新年の抱負

今年は変化と移動の多い年になりそうな気がする。だからこそ、目標は「没頭」である。我を忘れて夢中でいろいろなことをしてみたい。レーガン図書館での5時間は久しぶりに誰にも邪魔されない没頭した時間だった。ネットも通じないし携帯電話もかかってこない。目の前にある資料との格闘だけだった。こんな贅沢な時間はない。

おまけに新年早々良いことがあった。母校の三鷹高校が全国サッカーで都立高校として初の2勝目をあげたのだ。

三鷹が都立勢初の2勝目 全国高校サッカー

確かに私がいた当時からサッカー部は元気が良かったが、全国レベルにはなっていなかったはずだ。どちらかというとのんびりした高校で、そこが良さでもあったのだが、スポーツでも勉強でもガツガツした人は少なかった。しかし、いざテレビで見てしまうと大声で応援してしまう。これも夢中になれるすばらしい時間だった(録画で短縮されていたというのもあるけどね)。

LAからコミケへ

20071228reagan1.jpg

所用があってロサンゼルスに行ったついでに、大阪大学のロバート・エルドリッヂ先生に刺激され、郊外のレーガン図書館に寄ってきた。エルドリッヂ先生によれば歴代大統領は任期終了後に地元に図書館とミュージアムを建てる。そこに政権時代のあらゆる資料が集められる。今回、レーガン図書館の展示では、ナンシー夫人の服が特別展示されていた。しかし、展示の目玉はやはりエア・フォース・ワンとマリーン・ワン(ヘリコプター)の実物であろう。エア・フォース・ワンの内部も見ることができるが、写真は禁止。

20071228reagan2.jpg

ホワイトハウスのオーバル・オフィスのレプリカもある。レーガン大統領はジェリー・ビーンズが好きだったらしく、エア・フォース・ワンの中にもオーバル・オフィスの中にも瓶に入ったジェリー・ビーンズが置かれていた。これはメーカーが特別に作ってくれた展示用とのこと。

図書館の外にはベルリンの壁の実物が展示され、大統領のお墓もある(でも実にからっとしたものだ)。図書館は丘の上にあるが、木も生えていない岩山で、荒涼とした風景が周りには広がっている。陽気な大統領とは少し似つかわしくない感じがしたが、本当はこういう荒れ地が好きなカウボーイだったのかもしれない。

リサーチ・ルームにも入れてもらう。ここは前もって連絡をしてから行った方が良いそうだが、私は何とか入れてもらった。予約が必要なのは、資料が情報自由法(情報公開法)で公開が認められたものに限られるからだ。もし自分が欲しい情報がまだ公開されていない場合には、事前に公開請求をかけてから行った方がいい。

欲しい資料そのものではなかったが、関連するお宝資料にたまたまめぐり会えた。昼飯を食べる間も惜しんで389枚のコピーをとる。原資料は丁寧に扱わなくてはならず、ホチキスで止まっている場合にはいちいちアーキビストのところに持っていってとってもらわないといけない。一枚一枚丁寧にコピーをとっていると、5時間で389枚が限界だった。年末だったせいか、私の他には一人しかいなかったので、コピー機を独占できて幸運だった。

短い滞在から戻って、大晦日にコミケに学生と出かけた。話には聞いていたが、実際に行くのは初めてである。わざわざカタログを取り寄せてくれたS君に案内してもらった。東ホールと西ホールがあり、東ホールは山手線の満員電車並みの混雑だった。

20071231comike.jpg

西ホールでは卒業生のyokk がライトノベル(ラノベというらしい)の評論集を売っていた。きれいに製本してあり、完売したそうだ。お見事。近くで出店していた旧知のAさんとも久しぶりにお話しできた。ミリオタや政治評論のパンフレットも売っていて、こちらは何となく親近感を持つことができた。

LA郊外の岩山の上にあってほとんど人のいない図書館から18万人も押しかける東京のコミケへの移動は恐いぐらいだ。あれだけたくさんの人たちを引きつける力は何なのだろう。祭りとはああいうものなんだろうか。「まだ4万円も余っているよ」という声が聞こえてきたり、銀行のATMに長い行列ができていたりするのを見ると、確かに大きな「マーケット」になっているということはいえるだろう。

しかし、普通の市場経済とは何かが違う。例えば、それぞれの売り物の値段が100円や500円というスタンダード価格が付いている。ということは、中身を吟味した上で、それに見合う値段を付けているわけではないらしい。値段はあくまでコストを回収することができれば良い程度の意味しかないような気がする。手に入れられるか入れられないか、読んで、見て、おもしろいかどうか、それが重要なんだろうか。公文俊平流に言えば「智場」なんだろう。しかし、あそこまで大きくなるものか。

養老孟司『死の壁』によれば、戦争で発散できなくなった若い力が60年安保、70年安保に代表される学生運動につながったという。しかし、その学生運動ももはやない。若い力を発散する必要すらなくなっているのか、それともコミケは新しい力の使いどころなのか。興味深いが、なかなか腑に落ちない。

ところで、MovableTypeをアップデートしてみたらかなり改善されているようなので、またココログから移動してみようと思う。

グリーン・ブロードバンド

情報通信機器の省エネルギー問題というのを今年のテーマの一つとしてきた。国際社会経済研究所と中国の現代国際関係研究院との共同研究に参加して中国の人たちとも議論してきた。世界中でブロードバンドが普及すれば、24時間サーバーがエネルギーを食いつぶし、すごい熱を発散する。サーバー・ルームを冷やすためにエアコンが酷使される。特に中国でインターネットが普及するとそのインパクトは大きい。

そう思って細々と研究していたら、あれよあれよという間に世の中が動き出した(もっと早く研究しておけば良かった)。6月にはIntelやGoogleらがClimate Savers Computing Initiativeを立ち上げた。

