やわらかな心をもつ

たまった新聞を読んでいたら、12月20日の日経夕刊で梅田望夫さんが、小澤征爾、広中平祐、プロデューサー萩元晴彦『やわらかな心をもつ—ぼくたちふたりの運・鈍・根—』(新潮文庫)を紹介していた。梅田さんが海外で生活して早起きして勉強するきっかけになったという本だ。

近所の本屋に行ったら、小澤征爾『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)も隣にあったのでついでに買ってきた。『やわらかな心をもつ』を読み始めたら、最初のところに『ボクの音楽武者修行』の紹介が出てきたので、『ボクの音楽武者修行』を先に読み始める。

小澤征爾さんの音楽は数年前にベルリンで聞く機会があったきりで、大した予備知識はないのだけど、その成功物語に驚く。最初にヨーロッパに行ったときは、スクーターとともに貨物船に乗って、60日かけて船旅をし、フランスをスクーターで旅してパリにたどり着いた。しばらく語学などを勉強して、ブザンソンというところで開かれた指揮者のコンクールで優勝してしまう。

それからヨーロッパとアメリカで修行が続き、日本に凱旋するところまでの話が、当時の手紙とともに語られている。日本にいたときには決して恵まれた環境ではなかったようだけど、留学して言葉の壁をあっさり乗り越えて成功してしまっている。音楽というユニバーサルなものだからこそできるのかもしれないけど(しかし、そうはいってもクラシック音楽はヨーロッパ色が強いはずだ)、見事なものだ。

『やわらかな心をもつ』は、数学者の広中平祐との対談。二人の全く違うタイプの天才が語り合っている。私も大学院生の時、副題にもなっている「うん・どん・こん」という言葉については聞かされた。学者になろうという人には大事な言葉だと思う。この本が語源なのかと思ったら、そうでもないようだ。

数学の世界は、割と正解がはっきりした問題ばかりをやっているのかと思っていた。しかし、先日、昼飯を食いながら同僚の数学者と話していたら(数学者と気軽に話せるのがSFCのすばらしいところだ)、数学の世界でも社会と同じようにどんどん新しい問題が生まれてきていて、それに対するアプローチは一つではないという。広中さんの話を読んでいてもやはりそうなのだと確認する。

二人はどうやら天才のタイプが違う。小澤さんは集中力がずば抜けているらしい。朝3時か4時に起きて一気に譜面の勉強をする。その分、演奏会の後は音楽のことはけろっと忘れてお酒を飲んで寝てしまう。広中さんは考え続けることができるらしい。数学の問題は解くのに数年かかることもある。努力し続けることができる(あるいは努力を努力と思わない)のが天才の条件なのだろう。小澤さんは若いうちに嫉妬心を殺すことを覚え、広中さんは元来「鈍い」のだそうだ。この辺も実は重要な点だろうなあという気がする。他人と自分を比べていたらきりがない。

音楽家、学者、そして教育者としての話、それにアメリカ生活の話もとてもおもしろい。音楽や数学を専門としていなくても楽しく読める本だ。

天才にはほど遠い私も一時期はずっと早起きをしていたのだけど、最近は諸般の事情があって諦めて、普通の時間に寝て普通の時間に起きている。相変わらず夜のつきあいはあまりしないので体調は少し良くなった気がする。しかし、問題は生産性が上がっているか、下がっているかだ。もう少し見定める時間が必要だ。

人脈づくりの科学

安田雪『人脈づくりの科学』日本経済新聞社、2004年。

著者はネットワーク分析の第一人者。お目にかかったことはないが、本書の中のご本人の弁によれば、人見知りをされる方のようだ。だから、前半の書きっぷりは控えめなのだが、後半になるとおもしろい。自分の人間関係を見つめ直そうかという気になる。どうやら堅固なネットワークよりも、緩いネットワークのほうがいいらしい。どうにもならなくなったネットワークの壊し方まで書いてある。

人間の終わり

フランシス・フクヤマ『人間の終わり—バイオテクノロジーはなぜ危険か—』ダイヤモンド社、2002年。

金曜日から一泊で慶應の鶴岡タウンキャンパスへ行ってくる。慶應のバイオ研究の拠点だ。一度行ってみたかったのだが、バイオのことはあまり分からないので、この本を読む。

フクヤマは、冷戦が終わりかけた1989年に「歴史の終わり?」と題する論文を書いて大騒ぎを起こした。リベラルな民主主義が勝利し、体制間論争が終わったという点で歴史が終わったと指摘したのだ。これはたくさんの議論を呼び起こした。

