志摩での海底ケーブル陸揚げ

 6月15日、志摩で新しい海底ケーブルFASTERの陸揚げがあり、KDDI総研のご厚意で見学させていただいた。詳しい内容はすでにGigazineで報告されているので、簡単に。

 FASTERは関東または関西で大きな災害が発生した時にも対応できるように、千葉県の千倉と三重県の志摩の両方で陸揚げされた。千倉のほうは陸から海底にドリリングをしてパイプを通し、そこにケーブルを通してしまうので、あまり見所がないそうだ。志摩のほうは19世紀と基本的に変わらない陸揚げをするとのことで、見学会が設けられた。

 見学会は早朝5時集合である。見学者は前泊しないと間に合わない。最寄り駅は名古屋から近鉄で2時間半かかる。5時にホテルを出て海岸に到着すると、すでに関係者の皆さんが準備をしている。

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 沖合にはすでに前日からケーブルを積んだケーブル敷設船がスタンバイ。ここから、ブイを付けたケーブルが引っ張り出されてきて陸に揚げる。

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 浜側では、各種機械が設置されている。海中の防波ブロックを避けて引き上げられたケーブルは、海岸ですぐに直角に曲げられ、陸揚局近くまで引っ張られる。

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 作業前に関係者代表が集まって安全祈願祭。日本酒を捧げる。この後、ケーブル船から徐々にケーブルが引っ張られてくるが、かなり時間がかかるとのことで、他の皆さんはいったん引き上げる。私は作業完了前に大学に戻らなくてはならなかったので、そのまま海岸に居残る。関係者の皆さんと話したり、陸揚局の中を見せてもらって過ごす。他の皆さんは朝食をとってから8時にホテルに再集合して海岸に戻ってくるはずだった。ところが、ケーブルは7時半には陸揚げされてしまった。次の写真は、先端が陸に上がったところ。

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 居残っていたので、この瞬間が見られたのは良かった。すいすいとケーブルは揚がってくるが、時間が早まったのは関係者の作業が非常にスムーズだったからだ。前述のGigazineの報告でもこの瞬間は捉えられていない。

 ケーブルが無事に上がってきたところで、シャンペンでお祝い。さっきは日本酒だったのに節操ないなと思うが、シャンペンを割るのは万国共通の習慣だそうだ。

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 私はこの時点で帰らなくてはいけないので、先に失礼した。

 ケーブルの陸揚げはなかなか見るチャンスがない。日程的にきつかったが、授業にも間に合ったので、とても良い機会だった。どうやって陸揚げするかは知識としては知っていたが、自分の目で見られたのは大きい。KDDI総研およびKDDI、NECの皆さんに感謝したい。

29th Asia Pacific Forum

 ブリュッセルから帰ってきて、一晩自宅で休んでからシンガポール経由でクアラルンプールへ。途中、機中から富士山が見えた。もうずいぶん雪が溶けている。

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 シンガポールからの乗り換え便が少し遅れてしまってあたふたするが、午後7時にホテルに着き、すぐに着替えて会場へ。午後8時過ぎにマレーシアの首相と王室からのゲストがやってきて、首相が基調講演をする。しかし、会場に入るのに何もセキュリティチェックがなくてびっくりした。首相の基調講演の中身はほとんど覚えていないが、テロなどの脅威がサイバースペースによって増幅されているというフレーズだけ耳に残った。

 演説が終わったのが8時半過ぎでそこからようやく夕食が始まったが、料理がなかなか出て来ない。おまけに生バンドの演奏がうるさくて隣の人とも顔をつきあわせないと話ができない。終わったのは10時過ぎ。やれやれだ。

 翌日と翌々日が第29回Asia Pacific Roundtable(APR)の本番。主宰はISIS Malaysiaというマレーシアでは由緒正しきシンクタンク。ISISなんて今は物騒な名前の代名詞になってしまってかわいそうだ。いわゆるイスラム国と同じく「アイシス」と発音する。今年のAPRは320名の登録があったそうだ。

 初日の最初のセッションはわが同僚の神保謙が登壇(なぜか東京財団の研究員として出ている)。さすがに格好良くこなしている。

 私の出番は初日の最後のセッションだが、これが普通のセッションではなくディベートになっている。司会+4人のディベーターがいて2チームに分かれる。私のパートナーは在クアラルンプール米大使館の駐在武官Forrest Hare。米空軍の人だ。何とも頼もしい。相手側は中国の国際問題研究院(CIIS)で旧友の徐龍第とシンガポールのCENSのCaitriona Heinl。CENSのイベントには何回か呼んでもらったので彼女も知り合いだ。しかし、スライドを使って話せる普通のプレゼンとは違って、話だけで聴衆を説得しなくてはならないディベートは難しい。全くもってしどろもどろで落第点だった。まあ、終わった後にアメリカ、オーストラリア、カナダ、マレーシアなどの人たちがよくやってくれたと言ってくれたので良しとしよう。誉めて励ます文化はありがたい。アメリカの少年野球だと、空振りしても「Almost!」なんて言うくらいだ。

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この写真は神保さん提供。

 2日目は気楽に聞いていた。日本国際問題研究所の野上理事長もEPAのセッションに登壇。活発な質疑応答があった。

 ところが、最後から2番目のセッションで番狂わせ。突然、北朝鮮の軍人らしき人がフロアから発言を始め、質問の振りをしながら手元の紙を長々と読み上げた。議長が質問は何なのかと途中で遮るが、あと1分しゃべらせろと言ってまた延々としゃべり、どうやらASEANが朝鮮半島の問題にも関心を持てと言っているらしい。壇上のパネリストは特に反応せずスルーする。

 ところが、今度は、フロアの別の人が指名されているにもかかわらず、その近くにいた中国の人民解放軍の軍人が、勝手に話し出す。2日間を通じて中国に対する不満がたくさん表明され、特に南シナ海の問題が指摘されたことが気に入らなかったらしい。日本が東京湾を埋め立てているのと同じだなんて言い出すから、私はむかっとくるが、他の聴衆はおとなしい。すると、壇上のパネリストのベトナム人が怒りを込めて反論を始め、中国のせいでどれだけ被害が出ていると思っているのか、中国は国際法に注意を払うべきだと激しく責め立てた。

