初めてのハワイ

 実はハワイには行ったことがなかった。そんな軟派なところに行けるかという思いもあったし、用事もなかった。

 ところが、共同研究の一環として、毎年ホノルルで開かれているPTC(Pacific Telecommunications Council)に行かせてもらえることになった。授業を休講にしてしまって学生には申し訳なかったけれども、太平洋島嶼国のデジタル・デバイドが最近のテーマの一つで、その関係者がたくさん集まる会議だ。それと関連して、海底ケーブルのこともいろいろ調べていて、そっちの話もたくさんある。

 PTCは何十年も前から毎年ハワイで1月に開かれている。もともとは国際料金精算の交渉をする場だったらしいが、最近はパケット通信全盛になってしまい、そんな交渉はほとんど行われず、今は業界の最新情報を交換する場になっているようだ。学者よりもビジネスマンが多いところを見ると、毎年経費で行ける休暇先ということで続いているのかもしれない。

 学者中心の学会とは違って、基調講演なんかもリラックスした雰囲気。悪くいえばグダグダ。パワポもハンドアウトもなく、壇上でソファに座って座談するみたいなセッションが多い。しかし、学者が仕切っているパネルは、学会風になっている。

 期待していたほど、太平洋島嶼国の話は出てこなかったが、海底ケーブルのほうはいろいろおもしろい話が出てきて来た甲斐があった。北極海に海底ケーブルを通そうというプロジェクトもおもしろい。1980年代からいくつも同じようなプロジェクトが浮かんでは消えていったらしいが、また新たにやろうとしているところがある。そういえば、同僚の村井さんもその話をしていた

 人工衛星のほうも気になってセッションにいくつか出てみたが、こっちはそんなにイノベーションの徴候をつかめなかった。

 日本の総務省から審議官も来ていて、規制のパネルと震災のパネルに出ていた。研究者も何人か発表している。しかし、日本企業はスポンサーになっていなくて、ちょっとプレゼンスが足りない感じ。

 最終日の表彰式を兼ねたランチが終わると、同僚とともに、ハワイ大学へ。TIPG(Telecommunications Information Policy Group)というプロジェクトを主催するノーマン・オカムラ教授にインタビューする。太平洋島嶼国の光海底ケーブル敷設問題はあまりにも政治的で、国際政治学者としてはおもしろすぎる。これはしばらく追いかけたいテーマだ。恥ずかしながら、TIPGのウェブに写真が載っている(パーマリンクがないのでそのうち消えると思う)。写真を撮ったとき、同僚はすでに空港に向かうタクシーに乗ってしまっていたので私しか写っていない。

 私はもう一泊あったので、インタビューの後はハワイ大学の図書館で資料を漁る。1900年頃にどうやってハワイが海底ケーブルを敷設したか分かる資料が残っている。しかし、17時で書庫が閉まってしまい、すべてをコピーできず。またハワイに来る理由ができてしまった。

 大学からバスに乗ってホテルへ戻ろうとするが、どこで降りたら良いのか分からず、ワイキキの繁華街まで連れて行かれてしまった。夕暮れの中をブラブラ歩く。みんな楽しそうに騒いでいる。

 ホテルに戻り、日本から持ってきたプリンタをたくさん回して論文と資料を印刷し、翌日の機内では9時間半のフライトの中、7時間ひたすら読みまくった。エコノミーの3席を占領できたのでとても集中できた。来年も行けるといいなあ。予算があるかなあ。休講にするとひんしゅくかなあ。

大阪と広島

 年末から年明けはひたすら修論と卒論の対応に追われていたが、ようやく少し時間に余裕が出てきた。今年は年賀状は途中で挫折し、ちゃんと出せなかった。いただいたのに返せなかったのも多い。ごめんなさい。

 1月6日に久しぶりに大阪に行った。大阪に行ったのは2007年が最後だったんじゃないだろうか。よく覚えていない。

 帰省中の学生と昼御飯にネギ焼きなるものを食べ、研究会で司会をし、懇親会に行った。道頓堀の脇にある割と良い料理屋でハチャメチャないたずらをする先生たちの姿に腹を抱えて笑った。懇親会が終わって店を出て、近所のお店をフラフラと見ているうちに、気がついたみんなタクシーに乗って二次会会場に行ってしまった。

