戦争と情報

20061207chuchill二泊四日で英国に出張。

帰国便は夜だったので、午前中の用事を済ませた後、午後はチャーチル博物館を見に行く。ブレア首相のいるダウニング街10番地のすぐ裏手にあって、非常にこぢんまりとした入り口だ。実はここは第二世界大戦中の内閣が置かれていたところで、この入り口から先が複雑な地下施設になっている。閣議が開かれた部屋や、チャーチルの書斎、寝室、キッチン、スタッフの寝室、通信室、作戦室などがあって展示されている。その戦時内閣室(War Cabinet Rooms)の奥にチャーチルの博物館がある。

ところで、第二次世界大戦中の日本の暗号が解読されていた話はよく知られている。しかし、なぜ日本はそれほど情報を軽視したのか、その理由がよく分からない。

谷光太郎『情報敗戦』(ピアソン・エデュケーション、1999年)を読むと、日本の参謀本部はドイツを手本にしていたからだという説明がある。プロイセンの伝統を受け継ぐドイツでは情報参謀よりも作戦参謀のほうが幅をきかせていたのに対し、フランスや米国では両者が対等な関係にあった。日本はドイツをまねしてしまったために、情報よりも雄弁を好む作戦参謀の暴走を許したということらしい。

そこで、渡部昇一『ドイツ参謀本部』(中公文庫、1986年)を読んでみる。しかし、ドイツの参謀のヘルムート・モルトケが電信を重視するなど情報を重視したことは書いてあるが、情報参謀と作戦参謀の力関係については何も書かれていない。

飛行機の中で、大江志乃夫『日本の参謀本部』(中公新書、1985年)を読む。これによると、モルトケの推薦を受けたお雇い外国人のクレメンス・メッケルを通じて、確かに日本はドイツの影響を受けていたことが分かる。もっと興味深いのは、明治の元老・山県有朋が情報政治家、謀略家であり、山県の影響が陸軍に強く残り、「日露戦争を契機として情報活動とは謀略活動であると考える伝統が成立した」ということである。こうなってしまうと、まっとうな精神の持ち主が情報を忌避したくなるのが分かる。

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しかし、チャーチルは、「すばらしいこととは、それが何であれ、真実の姿を得ることだ」といっている。ここが違いだろう。

スター・プレーヤーの中途採用は危険である

ボリス・グロイスバーグ、アシシェ・ナンダ、ニティン・ノーリア「スター・プレーヤーの中途採用は危険である」『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2004年10月号、135〜148ページ。

二年前の記事だが、たまたま読んでおもしろかった。金融アナリスト1052人の調査の結果、スター・プレーヤーが引き抜きにあって移籍すると、たいていはパフォーマンスが落ちてしまうという。

スター・プレーヤーは、個人の能力の要素も大きいものの、組織やチームワークによってもそのパフォーマンスは大きな影響を受けている。元の実力が移籍先で簡単に出せるわけではない。高額の報酬で入ってくるスター・プレーヤーを元からいる人たちがよく思わないことも多い。組織になじむのに二、三年かかるし、一度移籍した人はまた移籍しやすくなるともいう。

プロ野球を見ていてもそうだし、大学でも当てはまる気がする。

筆者たちの結論は、忠誠心の高い生え抜きのスター・プレーヤーを育てるべきだというもの。

組織は人事。難しい(私は人事に一切関わっていない。念のため)。

ネットワークの中立性と表現の自由

ネットワークの中立性が少しだけ世の中の話題となっている。この問題はいろいろな様相を見せているので、理解しがたい。

先日、あるところでの議論で、アメリカの中立性論議は表現の自由の問題にまで発展していてやりすぎだ、という話があった。日本の文脈でそれを論じるのは確かに少し無理があるかもしれない。

しかし、アメリカの政治や法律を学んだことがある人は、それほどかけ離れた話だとは思わないはずだ。というのも、情報公開法にあたる「情報自由法(FOIA)」の論議では、表現の自由の前提として情報への自由なアクセスが必要となるという認識が共有されているからだ。