 予定を大幅にオーバーしてセッションは終了。壇上にいたベトナム人は壇を降りたらそのまま中国軍人のところまでさっと歩き、握手を求めた。求められたほうは苦り切った顔をして握手するが、二人は会話をせずに別れていった。

 最後のセッションは別の意味でおもしろい人が出てきた。過激派がさらに過激になっていることを論じるセッションだったが、「私は元過激派だった。バリのテロリストたちの友達だった」というインドネシアの若者が、自分がどうやって過激派になったかと話し始めたのだ。彼はイギリスに留学したときはウィリアム王子と同室になったこともあるという。彼はインドネシアの寄宿制の学校に入っている間に感化されて過激派になった。しかし、深刻なものではなく、気軽なものだったとユーモアを交えて話す。友人の一人は、お母さんが学校に来て涙を流してやめてくれと訴えたのでテロをやめたともいう。軽妙な話にすっかり魅了されてしまった。彼のような友達が過激派にいると乗せられてしまう人もいるのではないか。

 観光のための時間は全然なかったが、あまり興味を引かれないセッションの間に抜け出して、モノレールに乗り、繁華街の有名な店でバクテー(肉骨茶)を食べられたので満足だった。元々は中国人クーリーたちのための安い食事として広まったようで、肉をそぎ落とした後の骨を煮込んだものだが、現代ではたっぷり肉が付いた骨が入っている。お茶で煮込んでいるので、漢方のスープような感じだがおいしい。店に着くまでにすでに汗をかいていたが、オープンエアの店で熱々のスープをいただくとすっかり汗だくになった。ホテルに戻ってさっとシャワーを浴びてから会議に戻った。

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 またマレーシアに行くのはずいぶん先になりそうな気がするが、かつてのサイバージャヤなどがどうなっているのか調べてみたい。

 それにしても、私は東アジア、東南アジア、南アジアの情勢が全く頭に入っていないことを再確認した。帰りの飛行機の中では、機内で読もうと思って持ってきていた日本国際問題研究所の報告書「主要国の対中認識・政策の分析」を読む。話題の中心は中国だが、会議の中で出てきた話題が盛り込まれていて、そういうことだったのかとようやく分かったことがたくさんあって有益だった。

2nd International Conference on Internet Science

 サイバーセキュリティをやっている人たちの多くがエストニアのタリンでCyConに出ているとき、私はベルギーのブリュッセルで開かれた2nd International Conference on Internet Scienceに出ていた。

 羽田からドイツのミュンヘンに到着し、ブリュッセル行きの飛行機の乗り換えに50分しかないのでちょっと嫌だなあと思いながら長い廊下を進み、ようやく乗り継ぎ便の掲示板にたどり着くと、乗り継ぎ便にキャンセルの表示が出ている。おいおいと思ってルフトハンザのサービスカウンターを探し、「乗り継ぎ便がキャンセルみたいなんだけど」というと、係員はじーっと端末の画面を見つめた後、別便の搭乗券を出してくれた。「なぜキャンセルになったか知っていますか」と聞かれたが、全然分からない。「とにかく急いでゲートに行ってください。すぐに出ます」とのこと。

 小走りでゲートに向かうと、係員が「ブリュッセル行き!」と叫んでいる。サービスカウンターの係員がゲートに電話してくれたそうだ。「あなたが最後なので急いで。下でバスが待ってますから」と英語で言われた後、「どうぞ良い旅を」と日本語でいわれた。ありがたいことだ。

 何とか飛行機の一番後ろの窓際の席に滑り込む。機内放送を聞くと、どうやらこの便は午前9時半に予定されていた便だそうだ。すでに午後6時過ぎである。ずーっとこの人たちは空港で待っていたのだろう。私はラッキーだ。どうやらブリュッセル空港の管制システムに故障が起きているらしく、1時間に5本しか着陸させていなかったが、10本にまで増便されたのでようやく飛べるとのこと。サイバー攻撃かと思いながらも、たどり着けそうで良かったとほっとする。

 ブリュッセル空港に着くと、飛行機に乗れない人たちがあふれかえっている。気の毒だ。私は幸い、当初予定より20分遅れぐらいで到着できたから良かった。出て来ないんじゃないかと思った荷物も無事に出てきた。

 翌日から会議に参加。この会議は、

The 2nd international conference on Internet Science “Societies, governance and innovation” will be organised in Brussels from May 27 to 29, 2015, under the aegis of the European Commission, by the EINS project, the FP7 European Network of Excellence in Internet Science.

となっていて、EINSの一環になっている。中心人物の一人で旧友のChris Marsdenに誘ってもらって参加した。クリスは会う度にどんどん立派な先生になっていくので驚いてしまう。

 キーノートスピーカーとして呼んでもらったが、この会議にはキーノートスピーカーがたくさんいて、合間に学生たちの発表が続く。私は朝一番のキーノートで、時間を守って話した。ところが、私の次のキーノートスピーカーは、24時間ロンドンの空港に閉じ込められたせいなのか、延々と話し続け、その結果、その後のスケジュールがグダグタになってしまう。学生たちはやたらとせかされて十分に話せなかったのに、欧州議会のメンバーのキーノートやその他のキーノートは誰も止めずにしゃべり続けるので、ずいぶん予定時間を超えて終了。スケジュールに厳しいアメリカのカンファレンスとはずいぶん違うなと感じる。

 翌日も似たような感じでキーノートスピーチと学生の発表が行われた。意外だったのは、そもそも「Internet Scienceとは何なのか」という点でまだ合意がないということ。そのためのパネルディスカッションもあって、討論者の一人が、「それはfunなんだよ」といっていたのが印象的。定義にも何にもなっていないけど。

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 学生論文の優勝はセレブたちの写真漏洩に関する研究論文が選ばれ、500ユーロの巨大チェックが送られた。

