北京の空は暗い

共同研究の一環として北京の中国現代国際関係研究院を訪問。前回2001年(?)に訪問した時にはなかった立派な建物ができている。キャンパスのような作りで、大きな庭や豪華な会議室がいくつもあってうらやましい。人口が多いと言っても、北京は街の造りが広々としている。

そのせいか、初めて北京に行った1999年と比べても、どんどん自転車の数が減り、車が増えてきている。車のグレードも上がっている。タクシーも以前はシトロエンなんかが多かったけど、もう少し大きくてしっかりした車が増えてきた。ホテルの窓から見ていると、ひっきりなしに車が走り続けている。すっかり車社会になってしまった。

交通量の増大に伴って気になるのが大気の状態。うだるような暑さの北京を予想していたのだが、到着した夜は霧がかかっているような感じで意外にも涼しい。翌朝も曇っているのか、スモッグなのか、空が暗い。雨も降ってきて、涼しいまま過ごせた。東京の方がずっと暑い。単に天気が悪かっただけならいいのだけど、大気汚染が進んでいるのだとすると心配だ。

北京は昨年一泊二日で訪れて以来だが、今回の滞在も二泊三日。一日目の夜に着いて三日目の早朝に発ったので実質一日だけ。万里の長城も見たことがないので、もう少しゆっくり見て回りたい。特に今回は中国の図書館を見たかったのだけど、時間がなくて行けなかった。残念だ。

出かける前に二冊、中国に関する本を読んでいった。夜の宴会の席で、酔っぱらった勢いでいろいろ仕入れたネタを確かめてみる。

「中国は六つのリージョナル国家に分かれていて、台湾を含めたUnited States of Chinaというアイデアもあるそうですが、どう思いますか?」

「中国は一つに決まっています。」

「香港を取り戻すとき、一国両制といったのだから、台湾の場合は一国三制というのはありえるのですかね。」

「香港と台湾は同じなので、一国両制でいいんです。」

「生産手段の共有が共産主義の定義だとすれば、中国は共産主義を採用しているようには見えません。世界の誤解を解くために、共産党はやめて人民党に変えたらどうですか。共和党でもいいですよね。中華人民共和国なんだから。共和党ならアメリカの人も台湾の人も喜びますよ。」

「ここにいるわれわれは共産党員なんですよ。あなたは何てことを言うんですか。」

あとは乾杯攻撃に遭って覚えていない。

陰謀論渦巻く

ワシントンDCで時間が余ると本屋に行ってブラウズしていた。Barnes and NobleやBORDERSが大きな書店だが、いくつか書店を回ってみても、めったに「Economics(経済学)」というコーナーがない(唯一あったのは専門書に特化したReiter’sだけだ。ここは私のお気に入りだが、最近移転してビルの地下の穴蔵みたいな店になった)。政治学は「Current Affairs」というコーナーに置いてあることが多い。

アメリカ人はあれだけ経済学が好きなのに経済学のコーナーがないのはおかしいと思って知り合いに聞いてみると、「専門書は在庫コストが高すぎるから、書店の店頭には置かなくなった。みんなオンラインで買うんだよ。後は大学の中の書店だね」とのこと。「Current Affairs」のコーナーがあるのもワシントンDCならではなのかもしれない。

インテリジェンス関連の本を見ていて目立っていたのが9/11陰謀論についての本。ネット上では9/11がブッシュ政権の仕業だとか、あるいは少なくとも事前に知っていただとかいう陰謀論(conspiracy theory)が渦巻いている。日本ではベンジャミン・フルフォードという元フォーブス誌アジア太平洋支局長が『9.11テロ捏造』という本を出している(しかし、この本には英語の原著がないようだ)。こんなビデオも出回っている。

こうした陰謀論を検証するためにPopular Mechanicsという雑誌が陰謀論を検証する『Debunking 9/11 Myths』という本を出した(debunkは「正体[偽り・誤り]を暴く[暴露する]、すっぱ抜く」という意味)。ジョン・マッケイン上院議員が序文を書いている。

