適々豈唯風月耳

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土曜日、日帰りで大阪に出かける。朝7時20分の新幹線に乗り、用事の前に適塾を見に行く。言うまでもなく福澤諭吉先生が蘭学を学んだところだ。地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から5分ぐらいのところで、日本生命のビルに囲まれている。今は大阪大学が所有している。

受付を入ってすぐのところに福澤先生の軸が飾ってある。

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適々豈唯風月耳。
渺茫塵芥自天真。
世情休説不如意。
無意人乃如意人。

「適を適とする、すなわち自分の心に適することを適とする、言い換えると自分の心に適うことをたのしむ生活、それは何も自然の風月をたのしむだけのものではない。むしろ広くて見定めがたい俗世間に天の理にかなった真実があるというものだ。世の中が自分の思い通りにならなくても、何も不満をこぼすことはないではないか。ことさらたくらむことなく真実に生きる人こそ、自分の思いを達する人なのだ。」(展示解説より)

いいなあ。

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二階にはヅーフ辞書(蘭和辞書)が置かれていたというヅーフ部屋がある。『福翁自伝』から想像していたよりも小さい。

「会読の準備のために、適塾内に一揃えしかないヅーフ辞書のまわりには多くの塾生たちが入れかわり立ちかわり押しよせて、この辞書を手にとることも容易でなく、ヅーフ部屋には燈火が一晩中たえなかったといわれています。塾生たちはむつかしい原書を読み解くのに、面目にかけても他の塾生から教えてもらうことはなく、完全に自分で考え工夫をして説をつけ、それで塾生同士おたがいに学力をたたかわすことを誇りにしていました。」(展示解説より)

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ヅーフ部屋を抜けたところに塾生大部屋がある。ここも想像していたよりもはるかに狭い。

「適塾には、常時百人をこえる塾生がいて、外から適塾へ通ってくる外塾生と、適塾内で起居する内塾生とがありました。内塾生はこの塾生大部屋を中心に、一人当たりたたみ一畳分だけの広さが割り当てられ、その中に机や夜具をおき、学習したり寝起きしたりしたのです。毎月末には、この割り当ての場所の席換えが行われ、その月の会読での成績順に上位の者から好みの場所を占有することができました。悪い場所に当った者は、みんなの通りみちになって夜間に踏み起こされたり、勉強するのに昼間もあかりをともしたりしなければなりませんでした。」(展示解説より)

畳一畳分とは実に狭い。しかし、仲間がいるから良い勉強になったのだろうな。今は途方もなく大きくなってしまったけれど、慶應義塾の原点はやはりこの適塾なのだろう。

学会

たぶん初めて三日連続で違う学会に参加した。本当は東北大学で開かれていた公共政策学会にも行きたかったけど断念。

土曜日は情報社会学会。午前中のセッション二つの司会。休八の学会タイマーに手伝ってもらったので、それほど大変ではない。それぞれ興味深い発表でいろいろ勉強になる。

日曜日はアメリカ学会。といっても津田塾の中山俊宏先生他のセッションだけ聞きに行く(出かけるときは大雨だったが帰りは晴れていた)。中山先生はさすがディープかつ詳細にアメリカ政治を追いかけている。たまたま私の後ろに座っていらした某有名な先生がコメント&質問で吠えていて少しびびる。立教大学はきれいでいいね。

月曜日は警察政策学会のシンポジウムのパネル・ディスカッションに招待参加。休講にしてしまって学生には申し訳ない。鶴木眞先生の基調講演の後、午後3時から6時まで、途中10分の休憩を挟んで長時間のパネル・ディスカッション。他のパネリストは現役の警察庁企画官、防衛研究所主任研究官で、コメンテーターは元警察庁長官。フロアで聞いている方々のほとんどは警察関係者とメディア。長時間でやたらと緊張度の高いパネル・ディスカッションに疲労困憊する。しかし、得たものも大きかった。