 次回は来年5月にイタリアのフィレンツェで開催とのこと。日程が合えば参加してみたい。

 帰国便に乗る朝、ホテルの窓から空を見ると飛行機雲がたくさん出ていたので、飛行機が飛んでいることが分かった。良かった。

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久しぶりに落ちた

 先週、ワシントンDCでイベントに出てきた。なぜ自分が呼ばれたのかよく分からず、一度は断ったのだけど、主催者からどうしてもといわれ、前日まで何を話せば良いのか決められないまま現地入り。イベント前日の晩に事情を知る方から説明を受けて、ちょっと理解が進み、話す内容を決める。日本関連のイベントにもかかわらず、日本人の顔をした日本からの参加者は私だけで、これまであまり日本とは関係のなかった登壇者が半分。彼らは日本に行ったことすらなかったのではないか。それでもへえっと思う話もいくつかあった。

 その晩はワシントンDC三田会の総会があって、初めて三田会の会合に出る。ひょっとして最後に若き血を唱うのかと思ったらそれはなかった。旧知の皆さんが何人かおり、初めて会う方々もおもしろい。SFCの卒業生も何人かいて、延々4時間続く楽しい会だった。終わった後、同門・同期のYさんに、ワシントンで一番古いレストランOld Ebbitt Grillに連れて行ってもらい、牡蠣をいただく。夜の12時まで飲んでいたら、地下鉄も終わってしまい、ホテルまで歩いて帰る。14年前に住んでいた頃と比べてワシントンの治安がずいぶん良くなった。

 最近、英語ベースの仕事が増えてきて、いろいろなところに呼んでもらえるようになっている。これからいくつか参加する予定のカンファレンスもあるし、共著本(分担執筆)3冊が出る予定になっている。英語の本は出版されるのにとても時間がかかるので、いずれもいつになるのか分からないけれど、誘ってもらえるのはありがたいことだ。近々創刊される英語のサイバーセキュリティ関連の雑誌の編集顧問チームに入れという依頼もあった。

 帰国してから数日間、メールボックスに入ったまま、見るのが億劫だったメールがあった。差出人には見覚えがあり、英語で書いた原稿についての連絡であることは容易に想像がついた。そのまま原稿が通るとは思えないので、どう考えても修正の依頼だろう。しばらく前に書いた原稿を読み直すのは面倒だ。頭をそちらに戻すのに時間がかかるからだ。日本語の原稿だとまだ戻るのが早いのだが、英語の原稿はもっと時間がかかる。新学期の準備で忙しいときで、メールを開くのが億劫で、他のメールの処理が終わってからにしようと後回しにしていた。

 ようやく週末になって落ち着き、メールを開いてみる。驚いたことに、不採用通知だった。うーむ。原稿送付段階では、編集者はかなり喜んでいて、「読んで感銘を受けた」とまで書いてきた。しかし、編集者の後ろにいる査読者たちはそう思わなかったようで、ほとんど何の説明もないまま、不採用にするとのこと。修正要求でもないし、食い下がる気力と時間もないので、検討してくれてありがとうとだけ返信。

 カンファレンスやイベントで話すぐらいなら、その場ののりで切り抜けられるとしても、英語で書き物をして、査読を切り抜ける実力は、まだ私には足りないのだろう。共著本の原稿は、編者とかなりやりとりするから、求められているものを書くことができるが、投稿原稿はそうもいかない。

 依頼された仕事だけをこなしていると、たいていは好意的に受けとめてくれるので勘違いしてしまうことが多い。日本語でも英語でも、講演した後に「ちょっとひどかったね」と言われることはまずない。本当はひどいと思っていても、礼儀上そうは言わないだろう。今回の一件は、反省の材料として受けとめ、原稿はボツにしよう。

地域研究者と酒

 久しぶりの韓国・ソウル。今回は国民大学校とのシンポジウム。私はコメンテーターなので、それほどの準備はいらない。

 こうしたシンポジウムでの意見交換は、それはそれでおもしろいが、本音の議論は懇親会の席で行われると言っても過言ではない。

 しかし、アジア、特に韓国と中国の懇親会はすさまじい。韓国では爆弾酒がどんどん出てくる。

 今回、私はいろいろな役が解けて解放感があったせいか、隣の中国の先生のあおりがすごかったせいか、久しぶりにひどく酔ってしまい、ひとりだけ一次会で退散。同僚たちは二次会、三次会へと繰り出したらしい。

 私はつくづく地域研究者ではなくて良かったと思う。毎回こんな飲み会が続いていたら、必ず体調に異変を来しただろう。隣に座った中国人の先生は、韓国に留学していたそうだが、そのときには少ない時で週に4回、多いときは6回の飲み会があったそうだ。

 私が自分の研究で海外に行くときには、飲み会に行く回数はぐっと少ないし、行ったとしても手酌で飲みたいだけ飲めば良い。無理強いされることはない。

 アジアでは、どれだけ一緒に酒を飲んだか、どれだけ一緒に羽目を外したかが問われるところがある。その思い出が信頼となる。

 しかし、私には無理だ。それを改めて実感した夜だった。

 学部生の頃、ロシア研究のゼミに入ろうと思ったことがあったが、そこに入っていたら、体力が続かなくて、私は研究者にはなっていなかっただろう。

PTC’13

 年度末で青息吐息。昨年は暇だったのに、今年はなぜかとても忙しい。年末から学生の卒論、修論、博論を読み続けながら、国内外で出張し、原稿を書き続けている。相変わらず会議も多い。予定が混乱してきていて、先日は政府との会合をすっぽかしてしまった。スケジュール帳には入っていたのだが、他のことに気をとられていたのと、キャンセルになっていたと勝手に思い込んでいたのとで、すっかり頭から抜けていた。別の会合はどう見ても間に合わない時間に設定していた。まずい。

そんな中で楽しかったのが、1月20日〜23日にホノルルで開かれたPTC(Pacific Telecommunications Council)。昨年も行って楽しかったのだが、なんだか日本のプレゼンスが小さいなあと残念に思っていた。

ところが、今年は急に日本のプレゼンスが大きくなっていてびっくりした。元総務省の坂巻政明さんが中心になって企画を練られたらしく、日本からは我らの村井純学部長や総務省情報通信政策研究所の仲矢徹さんらもプレナリーに登場した。

それと、キーノートでTubes: Behind the Scenes at the Internetの著者Andrew Blumが来ていたのが良かった。この本は12月にハーバードに行ったとき本屋で見つけていて、読みたいと思っていた。彼のキーノートで日本語版も出ると紹介されたのでその場で注文した。

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こういう仕事、いいなあ。自分で書いてみたかった! 海底ケーブルのことも書いてあっておもしろい本。キーノートの後にたまたま彼を見つけたので挨拶して名刺をもらえた。ミーハーな気分だ。

今回のPTCでは自分もワークショップで報告。

Motohiro Tsuchiya, “International Politics of Submarine Cables,” presented at Research Workshop: Bridging the Digital Divide in the Pacific, Pacific Telecommunications Council, Honolulu, HI, United States, January 20, 2013.