情報自由法は、政府の情報独占に対抗するために市民が持てるツールである。政府が持つ情報とは、国民の税金によって活動した結果として持つようになった情報なのだから、当然国民のものである。国民が政府情報にアクセスするのは当然の権利だというのが情報自由法の論理である。

表現の自由とは、好き勝手なことを言うことではなく、政府の規制や検閲に怯むことなく自由な発言ができるということである。政府に対する批判を行うには、政府情報に自由にアクセスできなくてはならない。

そして、この考え方は、アメリカの中では、政府だけでなく公開企業の持つ情報や、市民活動に関わる広範な情報にも適用されるようになっている。情報は民主主義の通貨であるからだ。

こうした考えが背景にあって、インターネットは自由でなくてはならないという思想も形作られてきた。無責任な自由をインターネットの中で求めているわけではない。したがって、ネットワークのトラフィックを差別するということは、情報への自由なアクセスを奪うことにつながり、表現の自由を損なうおそれがある、というのがアメリカでのネットワーク中立性論議の「一つの」側面だ。

この文脈を理解するのにはそれなりの時間がかかるし、日本の文脈とは異なるということを考えれば、日本のネットワーク中立性論議にこの話を持ち出すのは不適切かもしれない。しかし、このアメリカの文脈を理解していなければ、グローバルな存在としてのインターネットを理解することも難しいだろう。

ネットワーク中立性の話を、「アメリカと日本は違う」と切り捨て、単純化し、日本の国境の中に閉じこめた話にするのは、それこそ議論を歪めることにならないだろうか。インターネットはグローバルな存在なのだから。

コンテンツ政策研究会2006年総会

1 コンテンツ政策研究会2006年総会
 日時 12/15(金)17:00〜19:00
 場所 慶應義塾大学東館6F
    東京都港区三田2-15-45
    http://www.keio.ac.jp/access/mita.html
 テーマ コンテンツ政策2006〜2007
 参加費 無料

2 懇親会
 日時 12/15(金)19:30〜21:00
 場所 白十字
    東京都港区芝5-14-2 徐ビル
   (慶應東館から東門を出て1分)
    Tel;03-3451-1219
 参加費 社会人5,000円  学生3,000円

ご参加いただける方は、事務局<contents@ifit.or.jp>あてメールにてご連絡ください。
それぞれ定員がありますので、満席になりましたらご容赦ください。

創発する社会@ORF

Souhatsu_coverh1on國領二郎編著『創発する社会—慶應SFC〜DNP創発プロジェクトからのメッセージ—』日経BP企画、2006年。

ちょっと宣伝。今月22日、23日のORF(Open Research Forum)2006に合わせて発売。私も少しだけ書く。プロジェクトは参加していてすばらしく刺激的で創発的。そうした雰囲気がうまく本を通じて伝わるといいのだけどどうだろう。この画像では分かりにくいが、表紙カバーに少し凹凸がついていて、おもしろい。

書籍自体は22日朝から下記二店舗で先行発売。

◎丸善 丸ビル店
◎丸善 丸の内本店(オアゾ内)

ORFでも関連セッションあり。

「慶應SFC〜DNPセミナー『創発する社会』」11月22日(水)18:00-19:30

ORFでは他に二つのセッションに顔を出す予定。

「クリエイティブ社会のための法制度-クール・ブリタニカとクール・ジャパン」11月22日(水)14:00-15:30

「SFC研究プロジェクト見学会」11月23日(木・祝)10:00-11:30 ※高校生向け

人脈づくりの科学

安田雪『人脈づくりの科学』日本経済新聞社、2004年。

著者はネットワーク分析の第一人者。お目にかかったことはないが、本書の中のご本人の弁によれば、人見知りをされる方のようだ。だから、前半の書きっぷりは控えめなのだが、後半になるとおもしろい。自分の人間関係を見つめ直そうかという気になる。どうやら堅固なネットワークよりも、緩いネットワークのほうがいいらしい。どうにもならなくなったネットワークの壊し方まで書いてある。