懇親会を早々に引き上げ、別の打ち合わせに参加。帰り際、シニアのTさんに「あなたの本は読んだけど、分かりやすすぎるね。そういうのが大事なのかもしれないけど」とのコメントをいただく。やはりそうですか。ううむ。

その後、数人で11時までスペイン料理屋でくだを巻く。アルコールは控えるが、疲れがどっと出てきた。帰宅しても疲れすぎて眠れない。明日の授業は大丈夫だろうか。

インテリジェンスの分析官による分析と学者による分析

私は2002年にアメリカから戻ってきたとき、インテリジェンス・コミュニティの研究をやろうと決意して、いろいろなところに書き散らしながらも遅々として本をまとめられずにいた。ようやくそれが何とか形になりそうで、がんばって作業をしている(はしかによる休講は、不謹慎だがうれしい)。

ある情勢分析の研究会でのこと、日本版NSC論議の裏で、情報機能強化検討会議というのも開かれていて、それについて少し話をした。

この研究会は大学や政府系研究機関などで地域研究などに携わる研究者たちの集まりで、それぞれ一家言を持っている人たちだ。質疑応答の際、ある人が、「民間と日本のインテリジェンス機関との間で相互交流をすれば質が上がるだろう、われわれのような連中が入っていくことで良い結果が生まれるだろう」と発言した。

確かに、米国ではそういうことも行われている。たとえば、ジョセフ・ナイが米国政府のNational Intelligence Councilの議長をしていたこともある。

しかし、一般論として言えば、これはうまくいかないと私は答えた。「ここにいる研究者や学者がインテリジェンスの分析をやってもまずうまくいかないだろう」とまで言ってしまった。この発言には一部の人たちが反発した。当然だろう。それぞれ北朝鮮や中国、ロシアなどの専門家である。常日頃、自分たちに政府の情勢分析をやらせろと思っているに違いない面々である。

それでもおそらく無理だろう。学者の分析とインテリジェンス機関の分析官の分析とでは責任の重みが違う。インテリジェンスの分析には人命が文字通りかかっている。分析に失敗すれば人命が失われる。

それに対し、学者の分析でそこまでの厳密さが求められることはまずない(情勢分析を間違えたからクビになった学者なんて聞いたことがない)。むしろ、分析としてのおもしろさ、鋭さに力点が置かれていることが多い。現実をいかに説明するか、それも統合的に整理しながら説明できるかに力が注がれている(前のエントリーで述べたことだ)。

しかし、現実の情勢はそれほどおもしろくないかもしれない。現実は時に複雑怪奇で、時にあっけないほど単純で説明がつかない。インテリジェンスの分析で求められているのは、おもしろいかどうかではなく、正確かどうかだ。それも、答えがないかもしれない問題に答えなくてはならない。おもしろおかしく無責任に答えるわけにはいかない。

学者は自分の学者としての名声・評判くらいしか最終的には求めるものがない。研究を追求して金銭的に儲かることはほとんどない。大学や研究所では、人事的な昇進もたかがしれている。仲間内での評判、世間での評価ぐらいしかモチベーションがない(他にあるとすれば単なる自己満足だ。まあ、私はこれに近いところがある)。そうすると、「う〜ん、なるほど」と人をうならせる分析に喜びを見いだしてしまう(人が多い)。

インテリジェンスの世界ではそんなものはない。誰もが無名で国家に奉仕している。米国の国家安全保障局(NSA)のモットーは「They Served in Silence」である。自分の分析によって国を守れるというところに喜びを見いだしている。マインドがあまりにも違う。

こんなことを考えていると、前回のエントリーで書いたようなことが私に起きたのは、ひょっとすると、現場でビジネスをやっている人たちにとっては、私の発言が軽すぎて気に入らないということなのではないか。分析力うんぬんの話ではなくて、「そんなに軽々しく言うなよ」という反発なのかもしれない。