この拙稿に対する多くの批評を通じて考えさせられたが、唯一反論できないと思ったのは、科学の終わりがない限り、歴史も終わるはずがない、ということだった。(iページ)

というわけで書かれたのがこの本である。冷戦後の世界をポスト冷戦というが、フクヤマは、バイオが社会に浸透することによって、人間の時代が終わり、ポストヒューマンの世界が来るという。

本書の目的は、[『素晴らしき新世界』を書いた]ハックスリーが正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、我々が歴史上「人間後」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(9ページ)

バイオテクノロジーは、将来大きな利益をもたらす可能性がある反面で、物理的に見えやすい脅威、あるいは精神的で見えにくい脅威を伴う。これに対して、我々はどうすべきなのか。答えは明白である——国家の権力を用いて、それを規制するべきだ。(13ページ)

飛行機でこれを読みながら、どんな恐ろしいことが起きているのかと思って、庄内空港に到着。

Kurage01

朝一番早いフライトにしたので、午前中は世界で一番クラゲの種類を集めているという加茂水族館へ。規模はそれほど大きくないが、クラゲだけは多い。クラゲには脳も心臓も血液もない。生物だから遺伝子は持っているが、意識はないわけだ。水槽の中で傘を閉じたり開いたりしながら浮遊している。ヒトも生物だが、クラゲも生物だ。クラゲアイス(刻んだクラゲが入っている)を食べながら、あらためて生物とは何かを考えるが、当然結論は出ない。バスに揺られて鶴岡へ(しかし、この水族館は、車がないとアクセスが悪い。バス停は遠くて、数が少ないので要注意。山形は車社会だ)。

鶴岡キャンパスのの施設はいくつかに分かれていて(行くまで知らなかった)、大きく分けるとキャンパスセンターとバイオラボ棟に分かれている(ここを参照)。両者は2キロぐらい離れていて、前者は市内中心部のお堀端、後者は田んぼの中。

バイオラボで施設見学をしたり、院生や教員の話を聞いたりする。ここでの研究の中心はメタボロームである。生物の細胞の中は、genome<transcriptome<protenome<metabolomeというようにレベル分けがされる。それぞれの細胞には600〜4万ぐらいの代謝物質というのがあり、メタボローム研究というのは、この代謝物質が何なのか、これがどんな病気と関係しているのか、というのを研究するものらしい。鶴岡にある先端生命科学研究所は、この分野で世界のトップだという。

メタボロームという言葉自体は新しくはないそうだが、最近ではメタボリック・シンドロームという言葉がバブル気味に使われている(ウエスト・サイズが問題だという話だ)。メタボロームの研究を始めたときは、センスが悪いといわれたそうだが、新しい電気泳動の装置を開発することによってブレークスルーが起きた(数年前アメリカで聞いたとき[この文章の後半のフォーマットが崩れているなあ]にはゲル電気泳動と言っていたが、それより進化しているらしい)。

話を聞きながら、『人間の終わり』とは違って、実にドライで、ビジネス・オリエンティッド(特許や創薬の話が絡むので)だと思った。フクヤマのような悲観論ではなく、科学が病気を治すことができるという信念に基づく楽観論である。ヒトはこのままどんどん変わっていくのだろうか。

それにしても、研究環境としては鶴岡キャンパスはすばらしい。ご飯はうまいし、四季折々を楽しめる。車社会だから若干渋滞はあるみたいだが、通勤地獄はない。SFCへの交通アクセスと比較すると何ともうらやましい。

知的生産者たちの現場

藤本ますみ『知的生産者たちの現場』講談社文庫、1987年。

古本屋でたまたま見つける。筆者は京都大学時代の梅棹忠夫先生の秘書。秘書に雇われた経緯から、国立民族学博物館の開設に伴う京大研究室閉鎖までの時代について書いてある。

低血圧であること、先生がお酒好きなこと、それをだしにしているかどうかは知らないけれど、原稿がなかなかできあがらず、いつも締め切りにおくれること、それで編集のかたがご苦労なさること、どれもみなほんとうのことである。(97ページ)

『知的生産の技術』の番外編みたいで興味深い。梅棹先生が実は遅筆だったと知って驚く。一週間も編集者が見張っていたのに原稿が書けなかったエピソードも紹介されている。あんなにおもしろい著作がたくさんあるのに不思議な感じだ。

