ニューヨーク州司法当局は、費用が急騰した時期を経て、現在年間40万〜50万ドルの通信傍受費用を支払っているという。
やっぱりけっこうやっているなあという感想。1ドル100円とすると4000万円〜5000万円。50州で単純に50倍すると、20億円〜25億円。
これは携帯電話だけだから、固定電話やインターネットの通信傍受がさらに加算される。記事にあるように、携帯電話は高いのだろうけど、それにしてもなあ。これも犯罪やテロを防ぐコストだと思えば、安いのか、高いのか。
ニューヨーク州司法当局は、費用が急騰した時期を経て、現在年間40万〜50万ドルの通信傍受費用を支払っているという。
やっぱりけっこうやっているなあという感想。1ドル100円とすると4000万円〜5000万円。50州で単純に50倍すると、20億円〜25億円。
これは携帯電話だけだから、固定電話やインターネットの通信傍受がさらに加算される。記事にあるように、携帯電話は高いのだろうけど、それにしてもなあ。これも犯罪やテロを防ぐコストだと思えば、安いのか、高いのか。
Steven C. Clemons, “Visas for America: The Folly of Discouraging Visitors,” International Herald Tribune , 10 April 2004.
メールを交換したことのあるクレモンスさんが送ってくれた。
アメリカは9.11後にビザの申請料を65ドルから100ドルに上げた。しかも、ビザ発給が認められなくてもこの料金は返金されない。途上国の人々にとっては大金だ。おまけに発給拒否率は9.11後に上がってきている。アメリカが内向きになって外から来る才能を拒むのは、結局はアメリカのためにならない、というのが彼の主張。
ビザ拒否率のデータも公開。
http://www.steveclemons.com/visafees.htm
でも、こういうまっとうな意見は無視されるんだろうなあ。
坪内淳「「アメリカ時代の終わり」と日本のグランド・ストラテジー―日米同盟という「応急措置」の先にあるもの」『世界と議会』2004年3月号。
坪内先生は相変わらず歯切れがいい。なるほど「イラク問題」ではなく「アメリカ問題」のほうが深刻という指摘。
この戦争に「大義」があったのかどうかは、問題の本質ではないのである。アメリカがそのように「判断」し、それを単独で実行する「能力」を持っているということこそが、現在の国際関係の最大の特徴であり、それが「アメリカ問題」である。
日本の対米政策が「忠米」という指摘も面白い。きっと日米同盟堅持派からは批判が浴びせられるのだろうが、それこそがおかしいというのが坪内先生の指摘だ。
「グランド・ストラテジー」という言葉は、リデルハートが『戦略論』の中で使い、最近では(坪内先生が翻訳した)カプチャンの『アメリカ時代の終わり』で使われている。
「ポスト・ポスト冷戦」の時代(9.11後の時代)は、「グランド・ストラテジーを競う時代」になるかもしれない。言い換えればそれが「新しい帝国主義の時代」かもしれない。
日本でもグランド・ストラテジーを研究する研究者や研究所がたくさん出てこないとまずい。まずいぞ!
週末に山梨県の釈迦堂遺跡を見てきた。ここは中央自動車道を建設するときに地面を掘ったら出てきた遺跡。高速道路のパーキング・エリアから博物館に行くことができる。だいたい3800年前頃までの縄文人たちの生活の様子が再現されている。
面白いのは作った土偶をわざわざ壊して、破片をバラバラにして埋めたらしいということ。何のためなのだろう。
そもそも、土偶がなぜ作られたのかはっきりしないらしい。博物館の中のパネルによれば、(1)子供のおもちゃ、(2)装飾品、(3)女神像、(4)病気・傷害・災害の形代(かたしろ:身代わりのこと)、(5)埋葬具、(6)宗教的儀式の祭具、(7)護符(ごふ:守り札のこと)などの諸説があるそうだ。
昔の知恵を忘れてしまうのは何となく悲しい。ネイティブ・アメリカンのイロコイ族は一万年の記憶を語り継いでいるそうだが(ポーラ・アンダーウッド『一万年の旅路』)、そんな部族はめったにない。
金曜日(9日)に三田で今学期初講義をやった。予想以上に多くて驚いた。念のため150部シラバスを作っていったが足りなかった。しかし、「厳しいよ〜。CもDもつけますよ」と言ったら少し減った。
教室は昨年よりもやや広めの階段教室。やりにくい。黒板ではなくてホワイトボードになったから、書きにくいし、教室の後ろの人も読みづらいに違いない。できれば変えて欲しい。
http://compress.sfc.keio.ac.jp/clip/article.jsp?id=news04040904
SFCクリップで簡単に紹介してもらった。これを見た何人かからメールももらった。少し恥ずかしい。
日本国際問題研究所のニューズレター『焦点 世界のいまを読む』第7号(2004年4月)に友田錫氏が欧州中央情報局のことを書いている。
テロとの戦いで最も重要な情報能力強化について、EU本部提案の欧州版CIAである「欧州中央情報局」の創設は情報独占にこだわる英、独、仏の反対で実現せず、情報交換と政策調整にあたるテロ担当官の新設や容疑者データベースの創設にとどまった。