これに怒った陰謀論者のDavid Ray Griffinは、『Debunking 9/11 Debunking』という本を出した。この人は神学の大学教授だった人だ。

言論の自由とはこういうことなんだろうね。

ハッカー誕生の地

久しぶりにアメリカに行ってきた。ワシントンDCは2005年9月以来だろうか。前職のときはしょっちゅう行っていたが、最近は海外出張に行く時間がなくなってきたのがさびしい。

しかし、ワシントンは東京以上に蒸し暑くて大変だった。いろいろ聞いて回ったが、イラク戦争一色で、議会が民主党主導になってしまったために、イラク戦争以外のアジェンダは大統領選挙の結果待ちになっているという。それにしたって大統領選挙まで16カ月もあるだろうに。

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今回一番おもしろかったのは、日帰りで行ってきたボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)。MITの卒業生でもある教授が案内してくれた。左の写真は、かつてハックのひとつとして消防車が乗っていたことのあるドームだ。

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表玄関の中のホールに「Established for Advancement and Development of Science its Application to Industry the Arts Agriculture and Commerce」と書かれている(ちなみに昔はUをVと表記したそうで、INDUSTRYがINDVSTRYになっている)。これが建学の精神なのだそうだ。ハーバード大学が真実の探究をモットーにしているのに対し、MITは応用科学をモットーにしている。写真にある「APPLICATION」が重要なのだ。わがSFCはなぜかハーバード関係者が多いのだが、慶應の実学の精神やSFCの総合政策学という視点から言えば、MITのほうが近いのではないかと思う。SFCの将来について議論をするとき、リベラル・アーツ・カレッジにしたい人と、リサーチ・ユニバーシティにしたい人との間で常に議論がある。私はどちらかというと後者だが、新学部長は前者だ。

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教授に案内してもらった後、今度は一人で有名なところを探しに行った。ハッカー誕生の地である。スティーブン・レビーが『ハッカーズ』でハッカー誕生の地としたのはMITのTech Model Railroad Club (TMRC) という鉄ちゃんたちのサークルだ(左の写真にあるドアの右側にある部屋)。見学の予約をしていなかったし、ミーティング時間とも外れていたので中は見られなかったが、なかなか感慨深いものがあった。SFCの教員にやたらと鉄ちゃんが多いこともMITとの共通性を感じさせる。

MITは理工系大学として誕生したのに、経済学や政治学もやたらと強い。理工系の研究者が2/3なんだそうだが、それでもノーベル経済学賞をとった人がたくさんいるし、国際政治も強い。日本の国際政治学者でも、猪口孝、田中明彦、薬師寺泰蔵、山影進といった先生たちがMIT出身だ。その辺のところを先述の教授に聞いてみると、「科学技術の研究だけでは社会への応用を考えるにあたって不十分だから、社会科学や人文科学にも力を入れることにした結果だ」という返事だった。実にいいねえ。

適々豈唯風月耳

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土曜日、日帰りで大阪に出かける。朝7時20分の新幹線に乗り、用事の前に適塾を見に行く。言うまでもなく福澤諭吉先生が蘭学を学んだところだ。地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から5分ぐらいのところで、日本生命のビルに囲まれている。今は大阪大学が所有している。

受付を入ってすぐのところに福澤先生の軸が飾ってある。

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適々豈唯風月耳。
渺茫塵芥自天真。
世情休説不如意。
無意人乃如意人。

「適を適とする、すなわち自分の心に適することを適とする、言い換えると自分の心に適うことをたのしむ生活、それは何も自然の風月をたのしむだけのものではない。むしろ広くて見定めがたい俗世間に天の理にかなった真実があるというものだ。世の中が自分の思い通りにならなくても、何も不満をこぼすことはないではないか。ことさらたくらむことなく真実に生きる人こそ、自分の思いを達する人なのだ。」(展示解説より)