それにしても、アイデア・ハックの先駆者だなあ。

膨張中国

読売新聞中国取材団『膨張中国—新ナショナリズムと歪んだ成長—』中公新書、2006年。

 中国側は靖国問題にひときわ神経をとがらし、[二〇〇五年]八月十五日を見据えていた。なぜ、こうまで靖国神社にこだわり続けていたのか。
 七月末、南部の広東省で会った党内事情に詳しい関係者が、ようやく答えを与えてくれた。彼は声をひそめながら、「カギは四月の反日デモだ。実は、あの時、政権は追い詰められていた」と口を開いた。

新聞連載時から時々読んでいた。まとめて読み直すとやはりおもしろい。迫力がある。

「みんなの意見」は案外正しい

ジェームズ・スロウィッキー(小高尚子訳)『「みんなの意見」は案外正しい』角川書店、2006年。

富士通総研の吉田倫子さんに原書の時から薦めてもらっていたが、翻訳が出るまでほったらかしにしていて、ようやく読んだ。おもしろかった。原書のタイトル『The Wisdom of Crowds』は、チャールズ・マッケイの『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds(狂気とバブル)』のオマージュなんだそうだ。

正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる。一度も誤った判断を下すことがない人などいないのだから、これは嬉しい知らせだ。(9〜10ページ)

確かにうれしい知らせだ。

一〇〇年の間にはどんなに賢い人でもおバカな発言をすることがあるので、彼らの見当違いの予測を珍しい例外と見做すこともできる。だが、専門家たちの悲惨な業績の記録はとても例外的とは思えない。(51ページ)

これはうれしくはないが、たぶんその通りだ。専門家(研究者)は、常識とは違う説明を追い求めている。常識通りの研究の価値は低いからだ。今までと違うからこそ研究の意義がある。

マスコミにコメントを求められるときも、「なるほど」と人をうならせるコメントを求められる。しかし、真実は常識的なところにあることが多い。人が知らないことならいざ知らず、奇想天外な仮説はやはり外れることが多い。だからこそ研究は難しい。

フロー体験

鎌倉の円覚寺で暁天坐禅会に参加する機会があった。早朝5時半から1時間で、誰でも参加できる。坐禅に参加するのは初めてだ。友人H君とその義弟M君とともに参加。20人ほどの人が参加していて、常連に見える人たちも多い。20分坐禅、1分休憩、20分坐禅、最後に読経という流れだった。テレビでよく肩をバチーンと叩いているが、ここではお坊さんが前を通りかかった際に手を合わせながらお辞儀をすると叩いてくれる。

残念ながら、初めてで好奇心が高ぶっていたせいか、汗が流れ落ちるほど暑かったせいか、無我の境地にも悟りの境地にも達することができなかった。残念。

その後、M・チクセントミハイ著『フロー体験—喜びの現象学—』を読み始める。最初は誰に教えてもらったのか忘れたが、買ったまま本棚に入っていた。その後、3月に知り合った人に読むといいよと教えてもらったが、それでも読まなかった。自分の研究に直接関係はなさそうだし、細かい字で分厚い本だということで敬遠していた。しかし、ダニエル・ピンク著『ハイ・コンセプト』にも紹介されていたし、夏休みだということで読み始める。

ここでいうフロー体験とは、要するに楽しくて没入してしまうこと、時間が流れる(フロー)のを忘れてしまうほど没頭してしまうことだ。あらゆる楽しいことには文化を越えてフロー体験が見られるという。自分が今正しいことをしているという感覚があり、他のことに気をとられない状態になっていないとフロー体験は得られない。「フロー体験」という言葉は何となくいかがわしい感じがするが、文化を越えて大規模なインタビュー調査をした結果に基づくまじめな心理学・社会学の本だ。日本の暴走族の少年にもインタビューしている。

お金持ちになるとか、権力を持つとか、そういったことは実は幸せや喜びにはつながらない。原始人と比べればわれわれは物質的にはるかに豊かなのに、われわれが精神的な満足を得られないのはなぜなのかというのがハンガリー移民でシカゴ大学の教授になったチクセントミハイの問題意識だ。幸せや喜びは、実は自分の内的なところに発している。

たぶん、私が研究を職業としたいと思ったのも、いろいろな出来事を調べ、研究することでフロー体験が得られるからだろう。逆にいろいろな瑣事で没入ができないといらいらしてしまう。いかにして好きなことに没入できる環境と時間を確保するかが重要なのだろう。