つまり、「難解な物事をさらに難解に説明する」のが大事なのではなく、「難解な物事を簡単に、しかし、重々しく説明する」、これが大事なのかもしれない。

どうも私は苦労しているように見えないらしく、実年齢より若く見えるらしい(最近は年齢不詳とまで言われる)。同僚の一人は、眼鏡をかけないと学者らしく見えないからといって、コンタクトではなく眼鏡をわざわざかけている。もったいぶって理論武装しながら話すのは私は好きではないのだが(理論そのものは好きだけど)、そこら辺がポイントか。

とまあ、どうでもいいことをグズグズ考えるよりも、研究の原稿を書いた方がいいのでこれで終わり。

学者に求められていること

このエントリーは、一部の方には気に障る言い方があるかもしれませんが、ご容赦ください(このブログは検索エンジンになるべく引っかからないようにしているので、さほど読者はいないと思いますけど)。

***

大学院プロジェクトの課題図書なのでクリス・アンダーソンの『ロングテール』を読んでいる。ワイアードの元の論文は読んでいたし、まだロングテール論がそれほど話題になる前にアンダーソンの講演も聴いたことがある。しかし、こうやって一冊の本になって読み直すとやはりおもしろい。

読みながら、別のことを考え始めた。学者に求められていることだ。「ロングテール」というのは分かりやすいキーワードで、コンセプトもシンプルだ。シンプルなコンセプトで多くの事象を切れるところが理論的には優れている。しかし、シンプルであるが故にみんな分かった気になって軽視してしまうところがある。「ああ、またロングテールね」というわけだ。自分でも分かってしまうことを聞かされるとなぜかがっかりする人が多い。アンダーソンは編集者であって学者ではない。しかし、外国の「有名」な人という点では何となく「学者っぽい人」というイメージになっているのではないかと思う(しかし、アンダーソンが何者かということは話の本筋ではない)。

私はこれまで、書くときも話すときも、できるだけ分かりやすくしようと心がけてきた。意味不明の文章では出版しても仕方ないし、聞いている人が理解できない話をしても時間の無駄になるだけだろうと思ってきた。そのためには少々誇張した言い方や、単純化した言い方もしてきた。

しかし、それは学者に求められていることではないということがだんだん分かってきた。というのは、上記のような書き方、言い方をすると腹を立てる人がたまにいるのだ。つい先日、私がしたコメントに対して「ずいぶん乱暴な言い方でつまらない。もっと本質を議論するべきだ」とコメントしたビジネスマンがいた。私が「では本質はどこにあると思うのか」と質問すると、「私より経済学や専門のことが分かっている人が集まっているのだから、もっと議論すべきだ」というのが彼の答えだった(私が経済学者ではないということを知らないのだと思うし、まして私が何を研究しているのかも知らないで彼はコメントしたのだろう)。自分で答えを持っていて批判するのではなく、おそらくは自分が理解できてしまうことを、学者と呼ばれている人が話しているのが気に入らないのだろう。

こういう経験はこれまでも何度となくあった。学者相手だと、議論をシンプルにして原則論で戦おうという雰囲気になるが、学者ではない人は(まだ仮説の段階だが)難しくて高尚な話を聞きたがる。パネル討論の司会を任されたとき、議論を絞ってシンプルなフレームワークを設定したのだが、パネルの最後になってパネリストの企業役員が、物事はそんなに単純じゃないと一言けちを付けて帰っていったことがある。

実業界から学界に移ってきた人は二つのパターンに分かれる。第一に「自分は学者ではない」と開き直って自分の経験してきたことを再生しながらやりすごそうとする人。第二に、やたらと「学者とは」「学問とは」ということにこだわって生きていこうとする人だ。端から見ていてそんなにこだわらなくてもあなたは十分学者ですよといいたくなるほど思い詰めて研究する人もいる。何か自分の知らない学問奥義があるに違いない、それを知りたいと息巻くのだ。

文章についても同じことが言える。難解なものほど読み甲斐があるのだ。解釈の余地が大きいほどおもしろいとされる。私の原稿についていえば、分かりやすく書いてあるものほど評判が悪い(ただ単に私の原稿がおもしろくないというだけなら話は別ですけどね)。自分で読んでも難解なものほど引用されることが多い。「本当に分かっているのかな」と不思議になる。