いいなあ。

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二階にはヅーフ辞書(蘭和辞書)が置かれていたというヅーフ部屋がある。『福翁自伝』から想像していたよりも小さい。

「会読の準備のために、適塾内に一揃えしかないヅーフ辞書のまわりには多くの塾生たちが入れかわり立ちかわり押しよせて、この辞書を手にとることも容易でなく、ヅーフ部屋には燈火が一晩中たえなかったといわれています。塾生たちはむつかしい原書を読み解くのに、面目にかけても他の塾生から教えてもらうことはなく、完全に自分で考え工夫をして説をつけ、それで塾生同士おたがいに学力をたたかわすことを誇りにしていました。」(展示解説より)

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ヅーフ部屋を抜けたところに塾生大部屋がある。ここも想像していたよりもはるかに狭い。

「適塾には、常時百人をこえる塾生がいて、外から適塾へ通ってくる外塾生と、適塾内で起居する内塾生とがありました。内塾生はこの塾生大部屋を中心に、一人当たりたたみ一畳分だけの広さが割り当てられ、その中に机や夜具をおき、学習したり寝起きしたりしたのです。毎月末には、この割り当ての場所の席換えが行われ、その月の会読での成績順に上位の者から好みの場所を占有することができました。悪い場所に当った者は、みんなの通りみちになって夜間に踏み起こされたり、勉強するのに昼間もあかりをともしたりしなければなりませんでした。」(展示解説より)

畳一畳分とは実に狭い。しかし、仲間がいるから良い勉強になったのだろうな。今は途方もなく大きくなってしまったけれど、慶應義塾の原点はやはりこの適塾なのだろう。

学会

たぶん初めて三日連続で違う学会に参加した。本当は東北大学で開かれていた公共政策学会にも行きたかったけど断念。

土曜日は情報社会学会。午前中のセッション二つの司会。休八の学会タイマーに手伝ってもらったので、それほど大変ではない。それぞれ興味深い発表でいろいろ勉強になる。

日曜日はアメリカ学会。といっても津田塾の中山俊宏先生他のセッションだけ聞きに行く(出かけるときは大雨だったが帰りは晴れていた)。中山先生はさすがディープかつ詳細にアメリカ政治を追いかけている。たまたま私の後ろに座っていらした某有名な先生がコメント&質問で吠えていて少しびびる。立教大学はきれいでいいね。

月曜日は警察政策学会のシンポジウムのパネル・ディスカッションに招待参加。休講にしてしまって学生には申し訳ない。鶴木眞先生の基調講演の後、午後3時から6時まで、途中10分の休憩を挟んで長時間のパネル・ディスカッション。他のパネリストは現役の警察庁企画官、防衛研究所主任研究官で、コメンテーターは元警察庁長官。フロアで聞いている方々のほとんどは警察関係者とメディア。長時間でやたらと緊張度の高いパネル・ディスカッションに疲労困憊する。しかし、得たものも大きかった。

懇親会を早々に引き上げ、別の打ち合わせに参加。帰り際、シニアのTさんに「あなたの本は読んだけど、分かりやすすぎるね。そういうのが大事なのかもしれないけど」とのコメントをいただく。やはりそうですか。ううむ。

その後、数人で11時までスペイン料理屋でくだを巻く。アルコールは控えるが、疲れがどっと出てきた。帰宅しても疲れすぎて眠れない。明日の授業は大丈夫だろうか。

インテリジェンスの分析官による分析と学者による分析

私は2002年にアメリカから戻ってきたとき、インテリジェンス・コミュニティの研究をやろうと決意して、いろいろなところに書き散らしながらも遅々として本をまとめられずにいた。ようやくそれが何とか形になりそうで、がんばって作業をしている(はしかによる休講は、不謹慎だがうれしい)。