PTCは通信事業者の会合で、アカデミックな会議ではない。しかし、アカデミックな研究者をもっと呼ぼうという声もあり、そうしたニーズに応えるワークショップやセッションもある。私としては業界の動向、特に海底ケーブルや人工衛星の最新動向がつかめるので、それだけで楽しい。

アカデミックなワークショップは例年あまり人が集まらないらしいが、今回は太平洋島嶼国がテーマということもあって、それなりに人が集まってくれた。なんと、10年ぐらい前にとてもお世話になっていた元FCCで今はシスコにいるロバート・ペッパーさんもフロアに来て鋭い質問をしてくれた。GLOCOM時代の資産だ。

東京での用事があって、PTC全部には出られなかったけど、PTCをバックアップしているPTC日本委員会の食事会にも参加させてもらって楽しかった。

今回のワークショップは慶應のメディアコムの菅谷実先生から声をかけていただいて実現した。先日の長崎のシンポジウムでも菅谷先生にはお世話になっている。この一連のプロジェクトの成果は、まもなく、菅谷実編著『太平洋島嶼地域における情報通信政策と国際協力』(慶應義塾大学出版会)として公刊される見通しだ。私はパラオのことを書いた。

ついでに、久保文明/高畑昭男/東京財団「現代アメリカ」プロジェクト編著『アジア回帰するアメリカ—外交安全保障政策の検証—』(NTT出版)という本ももうすぐ出る。こちらは相変わらずのサイバーセキュリティ。

どちらの本も、なかなかゲラを返さない人がいるらしく、年度内に出るかどうか微妙みたいだ。

夏頃までにはもう一冊共著本が出るはず。こちらではハワイにフォーカスした海底ケーブルの話を書いている。昨年後半苦しんで書いていたものが成果になるのはうれしい。

またソウルへ(11/21〜22)

 なんと、この2ヵ月間で3回目のソウルへ。私にとっては新記録だ。でも今度は1泊2日。33時間ぐらいの滞在。

 12月21日(金)の11時にソウルに到着すると、雪がずいぶん降っている。

 今回は、SFCが提携している延世大学の先生からのご招待。ちょうど、慶應=延世=復旦(中国)の遠隔授業10周年シンポジウムも開かれていて、SFCからも同僚教員4名に加えて大学院生がぞろぞろと来ている。

 私は復旦の先生や延世の先生と個別に協議をしていたので、シンポジウムにはフル参加できなかったが、たくさんの学生が参加し、議論も活発だったようで、良かった。

 延世大学に来たのは2回目だが、今回はキャンパス内をうろうろあるく機会があり、その大きさに驚く。慶應の全キャンパスをくっつけてもこの大きさにはかなわないのではないか。一つ一つのビルも大きい。

 延世には世界各国から留学生も集まっていて、日本の大学よりもグローバル化が進んでいるという気がする。延世の先生たちの英語はややブロークンだが、堂々と話していて気持ちがよい。学生たちの日本語はとてもきれいだ。

 今回は延世のH先生といろいろと突っ込んだ意見交換ができて良かった。両大学の関係強化につなげていこう。

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今回はおいしいものしか食べなかった。

ワシントン、ボストン

 12月4日、NさんとワシントンDCへ。到着日はワシントン在住のMさんと、もうひとりのNさんの4人で会食。韓国とアメリカのインテリジェンスについてお話をうかがう。韓国では機密性を第一に考えたが、アメリカではスピードを重視するようになっているというお話が印象的だった。

 翌5日は朝から4件のアポをこなす。すべてサイバーセキュリティに関して。

 びっくりするような新しい話はなかったが、フォローアップできてよかった。夜はイタリアン・レストランで賑やかに。同行のNさんとはここでお別れ。

 6日は午前の便でボストンへ。ワシントンDCのナショナル空港は大好きだ。めずらしく窓際の席に座ったので、滑走路上から外を見ると、ワシントン・モニュメント、ジェファーソン・メモリアル、議事堂が見渡せる。離陸してペンタゴンとアーリントン墓地を横目に見ながらぐっと旋回すると、飛行機はアーリントンの上空で上昇していく。2001年7月から1年間住んでいたアパートが見えた。とてもなつかしい。

 機内では本を読んでいた。窓からふと外を見ると、なんとニューヨークのマンハッタン! まるでミニチュアのようにマンハッタンが見渡せた。これからナショナル空港からボストンへ飛ぶときは、窓際Aの座席に座ることにしよう。

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 ボストンでは3日間にわたってハーバードのバークマン・センターが主催するシンポジウムに参加。シンポジウムといっても非公開。世界各国のインターネットと社会に関する研究をやっている研究所の研究者たちが50名ほど集まる。慶應SFCからは両学部長が参加予定だったが、学部の行事のため、私が代理で参加。他にフォスター先生とマラッケ先生、それに学部生のO君が参加。

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 なぜかやたらとドイツからの参加者が多かった。アジアは、慶應SFCチームの他に、シンガポールやインドから数人。韓国からも来るはずだったが、仁川空港の雪のための飛行機が飛ばなかったらしい。3日間、いろいろ議論して、次のステップをみんなで考える。