観艦式

20061022sdf自衛隊の観艦式予行を見に行った。おそらく9年ぶりではないかと思う(昨年、江田島を見学させてもらったけど)。

観艦式とは、観閲官である総理大臣が海上自衛隊の防衛力を実地で見るというもので、相模湾で行われる。来週の本番までに予行が3回行われる。それぞれ数千人の一般の人々が数十隻の護衛艦などの上から見守る一大イベントだ(写真の護衛艦のデッキにも人がわさわさ乗ってます)。

何とか級何番艦というスペックが全然頭に入らない私はミリオタではないし、自衛隊に強い興味があるわけでもないが、自衛隊を語る前にこういう現場を見ておくことは重要だと再認識する。

それにしても、自衛隊には何も興味ないはずの同僚T氏が、フネオタ(船のオタク)というだけで、高級カメラと一脚を持ってきていたのにはびっくりした。

コンサート・オブ・デモクラシーズ

久しぶりに国際政治学会に行ってきた。ここ数年はいろいろ重なってしまって行けないでいた。自分の発表は初日の最初の部会で終わってしまったので、残りの時間はじっくりと他の部会や分科会を見て回ることができた。

今回は50周年記念大会で、記念シンポジウムが開かれた。基調講演は緒方貞子さん。パネル・ディスカッションでG・ジョン・アイケンベリー教授が「コンサート・オブ・デモクラシーズ」という言葉を使っていたのにはっとした。興味深い言葉だ。報告書が出たばかりのようだ。デモクラシーのように定義する人によって違う言葉を使ってコンサート(調和)が築けるのだろうか。

北京弾丸ツアー

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水曜日に一泊二日で北京まで行く。記憶違いでなければ北京は5年ぶりだ。2001年に行ったきりのような気がする。ネット関係の聞き取り調査で、Hさんにお世話になりっぱなしだった。ありがとうございます。

回れたところは当然少ないけれど、人民日報のウェブ版である人民網や政府とパイプを持つコンサルティング会社などで良い話を聞くことができて、大きな収穫があった。一枚目の写真は、人民網でライブチャットをするときのスタジオ。ちょうど終わったところだったが、こんな風に輪になりながら、オンラインで議論しているらしい。

本当はいつもお話しをうかがう星流さんにも行きたかったのだが、時間がなくて断念。平壌ウォッチャーの方との朝食も実におもしろかった。

20060920beijing_1夜は、Hさんの友人であるYさんの会社の大宴会に参加させてもらった。なんと西太后の避暑地だった頤和園である。ネット系ベンチャー企業なのだが、中国、アメリカ、日本、ドイツ、カナダに拠点を持つ勢いのいい会社だ。舞台では音楽や踊りを見せてくれているが、宴会自体が賑やかなので実に楽しい。英語、中国語、日本語が飛び交う。

しかし、疲労と寝不足と北京の砂埃にやられて、帰国してから一日ダウンしてしまった。おかげで出なくてはいけない研究会に出られず、何のために弾丸ツアーにしたのかよく分からなくなってしまった。

有効期限付きの帝国

大学の夏休みは長くていいですねといわれるが、そんなことはない。単に授業がないというだけだ。確かに自由裁量の余地が大きいが、こういう時にしかできない仕事も山ほどある。そうした仕事が終わらないうちに授業開始が迫ってくるのは恐怖に近い。世の中は連休なのだろうが、休んでいる余裕はない。

Niall Feruguson, “Empires with Expiration Dates,” Foreign Policy, Semptember/October 2006, pp. 46-52.