11月にGoogleは、「石炭燃料より安い再生可能エネルギー」を開発するためのイニシアチブとして「RE<C」を立ち上げた。REとは再生可能エネルギー(Renewable Energy)のことであり、Cの化石燃料を上回るようにするという。

ヨーロッパからも「Saving the Climate @ the Speed of Light(PDFファイル)」という報告書が出ている。欧州委員会のINFSOが出しているパンフレット(PDFファイル)もある。

日本でも総務省が9月から「地球温暖化問題への対応に向けたICT政策に関する研究会」を始めた。

今月はCOP13の合意があって、米国も国連の枠組みに戻ってきた。

そして、「グリーン・ブロードバンド」と題するプロジェクトがカナダのCANARIEから始まっており、米欧のメーリング・リストで盛んに議論されるようになってきている。CANARIEはしばらく前にコミュニティ・ベースの光ネットワーク構築を盛んに行っていたが、その中心人物の一人、ビル・セントアーノーがグリーン・ブロードバンドを推進しようとしている。

彼のブログでパブリック・ドメインのPPTファイルが公開されていたので、それをざっと翻訳した(よく分からないネットワーク用語も入っているので誤訳はご容赦を)。

地球温暖化を低減するための次世代インターネット(PPTファイル)」by Bill St. Arnaud

元の英語のファイルはこちら(PPTファイル)。

「グリーン・ブロードバンド」は来年のキーワードになるだろうか。上述のプロジェクトについては1月25日に日中共同セミナーで発表する予定。

子供たちに明日はない

教育批判をしたいわけではない。12月21日の日経夕刊一面左上の「今どきキッズ」という特集記事で、子供たちの放課後が習い事などで忙しくなってスケジュール帳を持ち歩くようになっているという話が紹介されている。それは大変だなあと思う一方で、千葉大学の明石要一教授の言葉が印象に残る。「本来、明日を忘れて夢中で遊ぶのが子供の特権」だという指摘だ。

確かに子供は明日のことを考えなくて良い。夏休みが終わるなんてこと考えずに私は遊びまくっていた。大人になるってことは、明日のこと、その先のことを考えるようになるということなんだろう。学生を見ていても、子供っぽいところが残っている学生は、翌日の授業や一週間後の課題のことを忘れて残留(SFC用語で学校に泊まること)している(いや、先が見通せなかったから残留しているというべきか)。

年内の授業が終わって解放感を感じるのは、明日の授業の準備をしなくちゃという重しがなくなったからだ。深夜まで読みたい本を読み続けて、多少寝坊しても問題なくなった。これは実にうれしい。

ところで、レバノンの知り合いから憤怒のメールが届いている。9月のザルツブルグ・グローバル・セミナーで会ったとき、レバノンの大統領になると言っていたが、冗談だと思っていた。しかし、彼からセミナーの参加者みんなにメールが届くようになり、まったく興味の無かったレバノン情勢に興味を持つようになってきている。Googleニュースで「レバノン」と検索してもらえば分かるように、大統領選挙がメチャクチャになっている。

彼自身の名前はニュースに全然出てこないので、たぶん泡沫候補なんではないかと思う。しかし、NYタイムズのニコラス・クリストフが支持を表明しているぐらいだから、全く注目されていないわけでもない。レバノンの子供たちは明日を考えているのだろうか。

コンテンツ政策学会へ向けて

前のエントリーにあるとおり、コンテンツ政策研究会の総会があった。三部構成のうち、第三部は「コンテンツ学会の設立に向けて」というものだった。その場でも発言したけれども、十分に言いたいことが言えなかったので、ここにメモしておきたい。

■コンテンツ学とは

コンテンツ学とは何なのかという議論が出ていた。いったいどの学問分野に立脚するのかという議論もあった。しかし、これはあまり議論しても意味がない。新しい学問を作るために学会を作るのだから、既存の学問との接点を気にしすぎるのは良くないと思う。

コンテンツ学は、吉田民人や公文俊平が言うところの設計学であり、これまでの学問がやってきた認識学ではない(注)。「いったいどうなっているのか」を研究するのが認識学であり、「いったいどうやるのか」というのが設計学だ。昔ながらの言葉で言えば、理学と工学に近い。理学と工学は一緒になって理工学(部)になっているが、本来は別物だ。法学や経済学、政治学なども理学的な要素が強い。それに対して、どうやったら新しい概念、政策、組織、そしてコンテンツを作れるかというのが工学である。そして、工学は単なる応用研究ではなく、現場から見えてくる新しい知見もある(そちらのほうがおもしろいことも多い)。

別の言葉で言えば、分析学と総合学の違いである。1990年に慶應は総合政策学部を作った。「総合政策学」とは何なのかと17年も議論してきたわけだが、その中身は設計学であり、実践学であるという合意がほぼ固まった。出来事や対象物をバラバラにしてその構造や仕組みを明らかにしようとするのが分析学であり、いったんバラバラにしたものを組み立て直す、もっと新しくするのが総合学である。分析学がどちらかというと過去志向であるのに対し、総合学はどちらかというと未来志向であるといってもいいだろう。

コンテンツ学もそういう意味では、設計学であり、既存の認識学・分析学の視点からそれを評価しようと考えるのには無理がある。だから、新しい評価軸を作らなくてはいけない。

学問であるためには、一般的に体系と方法が必要である。コンテンツ学の体系は徐々に作っていけば良い。その体系が確立すれば、科研費の新しい項目としても追加されるし、図書館の分類表にも追加してもらえるだろう。そして、認識学・分析学のための手法は「どうなっているのか」を明らかにするための手法であり、設計学・総合学のための手法は「どうやるのか」を明らかにするための手法である。