 会議終了10分前に失礼して、ボストンのローガン空港へ。セキュリティ・チェックでMITメディアラボの研究者とばったり鉢合わせる。彼もバークマン・センターの会議に参加していたが、ワシントンDCでの会議に行くとのこと。共通の知り合いがいたので、話がはずむ。1月に東京に来るらしいので、会えたら会おうといって分かれる。

 ワシントンDC行きの便も窓側に座ったが、あいにく天気が悪く、ずっと雲海だった。それはそれで良い。

 ワシントンDCに到着してからYさんに電話。少し遅れるとのことなので、ナショナル空港で買い物。車でピックアップしてもらい、タイ料理を食べに行く。ワシントンで外国人研究者が生き抜く方策を教えていただいた。とても大変だ。

 空港近くのホテルまで送っていただき、そこで1泊。帰国前までにやらなくてはいけない宿題をなんとか片付け、メールで送る。間に合った。

 ワシントンDCから東京への便は満席。ワシントンDCでいただいた論文を読み、映画を1本見て、残りの時間は割とよく眠れた。

ソウル(11/14〜16)

 ソウルから帰って10日後、またもやソウルへ。今度は韓国国防部のお招きで、ソウル防衛対話に参加。

金浦空港に降り立つといきなり私の名前を掲げた制服の軍人が立っている。韓国陸軍のキム少佐で、日本語がぺらぺらだ。エスコートされて荷物を受け取りに行くが、パスポートを渡せといわれる。ちょっとドキドキ。荷物を受け取ったらそのまま優先ゲートを通り、車へ案内される。キム少佐が3日間エスコートしてくれ、車を自由に使ってくれといわれる。あまりのVIP扱いにびっくりする。トルコに行ったときよりも丁重な扱いだ。

ホテルに到着すると、テレビカメラが待ち構えていて、車を降りるところからホテルにチェックインするところまで撮影されて、なんかへんな気分である。ホテルの部屋もやたらと大きい。ソウルでも一番良いホテルだそうだ。

同僚に紹介された韓国の先生と12月のハーバードでの会議について意見交換。

レセプション会場に行くと、もっとたくさんカメラの放列が待ち構えていて、韓国国防部の次官をはじめとする韓国側のスタッフと各国からのゲストが歓談している。しかし、誰が誰だかさっぱり分からない。適当に挨拶するだけだ。夕食会は韓国の宮廷料理。普通の韓国料理のほうが好きだ。食事の後に韓国紹介のビデオを上映。とにかくお金がかかっている。

翌朝から本格的な会議。最初のオープニングでは総理と国防大臣が来たので、これまですごい数のカメラ。気後れして集合写真に写り損ねた。

最初のセッションは大量破壊兵器について。第二セッションが私の出番で、サイバーセキュリティについて。高麗大学の先生が一緒だが、高麗大学は学部と大学院にサイバーセキュリティのコースを作っていて、話を聞きたかったので、非常に良い機会だった。私は当初予定していた内容をやめて、今までの素材を作り直して話をする。シンガポールより好評だった。

夜の晩餐会は前日よりも大きくて、音楽や踊りの出し物がたくさんあった。韓国は徴兵制だから、音楽の才能がある若者も軍隊にいる。そういう人たちを無料で動員できるのが強みだ。6人ぐらいの男性メンバーによるカルメンの合唱は迫力があった。

3日目。新しい安全保障についてのセッション。仲良くなったドイツ人の報告がおもしろかった。

会議終了後、すぐに会場を抜け出して、大学院の卒業生に会う。それからKISA(韓国インターネット振興院)を訪問して、意見交換。

終了後に金浦空港まで送ってもらい、VIPゲートを通してもらう。

しかし、VIP扱いもここまで。夜の羽田に着いたら庶民に戻っていた。電車に乗って帰宅する。

ソウル(11/2〜4)

 8月、9月、10月は海外出張に行かず、おとなしくしていた。

 11月はじめに急遽、ソウルへ行くことになる。SFCで展開している日本研究プラットフォーム(JSP)の活動の一環だ。2日間で昔からの友達と新しい友達にたくさん会い、ネットワークを広げる。

 最近の日韓関係はあまり良くないが、実際にソウルに行ってみると、ニュースを通じて伝えられる雰囲気とはずいぶん違うなと感じる。

 印象的だったのは国民大学校の日本学研究所。スタッフの厚さと資料庫に驚かされる。日韓関係を支えているのはこういう研究者たちでもあるのだなと感心。

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 3日目早朝の便で金浦空港から羽田空港へ。そのまま三田へ行って午後1時からの会合に参加。こういうことができるのも近いからだ。

北京(7/22〜23)

 シンガポール出張と同じ7月にHさんと一緒に1泊で北京へ行った。午後、ホテルへ着いてからFさんと待ち合わせると、「飛行機は大丈夫だったか」と聞かれる。何のことか分からなかったが、前日は北京は大雨による洪水で、死者がたくさん出ていたとのこと。帰れなくなった人が職場で夜を明かすなど、大変だったらしい。出張に出る前はいつも忙しいので、何も知らずに来てしまった。

 Fさんに大きな公園に連れて行ってもらう(名前を忘れてしまった)。

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 その後、近くのお店で会食。写真の料理がおいしかったが、これも名前を忘れてしまった。

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 翌日の午前中、サイバーセキュリティ関連の仕事をして、また会食をしてからすぐに空港に向かい、帰国の便に乗る。

 パソコンは持って行かなかったので、iPhoneでネットをのぞいてみるが、Yahooのニュースは見られなかった。

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シンガポール(7/14〜15)

 もうずいぶん前になってしまったんだけど、7月、お招きを受けて、シンガポールへ。

夜行便で早朝に到着。ホテルへ行ったらチェックインさせてくれた。良いホテルだ。ランチは同僚のJさんと。眺めの良いレストランに連れて行ってくれた。ごちそうさまでした。

夕食から会議は始まる。会場のホテルのレストランで主催者と参加者が集まって会食。旧知のSubimal Bhattacharjeeがいたのにはびっくりした。彼とは2008年のジュネーブの会合で一緒だった。