昔の帝国は長命だったが、20世紀以降の帝国は短命だそうだ。15世紀に始まったオスマン帝国は469年、ハプスブルグ帝国は392年、大英帝国は336年。しかし、継続中の米国は106年、同じく継続中の中国は57年、ソ連は69年、大日本帝国は49年、ナチスは6年。帝国の定義が広いのだと思うけど、おもしろい数字だ。

帝国としての米国も短命になりそうだと示唆している。国内的な制約があるからだ。第一に兵士の赤字、第二に財政の赤字、第三に注目の赤字である。米国は兵士もお金も失いたくない。国民が戦争を支持してくれる期間も短いというわけだ。

人間の終わり

フランシス・フクヤマ『人間の終わり—バイオテクノロジーはなぜ危険か—』ダイヤモンド社、2002年。

金曜日から一泊で慶應の鶴岡タウンキャンパスへ行ってくる。慶應のバイオ研究の拠点だ。一度行ってみたかったのだが、バイオのことはあまり分からないので、この本を読む。

フクヤマは、冷戦が終わりかけた1989年に「歴史の終わり?」と題する論文を書いて大騒ぎを起こした。リベラルな民主主義が勝利し、体制間論争が終わったという点で歴史が終わったと指摘したのだ。これはたくさんの議論を呼び起こした。

この拙稿に対する多くの批評を通じて考えさせられたが、唯一反論できないと思ったのは、科学の終わりがない限り、歴史も終わるはずがない、ということだった。(iページ)

というわけで書かれたのがこの本である。冷戦後の世界をポスト冷戦というが、フクヤマは、バイオが社会に浸透することによって、人間の時代が終わり、ポストヒューマンの世界が来るという。

本書の目的は、[『素晴らしき新世界』を書いた]ハックスリーが正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、我々が歴史上「人間後」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(9ページ)

バイオテクノロジーは、将来大きな利益をもたらす可能性がある反面で、物理的に見えやすい脅威、あるいは精神的で見えにくい脅威を伴う。これに対して、我々はどうすべきなのか。答えは明白である——国家の権力を用いて、それを規制するべきだ。(13ページ)

飛行機でこれを読みながら、どんな恐ろしいことが起きているのかと思って、庄内空港に到着。

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朝一番早いフライトにしたので、午前中は世界で一番クラゲの種類を集めているという加茂水族館へ。規模はそれほど大きくないが、クラゲだけは多い。クラゲには脳も心臓も血液もない。生物だから遺伝子は持っているが、意識はないわけだ。水槽の中で傘を閉じたり開いたりしながら浮遊している。ヒトも生物だが、クラゲも生物だ。クラゲアイス(刻んだクラゲが入っている)を食べながら、あらためて生物とは何かを考えるが、当然結論は出ない。バスに揺られて鶴岡へ(しかし、この水族館は、車がないとアクセスが悪い。バス停は遠くて、数が少ないので要注意。山形は車社会だ)。

鶴岡キャンパスのの施設はいくつかに分かれていて(行くまで知らなかった)、大きく分けるとキャンパスセンターとバイオラボ棟に分かれている(ここを参照)。両者は2キロぐらい離れていて、前者は市内中心部のお堀端、後者は田んぼの中。

バイオラボで施設見学をしたり、院生や教員の話を聞いたりする。ここでの研究の中心はメタボロームである。生物の細胞の中は、genome<transcriptome<protenome<metabolomeというようにレベル分けがされる。それぞれの細胞には600〜4万ぐらいの代謝物質というのがあり、メタボローム研究というのは、この代謝物質が何なのか、これがどんな病気と関係しているのか、というのを研究するものらしい。鶴岡にある先端生命科学研究所は、この分野で世界のトップだという。

メタボロームという言葉自体は新しくはないそうだが、最近ではメタボリック・シンドロームという言葉がバブル気味に使われている(ウエスト・サイズが問題だという話だ)。メタボロームの研究を始めたときは、センスが悪いといわれたそうだが、新しい電気泳動の装置を開発することによってブレークスルーが起きた(数年前アメリカで聞いたとき[この文章の後半のフォーマットが崩れているなあ]にはゲル電気泳動と言っていたが、それより進化しているらしい)。