ある情勢分析の研究会でのこと、日本版NSC論議の裏で、情報機能強化検討会議というのも開かれていて、それについて少し話をした。

この研究会は大学や政府系研究機関などで地域研究などに携わる研究者たちの集まりで、それぞれ一家言を持っている人たちだ。質疑応答の際、ある人が、「民間と日本のインテリジェンス機関との間で相互交流をすれば質が上がるだろう、われわれのような連中が入っていくことで良い結果が生まれるだろう」と発言した。

確かに、米国ではそういうことも行われている。たとえば、ジョセフ・ナイが米国政府のNational Intelligence Councilの議長をしていたこともある。

しかし、一般論として言えば、これはうまくいかないと私は答えた。「ここにいる研究者や学者がインテリジェンスの分析をやってもまずうまくいかないだろう」とまで言ってしまった。この発言には一部の人たちが反発した。当然だろう。それぞれ北朝鮮や中国、ロシアなどの専門家である。常日頃、自分たちに政府の情勢分析をやらせろと思っているに違いない面々である。

それでもおそらく無理だろう。学者の分析とインテリジェンス機関の分析官の分析とでは責任の重みが違う。インテリジェンスの分析には人命が文字通りかかっている。分析に失敗すれば人命が失われる。

それに対し、学者の分析でそこまでの厳密さが求められることはまずない(情勢分析を間違えたからクビになった学者なんて聞いたことがない)。むしろ、分析としてのおもしろさ、鋭さに力点が置かれていることが多い。現実をいかに説明するか、それも統合的に整理しながら説明できるかに力が注がれている(前のエントリーで述べたことだ)。

しかし、現実の情勢はそれほどおもしろくないかもしれない。現実は時に複雑怪奇で、時にあっけないほど単純で説明がつかない。インテリジェンスの分析で求められているのは、おもしろいかどうかではなく、正確かどうかだ。それも、答えがないかもしれない問題に答えなくてはならない。おもしろおかしく無責任に答えるわけにはいかない。

学者は自分の学者としての名声・評判くらいしか最終的には求めるものがない。研究を追求して金銭的に儲かることはほとんどない。大学や研究所では、人事的な昇進もたかがしれている。仲間内での評判、世間での評価ぐらいしかモチベーションがない(他にあるとすれば単なる自己満足だ。まあ、私はこれに近いところがある)。そうすると、「う〜ん、なるほど」と人をうならせる分析に喜びを見いだしてしまう(人が多い)。

インテリジェンスの世界ではそんなものはない。誰もが無名で国家に奉仕している。米国の国家安全保障局(NSA)のモットーは「They Served in Silence」である。自分の分析によって国を守れるというところに喜びを見いだしている。マインドがあまりにも違う。

こんなことを考えていると、前回のエントリーで書いたようなことが私に起きたのは、ひょっとすると、現場でビジネスをやっている人たちにとっては、私の発言が軽すぎて気に入らないということなのではないか。分析力うんぬんの話ではなくて、「そんなに軽々しく言うなよ」という反発なのかもしれない。

つまり、「難解な物事をさらに難解に説明する」のが大事なのではなく、「難解な物事を簡単に、しかし、重々しく説明する」、これが大事なのかもしれない。

どうも私は苦労しているように見えないらしく、実年齢より若く見えるらしい(最近は年齢不詳とまで言われる)。同僚の一人は、眼鏡をかけないと学者らしく見えないからといって、コンタクトではなく眼鏡をわざわざかけている。もったいぶって理論武装しながら話すのは私は好きではないのだが(理論そのものは好きだけど)、そこら辺がポイントか。

とまあ、どうでもいいことをグズグズ考えるよりも、研究の原稿を書いた方がいいのでこれで終わり。

学者に求められていること

このエントリーは、一部の方には気に障る言い方があるかもしれませんが、ご容赦ください(このブログは検索エンジンになるべく引っかからないようにしているので、さほど読者はいないと思いますけど)。

***

大学院プロジェクトの課題図書なのでクリス・アンダーソンの『ロングテール』を読んでいる。ワイアードの元の論文は読んでいたし、まだロングテール論がそれほど話題になる前にアンダーソンの講演も聴いたことがある。しかし、こうやって一冊の本になって読み直すとやはりおもしろい。