この会議には昨年も参加したので、同じく昨年も参加していた何人かと1年ぶりだねと挨拶する。

翌日は朝から本格的な会議が始まる。基調講演はEneken Tikkで、NATOのCCD COEで、タリン・マニュアルの作成に関わっていたようだ。若いのに堂々とした基調講演で感心した。

別の同僚のAさんも午前中のパネルで報告。

私は午後のパネルで報告。昨年と同じではつまらないので新ネタを披露。笑いはいまいちとれなかったが、おもしろい問題提起だと評価してくれた人がいたので良かった。

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会議はまだまだ続くが、私は授業があるのでこの日の夜行便で帰国。早朝に羽田について、そのままSFCへ。疲れる旅だった。

史康迪「台湾から中国への海底通信ケーブルの歴史」

史康迪(Curtis Smith)「台湾から中国への海底通信ケーブルの歴史–中国大陸のマスコミ報道の検視と海底通信ケーブルの新発見」『南島史学』第65・66合併号、2005年、294〜282ページ。

 沖縄に行った際、自由時間に沖縄県立図書館までホテルから歩いて行った。方向音痴気味の私としては、知らない町をフラフラ歩くだけでけっこう楽しいのだが、余り時間もなかったのでiPhoneの地図を使って最短距離を探して行った。観光客が通らない裏道を通って生活の様子を眺めるのはけっこう楽しかった。

 なぜか県立図書館と市立図書館が隣り合わせで建っているようなのだが、県立図書館のほうだけ行く。公園の中にあって、日曜日だったので多くの人が出てきている。

 いくつか見たい資料があり、そのうちのひとつがこれだった。

 南島学会というのはウェブももなく、いまいちよく分からない(琉球新報による解説)。

 県立図書館の郷土資料のコーナーでようやくこの論文を見つけたが、なんと要旨以外は中国語でずっこけた。台湾との合同学会で発表された報告らしい。中国と台湾の間で最初に敷設された海底ケーブルの解説らしく、それが中国で報道されているものとはルートなどが違うと主張しているようだ。切断されたケーブルの写真などが出ていて興味深いのだが、いかんせん読めない。残念。

 著者は多分この人だろう。ミシガン州の大学で中国語を教えているようだ。

http://www.gvsu.edu/mll/curtis-smith-27.htm

自衛隊沖縄基地見学

 3年ほど続けてきたアメリカの海洋戦略に関する共同研究が終了に近づき、まとめの議論をするために沖縄で合宿をした。無論、リゾート気分を味わいたいからではなく、アメリカの海洋戦略の要衝となっている沖縄を見学するためだ。

 3日間の合宿のうち、初日と2日目は4人の研究報告。私は11月に済ませているので司会だけでよく、割と気軽だった。

 3日目は自衛隊基地と米海兵隊基地の見学。海兵隊のほうは、旧知のロバート・エルドリッヂさん(大阪大学の教官から海兵隊に転身)に案内してもらい、彼が中心になって進めた気仙沼の大島小学校との交流の話を中心に聞く。

http://www.kanji.okinawa.usmc.mil/Releases/110803-Release.html

 自衛隊基地は、研究メンバーに自衛隊関係者が二人いたので実現した。基地内に残る旧海軍の砲台を見たり、P-3C哨戒機、F-15を間近に見せてもらったりした。

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 両方ともよく整備されているが、いささか装備が古いという印象も受ける。哨戒機としてはゆっくり飛ぶことができるプロペラ機のP-3Cは優秀とのことだったが、それでも導入から30年経っている。F-15も次世代の戦闘機には対抗できない。日本の防衛はなかなか難しい。

 共同研究の成果は来年出版される見通し。私はしつこく海底ケーブルの話を書く予定。先のパラオやハワイの話もここにつながる。

ハワイの海底ケーブル陸揚げ局(その4:終わり)

 週末に陸揚げ局を見に行ったのだが、平日はハワイ大学の図書館で資料を漁っていた。ハワイ大学は州立大学なので誰でも入れる。本の貸し出しはできないが、ほぼ全ての資料にアクセスできる(日本の国立大学もそうすべきだと思うのだが、なぜかそうなっていない)。州立大学は政府関連資料も充実しているのが良い。

 だいたい100年ぐらい前の資料を目当てに探していて、いくつかはすでに電子化されてデータベースに載っていた。インターネット万歳。他の古い資料はマイクロフィッシュになっている。たぶん、これも東京のアメリカン・センターにあるのかもしれない。

 ただ、ここでしかアクセスできない資料もいくつかあって、その中でも他ではアクセスできないなと思ったのは1956年にハワイ大学に提出された修士論文。まだパラパラと目を通しただけだが、かなり使えそうだ。参考文献リストからたどって、1911年にハワイ歴史学会の会報に載った文章にもたどりついた。芋ずる式に資料が見つかるとおもしろい。

 いろいろ見つかった資料をざっと眺めてみると、ハワイがまだ王国だった1890年代から太平洋ケーブルをつなげようという動きはあったようだ。ハワイにはフィリピンから移民が来ているが、在マニラ米商工会議所から早くケーブルをつなげという催促が来ていて、おもしろい。

 王国だったハワイは、1898年の米西戦争によってハワイの戦略的重要性を認識した米国によって併合されてしまう。そして、海底ケーブルがサンフランシスコ〜ホノルル間で開通するのは1903年である。その年の7月4日の米独立記念日にはミッドウェー、グアム、マニラまでが開通してしまう。すごい早業だ。

 そして、この太平洋ケーブルをつないだのは英米の合弁会社である。はからずもこの太平洋ケーブルの敷設が、大英帝国による海底ケーブル支配を終わらせ、通信事業においても米国の時代が来るきっかけになる。

 大英帝国は太平洋ケーブルをニュージーランドからハワイへ、そして米西海岸へとつないでいたが、米国はハワイから真西へ向かい、グアムにつないだ。そして、そこからフィリピンと日本へとつないだ。東海岸13州から始まった米国は、西部を開拓し、ハワイを併合し、アジアへと辿り着いたのだ。