話を聞きながら、『人間の終わり』とは違って、実にドライで、ビジネス・オリエンティッド(特許や創薬の話が絡むので)だと思った。フクヤマのような悲観論ではなく、科学が病気を治すことができるという信念に基づく楽観論である。ヒトはこのままどんどん変わっていくのだろうか。

それにしても、研究環境としては鶴岡キャンパスはすばらしい。ご飯はうまいし、四季折々を楽しめる。車社会だから若干渋滞はあるみたいだが、通勤地獄はない。SFCへの交通アクセスと比較すると何ともうらやましい。

知的生産者たちの現場

藤本ますみ『知的生産者たちの現場』講談社文庫、1987年。

古本屋でたまたま見つける。筆者は京都大学時代の梅棹忠夫先生の秘書。秘書に雇われた経緯から、国立民族学博物館の開設に伴う京大研究室閉鎖までの時代について書いてある。

低血圧であること、先生がお酒好きなこと、それをだしにしているかどうかは知らないけれど、原稿がなかなかできあがらず、いつも締め切りにおくれること、それで編集のかたがご苦労なさること、どれもみなほんとうのことである。(97ページ)

『知的生産の技術』の番外編みたいで興味深い。梅棹先生が実は遅筆だったと知って驚く。一週間も編集者が見張っていたのに原稿が書けなかったエピソードも紹介されている。あんなにおもしろい著作がたくさんあるのに不思議な感じだ。

それにしても、アイデア・ハックの先駆者だなあ。

膨張中国

読売新聞中国取材団『膨張中国—新ナショナリズムと歪んだ成長—』中公新書、2006年。

 中国側は靖国問題にひときわ神経をとがらし、[二〇〇五年]八月十五日を見据えていた。なぜ、こうまで靖国神社にこだわり続けていたのか。
 七月末、南部の広東省で会った党内事情に詳しい関係者が、ようやく答えを与えてくれた。彼は声をひそめながら、「カギは四月の反日デモだ。実は、あの時、政権は追い詰められていた」と口を開いた。

新聞連載時から時々読んでいた。まとめて読み直すとやはりおもしろい。迫力がある。

「みんなの意見」は案外正しい

ジェームズ・スロウィッキー(小高尚子訳)『「みんなの意見」は案外正しい』角川書店、2006年。

富士通総研の吉田倫子さんに原書の時から薦めてもらっていたが、翻訳が出るまでほったらかしにしていて、ようやく読んだ。おもしろかった。原書のタイトル『The Wisdom of Crowds』は、チャールズ・マッケイの『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds(狂気とバブル)』のオマージュなんだそうだ。

正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる。一度も誤った判断を下すことがない人などいないのだから、これは嬉しい知らせだ。(9〜10ページ)

確かにうれしい知らせだ。

一〇〇年の間にはどんなに賢い人でもおバカな発言をすることがあるので、彼らの見当違いの予測を珍しい例外と見做すこともできる。だが、専門家たちの悲惨な業績の記録はとても例外的とは思えない。(51ページ)

これはうれしくはないが、たぶんその通りだ。専門家(研究者)は、常識とは違う説明を追い求めている。常識通りの研究の価値は低いからだ。今までと違うからこそ研究の意義がある。

マスコミにコメントを求められるときも、「なるほど」と人をうならせるコメントを求められる。しかし、真実は常識的なところにあることが多い。人が知らないことならいざ知らず、奇想天外な仮説はやはり外れることが多い。だからこそ研究は難しい。

あの香りの原因

わがSFCの卒業生はすでに1万人ぐらいになるらしい。そのほぼ全員が驚き、失望したのが、あの「香り」であろう。雨が降った後などにキャンパス中に漂う強烈な「香り」である。おしゃれなシティ・キャンパスでないことは分かっていても、あの香りと慶應のイメージとは明らかにかけ離れており、新入生をがっかりさせてしまう。

