戦争と情報

20061207chuchill二泊四日で英国に出張。

帰国便は夜だったので、午前中の用事を済ませた後、午後はチャーチル博物館を見に行く。ブレア首相のいるダウニング街10番地のすぐ裏手にあって、非常にこぢんまりとした入り口だ。実はここは第二世界大戦中の内閣が置かれていたところで、この入り口から先が複雑な地下施設になっている。閣議が開かれた部屋や、チャーチルの書斎、寝室、キッチン、スタッフの寝室、通信室、作戦室などがあって展示されている。その戦時内閣室(War Cabinet Rooms)の奥にチャーチルの博物館がある。

ところで、第二次世界大戦中の日本の暗号が解読されていた話はよく知られている。しかし、なぜ日本はそれほど情報を軽視したのか、その理由がよく分からない。

谷光太郎『情報敗戦』(ピアソン・エデュケーション、1999年)を読むと、日本の参謀本部はドイツを手本にしていたからだという説明がある。プロイセンの伝統を受け継ぐドイツでは情報参謀よりも作戦参謀のほうが幅をきかせていたのに対し、フランスや米国では両者が対等な関係にあった。日本はドイツをまねしてしまったために、情報よりも雄弁を好む作戦参謀の暴走を許したということらしい。

そこで、渡部昇一『ドイツ参謀本部』(中公文庫、1986年)を読んでみる。しかし、ドイツの参謀のヘルムート・モルトケが電信を重視するなど情報を重視したことは書いてあるが、情報参謀と作戦参謀の力関係については何も書かれていない。

飛行機の中で、大江志乃夫『日本の参謀本部』(中公新書、1985年)を読む。これによると、モルトケの推薦を受けたお雇い外国人のクレメンス・メッケルを通じて、確かに日本はドイツの影響を受けていたことが分かる。もっと興味深いのは、明治の元老・山県有朋が情報政治家、謀略家であり、山県の影響が陸軍に強く残り、「日露戦争を契機として情報活動とは謀略活動であると考える伝統が成立した」ということである。こうなってしまうと、まっとうな精神の持ち主が情報を忌避したくなるのが分かる。

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しかし、チャーチルは、「すばらしいこととは、それが何であれ、真実の姿を得ることだ」といっている。ここが違いだろう。

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