そうすると、コンテンツ学における手法とは、コンテンツをどうやって作るかという手法である。コンテンツにはニュース番組や映画、アニメ、漫画、ブログ、音楽などさまざまなコンテンツがどうやって作られるのかを明らかにすることだろう。もしコンテンツ学部ができたとすれば、アニメ学科やウェブ学科ができても良い。映画の作り方に一定のノウハウがあるとすれば、それを体系的に(つまり効率的に)学べるようになれば良い。それを法学や政治学の視点から評価し直すというのはナンセンスだろう(ただし、分析学と総合学をブリッジするということは当然必要だ)。

■学会にするということ

学会にするということには手放しでは賛成できない。学会というのは一般にイメージされているよりも楽しくないし、運営が大変である。現在のコンテンツ政策研究会は非常にフレキシブルであり、誰でも参加できるようになっている。しかし、学会にして日本学術会議に正式に認めてもらうには、会則を定め、会長を選び、学会誌を作らなければならない(情報社会学会の設立でも同じことをやった)。そのためのコストは馬鹿にならない。

時間的なコストだけでなく、金銭的なコストをカバーするためには学会費を集めなくてはならない。学会誌を出すためには金銭的なコストがどうしても必要である。情報社会学会は入会金だけをとり、年会費をとっていないが、この方式で運営を続けるのは大変である(情報社会学会はイベントごとに参加費を集めている)。

「学会」という名前が付き、会費を集めることになると、敬遠する人が出てくるだろう。ビジネスマンはコンテンツの分野を研究するならまだしも、学術的な議論をしたいわけではないだろうし、お金まで払いたいとは思わないかもしれない。学生にとっても敷居が高くなるだろう。しかし、コンテンツ学には若い世代のクリエーターたちの参加が不可欠だ。その人たちが参加するインセンティブをうまく設計しないと空論だけになる。コンテンツを作る手法を見いだすためなのだから、クリエーターがいなければ意味が無い。

念のために言うと、コンテンツ学会に反対ではない。ただし、学会にすることのデメリットも少なからずあるので、うまく設計しないといけない。金正勲さんが言っていたように、志ある人が集まって作らなければいけないだろう(コンテンツ政策研究会とパラレルに動かすことも一案だと思う)。世の中にある学会の数だけ親分がいる。親分職を作るための学会設立はいけない。コンテンツの研究が既存の学会で認められないという主張も十分に理解できる。私も自分の研究を既存の学会で認めてもらうのにはとても苦労した(いまだに認められていないかもしれない)。しかし、だからといって内輪の学会を作ればいいということにもならないと思う。緩く開かれた、おもしろい学会にしたい。楽しいコンテンツについて研究する学会がおもしろくないのはしゃれにならない。

一言だけおわびを言えば、私もコンテンツ政策研究会の幹事の一人であり、学会化に向けた動きが進んでいることは知っていたのだから、今さらこんなことをいうのはフェアではないかもしれない。ごめんなさい。しかし、強く意識はしていなかった。前のエントリーにあるとおり、「学会になってしまうらしい」というのが正直な認識だった。今回、パネル・ディスカッションを聞いて、ようやく頭が反応した(その点、集まって議論するということはやはり重要だ)。このメモが建設的な議論につながればと思う。

注:公文俊平「一般認識学試論」『KEIO SFC JOURNAL』第7巻1号、2007年、8〜27頁。吉田民人「理論的・一般的な<新しい学術体系試論>」『新しい学術の体系—社会のための学術と文理の融合—』日本学術会議、2003年。

コンテンツ政策研究会総会

毎年秋はいつの間にか終わってしまう。今年もあっという間に終わってしまった。湘南台からSFCへと続く道の黄色い銀杏もすぐに散り始めた。それもどうやら30億シーズンぶりに秋がキャンセルされてしまったからのようだ。もう戻ってこないかもしれないという。実に寂しい。

といっている間に12月になっていて、毎年恒例のコンテンツ政策研究会の総会がある。学会になってしまうらしい。

======

2007年コンテンツ政策研究会総会 -コンテンツ学とコンテンツ学会の構築に向けて-

日時:12月21日(金)16時30分〜19時
会場:慶應義塾大学三田キャンパス北館ホール
http://www.keio.ac.jp/access/mita.html

■第1部「総会:2007年コンテンツ政策」
コーディネーター:
 中村伊知哉(慶應義塾大学DMC機構教授/国際IT財団専務理事)
 小野打恵(ヒューマンメディア代表取締役社長)

■第2部「コンテンツ学の課題」
パネリスト:
 高橋光輝(デジタルハリウッド大学)
 佐々木尚孝(愛知産業大学造形学部デザイン学科教授)
 山口浩(駒沢大学グローバルメディアスタディーズ学部准教授)
 木村誠(長野大学企業情報学部准教授)
コーディネーター:
 福冨忠和(専修大学ネットワーク情報学部教授)

■第3部「コンテンツ学会の設立に向けて」
パネリスト:
 田川義博(マルチメディア振興センター専務理事)
 中村伊知哉(慶應義塾大学DMC機構教授/国際IT財団専務理事)
 小野打恵(ヒューマンメディア代表取締役社長)
 境真良(早稲田大学大学院国際情報通信研究科客員准教授)
コーディネーター:
 金正勲(慶應義塾大学DMC機構准教授)

■懇親会
 19時30分より2時間程度、立食、フリードリンク
 会場:三田82ALE HOUSE http://www.pub-82.com/page033.html
 参加費:社会人5000円、学生3000円を予定