その原因についてはすでにSFC CLIPが詳細なレポートを出している。この辺から香りが飛んでくる。

誰もが忌み嫌うこの香りなのだが、一度この豚肉を味わうと許せるようになるという噂がある。

藤沢市遠藤近辺ではSFCができる前から畜産が行われていたとのことで、頑張っているのがみやじ豚.comである。SFCの卒業生の宮治さんがやっている。しかし、ここの豚肉はなかなか手に入りにくいらしい。

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そのみやじ豚をなんとlunch_lunchさんが苦労してなんとか入手し、バーベキューに持ってきてくれた。この写真ではそのおいしさは伝わらないと思うけど、やはり許してしまおうかなという気になった。mshoujiさんやktagumaさん他、皆さんもありがとう。

日本の神々

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先週、九州を旅してきた。一番おもしろかったのは、高千穂の天岩戸神社だ。神話にある天照大神が隠れてしまったという岩戸がある。岩戸は神社から川を挟んだ崖っぷちにあって、お願いすれば川を挟んで20〜30メートル位のところから見せてもらえる。写真はNGだが、洞窟はかなり大きな岩壁の中腹にあって、屋根にあたる部分と床にあたる部分は崩れ落ちてしまっているそうだ。大きな岩の裂け目になっているといったほうがいい。崖の斜面に生えた木々で覆われてしまっているが、大きな台風が来ると、その木々も崩れ落ちていってしまうという。

神社の方のお話しがまたおもしろい。日本で神様になる人は、生まれたときから神様なのではない。菅原道真など、実際に生きていた人が、死後になって神様として祭られるようになる。天照大神も今では太陽の神ということになっているが、実は普通の人だった。しかし、亡くなった後にその人を偲ぶ人たちから天照大神と呼ばれるようになったのであって、生前には普通の人間としての名前を持っていたはずだという。

しかし、本当なのかなあ?

聞きながら、キリスト教やイスラームのような一神教の神と、日本の神々とは本質的に異なるのだと思った。一神教の神はこの世に生まれたことはない。預言者を通じて話をするだけだ。天岩戸神社の方によれば、日本の神々になった人々は、この世に生きた人たちだ。

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九州の最終日、中津まで足を伸ばして、福澤諭吉記念館にも立ち寄る。福澤先生(とKOでは呼ばなくてはならない)が19歳まで過ごした旧居が保存されている。勉強したという土蔵はあいにく修復作業中だった。記念館の中では50分もかかる福澤先生の生涯についてのビデオが流されている。その冒頭で、少年時代の福澤先生が、神社のお札を踏みつけてみたけど何も罰が当たらなかったという有名なエピソードが紹介されていた。愉快な人だ。

フロー体験

鎌倉の円覚寺で暁天坐禅会に参加する機会があった。早朝5時半から1時間で、誰でも参加できる。坐禅に参加するのは初めてだ。友人H君とその義弟M君とともに参加。20人ほどの人が参加していて、常連に見える人たちも多い。20分坐禅、1分休憩、20分坐禅、最後に読経という流れだった。テレビでよく肩をバチーンと叩いているが、ここではお坊さんが前を通りかかった際に手を合わせながらお辞儀をすると叩いてくれる。

残念ながら、初めてで好奇心が高ぶっていたせいか、汗が流れ落ちるほど暑かったせいか、無我の境地にも悟りの境地にも達することができなかった。残念。

その後、M・チクセントミハイ著『フロー体験—喜びの現象学—』を読み始める。最初は誰に教えてもらったのか忘れたが、買ったまま本棚に入っていた。その後、3月に知り合った人に読むといいよと教えてもらったが、それでも読まなかった。自分の研究に直接関係はなさそうだし、細かい字で分厚い本だということで敬遠していた。しかし、ダニエル・ピンク著『ハイ・コンセプト』にも紹介されていたし、夏休みだということで読み始める。