読みながら、別のことを考え始めた。学者に求められていることだ。「ロングテール」というのは分かりやすいキーワードで、コンセプトもシンプルだ。シンプルなコンセプトで多くの事象を切れるところが理論的には優れている。しかし、シンプルであるが故にみんな分かった気になって軽視してしまうところがある。「ああ、またロングテールね」というわけだ。自分でも分かってしまうことを聞かされるとなぜかがっかりする人が多い。アンダーソンは編集者であって学者ではない。しかし、外国の「有名」な人という点では何となく「学者っぽい人」というイメージになっているのではないかと思う(しかし、アンダーソンが何者かということは話の本筋ではない)。

私はこれまで、書くときも話すときも、できるだけ分かりやすくしようと心がけてきた。意味不明の文章では出版しても仕方ないし、聞いている人が理解できない話をしても時間の無駄になるだけだろうと思ってきた。そのためには少々誇張した言い方や、単純化した言い方もしてきた。

しかし、それは学者に求められていることではないということがだんだん分かってきた。というのは、上記のような書き方、言い方をすると腹を立てる人がたまにいるのだ。つい先日、私がしたコメントに対して「ずいぶん乱暴な言い方でつまらない。もっと本質を議論するべきだ」とコメントしたビジネスマンがいた。私が「では本質はどこにあると思うのか」と質問すると、「私より経済学や専門のことが分かっている人が集まっているのだから、もっと議論すべきだ」というのが彼の答えだった(私が経済学者ではないということを知らないのだと思うし、まして私が何を研究しているのかも知らないで彼はコメントしたのだろう)。自分で答えを持っていて批判するのではなく、おそらくは自分が理解できてしまうことを、学者と呼ばれている人が話しているのが気に入らないのだろう。

こういう経験はこれまでも何度となくあった。学者相手だと、議論をシンプルにして原則論で戦おうという雰囲気になるが、学者ではない人は(まだ仮説の段階だが)難しくて高尚な話を聞きたがる。パネル討論の司会を任されたとき、議論を絞ってシンプルなフレームワークを設定したのだが、パネルの最後になってパネリストの企業役員が、物事はそんなに単純じゃないと一言けちを付けて帰っていったことがある。

実業界から学界に移ってきた人は二つのパターンに分かれる。第一に「自分は学者ではない」と開き直って自分の経験してきたことを再生しながらやりすごそうとする人。第二に、やたらと「学者とは」「学問とは」ということにこだわって生きていこうとする人だ。端から見ていてそんなにこだわらなくてもあなたは十分学者ですよといいたくなるほど思い詰めて研究する人もいる。何か自分の知らない学問奥義があるに違いない、それを知りたいと息巻くのだ。

文章についても同じことが言える。難解なものほど読み甲斐があるのだ。解釈の余地が大きいほどおもしろいとされる。私の原稿についていえば、分かりやすく書いてあるものほど評判が悪い(ただ単に私の原稿がおもしろくないというだけなら話は別ですけどね)。自分で読んでも難解なものほど引用されることが多い。「本当に分かっているのかな」と不思議になる。

つまり、私の今のところの作業仮説はこうだ。「人は分かってしまうほど不満になる。理解できないことにこそ知的喜びを見出す。」学者には分からない話をして欲しいのだ。難解な古典が読み継がれているのも同じ理由だ。ほとんどの人が挫折してしまうような難解な本でも、それが古典とされるとすばらしいものに思える。自分が理解しているかどうかは実は関係ない。

そうすると、学者に求められていることとは、物事をシンプルに説明する仮説や理論を提示することではなく、難解な物事をさらに難解に説明する理論を提示することなのかもしれない。難解な議論で煙に巻いてしまう方が学者の行動としては正しいのかもしれない。なるべく分かりやすく、(できればユーモアも交えようと努力しながら)議論しようとしてきた私の努力は、世の中が求めているものと違っていたのかもしれない(ただし、アメリカでは私のやり方はおそらく間違っていない。他の日本人の話が相対的に退屈なせいもあると思うが、シンプルなアイデアで本筋を話した方が活発で有益な議論につながる)。