■参加申込
「ご氏名」「ご所属」「懇親会参加の有無」をご記入の上、
contents@ifit.or.jpまでメールにてご連絡ください。

1994年のジャック・バウアー

ドラマ『24』のパロディ。1994年はこんな感じでしたね。携帯電話もブロードバンドもないとジャック・バウアーは間抜けになってしまう。他の人が電話を使うとネットが切れてしまうなんて不便な時代でした。おまけに従量課金。逆に、今の状況も、何年か後には滑稽に見えるのでしょう。

http://www.collegehumor.com/video:1788161

ORF 2007

S007

毎年の恒例行事ですが、ORFに参加します。六本木ヒルズで11月22日(木)と23日(休)です。

http://orf.sfc.keio.ac.jp/

今年はまじめに「

通信と放送の融合をデザインする」というセッションを担当します。

22日(木)11:50〜13:20です。

http://orf.sfc.keio.ac.jp/program/session/s007.html

イギリスと韓国からゲストを招き(同時通訳付き)、総務省でも議論になっている通信と放送の融合に関する法制度を考えます。中村伊知哉さん、金正勲さんたちも参加の予定です。

「高校生のためのSFC案内」というのにも顔を出します。

23日(休)の16:30-17:30です。

http://orf.sfc.keio.ac.jp/program/session/s024.html

「高校生のためのSFC案内」には出られなくなりました。ごめんなさい。

「しおかぜ」への影響が懸念される電波への対応

やっぱりこういうことが起きているんですねえ。

総務省は、本日の早朝、特定失踪者問題調査会(代表 荒木 和博)が運用する無線局「しおかぜ」と同一周波数で発射された電波が、北朝鮮からのものであることを確認し、当該電波の運用が国際電気通信連合(ITU)の定める無線通信規則に違反すると認められたことから、本日、ITUを通じて北朝鮮に対して同規則違反を通報しました。

http://www.soumu.go.jp/s-news/2007/071102_2.html

ヨーロッパで狙撃?

先々週から先週にかけてヨーロッパに出張する。通信と放送の融合に関する調査と学会参加が目的である。

最初の目的地はロンドン。空港からタクシーに乗った。窓の外を見ながらボーとしていたところ、突然バーンと大音響が響いた。何事かと後ろを振り向くと、タクシーの後部座席の窓が粉々に砕け、バスケットボールぐらいの大きな穴があいている。全く何が起きたのか分からない。運転手は私が頭をぶつけたのではないかと思ったらしく、大丈夫かと聞いてくるが、私はどこもぶつけておらず、ガラスの粉をかぶっただけだ。

驚いたことにタクシーの運転手は止まりもしないで走り続ける。銃で撃たれたのか、石が飛んできたのか、と聞いてくるが、私には何も分からない。ガラスが内側に向けて割れているのが確認できるが、石は見当たらない。警察に電話したらどうかと運転手に言ってみるが、そのまま走り続ける。狙われて銃撃されたのなら走り続けるのが正しいが(この辺がロンドン・タクシーのプロフェッショナリズムか)、そんな覚えはない。

運転手は携帯電話で誰かに話し始めたが、どうも家族か友人に話しているような口ぶりだ。そのまま市内のホテルに到着した。車を止めて二人で確認するが、何が起きたのかよく分からない。あまりにびっくりして写真を取り忘れたのが悔やまれる。正確には、撮ろうと思ったのだが、それどころじゃないだろともう一人の自分が言っていた。

20071021mi5

20071021mi6

インテリジェンスの研究なんかやるから警告されたのだろうと友人に言われたが、懲りずにMI5(上の写真)とMI6(下の写真)を見物に出かける(もちろん外観だけ)。両者はテムズ川を挟んでそれほど遠くないところに位置している。MI6の建物は英国らしくない奇妙なデザインだ。007シリーズでここからボートに乗って007が飛び出してくるシーンがあるらしい。

その後、学会のためにフランスのニースに行き、再び調査のためにベルギーのブリュッセルに行く。両方とも2回目なので懐かしい。

9月はじめにオーストリアで開かれたザルツブルグ・グローバル・セミナーで会った欧州委員会の友人にブリュッセルで再会。彼は欧州委員会で安全保障を担当している。ロンドンでの経験を話したら、そんなことあるかと笑っていた。しかし、原因は分からない。ヨーロッパは危ないところだ。

全然関係ない話だが、ブリュッセルで会ったスコットランド人にITとエネルギー/環境問題について日中共同研究をしているんだと説明したら、「お前はロンドンの霧って見たことあるか」と聞かれた。話には聞くけど見たことはない。実はあれはテムズ川の霧ではなく、工業化によるスモッグだったのだとか。今の中国と同じというわけだ。霧というとロマンチックだが、スモッグといわれるとがっかりする。

情報による安全保障

Johoanzenhosho

土屋大洋『情報による安全保障—ネットワーク時代のインテリジェンス・コミュニティ—』慶應義塾大学出版会、2007年9月25日、本体4500円+税、ISBN978-4-7664-1417-2 [慶應義塾大学出版会のページ

2001年の9.11以来、丸6年。ようやく研究してきたことをまとめられた。たくさんの方々に教えていただいた。感謝!