ここでいうフロー体験とは、要するに楽しくて没入してしまうこと、時間が流れる(フロー)のを忘れてしまうほど没頭してしまうことだ。あらゆる楽しいことには文化を越えてフロー体験が見られるという。自分が今正しいことをしているという感覚があり、他のことに気をとられない状態になっていないとフロー体験は得られない。「フロー体験」という言葉は何となくいかがわしい感じがするが、文化を越えて大規模なインタビュー調査をした結果に基づくまじめな心理学・社会学の本だ。日本の暴走族の少年にもインタビューしている。

お金持ちになるとか、権力を持つとか、そういったことは実は幸せや喜びにはつながらない。原始人と比べればわれわれは物質的にはるかに豊かなのに、われわれが精神的な満足を得られないのはなぜなのかというのがハンガリー移民でシカゴ大学の教授になったチクセントミハイの問題意識だ。幸せや喜びは、実は自分の内的なところに発している。

たぶん、私が研究を職業としたいと思ったのも、いろいろな出来事を調べ、研究することでフロー体験が得られるからだろう。逆にいろいろな瑣事で没入ができないといらいらしてしまう。いかにして好きなことに没入できる環境と時間を確保するかが重要なのだろう。

坐禅をしながらいろいろ考えてしまうのも、集中できる環境・状態にないからに違いない。坐禅は自分の状態をチェックすることにつながるのかもしれない。

鎌倉で旧友とその家族たちと過ごすのも時間を忘れる一種のフロー体験だった。

ハイ・コンセプト

荒野高志さんのおすすめでダニエル・ピンクの『ハイ・コンセプト』を読む。芸術的センスのなさを悲観し、左脳主導的な仕事ばかりしてきたことを反省する。

今、SFCではカリキュラムを作り直しているが、「『専門力』ではない『総合力』の時代!」という<はじめに>の言葉には励まされる。本の帯や大前研一さんの訳者解説には、給料とか富という言葉が出てきて、ノウハウ本なのかと思うが(私はノウハウ本も好きだけど)、大きな社会変化を示唆している本だ。トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』とも呼応している。

「ハイ・コンセプト」とは「パターンやチャンスを見出す能力、芸術的で感情面に訴える美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力、などだ」という。そして、対になる「ハイ・タッチ」とは、「他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてもその目的や意義を追求する能力など」である。

そして、「今の仕事をこのまま続けていいか」という疑問に三つのチェックポイントを提示してくれている。

(1)他の国なら、これをもっと安くやれるだろうか

(2)コンピュータなら、これをもっとうまく、早くやれるだろうか

(3)自分が提供しているものは、この豊かな時代の中でも需要があるだろうか

ううむ。教育は例外だとはいえない時代だよなあ。

滋賀の旅:長浜

旅の最終地は長浜。秀吉が城と町を作った。その後、NHKの大河ドラマ『功名が辻』で取り上げられている山内一豊と千代が、土佐藩に移る前に住んでいたところだ。残念ながら再建された長浜城はいまいち迫力がない。近くに大きなマンションが建ってしまっているのも興ざめだ。しかし、中の博物館は割と楽しめた。ここの売店で中公新書の宇田川武久『鉄炮伝来』(中公新書、1990年)を思わず買ってしまう。

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長浜では食べ物が楽しめた。彦根には申し訳ないけど、長浜のほうがおいしいような気がする。みんな観光客向けのお店だけど、まずは鳥喜多の親子丼。けっこう繁盛している。おいしいけど分量が物足りない。地元の人らしきおっちゃんたちは麺類も一緒に食べていた。

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二軒目は茂美志(もみじ)やの「のっぺうどん」大きくて分厚い椎茸が入ったあんかけうどんだ。

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最後に、滋賀といえば近江牛。もちろんおいしかったけど、ヒットは「よいこのびいる」だ。きれいに泡がたって色もそっくりだが、甘いジュースだ。東京の飲み屋にも置いてくれれば、私は飲むぞ。

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