つまり、私の今のところの作業仮説はこうだ。「人は分かってしまうほど不満になる。理解できないことにこそ知的喜びを見出す。」学者には分からない話をして欲しいのだ。難解な古典が読み継がれているのも同じ理由だ。ほとんどの人が挫折してしまうような難解な本でも、それが古典とされるとすばらしいものに思える。自分が理解しているかどうかは実は関係ない。

そうすると、学者に求められていることとは、物事をシンプルに説明する仮説や理論を提示することではなく、難解な物事をさらに難解に説明する理論を提示することなのかもしれない。難解な議論で煙に巻いてしまう方が学者の行動としては正しいのかもしれない。なるべく分かりやすく、(できればユーモアも交えようと努力しながら)議論しようとしてきた私の努力は、世の中が求めているものと違っていたのかもしれない(ただし、アメリカでは私のやり方はおそらく間違っていない。他の日本人の話が相対的に退屈なせいもあると思うが、シンプルなアイデアで本筋を話した方が活発で有益な議論につながる)。

この仮説を検証してみたい誘惑に少し駆られている。授業ではあまりやらない方がいいような気がするが、これからしばらく、学会パネルの司会、学会発表、ビジネスマンの前での講演などが続く。どうしようかなあ……。

(しかし、私の仮説が正しければ、このエントリー自体も批判を受けることになるはずだ。単純な仮説で説明しようとしているからだ。「バカにするな」とか「それはお前の問題だ」とか、そんな感じかな。まあいいや。)

ガラパゴス

Galapagoseo

ガラパゴス諸島に一度行ってみたい(連休に行けたらどんなに幸せか)。しかし、ICTの世界では日本市場が「ガラパゴス諸島」のような様相を呈していると「ICT国際競争力懇談会」の最終とりまとめが指摘している。そのまま保存しておいたほうがおもしろいんじゃないだろうか。

他にも「国際共生力」「技術外交」といったおもしろい言葉が出てきている。

アメリカの田舎にブロードバンドを

大統領選に向けてヒラリー・クリントンがアメリカの田舎を活性化する案を出し、その一環として「Rural Broadband Initiatives Act(田舎ブロードバンド主導法って感じか)」を出した。法案番号はS.1032。労働組合も支持しているというが、民主党らしい政策パッケージだ。

おもしろいのは、連邦通信委員会(FCC)に何かをさせるのではなく、農務省の中に「田舎ブロードバンド主導局(Office of Rural Broadband Initiatives)」を作ってしまおうということだ。その際、「Rural

Electrification Act of 1936(1936年田舎電化法)」とかいう古い法律を改正するという。電力のアナロジーでいこうということみたいだ。

ブロードバンドの導入によって農業の生産性を上げようと演説するのかな。確かに大事だと思う。このテーマは研究したいと思っていて、7年前からいろいろなところで言っているのだけど、あまり相手にしてもらえない。

でも、法案の成立は難しいだろうなあ。上院の「農業、食料、森林(Agriculture, Nutrition, and Forestry)委員会」に付託されているが、こんなところでブロードバンドの議論なんてできるのだろうか。

ネット時代の社会関係資本形成と市民意識

20070412socialcapitalメディアコムの菅谷先生を中心に続けてきた研究会の成果が出た。私の担当章は、『ブロードバンド時代の制度設計』という本で書いた「セルフ・ガバナンスの意義と変容」のアップデート版になる。

菅谷実、金山智子編『ネット時代の社会関係資本形成と市民意識』慶應義塾大学出版会、2007年3月30日、本体3000円+税、ISBN978-4-7664-1362-5(叢書 21COE-CCC 多文化世界における市民意識の動態 20)
「第5章 インターネット・コミュニティの変容」担当。