レンディション

スティーヴン・グレイ(平賀秀明訳)『CIA秘密飛行便—テロ容疑者移送工作の全貌—』(朝日新聞社、2007年)。

来月上旬に参加する予定のセミナーの予習として読む。

レンディション(rendition)とは本来「演奏、翻訳、演出、公演」という意味である。しかし、CIAが絡むと「国家間移送」という意味になる。

これはパナマのノリエガ将軍の事例が典型的なように、外国にいる(米国にとっての)犯罪者を本人の意思に反してCIAが米国へ移送し、裁判を受けさせるということを意味した。

ところが、9.11以後、米国は、ドイツからエジプトへというように第三国から第三国へテロ容疑者を移送し始めた。これを「特別レンディション」と呼んでいる。その飛行機はCIAがチャーターした豪華ビジネス・ジェットである。主役級としてこの本に出てくるのは「ガルフストリームV」という飛行機だ。

CIAは何をしているのか。拷問の外注(アウトソーシング)というのがこの本の取材結果だ。拷問は米国法でも禁止されているし、国際的にもジュネーブ条約で禁止されている。そこで米国政府は、「拷問はしない」という口約束だけに基づいてシリアやエジプト、タジキスタンといった国々にテロ容疑者を渡し、実際にはそこで拷問させ、情報を得ているというわけだ。

本書の第一部は、読むのが苦痛だ。無実の人々が誘拐され、拷問された様子が再現されている。もちろん、完全に無実ではない人も含まれているのかもしれないが、実にひどい。それに比べて第二部と第三部は著者の取材過程と特別レンディションに反対する人々の話が展開されておもしろい。

拷問によって得られる質の悪い情報に比べて、彼らと彼らの家族・友人が持つ敵対的な感情は、さらに多くの人を反米テロリストにしていく。こういうのを「ジェニン・パラドックス」というそうだ。

著者の結論は、「拷問をやってはいけないのは、それがわれわれ自身の社会を劣化させるからだ。拷問は社会を蝕んでいき、偽善的な秘密で隠さなければならなくなり、法の支配とわれわれ自身の道徳性の基盤を崩す結果へとつながる。だから、ダメなのだ」というものだ。

琵琶湖畔で研究合宿

20070812biwako

先週のことになるけど、昨年に続いて琵琶湖畔で研究合宿。ヨーロッパかと思わせるようなホテルで設備は豪華なのに、何も使う時間がない。プールで泳ぐ時間すらない。朝の新幹線に乗り、昼過ぎに到着。13時から翌日の16時まで、3時間のセッションを4回もやる。少人数なので眠っているとすぐばれる。グーグー眠っていたコメンテーターが「すばらしい発表でした」とコメントしているのには内心大笑い。つくづく彼は大物だと思う。

それぞれのキーノート発表はおもしろかった。文学についての研究発表なんてたぶん初めてではないか。刺激されて、帰ってきてからフィッツジェラルド(村上春樹訳)の『グレート・ギャッツビー』を読む。こんな話なのね。

先週は比較的時間があったので、本をかなり読む。しかし、積み上げられた本はなかなか減らない。人生の中で読める本の数は実に少ないと悲しくなる。来学期、学生と読む本をほぼ決める。

北京の空は暗い

共同研究の一環として北京の中国現代国際関係研究院を訪問。前回2001年(?)に訪問した時にはなかった立派な建物ができている。キャンパスのような作りで、大きな庭や豪華な会議室がいくつもあってうらやましい。人口が多いと言っても、北京は街の造りが広々としている。

そのせいか、初めて北京に行った1999年と比べても、どんどん自転車の数が減り、車が増えてきている。車のグレードも上がっている。タクシーも以前はシトロエンなんかが多かったけど、もう少し大きくてしっかりした車が増えてきた。ホテルの窓から見ていると、ひっきりなしに車が走り続けている。すっかり車社会になってしまった。

交通量の増大に伴って気になるのが大気の状態。うだるような暑さの北京を予想していたのだが、到着した夜は霧がかかっているような感じで意外にも涼しい。翌朝も曇っているのか、スモッグなのか、空が暗い。雨も降ってきて、涼しいまま過ごせた。東京の方がずっと暑い。単に天気が悪かっただけならいいのだけど、大気汚染が進んでいるのだとすると心配だ。

北京は昨年一泊二日で訪れて以来だが、今回の滞在も二泊三日。一日目の夜に着いて三日目の早朝に発ったので実質一日だけ。万里の長城も見たことがないので、もう少しゆっくり見て回りたい。特に今回は中国の図書館を見たかったのだけど、時間がなくて行けなかった。残念だ。

出かける前に二冊、中国に関する本を読んでいった。夜の宴会の席で、酔っぱらった勢いでいろいろ仕入れたネタを確かめてみる。

「中国は六つのリージョナル国家に分かれていて、台湾を含めたUnited States of Chinaというアイデアもあるそうですが、どう思いますか?」

「中国は一つに決まっています。」

「香港を取り戻すとき、一国両制といったのだから、台湾の場合は一国三制というのはありえるのですかね。」

「香港と台湾は同じなので、一国両制でいいんです。」

「生産手段の共有が共産主義の定義だとすれば、中国は共産主義を採用しているようには見えません。世界の誤解を解くために、共産党はやめて人民党に変えたらどうですか。共和党でもいいですよね。中華人民共和国なんだから。共和党ならアメリカの人も台湾の人も喜びますよ。」

「ここにいるわれわれは共産党員なんですよ。あなたは何てことを言うんですか。」

あとは乾杯攻撃に遭って覚えていない。

陰謀論渦巻く

ワシントンDCで時間が余ると本屋に行ってブラウズしていた。Barnes and NobleやBORDERSが大きな書店だが、いくつか書店を回ってみても、めったに「Economics(経済学)」というコーナーがない(唯一あったのは専門書に特化したReiter’sだけだ。ここは私のお気に入りだが、最近移転してビルの地下の穴蔵みたいな店になった)。政治学は「Current Affairs」というコーナーに置いてあることが多い。

アメリカ人はあれだけ経済学が好きなのに経済学のコーナーがないのはおかしいと思って知り合いに聞いてみると、「専門書は在庫コストが高すぎるから、書店の店頭には置かなくなった。みんなオンラインで買うんだよ。後は大学の中の書店だね」とのこと。「Current Affairs」のコーナーがあるのもワシントンDCならではなのかもしれない。