なかなか興味深い。独仏は英米のインテリジェンス活動に反対するという構図だと思っていたが、そうでもなくなってきているということか。
知人から聞いたのだが、家を建てる時の設計図は著作権を無視して使われることがあるらしい。例えば、大手の住宅メーカーに行って相談に乗ってもらう。その過程で設計図を書いてもらう。しかし、そのメーカーに建築は依頼せず、別の工務店に設計図を持ち込んで家を建ててもらうということがよくあるらしい。
下記のリンクにもあるように、著作権上は明記されていないが、設計図にも、建築物にも著作権がある。
http://www.jia.or.jp/activity/s_committee/kensetu_jia/2003/05_cals.htm
建築業界では著作権に関してルーズな慣行があるのだろうか。
いい建築物や家具などいろいろなものの設計図にクリエイティブ・コモンズのライセンスを付けてくれればいいのにと思う。文章や絵の複製というのも重要だが、設計図に基づいて何か作ってみるということもまた、クリエイティビティを刺激する営みだと思う。
「国際政治における情報の機能」という題で原稿を頼まれていた。1万字とそれほど長くないけど昨年秋に依頼をされて、締切は3月末日。ずっと頭の中で構想は練っていたのだが、ここ数週間のゴタゴタで結局締切に間に合わなかった。お詫びして締切を延ばしてもらい、昨晩午前3時に書き上げてメールで送った。
たぶん依頼を出した方は考えていなかったはずだが、私に頼んだ時点で「国際政治における情報の機能」はインテリジェンスの問題になってしまった。ひょっとするとNGが出てしまうかもしれない。うまくいけば夏には出るようだが、どうなるか。
そして、今日は別の原稿(短いコラム)の締切。これも頭の中にはずっとあったが書けてない。今日が締切なら今日の夕方までには出すべきだが、昼間はいろいろあって書けなかった。このブログを書いている暇があったら原稿を書けばいいのだが、いまいち筆が進まない。今日もあと1時間あまりになってしまった。
おまけにTK氏からは今週中に別のコラムを書けと言ってきている(つらいぞ)。ううう。3カ月引き伸ばしている英文原稿はどうなるのだろうか。このまま月末の出張に突入してしまいそうだ。いや行く前にさらに別の原稿の締切もある。今日来た原稿依頼はKK氏に転送しよう。すまん。
たぶん1999年に韓国のブロードバンドを調査に行ったとき、はじめて「アパートLAN」という言葉を聞いた。韓国の「アパート」は日本でいう「マンション」や「団地」にあたるが、アパートの中の各家庭でブロードバンドが使えるようにしてあった。アパート単位でサービスを導入しているようだった。
引っ越しを考えているので、昨日、物件を見て回った。今計画・販売中で、2年後に入居可能になるマンションは、当然のように100Mbpsのブロードバンドが入っている。しかし、2年前に売り出して、ちょうど今、入居が始まっているマンションはなんと10Mbpsのままなのだ。それも、マンション単位で契約しているので、個別の設定ができない。管理費の中に料金が含まれていて、サービスをアップグレードするには、住民の総意をとりつけないといけない可能性がある。これは致命的だ。
すぐにでも入居したい私にとっては考えてもいい物件だったが、インターネットが10Mbpsで、それ以上は速くならないと聞いてあっさり嫌になった。電話線を使ってADSLを個別に使うこともできるということだったが、大した差はない。
おそらく2年後には1Gbpsのサービスを始めるところもあるのではないだろうか。各戸につながる大きなパイプと、機器設置スペースをあらかじめ確保しておき、各戸で個別にプロバイダーと契約できるようにしてあるマンションはないのだろうか。不動産業界はその辺にまだうといのかなあと思ってしまう。
通読すると面白くないが、抜き書きしてみると味わいがある。もう入手できないのが残念。
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ケネス・J・アロー(村上泰亮訳)『組織の限界』岩波書店、1999年。
p. vii
政治的組織が挫折するにもかかわらず、形式的構造に乏しい知的組織が力を発揮するということは、まさしく組織理論が取り組むべき論点の多様性の例示でもある。
p. 28
そしてわれわれは、過去の誤ちを認め、方向を変更する可能性をつねに開いておかなければならない。
p. 29
「組織」という言葉は、前章での議論で注意しておいたように、十分広く解釈すべきである。公式#フォーマル#組織、すなわち企業、労働組合、大学、政府などが、組織のすべてではない。倫理的な規則や市場システムそれ自体も、組織として解釈することができる。市場システムは、まさしくコミュニケーションと共同的意思決定のための高度な手段を備えている。
p. 30