編集の村山さんに感謝。

ワンセグonマック

20070330onetvkk氏にそそのかされ、USB接続でマック上でワンセグのテレビが見られるデバイスを衝動買いする。この機種はウインドウズにもつなぐことができる。

確かに映る。テレビと見比べると6〜7秒ほど遅れている。

しかし、自宅では電波が弱いらしく、すぐに切れてしまう。パワーブック(G4世代)の性能のせいかもしれないが、パソコンの操作をすると途切れてしまう。無線LANと周波数は違うが、ポンと出力がかかると切れる感じだ。じっと画面を見るために必要なわけではなく、他の作業をしながら音だけ聞きたい(いざというときには画面も見たい)ので、やや期待はずれだ(大学の部屋の電波状況が良ければうれしいのだが)。

添付のデスクトップピクチャでは画面を二倍にしてある。実際はこの半分。画面を大きくするほど当然ながら粗さが目立って、動きがデジタル的にぎこちなくなる。

一見すると通信と放送の融合という感じがするが、せいぜい「混合」だなという感じがする。ワンセグ用の電波と無線LANの電波は違い周波数だから、一つのパイプなり波なりの上でデジタル化された信号が融合して流れてくるわけではない。一つのパソコンの上で両方の電波を受信できるようにして、一つのスクリーンに入っているだけだ。

リアルタイムの録画や予約録画ができるは優れているが、良い電波状況を確保しながらパソコンの電源を起動させておかないといけない。ノートパソコンがスリープしてしまったら予約録画は失敗する。

録画したファイルも自由に編集ができるわけではなさそうだ(まだきちんと確認はしていない)。

コンテンツ的にも地上波その他と同じものしか流れていないから、融合とはいえない。連動してオンラインショッピングができるようになんて話があるが、同じパイプや波に乗っかってできないと実用性はないのではないかなあ。

このデバイス、ハードウェアのデザイン的にも意図があんまり理解できない。もうちょっとスタイリッシュにして欲しい。少なくともマックにはいまいち調和しない。

ま、出始めのデバイスにはいろいろ改善の余地がある。頻繁にソフトウェアはアップデートするとのことなので、期待してみよう。思わぬ形で役に立つかもしれない。友人N夫妻の家にはテレビがないから部屋が美しい。そういう家庭でもたまにテレビが見たくなった時には良いだろう。

【追記】このデバイス、ウインドウズ・マシンで使うほうがはるかに安定している。他の作業をしていてもあまり落ちない。

ドクター・フィッシュ

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先週、シンガポールで魚に足をついばまれる。ドクター・フィッシュと呼ばれているそうで、足がつるつるに。世の中には不思議なものがいるもんだ。

これも中立性問題か

マイナーな話題なんだけど、備忘録を兼ねて。

Molly Peterson, “FCC Grants Internet Phone Access,” Washington Post, March 2, 2007; D03.

タイム・ワーナーが訴えた請願を許可する形で、FCC(連邦通信委員会)がインターネット電話のための回線開放を決めた。構図としては大手の通信会社が中小の通信会社のネットワークを経由してVoIPを使えるようになったということらしい。

一般的にはケーブル会社のタイム・ワーナーと電話会社のAT&Tやベライゾンは競争関係にある。しかし、三社ともこの決定を歓迎している。

中小の(そしてたぶん過疎地にある)通信会社はまだ収益の大部分を固定電話サービスで上げている(アメリカの田舎にはうじゃうじゃ小さな電話会社がある)。このFCCの決定で、都会の大手通信会社のネットワークを使う加入者がVoIPを使って田舎の通信会社の固定電話と通話できるようになる。その結果、田舎の通信会社が得られる収益が変わるのだろう。

たぶん中小の通信会社のロビーイングを受けてサウス・カロライナの規制当局はそうした通信を認めていなかったが、FCCはこの規制をくつがえした。

ネットワークとネットワークをつなぐ際の相互接続料やアクセス・チャージは複雑怪奇でよく分からないが、「VoIPだけはつなぎたくないよ」という中小の通信会社のぼやきが聞こえてきそうだ。