インテリジェンス関連の本を見ていて目立っていたのが9/11陰謀論についての本。ネット上では9/11がブッシュ政権の仕業だとか、あるいは少なくとも事前に知っていただとかいう陰謀論(conspiracy theory)が渦巻いている。日本ではベンジャミン・フルフォードという元フォーブス誌アジア太平洋支局長が『9.11テロ捏造』という本を出している(しかし、この本には英語の原著がないようだ)。こんなビデオも出回っている。

こうした陰謀論を検証するためにPopular Mechanicsという雑誌が陰謀論を検証する『Debunking 9/11 Myths』という本を出した(debunkは「正体[偽り・誤り]を暴く[暴露する]、すっぱ抜く」という意味)。ジョン・マッケイン上院議員が序文を書いている。

これに怒った陰謀論者のDavid Ray Griffinは、『Debunking 9/11 Debunking』という本を出した。この人は神学の大学教授だった人だ。

言論の自由とはこういうことなんだろうね。

ハッカー誕生の地

久しぶりにアメリカに行ってきた。ワシントンDCは2005年9月以来だろうか。前職のときはしょっちゅう行っていたが、最近は海外出張に行く時間がなくなってきたのがさびしい。

しかし、ワシントンは東京以上に蒸し暑くて大変だった。いろいろ聞いて回ったが、イラク戦争一色で、議会が民主党主導になってしまったために、イラク戦争以外のアジェンダは大統領選挙の結果待ちになっているという。それにしたって大統領選挙まで16カ月もあるだろうに。

20070721mit01

今回一番おもしろかったのは、日帰りで行ってきたボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)。MITの卒業生でもある教授が案内してくれた。左の写真は、かつてハックのひとつとして消防車が乗っていたことのあるドームだ。

20070721mit02

表玄関の中のホールに「Established for Advancement and Development of Science its Application to Industry the Arts Agriculture and Commerce」と書かれている(ちなみに昔はUをVと表記したそうで、INDUSTRYがINDVSTRYになっている)。これが建学の精神なのだそうだ。ハーバード大学が真実の探究をモットーにしているのに対し、MITは応用科学をモットーにしている。写真にある「APPLICATION」が重要なのだ。わがSFCはなぜかハーバード関係者が多いのだが、慶應の実学の精神やSFCの総合政策学という視点から言えば、MITのほうが近いのではないかと思う。SFCの将来について議論をするとき、リベラル・アーツ・カレッジにしたい人と、リサーチ・ユニバーシティにしたい人との間で常に議論がある。私はどちらかというと後者だが、新学部長は前者だ。

20070721mit01

教授に案内してもらった後、今度は一人で有名なところを探しに行った。ハッカー誕生の地である。スティーブン・レビーが『ハッカーズ』でハッカー誕生の地としたのはMITのTech Model Railroad Club (TMRC) という鉄ちゃんたちのサークルだ(左の写真にあるドアの右側にある部屋)。見学の予約をしていなかったし、ミーティング時間とも外れていたので中は見られなかったが、なかなか感慨深いものがあった。SFCの教員にやたらと鉄ちゃんが多いこともMITとの共通性を感じさせる。

MITは理工系大学として誕生したのに、経済学や政治学もやたらと強い。理工系の研究者が2/3なんだそうだが、それでもノーベル経済学賞をとった人がたくさんいるし、国際政治も強い。日本の国際政治学者でも、猪口孝、田中明彦、薬師寺泰蔵、山影進といった先生たちがMIT出身だ。その辺のところを先述の教授に聞いてみると、「科学技術の研究だけでは社会への応用を考えるにあたって不十分だから、社会科学や人文科学にも力を入れることにした結果だ」という返事だった。実にいいねえ。

適々豈唯風月耳

20070615tekijuku1

土曜日、日帰りで大阪に出かける。朝7時20分の新幹線に乗り、用事の前に適塾を見に行く。言うまでもなく福澤諭吉先生が蘭学を学んだところだ。地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅から5分ぐらいのところで、日本生命のビルに囲まれている。今は大阪大学が所有している。

受付を入ってすぐのところに福澤先生の軸が飾ってある。

20070615tekijuku1

適々豈唯風月耳。
渺茫塵芥自天真。
世情休説不如意。
無意人乃如意人。

「適を適とする、すなわち自分の心に適することを適とする、言い換えると自分の心に適うことをたのしむ生活、それは何も自然の風月をたのしむだけのものではない。むしろ広くて見定めがたい俗世間に天の理にかなった真実があるというものだ。世の中が自分の思い通りにならなくても、何も不満をこぼすことはないではないか。ことさらたくらむことなく真実に生きる人こそ、自分の思いを達する人なのだ。」(展示解説より)

いいなあ。

20070615tekijuku1

二階にはヅーフ辞書(蘭和辞書)が置かれていたというヅーフ部屋がある。『福翁自伝』から想像していたよりも小さい。

「会読の準備のために、適塾内に一揃えしかないヅーフ辞書のまわりには多くの塾生たちが入れかわり立ちかわり押しよせて、この辞書を手にとることも容易でなく、ヅーフ部屋には燈火が一晩中たえなかったといわれています。塾生たちはむつかしい原書を読み解くのに、面目にかけても他の塾生から教えてもらうことはなく、完全に自分で考え工夫をして説をつけ、それで塾生同士おたがいに学力をたたかわすことを誇りにしていました。」(展示解説より)

20070615tekijuku1

ヅーフ部屋を抜けたところに塾生大部屋がある。ここも想像していたよりもはるかに狭い。

「適塾には、常時百人をこえる塾生がいて、外から適塾へ通ってくる外塾生と、適塾内で起居する内塾生とがありました。内塾生はこの塾生大部屋を中心に、一人当たりたたみ一畳分だけの広さが割り当てられ、その中に机や夜具をおき、学習したり寝起きしたりしたのです。毎月末には、この割り当ての場所の席換えが行われ、その月の会読での成績順に上位の者から好みの場所を占有することができました。悪い場所に当った者は、みんなの通りみちになって夜間に踏み起こされたり、勉強するのに昼間もあかりをともしたりしなければなりませんでした。」(展示解説より)

