鎌倉の円覚寺で暁天坐禅会に参加する機会があった。早朝5時半から1時間で、誰でも参加できる。坐禅に参加するのは初めてだ。友人H君とその義弟M君とともに参加。20人ほどの人が参加していて、常連に見える人たちも多い。20分坐禅、1分休憩、20分坐禅、最後に読経という流れだった。テレビでよく肩をバチーンと叩いているが、ここではお坊さんが前を通りかかった際に手を合わせながらお辞儀をすると叩いてくれる。
残念ながら、初めてで好奇心が高ぶっていたせいか、汗が流れ落ちるほど暑かったせいか、無我の境地にも悟りの境地にも達することができなかった。残念。
その後、M・チクセントミハイ著『フロー体験—喜びの現象学—』を読み始める。最初は誰に教えてもらったのか忘れたが、買ったまま本棚に入っていた。その後、3月に知り合った人に読むといいよと教えてもらったが、それでも読まなかった。自分の研究に直接関係はなさそうだし、細かい字で分厚い本だということで敬遠していた。しかし、ダニエル・ピンク著『ハイ・コンセプト』にも紹介されていたし、夏休みだということで読み始める。
ここでいうフロー体験とは、要するに楽しくて没入してしまうこと、時間が流れる(フロー)のを忘れてしまうほど没頭してしまうことだ。あらゆる楽しいことには文化を越えてフロー体験が見られるという。自分が今正しいことをしているという感覚があり、他のことに気をとられない状態になっていないとフロー体験は得られない。「フロー体験」という言葉は何となくいかがわしい感じがするが、文化を越えて大規模なインタビュー調査をした結果に基づくまじめな心理学・社会学の本だ。日本の暴走族の少年にもインタビューしている。
お金持ちになるとか、権力を持つとか、そういったことは実は幸せや喜びにはつながらない。原始人と比べればわれわれは物質的にはるかに豊かなのに、われわれが精神的な満足を得られないのはなぜなのかというのがハンガリー移民でシカゴ大学の教授になったチクセントミハイの問題意識だ。幸せや喜びは、実は自分の内的なところに発している。
たぶん、私が研究を職業としたいと思ったのも、いろいろな出来事を調べ、研究することでフロー体験が得られるからだろう。逆にいろいろな瑣事で没入ができないといらいらしてしまう。いかにして好きなことに没入できる環境と時間を確保するかが重要なのだろう。
坐禅をしながらいろいろ考えてしまうのも、集中できる環境・状態にないからに違いない。坐禅は自分の状態をチェックすることにつながるのかもしれない。
鎌倉で旧友とその家族たちと過ごすのも時間を忘れる一種のフロー体験だった。