ネットワークは中立的であるべきで、サービスやコンテンツを差別してはいけないという中立性原則に立てば、FCCの決定は正しい。それによって田舎にもブロードバンドが普及するとマーチン委員長は考えているようだ。しかし、その提供者が地元の中小通信会社ではなく、それを買収した大手になるかもしれない。利用者にとってはどちらがいいのだろう。

クリエイティブ・シティ

Creativecity

C&C振興財団監修、原田泉編著、上村圭介、木村忠正、庄司昌彦、陳潔華、土屋大洋、山内康英著『クリエイティブ・シティ—新コンテンツ産業の創出—』NTT出版、2007年2月28日、本体3200円+税、ISBN978-4-7571-0204-0

この本の取材をしたのは2005年の夏。かなり忙しかった頃で、自分の担当章を読み返すと息切れしているのが分かる(いいわけだなあ。しかし、私はずっと前に脱稿していて、半ば忘れていたのだけど、それが諸般の事情で遅れて今ごろ出版されたというわけです)。庄司さんのソウル(韓国)をはじめ、上村さんのウェリントン(ニュージーランド)、木村さんのボローニャ(イタリア)とバルセロナ(スペイン)など、他の章はおもしろいです。

春休み

20070205yugawara研究会(ゼミ)合宿と採点を終え、ようやく苦しい時期を切り抜けた(写真は帰りに真鶴半島で撮ったもの)。秋学期の採点量は春学期よりはるかに少ないけど、手抜きはできない。卒論の数もこれまでで最も多かった。しかし、自分が学生だった頃は同期のゼミ生が20人以上いたから、先生はもっと大変だったに違いない。

今日は、春から九州の大学に赴任する旧友の送別会。旧友と馬鹿話ができるのは良い気分転換になる(N夫妻のイタリア仕込みの料理も最高だった)。彼のゼミが軌道に乗ったら合宿はぜひ九州でやりたい。それぞれの分野は全然違うけど、それもまた楽しいだろう。頑張って欲しいなあ。

ようやく春休みに入ったが、もうすぐ入試シーズンだ。志願者が増えた。オープンキャンパスやら模擬講義やら出前講義やらをやった甲斐があった。出て行く学生に負けない、おもしろい学生に入ってきて欲しい。

みやじ豚BBQ

土曜日、キャンパスで熊坂研、井庭研と合同研究発表会をした後、みやじ豚のBBQをする。寒かったけど、うまかった。普段違うことをやっている人たちと研究について議論できるのはいいね。広い意味での社会学つながりだけど、それぞれのアプローチや手法が全然違うことが分かって刺激になった。写真はこちら

ネットワーク・パワー

Networkpower_1

『ネットワーク・パワー—

情報時代の国際政治—』NTT出版、2007年。[NTT出版のページ

3年半ぶりにひとりで書いた本が出る。SFCFRIGLOCOMICPCNTT出版、その他の皆様のおかげです。特にMさん、ありがとうございます。時間かかっちゃってすみません。

今日、某所での研究会から帰宅してから、息抜きを兼ねて『不都合な真実』の英語版DVDを見る。インターネット革命の立役者の一人、アル・ゴアは環境問題に取り組んでいる。日本は環境問題のリーダーになるべきだというMITの先生の言葉を思い出す。技術と国際政治というのが広い意味で私の研究テーマだ。いずれ環境問題にも取り組んでみたいと思う。

コンビニ弁当の白身魚のフライ

今日は福澤先生の誕生日のため休みだ。たまった仕事をほっぽりなげて、師匠が「国際関係論の担当者必見」と推薦する『ダーウィンの悪夢』を見てきた。渋谷のシネマライズで19日まで上映している。