 酔っ払って気が大きくなっているので、迷子も良いかと地下鉄に乗り、宿に向かう。どの線に乗れば良いのかいまいち分からないのだが、目の前に来た電車に飛び乗った。車内の表示を見て、どこで降りるのかなあと考えていて、次の駅に着いたら、脇の席に座っていた女性二人組が「信じらんなーい」と話しているので何かと思ったら、女性専用列車に乗っていた。

 慌てて飛び降りて、ホームのベンチで次の電車を待っていたら、某常任理事から電話がかかってきて、何やっているのかと叱られた。そのまま次の電車に乗って来いというので梅田に着いたが、迎えに来てくださった方と巡り会えず(よほど酔っ払っていたのかなあ)、ひとまずホテルにチェックインして鍵をもらったところで、迎えの方が来てくださった。

 それじゃということで二次会会場に向かうが、それが別のホテルの高層階のバーだった。エレベータを待つ間、女性と二人でホテルのエレベータに乗るところを誰かに目撃されてツイッターで書かれたらまずいんじゃないかという変な恐怖感に襲われた。二次会の席でそんな話をしたら、確かに今時どこにカメラがあるか分からないから本当に怖いという話になった。ついでに、酔っ払って歌い踊る某国立大学の先生の姿をビデオに収めた。これをフェイスブックに載せるかどうか迷う。

 翌朝、早起きするはずがさすがにできず、それでもベッドから這い出して広島へ。前から一度行かなくてはと思っていたところへお邪魔する。そこでちょっと長居をしすぎて、昼御飯の約束に遅れてしまうが、前の職場の元同僚に本場の広島風お好み焼きをごちそうになる。大阪とはやっぱり違うね。

 つかの間の再会だし、他に広島では何も見られなかったが、夕方までには東京に戻らなくては行けなかったので新幹線に乗る。広島から品川まで丸々4時間もある。車内でもひたすら修論と卒論を読んでいた。

 駆け足だったけど、おもしろい2日間の小旅行だった。

北京訪問

 4年ぶりに北京へ。2泊3日(実質1日半)と相変わらず短くて残念だったけど、いろいろな人に会えておもしろかった。

東京よりもずっと涼しく、前回と比べて格段に空気がきれいになっていた。空が青くなっていた。

前回訪問時の写真

https://web.sfc.keio.ac.jp/~taiyo/wordpress/?p=4525

忙しくてほとんど写真も撮らなかったけど、おいしいものは食べられた。四川料理が良かったなあ。下の写真は、川魚を唐辛子ともやしが入った油の中でグラグラさせてしまうもの(水煮魚というのかな)。熱くて辛くておいしい。川魚の臭みも全くない。この店ではテーブルに出す前に唐辛子を除いてくれていた。

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ちょうど柳条湖事件の記念日で、新聞やテレビが取り上げていた。それに関連してサイバー攻撃が行われたようだ。

数ヶ月前から読売新聞はサイバーセキュリティ関連の特集記事を用意していた。そこにうまく三菱重工へのサイバー攻撃のニュースも重なったようだ。それとも、読売新聞は前から知っていたのかなあ。9月20日付け夕刊で私のコメントも載せてくださりました。

長崎海底線史料館

 今、海底ケーブルのことを研究テーマの一つにしている。「今」というよりはずっと関心があって、博士論文の中にも書いている。日本は海に囲まれているのだから、海底ケーブルなしでは情報通信のインフラストラクチャは成り立たない。そう思って1840年頃に海底ケーブルがイギリスで発明されて以来の歴史を折に触れて振り返ってきた(『情報とグローバル・ガバナンス』および『ネットワーク・パワー』に収録)。

「今」また関心があるのは、昨年、パラオに行ったとき、海底ケーブルがつながっていないために、パラオが大変な苦労をしていることを知ったからだ。パラオだけではない。少なからぬ太平洋島嶼国が苦しんでいる。海底ケーブルにつながっている勝ち組と、つながっていない負け組で結果がはっきり出てしまっている。例えば、国ではないが、グアムは米領になっているので複数の光海底ケーブルがつながっている。軍事基地でもあるグアムは、太平洋のネットワーク・ハブの一つになっている。しかし、そこから1300キロほど離れたパラオにはつながっていない。1300キロという距離は現代の海底ケーブル技術からすれば何でもない距離だが、いくつかの理由でつながっていない。