 戦略という言葉は安易に使うべきではないが、何を考えて米国は海底ケーブルを太平洋に敷設したのか。1900年前後に米国議会は何度も公聴会を開いている。その内容をじっくりこれから読んでみる。

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ハワイの海底ケーブル陸揚げ局(その3)

 次の訪問地は、マカハ(Makaha)である。ここでは、Hide Fukuharaさんがマンホールと陸揚げ局の建物を容易に確認できたとしている。

http://fhide.wordpress.com/2011/09/08/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B5%B7%E5%BA%95%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E9%99%B8%E6%8F%9A%E3%81%92%E5%B1%80/

 ここはマカハ・ビーチ・パークの中にある。カヘとは違って、ビーチ・パークという名前にふさわしく、白い砂浜の広がるきれいな海岸である。ワイキキからは遠いので、地元の人向けなのかもしれない。

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http://www.submarinenetworks.com/stations/north-america/usa-hawaii/makaha

 ここは詳しい図が上のリンクでも確認できるように、確かにマンホールとAT&Tの陸揚げ局の建物があった。ケーブルそのものは砂浜に埋まっている。

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 ここの様子については、ハワイ大学の図書館で関連文書を見つけた。1970年代に海底ケーブルを追加する際にハワイ・テレコムが州政府に提出した環境評価報告書である。新しくケーブルを敷設する際に工事が行われるが、珊瑚礁はなく、砂浜をほじくり返してケーブルを通すだけだから環境に悪い影響はないと論じていて、詳しい図も載せてある。

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 マカハにつながっているのは、Japan-US CNという海底ケーブルで、太平洋の大動脈と言って良い重要なケーブルである。

http://www.submarinenetworks.com/systems/trans-pacific/japan-us-cn

 しかし、その重要なケーブルがのんびりとした海岸に埋められて陸揚げされているというのも何となく不思議な感じである。

 ハワイは日米間(あるいはアジアと米国の間)の太平洋上にあって、中継点となっているからこそ、高速のインターネット・サービスを享受することができる。しかし、そうした中継点になれなかった太平洋の島々は、人工衛星にサービスを頼るしかない。人工衛星はかつて地球上を覆い尽くす画期的な技術的解決法とされたが、インターネットの大容量通信の時代には対応できなくなっている。今は光ファイバの海底ケーブルが命綱なのだ。

 やや心配になるのは、私のような素人でも簡単に陸揚げ地を見つけられるということだ。何らかの工具を持って夜中にこのマンホールをこじ開け、回線を切断することもできなくはないのではないだろうか。少なくとも2、3日は通信を途絶させることができるだろう。重要インフラストラクチャの防護という点では、心配になってくる。

(続く)

ハワイの海底ケーブル陸揚げ局(その2)

 まずは、ホノルルから一番近い「カヘ(Kahe)」の陸揚げ局へ。ここにはサザンクロス(Southern Cross)という海底ケーブルが来ている。

 場所はカヘ・ポイント・ビーチ・パークという公園になっているのだが、海水浴には適していない。道路から廃線になっている鉄道の線路を横切ると公園の駐車場になっている。駐車場にはそれなりに車が止まっていて、みんなダイビングの準備をしている。

 ビーチ・パークといいながら、ここには砂浜はない。駐車場の向こうは草地になっていて、その向こうは断崖絶壁である。どう見ても崩れかかっている。あちこちに危険だから近づくなという看板が立ててあり、おまけに亡くなった人の十字架まで立っている。

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 ダイビングに行く人たちはやや北側の防波堤のようなところまで行ってから水に入るらしく、プカプカ浮いている人たちが見える。波はけっこう荒く、初心者向きには見えない。

 さらに気になるのは駐車場に散らばるガラス片である。少なくとも二カ所ある。これはどうやら車上荒らしの後ではないか。ダイビングに行ってしまうと、長時間戻ってこないのは明らかだ。その隙にガチャンと車の窓を割られて貴重品を盗まれるのだろう。海の中にまで財布を持っていく人はいないだろう。

 先に訪問しているHide Fukuharaさんは海底ケーブルの痕跡が見つけられなかったという。

http://fhide.wordpress.com/2011/09/08/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B5%B7%E5%BA%95%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E9%99%B8%E6%8F%9A%E3%81%92%E5%B1%80/

 確かに、それらしきものは見当たらない。あたりを見渡して目に付くのは火力発電所だ。陸揚げ局らしきものは見当たらない。マンホールも見当たらない。無論、ケーブルそのものも見えない。うろうろ歩いてみるが、それらしきものはない。

 道路を挟んで陸側にある火力発電所の入り口まで行き、何か看板でもないかと見てみるが、何もない。すると守衛が出てきてしまった。正直に海底ケーブルの陸揚げ局を探しているんだけどというと、はあっという顔をしていて、知らないとのことだった。あっちにディズニーのリゾートホテルがあるからそっちじゃないかという。退散。

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 次の場所に行くかと車に乗り込み、バックさせていると、ふと駐車場の南側の仕切りを越えたところにマンホールらしきものが見えた。慌てて車を降りて確認しに行くと、確かにマンホールだった。

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 マンホールにはGTEと書いてある。GTEは吸収合併されてすでに消滅している通信会社だ。現在はベライゾンになっている。

http://en.m.wikipedia.org/wiki/GTE

 サザンクロスはベライゾンが現在の共同所有者の一つになっている。見つけた。これが海底ケーブル陸揚げのためのマンホールだ。

 周りをよく見ると、土とアスファルトが海から陸にかけてはがされた跡がある。マンホールから海に向かっていくと、そこだけ小さな入り江のようになっている。岩がゴロゴロしていて降りていく気にはならないが、上から海中に目をこらすと、何となくケーブルらしきものが見える。普通、海底ケーブルは沖合から地中に埋めるが、ここは海岸からすぐのところから地中に入れているのかもしれない。写真に撮っても写らなかったが、あれはケーブルそのものではないかと思う。これがはるかアジアまでつながっているかと思うと感慨ひとしおである。