坐禅をしながらいろいろ考えてしまうのも、集中できる環境・状態にないからに違いない。坐禅は自分の状態をチェックすることにつながるのかもしれない。

鎌倉で旧友とその家族たちと過ごすのも時間を忘れる一種のフロー体験だった。

ハイ・コンセプト

荒野高志さんのおすすめでダニエル・ピンクの『ハイ・コンセプト』を読む。芸術的センスのなさを悲観し、左脳主導的な仕事ばかりしてきたことを反省する。

今、SFCではカリキュラムを作り直しているが、「『専門力』ではない『総合力』の時代!」という<はじめに>の言葉には励まされる。本の帯や大前研一さんの訳者解説には、給料とか富という言葉が出てきて、ノウハウ本なのかと思うが(私はノウハウ本も好きだけど)、大きな社会変化を示唆している本だ。トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』とも呼応している。

「ハイ・コンセプト」とは「パターンやチャンスを見出す能力、芸術的で感情面に訴える美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力、などだ」という。そして、対になる「ハイ・タッチ」とは、「他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてもその目的や意義を追求する能力など」である。

そして、「今の仕事をこのまま続けていいか」という疑問に三つのチェックポイントを提示してくれている。

(1)他の国なら、これをもっと安くやれるだろうか

(2)コンピュータなら、これをもっとうまく、早くやれるだろうか

(3)自分が提供しているものは、この豊かな時代の中でも需要があるだろうか

ううむ。教育は例外だとはいえない時代だよなあ。

奇特なイギリス人

これは別の先生に教えてもらった本。イギリス人の奇特さをブラックに笑いものにしているらしくて、紹介してくれた先生が留学していたところではこんな人々がウロウロしていたらしい。極左のくせにグルメという矛盾が笑えるらしい。

George Mikes, How to be an Alien, Penguin Books, 1970.

若者たちの《政治革命》

若者たちの《政治革命》-組織からネットワークへ-』(中央公論新社)

丸楠恭一/坂田顕一/山下利恵子 著

旧知の丸楠先生と坂田さんが本を出したそうだ。

インターネット元年(1995年)、インターネット政治元年(2000年)を機に、ふつうの若者の中から、政治を面白がる「ネットワーク族」が現れた。彼らは統制を嫌い、NPOやボランティア通じて公共空間を遊泳する。無党派知事の誕生も、小泉現象も、この地殻変動の上に成り立つ。本書はこの静かな《政治革命》の来歴と構造、今後の展望を分析する。また急増する若手議員たちの論理と心理に斬り込む。「若者の政治離れ」論が虚像であることが明らかになることだろう。

オンラインの政策誌『政策空間』をベースに生まれたという。

創発

創発に関する研究プロジェクトを進めている。機中で読んだジョンソンの本の抜き書き(文中太字は原文のママ)。

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スティーブン・ジョンソン(山形浩生訳)『創発―蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク―』(ソフトバンクパブリッシング、2004年)。

p. 10

[アラン・]チューリングが一九五四年に死亡する前の、最後の刊行論文の一つは、「形態形成」の謎を取りあげたものだった。形態形成とは、あらゆる生命形態が、とんでもなく単純な出発点から、すさまじくバロックで複雑な体を発展させる能力のことだ。

p. 12

チューリングの形態形成に関する研究は、単純なエージェントが単純な規則にしたがうだけで、とんでもなく複雑な構造が生成できるような数学モデルの概略を述べていた。

p. 16

それは複数のエージェント同士が、複数の形でダイナミックに相互作用して、ローカルなルールにはしたがうけれど、高次の命令などまったく認識していないシステムだ。でも、これが本当に創発的なものとして認められるのは、こうしたローカルな相互作用が、何かはっきり見えるマクロ行動につながった場合だけだ。(中略)つまり、ローカルなエージェント同士の複雑な並列相互作用で、高次のパターンが生じるということだ。

p. 68

アメリカ企業でも、流行り言葉は「品質管理」から「ボトムアップ知性」になりつつあり、ラディカルな反グローバリズム抗議運動は、意識的に自分たちのペースメーカーなしの分散組織をアリの巣や粘菌にしたがってモデル化している。

p. 74

そもそもデボラ・ゴードンがアリに興味を持ったのも、このミクロ組織とマクロ組織との結びつきのためだった。「個体が全体的な状況を判断できないにもかかわらず、協調して働くようなシステムに興味があったんです。そしてアリは、局所的な情報だけを使ってそれを実現しています」と彼女は今日語る。