 パラオを中心とする太平洋島嶼国について調べるとともに、海底ケーブルの現状も知りたくて、事業者へのヒアリングにも行った。特に、3.11の大震災で茨城沖の海底ケーブルが複数箇所で切断されたものの、すぐに復旧した努力には驚いた。

 そうした関心の一環で、長崎の海底線史料館に行ってきた。長崎に行くのは初めてなので泊まりがけで行きたかったが、予定が立て込んでいるので日帰りにした。朝4時半に起きて羽田空港に行き、8時過ぎに長崎に到着した。レンタカーを借りて長崎市内へ向かう。長崎空港は大村市にあるので、40分ほどかかる。長崎駅で、福岡に帰省中のゼミ生K君と落ち合う。

 11時前にNTT-WEマリンへ。長崎駅から20分ぐらいだっただろうか。NTT-WEマリンはNTTコミュニケーションズの関連会社で、ケーブル敷設船すばるの母港になっている。あいにくこの日はすばるは出航中で見ることはできなかったが、この場所は岩場に挟まれた天然のドックになっているとのことだった。普通の港では嵐が来ると船を沖に出さなくてはいけないが、ここではそのまま港の中に係留しておくことができるそうだ。

 海底線史料館は普段は閉まっているので、予約が必要である。私も1ヶ月ほど前に電話してアポイントをとっておいた。案内してくださったのはSさん。上司のTさんにもご挨拶をして、まず見せてもらったのは修復用のケーブルである。大きな工場のような建物の中に合計六つの丸い大きな穴が開いており、その中にさまざまな海底ケーブルがぐるぐると輪になって保管されている。一つの穴の中に何層にもなって複数の種類のケーブルが入っている。これは現在使用されているケーブルが何らかの理由で切断されたり故障したりした場合の修復に使われるそうだ。したがって、最新の光ファイバが入ったケーブルだけでなく、昔の同軸線のものもある。

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 この工場のような倉庫の隣にある煉瓦造りの建物が海底線史料館である。長崎は日本で一番最初に海外との海底ケーブルがつながった場所である。19世紀から20世紀の変わり目頃に世界の海底ケーブルを牛耳っていたのは大英帝国である。しかし、日本に海底ケーブルをつないだのはデンマークの大北電信(Great Northern Telegraph Company)であった。海底線史料館の建物は明治29年(1896年)に海底電信線貯蔵池の電源舎として作られたようだ。しかし、とても風情がある。取り壊しの話もあったようだが、保存の要望があって残すことになった。そして2009年には経済産業省から「地域活性化に役立つ産業遺産」に指定された。

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 史料館の中には予想を超えるさまざまなものが保存されていて驚いた。最初の部屋には各時代の海底ケーブルを短く切断したものが展示されている。KDDから提供された最初の太平洋ケーブルもあった。海底ケーブル自体の技術革新がよく分かる。隣の部屋にはまず最初に大英帝国の有名なケーブル敷設船Great Eastern号の模型がある。何度も本で読んだ船だ。第二次大戦末期に使われていて、ソビエトに撃沈されたとする説のある日本のケーブル敷設船小笠原丸の大きな模型もある。三つ目の部屋はロフトのように二層になっていて、巨大なケーブル移動用の装置が置かれていた。まだ整理し切れていないと思われるものも置かれている。

 何よりも興味を引かれたのは、年代物の戸棚に収納されている文書である。背表紙のタイトルからして興味をそそられるものが多い。しかし、どれもかなりの年代物なので簡単に手にとって見られるものでもなさそうだ。時間をかけて丁寧に中身を見なくてはならないだろう。その量からして日帰りではどうにもならない。

 会議を終えられてTさんとNさんが史料館にやってきてくださった。そこでお話を伺うと、私と同じような目的でこの史料館にやってきて、この文書をすでに見た研究者がいるとのこと。「いとうかずお」さんという方だったとのことで帰宅してから調べてみると、おそらく、伊藤和雄『まさにNCWであった日本海海戦』(光人社、2011年)だろうと分かる。この本はつい先日注文してあって、もう大学の研究室に届いているはずだ。一番乗りでなかったのは残念でならない。本の中身を確認して、私がまだやれる範囲があれば、もう一度この史料館に来て、文書を見てみたい。