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 ふとこの入り江の一番奥をのぞいてみると、洞窟のようになっており、なにやら椅子などが置いてある。どうもここに住み着いている人がいるようだ。もういないのかもしれないが、住んでいた形跡がある。邪魔をしないように早々に退散した。

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 陸揚げ局の建物は確認できなかったが、マンホールを見つけただけでも一応の成果だ。

(続く)

ハワイの海底ケーブル陸揚げ局(その1)

 最近、海底ケーブルのことについていろいろ調べている。サイバーセキュリティという点では、物理的なインフラストラクチャとしての海底ケーブルも、重要インフラストラクチャの一部をなしており、その保護をどうするかというのも関心の一つだ。この点はまだあまり議論されていない。

 そこで、海底ケーブルの陸揚げがどうなっているかということにも必然的に関心が及び始めている。そこで、先日訪問したハワイの海底ケーブル陸揚げがどうなっているかを少し調べた。ハワイは米国西海岸と日本との間の中継点になっており、歴史的にも重要である。20世紀初頭に最初の電信の海底ケーブルが日米間で結ばれたときもハワイが中継点になった。

 ハワイには現在五つの主要な海底ケーブル陸揚げ局があるそうだ。

http://www.submarinenetworks.com/stations/north-america/usa-hawaii

 そのうち、二つはハワイ島にあり、残りの三つがオアフ島にある。ホノルルからハワイ島には飛行機か船に乗らなくてはいけないので、オアフ島の三つが比較的アクセスしやすい。三つはいずれもオアフ島の西岸に位置する。

 しかし、ホノルルから一番遠く、オアフ島の北西端に位置するケアワウラ(Keawaula)陸揚げ局は、カエナ・ポイント州立公園(Kaena Point State Park)の中にあり、ここはあまり治安が良くないようだ。サーファーたちが好んで集うそうだが、車上荒らしなどもあるらしい。ここに行くのは断念した。

http://www.submarinenetworks.com/stations/north-america/usa-hawaii/keawaula

http://www.hawaiistateparks.org/parks/oahu/index.cfm?park_id=19

http://community.travel.yahoo.co.jp/mymemo/Nana/blog/15846.html

 残りの二つは、カエナ・ポイント州立公園に行く途中の海浜公園にある。しかし、いずれの二つも、すでにHide Fukuharaさんが訪問している。その後追いになってしまうが、やはり現地は見ておきたい。

http://fhide.wordpress.com/2011/09/08/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B5%B7%E5%BA%95%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E9%99%B8%E6%8F%9A%E3%81%92%E5%B1%80/

(続く)

パラオ再訪

 1年半ぶりにパラオを訪問してきた。1日目の夜に到着し、2日目の夜(正確には3日目の未明)に帰る便だったので、実質1日しかなかったが、おもしろかった。

 主たる目的は、Caroline Cable Projectというパラオとヤップをつなぐ海底ケーブルプロジェクトの進捗を聞きに行くため。

 2010年8月に初めてパラオを訪れたとき、インターネットのあまりの遅さにびっくりして調べ始め、光ファイバの海底ケーブル敷設の有無が太平洋島嶼国を勝ち組と負け組に分けていることに気がついた。

 パラオももちろん分かっていて、海底ケーブルをつなげたいと思っていたが、さまざまな要因でできなかった。

 ところが、2011年春になって、フィリピンとグアムを結ぶケーブルが用済みになったという話が伝わり、パラオとミクロネシア連邦が提携してそれをパラオとヤップ島に引き込もうというプロジェクトが動き出した。パラオでは大統領が率先してこのプロジェクトを動かしている。

 ここまでの話は実は、慶應のメディア・コミュニケーション研究所の紀要に書いた。

 それがその後どうなったのかと聞きに行ったわけだ。やはりインターネットの時代でも、現場に行って話を聞くことには意味がある。パラオではマスコミもそれほど発達していないし、そもそもネットが遅いから、ネットにもたくさんの情報は載ってこない。現場で情報は埋もれている。

 聞いてきた話はまたどこかに書くとして、感激したのは、パラオ・コミュニティ・カレッジの看板。写真のように日本の震災のことを大きく掲げてくれている。パラオはやはり日本の味方なんだなと再認識した。パラオの皆さん、ありがとう。今日はあの日からちょうど1年だ。

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日米金沢会議

 ハワイから戻り、翌日は博士課程の学生の発表が行われる日。私は副査を数人と主査が一人。いろいろあったけど、それぞれ無事に通過。

 翌朝は5時半に起きて羽田へ。日米金沢会議に向かう。金沢は30年前に2年間住んでいたことがある。昭和55年頃で、ゴーゴー(55)豪雪というのがあり、街中が雪に埋もれて子供としてはとても楽しかった。

 会議自体は前日の夜から始まっていて、夕食会はとてもおいしい料理で良かったらしい。一番良いところを逃した。朝のセッションに遅れて参加し、日米の若手の研究者・実務家の話を聞く。なかなかアンユージュアルな人たちで、日本側の参加者もどんどん発言する。

 参加者の一人が、とっくに解決できていると思っていた日米間のさまざまな問題を解決してこなかった上の世代を強く批判しているのを聞き、この人はこんなことを考えていたのかと認識を新たにした。彼が学者としての研究活動よりも、政策的な貢献に力を入れているのはそういう背景があるからなのだろう。

 私の出番は最終日の午前中のコメンテーター。またサイバーセキュリティの話。パネリストとの意見の違いは違いとして認識できておもしろかった。宇宙政策の話やトモダチ作戦の話もあった。

 最終日は雪がチラチラとして一気に寒くなった。会議が解散になるとダッシュで家族から頼まれていた買い物へ。そのまま、東京から単身赴任しているHさんにお会いする。座ってお話しする時間もなかったが、近江町市場での土産物購入に大いに力を発揮してくださった。

 小松空港でまた会議参加者数人と合流。Aさんと海鮮どんぶりをいただく。

 機内では論文を一本読んだだけで着いた。国内線は短い。羽田に着いたら機内にコートを忘れてしまう。ちょっと手間取ったが京急に飛び乗り三田キャンパスへ。翌日の情報セキュリティ政策会議の打ち合わせを行う。