アフリカのビクトリア湖に放流されたナイルパーチという魚が引き起こした悲劇のドキュメンタリーだ。これはアフリカのローカルな悲劇ではなくグローバリゼーションがもたらした悲劇だ。大型で良質の白身がとれるナイルパーチは工場で加工されてヨーロッパと日本に輸出される。日本では別名「白スズキ」となってコンビニ弁当や学校給食の「白身魚のフライ」に化ける。

ビクトリア湖周辺の人々はナイルパーチが作りだした産業で潤う一方で、湖の環境は大きく代わり、新たな貧困と暴力が生まれている。

情報通信技術から見るグローバリゼーションは良い側面が目立つ。しかし、この映画が描くグローバリゼーションは圧倒的に悲劇的だ。そして、自分に何ができるのかが分からないことが腹立たしい。コンビニ弁当をボイコットしてもさしたる変化はないだろう。知らず知らずに貧困と暴力にわれわれは加担している。忸怩たる思いだ。次は『不都合な真実』を見に行かなくては。

箱根駅伝

20070103hakone

箱根駅伝を沿道観戦。写真は順大のアンカー。長い時間待っているのにランナーはあっという間に走り去ってしまう。速い。

我が校が出るのはいつのことやら。

半学半教

松永安左衛門が慶應義塾に入学してまもなくのこと、校庭で教師を見かけて、すれ違いざまあわててお辞儀をした。ところが、それが終わるか終わらないうちに、後からポンポンと背中をたたく者がある。だれだかわからない、まったく知らぬおじいさんであった。
「お前さん、今、そこで何をしていたんだね。」
「先生にお辞儀をしました。」
「それはいかん。うちでは、教える人に途中で会ったぐらいでいちいちお辞儀をせんでもいいんだ。そんなことをはじめてもらっちゃ困る。」
 あっけにとられて、あらためてその老人を見たら、それが福沢先生であった。
「お前さんは入ったばかりだから言っとくが、うちではお前さん方を教えているのは生徒の古い方で、お前さん方の仲間、いわば同格だ。ただ少し早よう入って年も上、勉強もちっとは進んどるだけなんだ。つまり、お前さん方の先に立って少し難しいことを覚えて、そこでいっしょに臨講していてくれるにすぎんのじゃ。ここで先生といえば、まあこの私だけなんじゃが、この私にもいちいち用もないのにお辞儀なぞせんでいい。ごく自然な会釈だけでたくさんだ。」

加藤寛『なぜ、今、「学問のすすめ」なのか?—福沢諭吉の2001年・日本の診断—』PHP研究所、1983年、260〜261ページ。

古本屋で見つけた本の一節。この本が出た頃はSFCの構想すらなかったのだろうな。

学生の卒論を読みながら学んだり、反省したりしているうちに、「半学半教」の話を思い出す。

やわらかな心をもつ

たまった新聞を読んでいたら、12月20日の日経夕刊で梅田望夫さんが、小澤征爾、広中平祐、プロデューサー萩元晴彦『やわらかな心をもつ—ぼくたちふたりの運・鈍・根—』(新潮文庫)を紹介していた。梅田さんが海外で生活して早起きして勉強するきっかけになったという本だ。

近所の本屋に行ったら、小澤征爾『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)も隣にあったのでついでに買ってきた。『やわらかな心をもつ』を読み始めたら、最初のところに『ボクの音楽武者修行』の紹介が出てきたので、『ボクの音楽武者修行』を先に読み始める。

小澤征爾さんの音楽は数年前にベルリンで聞く機会があったきりで、大した予備知識はないのだけど、その成功物語に驚く。最初にヨーロッパに行ったときは、スクーターとともに貨物船に乗って、60日かけて船旅をし、フランスをスクーターで旅してパリにたどり着いた。しばらく語学などを勉強して、ブザンソンというところで開かれた指揮者のコンクールで優勝してしまう。

それからヨーロッパとアメリカで修行が続き、日本に凱旋するところまでの話が、当時の手紙とともに語られている。日本にいたときには決して恵まれた環境ではなかったようだけど、留学して言葉の壁をあっさり乗り越えて成功してしまっている。音楽というユニバーサルなものだからこそできるのかもしれないけど(しかし、そうはいってもクラシック音楽はヨーロッパ色が強いはずだ)、見事なものだ。