 NTT-WEマリンを辞去して、市内でK君とチャンポンを食べる。チャンポン発祥の店だそうだ。食後、すぐ隣の全日空ホテルの入り口へ。ここに「国際電信発祥の地」と書かれた記念碑が建っている。新しく見えるが昭和46年(1971年)のものだそうだ。隣には「長崎電信創業の地」と「南山手居留地跡」の碑もたっている。なぜここに記念碑があるかというと、港近くで陸揚げされた海底ケーブルが陸線につながり、全日空ホテルの敷地にかつてあったホテル・ベルビューで通信業務が行われていたからだそうだ。

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 また車に乗り、今度はやや離れた国際海底電線小ヶ倉陸揚庫へ。ここには海底ケーブルの陸揚げに使われた小屋が残っている。港のすぐそばで、民家の隣にぽつんと立っている。しかし、ここは柵で囲われていて中に入ることはできない。柵はそれほど古いものではなく、最近作られたように見える。この建物の手がかりになるものは、外側の石碑だけである。それによれば、「原形を復元し」となっている。1971年頃に復元されたらしい。管理しているのはKDDIのようなので、もし長崎再訪のチャンスがあれば、中を見られるかどうか聞いてみよう。

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 この時点ですでに14時近くになっている。時間が十分に余れば、グラバー園に行くか(グラバーも海底ケーブルに関係していたらしい)、長崎県立図書館で資料を調べようと思っていたが、16時半には市内を出ないと帰りの飛行機に間に合わない。そこで、市内を車で走っている最中に見つけた出島を見に行くことにした。出島は明治の開国で不要になった後、周囲の埋め立てが進んだり、運河の整備で一部が削られたりして、場所がよく分からなくなっていたようだが、最近の調査で境界が確認され、復元された。復元と行っても何度も火災があったので時代によって出島の姿はさまざまだったようだ。

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 この日、長崎は台風の影響があって、午前中は雨、午後は非常に蒸し暑かった。出島はそれほど大きくないが、ここでバテてしまう。長崎駅前で土産物を少し物色して、K君は電車で福岡へ戻っていった。私はまた車で空港へ。帰りの機内で、出島の売店で買った小冊子を読む。出島についてよくまとまっていて勉強になった。国際政治のパワーの中心がポルトガルからオランダへ、そしてイギリスへ移っていったことが出島にも影響した。

 帰宅は21時頃になった。見たいと思っていた史料館が見られたという点では大いに満足した。しかし、そこに宝物のような文書が眠っていることも分かり、心が騒ぐ。次にケーブル敷設船が戻ってくる時期に行きたいが、授業があってその頃は難しそうだ。春休みにまた行けるかどうか考えてみよう。

あの頃は良かった

 CENS-GFF Workshop on “The Geostrategic Implications of Cyberspace”にお招きいただき、シンガポールに来ました。久しぶりのシンガポール、噂に聞いていたビルの上の船が見えました。

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 初日の第2パネルで私はプレゼンテーション。第1パネルがいまいち停滞気味だったので、その間にスライドを作り直しておもしろく修正。相変わらずへたくそな英語ですが、笑いはたくさんとれました。次のIBMの人もエキサイトして話していたのでおもしろいパネルになりました。

 私のプレゼンテーションの中で、日本ではインテリジェンスが弱いままで、サイバーセキュリティを担当しているNISC(内閣情報セキュリティセンター)とインテリジェンスを担当している内閣情報調査室(内調)の間に距離があると発言したところ、終わった後のランチタイムに当のNISCと内調の人が挨拶に来てびっくり。

 ブレイクアウトセッションの後、第3パネルでは司会を仰せつかりました。3人のパネリストは、弁護士、法学教授、米国務省の役人で、それぞれ難しい法律用語を使い、米国法や国際法を引用するので何を言っているのかよく分かりませんでしたが、質問もたくさん出て無事に終了したので、良かったとしましょう。