 実は局所性こそが、群生理論の力を理解するにあたっての鍵となる用語なのだった。アリのコロニーのようなシステムに創発行動が見られるのは、システム内の個別エージェントが上からの命令を待つのではなく、その直近のご近所に関心を払うからだ。彼らは局所的に考えて、そして行動も局所的だけれど、その集合的な行動はグローバルな行動を生みだす。

p. 77

この局所的なフィードバックこそは、アリ世界の分散化した計画の秘密なのかもしれない。アリの個体は、その時点で何匹の食糧調達アリがいるか、巣作りアリがいるか、ゴミ集めアリがいるかを知るよしもない。でも自分が一日の行程でそれぞれ何匹に会ったかは記憶できる。その情報――フェロモン信号そのものと、その頻度――に基づいて、自分の行動を適切に調整できる。

p. 84

DNAの圧政は、創発の原理に反するように見える。もしすべての細胞が同じ台本を読んでいるなら、それはまるでボトムアップのシステムではない。究極の中央集権だ。それは、アリのコロニーでそれぞれのアリが一日の始めに慎重に計画された予定表を読むようなものだ。昼までゴミ出し作業、その後昼食、午後は片づけ、という具合。これは指令経済であって、ボトムアップシステムではない。

p. 85

細胞は、DNAの図面を選択的にしか参照しない。それぞれの細胞核は、人体すべてについてのゲノムを持っているけれど、個別の細胞が読むのはそのごく一部でしかない。

p. 85-86

細胞は近隣から学ぶことで、もっと複雑な構造に自己組織化する。

p. 87

でも細胞は自分を含む組織の俯瞰図は持っていないけれど、細胞連接経由で送信される分子信号を経由して、街路レベルでの評価を行うことができる。これが自己構成の秘密だ。細胞共同体は、各細胞が自分のふるまいについてご近所を見ることで生じる。

p. 100

エージェント間のフィードバックが必要なのだ。他のセルの変化に応じて他のセルも変化しなければならない。

p. 103

その速度で見ると――千年紀単位の高速度撮影で見ると――人間個人の自由意志はコロニーの一五年にわたる存在のうち、ごく一部しか生きて見届けられないゴードンの収穫アリとそんなに異なるようには思えない。今日の都市の歩道を歩く人々は、アリがコロニーの生命について無知なのと同じくらい、大都市の千年単位のスケールという長期的な視野については無知だ。このスケールで見てやると、都市という超有機体の成功こそは過去数世紀における唯一最大のグローバル現象かもしれない。

p. 117

ただしこうした住民たちは、別に居住地を大きくしようとして努力したわけではない。みんな、自分の畑の生産力を上げるにはどうしよう、とか、発達した都市の排泄物をどう処理しよう、といった局所的な問題を解決しようとしていただけだ。でも、こうした局所的な意思決定が組み合わさって、都市の爆発というマクロな行動が形成される。

p. 147

台風や竜巻もフィードバックの強いシステムだが、だからといってそれを裏庭に欲しいという人はいない。構成パーツや、その組み合わせに応じて、創発システムは多くの違った目的に向かうことができる。

p. 180

システム全体が、初期条件にきわめて敏感です。

p. 247

創発の進歩的な可能性が最もはっきり表れていたのは、反WTO抗議運動だった。これは意図的に、自己組織型システムの分散型細胞構造に基づいて自分たちを組織化していた。一九九九年のシアトルの抗議運動は、驚くほどの分散組織に特徴づけられていた。

学者の人生

ボストンのフリーダム・トレイルをたどっていたら、横にボーダーズ(本屋)があったので思わず入ってしまった。そうしたら、ジョセフ・ナイがこんな本を出していることにも気がついた。

Power in the Global Information Age: From Realism to Globalization (Amazon.com)

2004年5月発行とあるから出たばっかり。

内容は1970年代から書いてきた代表的な論文をテーマごとに並べなおしたもの。

おもしろいのは、一番最後の「Praxis and theory」という文章。ナイはよく知られているように、学者であるとともに、国務省や国防総省でも仕事をしてきた。生まれてから今までの自分の人生を振り返ってみて、二つの道を行き来したことが良かったと書いている。ただ、幼少時代は農業をやりたかったり、学部を卒業した後は海兵隊に入ろうとしたり、紆余曲折があったことも書いてある。博士課程での勉強は苦痛だったが、論文を書くのは楽しかったそうだ。学者の人生を考える上でとても興味深い文章。