組織の目的とは、多くの(事実上はすべての)決定が、実際に成果をあげるためには多数の個人の参加を必要とするという事実を十分に生かそうとするところにある。とくに既に注意しておいたように、組織とは価格システムがうまく働かない状況のもとで、集団的行動の利点を実現する手段なのである。
p. 35
本質的な原因は、契約に関する両当事者間の情報の不平等というところにある。
p. 50
以下で示されるテーマは、情報チャネルとその使用に伴なう不確実性、不可分割性、資本集約性の組み合わせより成る。そしてそこから導かれるのは、(a)組織の現実の構造や行動は、偶然的事件、言いかえれば、歴史に大きく依存するかもしれないということであり、(b)効率性のみの追求は、いっそうの変化に対する柔軟性と感応性の欠如につながるかもしれないということである。
意思決定は、必然的に情報の関数である。かくて、ある一群の意思決定に必要な情報を集めないという決定が下されれば、それら一群の決定は行動計画ならざるものとなる。
p. 71
組織にはさまざまの共通な性質があるが、なかでも権威#オーソリティ#による配分というやり方が広く行なわれている点に特徴がある。事実上普遍的といってよい現象であるが、いかなる規模の組織においても、ある個人によって行なわれた決定が、他の個人によって実行されるのである。権威が正当性を与えられている領域はそれぞれ限定されているかもしれないし、あるレベルにおける命令の受け手が、彼自身権威を与えられているような自分の領域を持っているかもしれない。しかし、これらの限定の範囲内で、命令のやりとりは、ある人をして、ある他の人になにをなすべきかを教えさせるのであって、このような命令のやりとりこそ、組織の機能するメカニズムの基本部分である。
p. 82
権威の価値がもっとも純粋にあらわれる例は軍隊である。そしてもちろん多くの面において、軍隊は事実最初の組織であって、その後国家に成長する。広く分散した情報と、迅速な決定の必要という条件が与えられている以上、戦術的なレベルでは権威による統制が成功のために不可欠である。
p. 82
権威に対立する逆の極端な代案は、合意#コンセンサス#である。(略)私が理解するかぎり、合意とは、個々人の利害を集計するところの、無理のないそして受け入れられた手段を意味する。
p. 86
制裁の存在は権威への服従の十分条件ではない。明らかに、もしもある程度以上の数の従業員が命令に従わなければ、そのような命令は強制できない。
横浜で「日米交流150周年記念式典」が開かれた。1854年に日米和親条約が結ばれたことを記念したもの。小泉首相やベーカー駐日米大使などが来ていた。日本語で挨拶した米国人学生のスピーチが見事だった。
式典の後で開かれたレセプションはあまりの大人数で芋洗い状態。食べ物もぜんぜん足りなかった。
http://www.linux-magazine.com/issue/42/Linux_World_News.pdf(pdfファイル)
Linux-magazineにクリエイティブ・コモンズの日本での活動について紹介記事が出た。「日本ではブログに使われている例が多くて、大手が商用利用している例はあまりない」とやや否定的に書かれてしまったので少し反省。メディアへのコメントは難しい。
ktaguma`s Fotolog(2004年3月31日)に元の職場の私の机をとった写真が出ている。乱雑で美しくない。さわやかで知的な作業場を持ってみたい。
知的生産のための環境に興味を持っていろいろ本を読んでみたけど、なかなかピンと来るものがない。ジャーナリストでバリバリ仕事している人の部屋などは乱雑極まりないことが多い。頭の中が整理されていればいいのかもしれないが、「この資料があの時見つかっていればもっといい原稿が書けたのに」と思うことがよくある。読んだ資料全部を頭の中にためておけるほど私は記憶力がよくない。
本を全部スキャンしてハードディスクに入れておくという人も出てきているようだが、手間の割に使い勝手は悪いのではないかと考えてしまう。
立花隆や猪瀬直樹のように蔵書のためのビルを建てる余裕はないからなあ。21世紀前半(私が死ぬまで?)は悩み続ける気がする。
新年度を機に有楽町の献血センターに行って献血をしてきた。久しぶりの献血。献血手帳を持っていなかったので、以前の記録を調べてもらったら、今よりも体重が7キロも少なかった。いかん。
水分をガブガブとっていざ献血に臨む。前回と同じ400ml。しかし、やはり前回と同じく気分が悪くなる。もともと血の話には弱いのだが、見てもいないのに想像するだけで気持ち悪くなる。耳元で何やら機械がプシューとなるといっそうムカムカしてくる。
結局、400mlとり終わった頃には顔面蒼白。手にも血の気がない。椅子の背もたれをバタリと倒して、足まで高くしてもらう。何だか目がグルグル回って吐き気がおそってくる。小一時間、そのまま横になっているが、ちっとも血圧が上がらない。
ほうほうの体で外に出るが、その後は仕事にならなかった。
何かいいことがあったら献血することにしているのだが、今回はつらかった。昨晩、歓送会で飲み過ぎたのがいけないのかもしれない。幸い、肝臓の数値は正常だった。
「いいこと」とは、新しい仕事が見つかったこと。これを機にブログを再開したいと思う。