 最後は夕食会。ホテル内のレストランでバイキング(英語ではバフェーと言いますね)。小さめだけどロブスター食べ放題、オイスター食べ放題、カニ足食べ放題。すばらしい。

 隣に座ったCentre of Excellence for National Security(CENS)の代表代理のBilveer Singh先生は日本の温泉好きと聞いてびっくり。その頭で温泉に入るときはどうするのでしょうと聞こうかと思ったけど、やめておきました。

 反対の隣に座ったのはイギリスのエネルギーの研究者。福島の原発の話などをしているとき、「思い出してごらんよ。2000年は良かったよね。世界は平和で、経済も好調だった。その後の世界がこんなことになるなんて思わなかったよねえ」と言われて、その通りだなあと感傷的になりました。

 2000年、30歳の私は研究者として駆け出しで、デジタル・デバイドなんかをやりながら、初めての本を出す努力をし、アメリカにでも行ってみるかと準備をしていました。サイバーセキュリティもインテリジェンスも研究テーマにはなっていなくて、インターネットがこれほど安全保障につながるとも思っていませんでした。地震も津波も原発問題もない、平和な時代でした。失われて初めて実感するものですね。

アトランタで一人合宿

 昨年末、授業が終わってからアメリカのアトランタに行きました。アメリカでは感謝祭からクリスマスまでがホリデーシーズンですが、クリスマスが終わってしまうと普通の生活に戻ってしまいます。日本人のような年末年始という感覚がなく、年末までしっかり働いて、年始も休むのは元旦だけ。2日から営業が始まるところが多くなっています。日本はクリスマス後は休みになるので、年末の1週間をねらい、かねてから行きたかったアトランタのジミー・カーター図書館に行きました。

 ワシントンDCのダレス空港経由だったのですが、入国審査で行き先を聞かれ、「ジミー・カーター・ライブラリーに行く」と言ったところ、入国審査官に「ジャマイカ・ライブラリー???」と聞き返され、私の英語はまだまだだとがっかりしました。

 その頃、アメリカにはとてつもない寒波が来ていて、アトランタもメチャクチャ寒い。知り合いの信長野ヤボ夫さんはニューヨークにいたらしく、大変な思いをしていたそうです(でもほほえましい)。

http://kingdom.cocolog-nifty.com/dokimemo/2010/12/post-bbce.html

 カーター図書館にも雪が少し残っていました。

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 図書館に併設されているミュージアムにはホワイトハウスのオーバル・ルームも再現してあります(これはどこの大統領図書館にもありますね)。カーターの若い頃はとてもハンサムでした。

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 図書館で欲しい文書の目星は付けてあり、事前に連絡してから行ったのですが、なんとCIAが秘密解除した文書が大量にアクセス可能になっていました。まだオンラインには載っておらず、図書館の中の端末2台でしかアクセスできないとのこと。USBにダウンロード出せてくれればい良いのですが、印刷するか、画面をデジタルカメラで撮影するしかダメとのこと。でも良い文書が大量に手に入りました。写真にあるように大統領やスタッフが自筆で書き込んでいるものもあります。時間をかけて読み込んでいかないといけません。

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 アトランタは初めてだったので、お約束の「ワールド・オブ・コカコーラ」とCNNを駆け足で見学しました。もうちょっと時間があれば良かった。キング牧師関連のものは見る時間がありませんでした。とても残念。知り合いが一人アトランタにいたことをすっかり忘れていて、連絡を取り忘れたのはもっと残念。会いたかったなあ。

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 3泊だけの短い滞在だったので、時差ボケは気にせず、おなかがすいたら食べ、眠くなったら眠り、図書館と観光以外の時間は、ひたすらたまった仕事をしていました。往復の飛行機の中もひたすら仕事。『ネットワーク・ヘゲモニー』の再校ゲラもこの旅行中にチェックしました。これだけ集中できたのは久しぶりで、良い「一人合宿」でした。

都会離れ

いくつか用事があって一泊二日でニューヨークへ行く。朝7時15分にボストンのサウス・ステーションを出るアムトラックの特急アセラに乗り込む。アセラはファースト・クラスとビジネス・クラスしかないのだが、座席指定ができない。座席数以上の予約はとらないので全員座れるのだが、どの席に座るかは自由である。おまけにどのホームから発車するのか、発車10分前にならないと分からない。乗客は待合いホールでブラブラしていて、アナウンスがあると(電光掲示板でも表示される)発車ホームに殺到するというひどいシステムだ。