この仮説を検証してみたい誘惑に少し駆られている。授業ではあまりやらない方がいいような気がするが、これからしばらく、学会パネルの司会、学会発表、ビジネスマンの前での講演などが続く。どうしようかなあ……。

(しかし、私の仮説が正しければ、このエントリー自体も批判を受けることになるはずだ。単純な仮説で説明しようとしているからだ。「バカにするな」とか「それはお前の問題だ」とか、そんな感じかな。まあいいや。)

ガラパゴス

Galapagoseo

ガラパゴス諸島に一度行ってみたい(連休に行けたらどんなに幸せか)。しかし、ICTの世界では日本市場が「ガラパゴス諸島」のような様相を呈していると「ICT国際競争力懇談会」の最終とりまとめが指摘している。そのまま保存しておいたほうがおもしろいんじゃないだろうか。

他にも「国際共生力」「技術外交」といったおもしろい言葉が出てきている。

アメリカの田舎にブロードバンドを

大統領選に向けてヒラリー・クリントンがアメリカの田舎を活性化する案を出し、その一環として「Rural Broadband Initiatives Act(田舎ブロードバンド主導法って感じか)」を出した。法案番号はS.1032。労働組合も支持しているというが、民主党らしい政策パッケージだ。

おもしろいのは、連邦通信委員会(FCC)に何かをさせるのではなく、農務省の中に「田舎ブロードバンド主導局(Office of Rural Broadband Initiatives)」を作ってしまおうということだ。その際、「Rural

Electrification Act of 1936(1936年田舎電化法)」とかいう古い法律を改正するという。電力のアナロジーでいこうということみたいだ。

ブロードバンドの導入によって農業の生産性を上げようと演説するのかな。確かに大事だと思う。このテーマは研究したいと思っていて、7年前からいろいろなところで言っているのだけど、あまり相手にしてもらえない。

でも、法案の成立は難しいだろうなあ。上院の「農業、食料、森林(Agriculture, Nutrition, and Forestry)委員会」に付託されているが、こんなところでブロードバンドの議論なんてできるのだろうか。

ネット時代の社会関係資本形成と市民意識

20070412socialcapitalメディアコムの菅谷先生を中心に続けてきた研究会の成果が出た。私の担当章は、『ブロードバンド時代の制度設計』という本で書いた「セルフ・ガバナンスの意義と変容」のアップデート版になる。

菅谷実、金山智子編『ネット時代の社会関係資本形成と市民意識』慶應義塾大学出版会、2007年3月30日、本体3000円+税、ISBN978-4-7664-1362-5(叢書 21COE-CCC 多文化世界における市民意識の動態 20)
「第5章 インターネット・コミュニティの変容」担当。

編集の村山さんに感謝。

ワンセグonマック

20070330onetvkk氏にそそのかされ、USB接続でマック上でワンセグのテレビが見られるデバイスを衝動買いする。この機種はウインドウズにもつなぐことができる。

確かに映る。テレビと見比べると6〜7秒ほど遅れている。

しかし、自宅では電波が弱いらしく、すぐに切れてしまう。パワーブック(G4世代)の性能のせいかもしれないが、パソコンの操作をすると途切れてしまう。無線LANと周波数は違うが、ポンと出力がかかると切れる感じだ。じっと画面を見るために必要なわけではなく、他の作業をしながら音だけ聞きたい(いざというときには画面も見たい)ので、やや期待はずれだ(大学の部屋の電波状況が良ければうれしいのだが)。

添付のデスクトップピクチャでは画面を二倍にしてある。実際はこの半分。画面を大きくするほど当然ながら粗さが目立って、動きがデジタル的にぎこちなくなる。

一見すると通信と放送の融合という感じがするが、せいぜい「混合」だなという感じがする。ワンセグ用の電波と無線LANの電波は違い周波数だから、一つのパイプなり波なりの上でデジタル化された信号が融合して流れてくるわけではない。一つのパソコンの上で両方の電波を受信できるようにして、一つのスクリーンに入っているだけだ。