『やわらかな心をもつ』は、数学者の広中平祐との対談。二人の全く違うタイプの天才が語り合っている。私も大学院生の時、副題にもなっている「うん・どん・こん」という言葉については聞かされた。学者になろうという人には大事な言葉だと思う。この本が語源なのかと思ったら、そうでもないようだ。

数学の世界は、割と正解がはっきりした問題ばかりをやっているのかと思っていた。しかし、先日、昼飯を食いながら同僚の数学者と話していたら(数学者と気軽に話せるのがSFCのすばらしいところだ)、数学の世界でも社会と同じようにどんどん新しい問題が生まれてきていて、それに対するアプローチは一つではないという。広中さんの話を読んでいてもやはりそうなのだと確認する。

二人はどうやら天才のタイプが違う。小澤さんは集中力がずば抜けているらしい。朝3時か4時に起きて一気に譜面の勉強をする。その分、演奏会の後は音楽のことはけろっと忘れてお酒を飲んで寝てしまう。広中さんは考え続けることができるらしい。数学の問題は解くのに数年かかることもある。努力し続けることができる(あるいは努力を努力と思わない)のが天才の条件なのだろう。小澤さんは若いうちに嫉妬心を殺すことを覚え、広中さんは元来「鈍い」のだそうだ。この辺も実は重要な点だろうなあという気がする。他人と自分を比べていたらきりがない。

音楽家、学者、そして教育者としての話、それにアメリカ生活の話もとてもおもしろい。音楽や数学を専門としていなくても楽しく読める本だ。

天才にはほど遠い私も一時期はずっと早起きをしていたのだけど、最近は諸般の事情があって諦めて、普通の時間に寝て普通の時間に起きている。相変わらず夜のつきあいはあまりしないので体調は少し良くなった気がする。しかし、問題は生産性が上がっているか、下がっているかだ。もう少し見定める時間が必要だ。

仕事納め

大学教員にはあまりきっちりとした「休み」の制度がない。裁量労働といえばそうだし、過少労働の人も過剰労働の人もいる。私は要領が悪いのでダラダラと仕事をして過剰労働気味である(無論、パフォーマンスがどうかは別の話)。

しかし、外でしなければいけない仕事は昨日で終わり。某所の勉強会で急場しのぎの発表をして、懇親会で楽しいお酒を飲んできた。大学の事務室も今日で終わりなので、一応の仕事納めだ。無論、休みに入っても原稿を書いたり、卒論、修論、博論を読まなくてはいけないからほとんど休みにはならない。外で拘束される時間がなくなるというだけだ。

ポロポロと外国からクリスマス・カードが届くのだけど、12月の忙しい時期によく書けるなと思う。日本は年末がやたらと忙しいけど、たぶん、アメリカではそれが少し早く来て、感謝祭あけからは休みめがけて猛烈モードに入るんだろうな。私は相変わらず年賀状を書いていない。こちらからあまり出さないから届く年賀状は減り続けている気がするが、初めて会った人から来てしまうので無くなるわけでもない。来年は仕事始めが実質的に9日(火)だから、大学に届いている年賀状を見て、申し訳ない思いをするような気がする。

私は忙しくなると新聞を読まなくなる。今日になって読もうと思ったら12月10日からたまっていた。毎日メールやウェブは見ているから、大事件を知らないということはもちろんない。しかし、やはり見落としている記事にへえっと思ったり、あの人が言っていたのはこの話かと思うこともある。つまり、インターネットも従来のマスコミもそれなりに居場所があるはず。

今年は通信と放送の融合がずいぶんと議論になったが、あんまり「融合」は進まないのではないかなあと思う。せいぜい「混合」ぐらいじゃないだろうか。この話は12月15日のコンテンツ政策研究会でも話したが、賛否両論あった。来年のバズワードは何なのだろう。