ソフト・パワー

Soft Power: The Means to Success in World Politics (Amazon.com)

ジョセフ・ナイの新著がいつの間にか出ていた。ソフトパワー論の総決算というところか。

序文にも書いてあるけど、ソフトパワーはどうも誤解されている気がする。本当は安全保障を論じるための概念で、コンテンツ産業育成のための議論ではない。

初版150万部

Clinton’s ‘My Life’ hits stores in June

クリントン前大統領の回想録が6月末に出るそうだ。なんと初版150万部。ヒラリーが100万部だったから50万部多い。ヒラリーの回想録は総計200万部売れている。クリントンはこの本で1200万ドル(12億円以上)もかせぐ。もう借金は返し終わっているのだろうか。

問題はクリントンが本の宣伝ツアーを7月以降に行うことでケリーの選挙戦がかき乱されるのではないかということ。

組織の限界

通読すると面白くないが、抜き書きしてみると味わいがある。もう入手できないのが残念。

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ケネス・J・アロー(村上泰亮訳)『組織の限界』岩波書店、1999年。

p. vii

政治的組織が挫折するにもかかわらず、形式的構造に乏しい知的組織が力を発揮するということは、まさしく組織理論が取り組むべき論点の多様性の例示でもある。

p. 28

そしてわれわれは、過去の誤ちを認め、方向を変更する可能性をつねに開いておかなければならない。

p. 29

「組織」という言葉は、前章での議論で注意しておいたように、十分広く解釈すべきである。公式#フォーマル#組織、すなわち企業、労働組合、大学、政府などが、組織のすべてではない。倫理的な規則や市場システムそれ自体も、組織として解釈することができる。市場システムは、まさしくコミュニケーションと共同的意思決定のための高度な手段を備えている。

p. 30

組織の目的とは、多くの(事実上はすべての)決定が、実際に成果をあげるためには多数の個人の参加を必要とするという事実を十分に生かそうとするところにある。とくに既に注意しておいたように、組織とは価格システムがうまく働かない状況のもとで、集団的行動の利点を実現する手段なのである。

p. 35

本質的な原因は、契約に関する両当事者間の情報の不平等というところにある。

p. 50

以下で示されるテーマは、情報チャネルとその使用に伴なう不確実性、不可分割性、資本集約性の組み合わせより成る。そしてそこから導かれるのは、(a)組織の現実の構造や行動は、偶然的事件、言いかえれば、歴史に大きく依存するかもしれないということであり、(b)効率性のみの追求は、いっそうの変化に対する柔軟性と感応性の欠如につながるかもしれないということである。

 意思決定は、必然的に情報の関数である。かくて、ある一群の意思決定に必要な情報を集めないという決定が下されれば、それら一群の決定は行動計画ならざるものとなる。

p. 71

組織にはさまざまの共通な性質があるが、なかでも権威#オーソリティ#による配分というやり方が広く行なわれている点に特徴がある。事実上普遍的といってよい現象であるが、いかなる規模の組織においても、ある個人によって行なわれた決定が、他の個人によって実行されるのである。権威が正当性を与えられている領域はそれぞれ限定されているかもしれないし、あるレベルにおける命令の受け手が、彼自身権威を与えられているような自分の領域を持っているかもしれない。しかし、これらの限定の範囲内で、命令のやりとりは、ある人をして、ある他の人になにをなすべきかを教えさせるのであって、このような命令のやりとりこそ、組織の機能するメカニズムの基本部分である。

p. 82

権威の価値がもっとも純粋にあらわれる例は軍隊である。そしてもちろん多くの面において、軍隊は事実最初の組織であって、その後国家に成長する。広く分散した情報と、迅速な決定の必要という条件が与えられている以上、戦術的なレベルでは権威による統制が成功のために不可欠である。

p. 82

権威に対立する逆の極端な代案は、合意#コンセンサス#である。(略)私が理解するかぎり、合意とは、個々人の利害を集計するところの、無理のないそして受け入れられた手段を意味する。

p. 86

制裁の存在は権威への服従の十分条件ではない。明らかに、もしもある程度以上の数の従業員が命令に従わなければ、そのような命令は強制できない。