リアルタイムの録画や予約録画ができるは優れているが、良い電波状況を確保しながらパソコンの電源を起動させておかないといけない。ノートパソコンがスリープしてしまったら予約録画は失敗する。

録画したファイルも自由に編集ができるわけではなさそうだ(まだきちんと確認はしていない)。

コンテンツ的にも地上波その他と同じものしか流れていないから、融合とはいえない。連動してオンラインショッピングができるようになんて話があるが、同じパイプや波に乗っかってできないと実用性はないのではないかなあ。

このデバイス、ハードウェアのデザイン的にも意図があんまり理解できない。もうちょっとスタイリッシュにして欲しい。少なくともマックにはいまいち調和しない。

ま、出始めのデバイスにはいろいろ改善の余地がある。頻繁にソフトウェアはアップデートするとのことなので、期待してみよう。思わぬ形で役に立つかもしれない。友人N夫妻の家にはテレビがないから部屋が美しい。そういう家庭でもたまにテレビが見たくなった時には良いだろう。

【追記】このデバイス、ウインドウズ・マシンで使うほうがはるかに安定している。他の作業をしていてもあまり落ちない。

ドクター・フィッシュ

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先週、シンガポールで魚に足をついばまれる。ドクター・フィッシュと呼ばれているそうで、足がつるつるに。世の中には不思議なものがいるもんだ。

これも中立性問題か

マイナーな話題なんだけど、備忘録を兼ねて。

Molly Peterson, “FCC Grants Internet Phone Access,” Washington Post, March 2, 2007; D03.

タイム・ワーナーが訴えた請願を許可する形で、FCC(連邦通信委員会)がインターネット電話のための回線開放を決めた。構図としては大手の通信会社が中小の通信会社のネットワークを経由してVoIPを使えるようになったということらしい。

一般的にはケーブル会社のタイム・ワーナーと電話会社のAT&Tやベライゾンは競争関係にある。しかし、三社ともこの決定を歓迎している。

中小の(そしてたぶん過疎地にある)通信会社はまだ収益の大部分を固定電話サービスで上げている(アメリカの田舎にはうじゃうじゃ小さな電話会社がある)。このFCCの決定で、都会の大手通信会社のネットワークを使う加入者がVoIPを使って田舎の通信会社の固定電話と通話できるようになる。その結果、田舎の通信会社が得られる収益が変わるのだろう。

たぶん中小の通信会社のロビーイングを受けてサウス・カロライナの規制当局はそうした通信を認めていなかったが、FCCはこの規制をくつがえした。

ネットワークとネットワークをつなぐ際の相互接続料やアクセス・チャージは複雑怪奇でよく分からないが、「VoIPだけはつなぎたくないよ」という中小の通信会社のぼやきが聞こえてきそうだ。

ネットワークは中立的であるべきで、サービスやコンテンツを差別してはいけないという中立性原則に立てば、FCCの決定は正しい。それによって田舎にもブロードバンドが普及するとマーチン委員長は考えているようだ。しかし、その提供者が地元の中小通信会社ではなく、それを買収した大手になるかもしれない。利用者にとってはどちらがいいのだろう。

クリエイティブ・シティ

Creativecity

C&C振興財団監修、原田泉編著、上村圭介、木村忠正、庄司昌彦、陳潔華、土屋大洋、山内康英著『クリエイティブ・シティ—新コンテンツ産業の創出—』NTT出版、2007年2月28日、本体3200円+税、ISBN978-4-7571-0204-0