畳一畳分とは実に狭い。しかし、仲間がいるから良い勉強になったのだろうな。今は途方もなく大きくなってしまったけれど、慶應義塾の原点はやはりこの適塾なのだろう。

学会

たぶん初めて三日連続で違う学会に参加した。本当は東北大学で開かれていた公共政策学会にも行きたかったけど断念。

土曜日は情報社会学会。午前中のセッション二つの司会。休八の学会タイマーに手伝ってもらったので、それほど大変ではない。それぞれ興味深い発表でいろいろ勉強になる。

日曜日はアメリカ学会。といっても津田塾の中山俊宏先生他のセッションだけ聞きに行く(出かけるときは大雨だったが帰りは晴れていた)。中山先生はさすがディープかつ詳細にアメリカ政治を追いかけている。たまたま私の後ろに座っていらした某有名な先生がコメント&質問で吠えていて少しびびる。立教大学はきれいでいいね。

月曜日は警察政策学会のシンポジウムのパネル・ディスカッションに招待参加。休講にしてしまって学生には申し訳ない。鶴木眞先生の基調講演の後、午後3時から6時まで、途中10分の休憩を挟んで長時間のパネル・ディスカッション。他のパネリストは現役の警察庁企画官、防衛研究所主任研究官で、コメンテーターは元警察庁長官。フロアで聞いている方々のほとんどは警察関係者とメディア。長時間でやたらと緊張度の高いパネル・ディスカッションに疲労困憊する。しかし、得たものも大きかった。

懇親会を早々に引き上げ、別の打ち合わせに参加。帰り際、シニアのTさんに「あなたの本は読んだけど、分かりやすすぎるね。そういうのが大事なのかもしれないけど」とのコメントをいただく。やはりそうですか。ううむ。

その後、数人で11時までスペイン料理屋でくだを巻く。アルコールは控えるが、疲れがどっと出てきた。帰宅しても疲れすぎて眠れない。明日の授業は大丈夫だろうか。

インテリジェンスの分析官による分析と学者による分析

私は2002年にアメリカから戻ってきたとき、インテリジェンス・コミュニティの研究をやろうと決意して、いろいろなところに書き散らしながらも遅々として本をまとめられずにいた。ようやくそれが何とか形になりそうで、がんばって作業をしている(はしかによる休講は、不謹慎だがうれしい)。

ある情勢分析の研究会でのこと、日本版NSC論議の裏で、情報機能強化検討会議というのも開かれていて、それについて少し話をした。

この研究会は大学や政府系研究機関などで地域研究などに携わる研究者たちの集まりで、それぞれ一家言を持っている人たちだ。質疑応答の際、ある人が、「民間と日本のインテリジェンス機関との間で相互交流をすれば質が上がるだろう、われわれのような連中が入っていくことで良い結果が生まれるだろう」と発言した。

確かに、米国ではそういうことも行われている。たとえば、ジョセフ・ナイが米国政府のNational Intelligence Councilの議長をしていたこともある。

しかし、一般論として言えば、これはうまくいかないと私は答えた。「ここにいる研究者や学者がインテリジェンスの分析をやってもまずうまくいかないだろう」とまで言ってしまった。この発言には一部の人たちが反発した。当然だろう。それぞれ北朝鮮や中国、ロシアなどの専門家である。常日頃、自分たちに政府の情勢分析をやらせろと思っているに違いない面々である。

それでもおそらく無理だろう。学者の分析とインテリジェンス機関の分析官の分析とでは責任の重みが違う。インテリジェンスの分析には人命が文字通りかかっている。分析に失敗すれば人命が失われる。

それに対し、学者の分析でそこまでの厳密さが求められることはまずない(情勢分析を間違えたからクビになった学者なんて聞いたことがない)。むしろ、分析としてのおもしろさ、鋭さに力点が置かれていることが多い。現実をいかに説明するか、それも統合的に整理しながら説明できるかに力が注がれている(前のエントリーで述べたことだ)。

しかし、現実の情勢はそれほどおもしろくないかもしれない。現実は時に複雑怪奇で、時にあっけないほど単純で説明がつかない。インテリジェンスの分析で求められているのは、おもしろいかどうかではなく、正確かどうかだ。それも、答えがないかもしれない問題に答えなくてはならない。おもしろおかしく無責任に答えるわけにはいかない。

学者は自分の学者としての名声・評判くらいしか最終的には求めるものがない。研究を追求して金銭的に儲かることはほとんどない。大学や研究所では、人事的な昇進もたかがしれている。仲間内での評判、世間での評価ぐらいしかモチベーションがない(他にあるとすれば単なる自己満足だ。まあ、私はこれに近いところがある)。そうすると、「う〜ん、なるほど」と人をうならせる分析に喜びを見いだしてしまう(人が多い)。

インテリジェンスの世界ではそんなものはない。誰もが無名で国家に奉仕している。米国の国家安全保障局(NSA)のモットーは「They Served in Silence」である。自分の分析によって国を守れるというところに喜びを見いだしている。マインドがあまりにも違う。

こんなことを考えていると、前回のエントリーで書いたようなことが私に起きたのは、ひょっとすると、現場でビジネスをやっている人たちにとっては、私の発言が軽すぎて気に入らないということなのではないか。分析力うんぬんの話ではなくて、「そんなに軽々しく言うなよ」という反発なのかもしれない。

