだ。これで年明けにMさんと顔を合わせることができそうだ。

といっている間に大晦日になっていた。今年はどういう年だったかというと、前半は比較的のんびりしていた気がする。3月に初めて上海に行った。4月にもう一度上海に行って転んで捻挫をしたのがけっこう響いた。夏休みは研究会合宿をして、呉で潜水艦に乗っただけで終わった気がする。その後、世界一周をして帰ってきて、立命館大学で授業をしている頃から目が回るほど忙しくなり、秋学期の授業は実にきつかった。会議と合宿もやたらと多かった。毎週のように続いたイベントが終わってほっとしたら12月になっていた。達成感がやや薄い。右のカテゴリーの「著作」をクリックしてみると、コラムとか共著で書いているものばかり。まじめな論文がない(書いているのに闇に葬り去られる)。まずい。

来年はゆとりをもって、じっくりと行きたいが、そうもいかないか。2月、3月、5月に海外出張の予定あり。やはり時間との戦いか。

皆様、お世話になりました。前にも書きましたが、喪中なので年賀状書いてません。すみません。

楽しみの経済学

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昨日は夕景がきれいだった。

戻ってきたiMacのiTunesにCDを次々つっこみながら、三田の古本屋・清水書店の軒先でホコリかぶっていた堺屋太一著『イベント・オリエンテッド・ポリシー—楽しみの経済学—』(NGS、1984年)を読む。20年前の大阪21世紀計画の協賛出版となっていて、町おこし盛り上げ本かと思ったが、かなりおもしろい。日本の都市にはなぜ城壁がなかったか、フランスにはなぜルイ王朝の頃までトイレがなかったか、窓の少ないビルがなぜ建築されるようになったか、という雑学ネタもさることながら、万博などのイベントの重要性も分かる。

マーシャル・マクルーハンの理論が信用されなくなったのは大阪万博のせいだったそうだ。マクルーハン理論ではテレビのような「送達型情報メディア」の台頭によってイベントには人が集まらなくなるはずだったが、モントリオール万博や大阪万博ではマクルーハン理論に乗っかったスタンフォード・インスティチュートの予測がまったくはずれた。イベントとは「集人型情報メディア」であり、この重要性はテレビ(やこの時代には普及していなかったインターネット)が登場しても変わらない。

この議論はリチャード・フロリダのクリエイティブ都市論と同じだ。イベントをやり、楽しみがあふれた街作りをすることで経済も潤う。あれだけ開催前に批判されていた愛知万博が大成功を収めた理由もよく分かる。

堺屋さんはイベント学会というところの会長もしているらしい。

ブレイクス惜敗

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タッチフット初観戦。慶應対聖和大学。アメフトやラグビーのようにタックルで相手を倒すのではなく、両手でタッチすると止めたことになるからタッチフット。ルールはよく分からないけど、陣取り合戦みたいなもので、アメフトのようにタッチダウンすればいい。

試合は先行されつつも一時は同点に追いつく。第4クオーターで、あと一息で得点が入らなかったのが何とも悔やまれる。結果は14対28のダブルスコアだけど、あそこでタッチダウンが奪えていれば試合は分からなかったはず。それにしても、対戦成績は12敗2引き分けになってしまったそうだ。来年こそは初勝利だ。

冨田学部長が、ブレイクスの部長としてグランドに立っていた姿がけっこう格好良かった。それにしても寒かったよ。塾歌が歌えなくなっていたのもまずい。iTunesに塾歌を入れておこう。