この本の取材をしたのは2005年の夏。かなり忙しかった頃で、自分の担当章を読み返すと息切れしているのが分かる(いいわけだなあ。しかし、私はずっと前に脱稿していて、半ば忘れていたのだけど、それが諸般の事情で遅れて今ごろ出版されたというわけです)。庄司さんのソウル(韓国)をはじめ、上村さんのウェリントン(ニュージーランド)、木村さんのボローニャ(イタリア)とバルセロナ(スペイン)など、他の章はおもしろいです。

春休み

20070205yugawara研究会(ゼミ)合宿と採点を終え、ようやく苦しい時期を切り抜けた(写真は帰りに真鶴半島で撮ったもの)。秋学期の採点量は春学期よりはるかに少ないけど、手抜きはできない。卒論の数もこれまでで最も多かった。しかし、自分が学生だった頃は同期のゼミ生が20人以上いたから、先生はもっと大変だったに違いない。

今日は、春から九州の大学に赴任する旧友の送別会。旧友と馬鹿話ができるのは良い気分転換になる(N夫妻のイタリア仕込みの料理も最高だった)。彼のゼミが軌道に乗ったら合宿はぜひ九州でやりたい。それぞれの分野は全然違うけど、それもまた楽しいだろう。頑張って欲しいなあ。

ようやく春休みに入ったが、もうすぐ入試シーズンだ。志願者が増えた。オープンキャンパスやら模擬講義やら出前講義やらをやった甲斐があった。出て行く学生に負けない、おもしろい学生に入ってきて欲しい。

みやじ豚BBQ

土曜日、キャンパスで熊坂研、井庭研と合同研究発表会をした後、みやじ豚のBBQをする。寒かったけど、うまかった。普段違うことをやっている人たちと研究について議論できるのはいいね。広い意味での社会学つながりだけど、それぞれのアプローチや手法が全然違うことが分かって刺激になった。写真はこちら

ネットワーク・パワー

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『ネットワーク・パワー—

情報時代の国際政治—』NTT出版、2007年。[NTT出版のページ

3年半ぶりにひとりで書いた本が出る。SFCFRIGLOCOMICPCNTT出版、その他の皆様のおかげです。特にMさん、ありがとうございます。時間かかっちゃってすみません。

今日、某所での研究会から帰宅してから、息抜きを兼ねて『不都合な真実』の英語版DVDを見る。インターネット革命の立役者の一人、アル・ゴアは環境問題に取り組んでいる。日本は環境問題のリーダーになるべきだというMITの先生の言葉を思い出す。技術と国際政治というのが広い意味で私の研究テーマだ。いずれ環境問題にも取り組んでみたいと思う。

コンビニ弁当の白身魚のフライ

今日は福澤先生の誕生日のため休みだ。たまった仕事をほっぽりなげて、師匠が「国際関係論の担当者必見」と推薦する『ダーウィンの悪夢』を見てきた。渋谷のシネマライズで19日まで上映している。

アフリカのビクトリア湖に放流されたナイルパーチという魚が引き起こした悲劇のドキュメンタリーだ。これはアフリカのローカルな悲劇ではなくグローバリゼーションがもたらした悲劇だ。大型で良質の白身がとれるナイルパーチは工場で加工されてヨーロッパと日本に輸出される。日本では別名「白スズキ」となってコンビニ弁当や学校給食の「白身魚のフライ」に化ける。

ビクトリア湖周辺の人々はナイルパーチが作りだした産業で潤う一方で、湖の環境は大きく代わり、新たな貧困と暴力が生まれている。

情報通信技術から見るグローバリゼーションは良い側面が目立つ。しかし、この映画が描くグローバリゼーションは圧倒的に悲劇的だ。そして、自分に何ができるのかが分からないことが腹立たしい。コンビニ弁当をボイコットしてもさしたる変化はないだろう。知らず知らずに貧困と暴力にわれわれは加担している。忸怩たる思いだ。次は『不都合な真実』を見に行かなくては。

箱根駅伝

20070103hakone

箱根駅伝を沿道観戦。写真は順大のアンカー。長い時間待っているのにランナーはあっという間に走り去ってしまう。速い。

我が校が出るのはいつのことやら。