つまり、「難解な物事をさらに難解に説明する」のが大事なのではなく、「難解な物事を簡単に、しかし、重々しく説明する」、これが大事なのかもしれない。

どうも私は苦労しているように見えないらしく、実年齢より若く見えるらしい(最近は年齢不詳とまで言われる)。同僚の一人は、眼鏡をかけないと学者らしく見えないからといって、コンタクトではなく眼鏡をわざわざかけている。もったいぶって理論武装しながら話すのは私は好きではないのだが(理論そのものは好きだけど)、そこら辺がポイントか。

とまあ、どうでもいいことをグズグズ考えるよりも、研究の原稿を書いた方がいいのでこれで終わり。

学者に求められていること

このエントリーは、一部の方には気に障る言い方があるかもしれませんが、ご容赦ください(このブログは検索エンジンになるべく引っかからないようにしているので、さほど読者はいないと思いますけど)。

***

大学院プロジェクトの課題図書なのでクリス・アンダーソンの『ロングテール』を読んでいる。ワイアードの元の論文は読んでいたし、まだロングテール論がそれほど話題になる前にアンダーソンの講演も聴いたことがある。しかし、こうやって一冊の本になって読み直すとやはりおもしろい。

読みながら、別のことを考え始めた。学者に求められていることだ。「ロングテール」というのは分かりやすいキーワードで、コンセプトもシンプルだ。シンプルなコンセプトで多くの事象を切れるところが理論的には優れている。しかし、シンプルであるが故にみんな分かった気になって軽視してしまうところがある。「ああ、またロングテールね」というわけだ。自分でも分かってしまうことを聞かされるとなぜかがっかりする人が多い。アンダーソンは編集者であって学者ではない。しかし、外国の「有名」な人という点では何となく「学者っぽい人」というイメージになっているのではないかと思う(しかし、アンダーソンが何者かということは話の本筋ではない)。

私はこれまで、書くときも話すときも、できるだけ分かりやすくしようと心がけてきた。意味不明の文章では出版しても仕方ないし、聞いている人が理解できない話をしても時間の無駄になるだけだろうと思ってきた。そのためには少々誇張した言い方や、単純化した言い方もしてきた。

しかし、それは学者に求められていることではないということがだんだん分かってきた。というのは、上記のような書き方、言い方をすると腹を立てる人がたまにいるのだ。つい先日、私がしたコメントに対して「ずいぶん乱暴な言い方でつまらない。もっと本質を議論するべきだ」とコメントしたビジネスマンがいた。私が「では本質はどこにあると思うのか」と質問すると、「私より経済学や専門のことが分かっている人が集まっているのだから、もっと議論すべきだ」というのが彼の答えだった(私が経済学者ではないということを知らないのだと思うし、まして私が何を研究しているのかも知らないで彼はコメントしたのだろう)。自分で答えを持っていて批判するのではなく、おそらくは自分が理解できてしまうことを、学者と呼ばれている人が話しているのが気に入らないのだろう。

こういう経験はこれまでも何度となくあった。学者相手だと、議論をシンプルにして原則論で戦おうという雰囲気になるが、学者ではない人は(まだ仮説の段階だが)難しくて高尚な話を聞きたがる。パネル討論の司会を任されたとき、議論を絞ってシンプルなフレームワークを設定したのだが、パネルの最後になってパネリストの企業役員が、物事はそんなに単純じゃないと一言けちを付けて帰っていったことがある。

実業界から学界に移ってきた人は二つのパターンに分かれる。第一に「自分は学者ではない」と開き直って自分の経験してきたことを再生しながらやりすごそうとする人。第二に、やたらと「学者とは」「学問とは」ということにこだわって生きていこうとする人だ。端から見ていてそんなにこだわらなくてもあなたは十分学者ですよといいたくなるほど思い詰めて研究する人もいる。何か自分の知らない学問奥義があるに違いない、それを知りたいと息巻くのだ。

文章についても同じことが言える。難解なものほど読み甲斐があるのだ。解釈の余地が大きいほどおもしろいとされる。私の原稿についていえば、分かりやすく書いてあるものほど評判が悪い(ただ単に私の原稿がおもしろくないというだけなら話は別ですけどね)。自分で読んでも難解なものほど引用されることが多い。「本当に分かっているのかな」と不思議になる。

つまり、私の今のところの作業仮説はこうだ。「人は分かってしまうほど不満になる。理解できないことにこそ知的喜びを見出す。」学者には分からない話をして欲しいのだ。難解な古典が読み継がれているのも同じ理由だ。ほとんどの人が挫折してしまうような難解な本でも、それが古典とされるとすばらしいものに思える。自分が理解しているかどうかは実は関係ない。

そうすると、学者に求められていることとは、物事をシンプルに説明する仮説や理論を提示することではなく、難解な物事をさらに難解に説明する理論を提示することなのかもしれない。難解な議論で煙に巻いてしまう方が学者の行動としては正しいのかもしれない。なるべく分かりやすく、(できればユーモアも交えようと努力しながら)議論しようとしてきた私の努力は、世の中が求めているものと違っていたのかもしれない(ただし、アメリカでは私のやり方はおそらく間違っていない。他の日本人の話が相対的に退屈なせいもあると思うが、シンプルなアイデアで本筋を話した方が活発で有益な議論につながる)。

この仮説を検証してみたい誘惑に少し駆られている。授業ではあまりやらない方がいいような気がするが、これからしばらく、学会パネルの司会、学会発表、ビジネスマンの前での講演などが続く。どうしようかなあ……。

(しかし、私の仮説が正しければ、このエントリー自体も批判を受けることになるはずだ。単純な仮説で説明しようとしているからだ。「バカにするな」とか「それはお前の問題だ」とか、そんな感じかな。まあいいや。)