何とか座って3時間半の列車の旅である。アセラは電源がとれるのでパソコンが使えるのが良い。さすがに無線LANはない。昼前に到着し、連絡してあったJ先生とペン・ステーションで待ち合わせをする。

ニューヨークは暑い。地下鉄のホームがサウナのように暑くてしんどい(ボストンの地下鉄はなぜかそんなに暑くない)。地下鉄の車内は冷房がきいているが、電車が来るのを待っている間に汗が出てくる。おまけに路線が複雑で、ローカル電車に乗ったはずなのに駅をすっ飛ばすことがある。放送をしっかり聞いていないと変なところへ連れて行かれてしまう。J先生と電車で話しているうちに乗り過ごしてしまい、そのおかげで思いがけず世界貿易センターの跡地を見ることになった。

これまでテロのことについてそれなりに書いてきたし、テロ後も何度もニューヨークに来ているが、今まで一度も近づいたことがなかった。単なる見物で行くべきところではないような気がしていたし、当時の自宅近くにあったペンタゴンのすさまじい光景を見てからはますます行く気がなくなった。しかし、7年が経って、今回は時間があったら見に行こうと思っていた。

跡地は再開発工事の真っ最中だった。しかし、高いビルに囲まれてぽっかりと空いた空間は、いろいろなことを考えさせる。いまだに泣き崩れている人がいるのも悲しみの深さを感じさせる。あれからずっとアメリカは戦争をしている。戦争中であるという雰囲気はあまりないけれども、戦争がもうすぐ終わるという感じもない。ローマ帝国のヤヌスの神殿は戦争中は開けたままにしておいたそうだけど、アメリカにそんなものがあったとしたら7年間近く開きっぱなしだ。

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それにしても、ニューヨークは人が多い。車も多い。ボストンの調子で歩いていると轢かれそうになる。東京からニューヨークに来てもどうということは思わなかったのに、今回は人と車の動きと高層ビルにくらくらする。何度も見たはずのエンパイア・ステート・ビルに見とれてしまう。ふと自分が都会離れしてしまったのだと気がついた。ボストンにだって高層ビルはある。しかし、ケンブリッジ側に住んでいると、それは遠くから見るものになっていて、高層ビルの間に住んでいる感じがない。ボストンの運転の荒さは全米で最悪だと言われるが(すぐにクラクションを鳴らすのをやめて欲しい)、やはりニューヨークよりはのんびりしている気がする。ニューヨークのアパートの値段を聞いてびっくりしてしまうし、この街には住めないなと思う。きっと東京に帰ったらしばらくはくらくらするのだろう。

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二日目、東京から来ているHさんとSさんと一緒にフリーダム・ハウスを訪問したり、研究者に会ったりする。フリーダム・ハウスは1941年にエレノア・ルーズベルトが作った非営利団体で、民主主義のための調査や支援活動を行っており、近年は報道の自由に関する指標を作っている。インターネット規制についても調査を行っているので、その辺を聞くことができて有益だった。実は面談相手は5月のニュー・ヘブンのカンファレンスで知り合った人なのだが、今回改めて話してみると、私がお世話になったY先生の娘さんとクラスメートだということが分かった! 世の中狭すぎる。たまたま知り合った人の交友関係を深く調べることができたら、こんな偶然はもっと見つかるのだろう(あまり他人のSNSの友人リストをのぞく気はしないけどね)。

全ての用事を終え、再び汗をかきながらペン・ステーションに戻る。夕方6時の電車を待つが、平日のラッシュ時に重なったこともあって駅は乗客でごった返している。予約した電車は30分遅れの表示が出ている。しかし、6時半が近づくとアナウンスを待つ人たちが電光掲示板の下に集まり、なんだか殺気立ってくる。そして、ワシントンDCから到着した乗客がエスカレーターを上がってくると、そこが発車ホームに違いないと人だかりができる。アナウンスされたときには列も何もなく人が殺到している。まるで発展途上国のようだ。アメリカは世界で最も豊かな国という割には、こういう原始的なところが残っている。絶えず移民が入ってくる国ではこうならざるを得ないのだろうか。

情報自由法請求

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リトルロックに着いたのは月曜日の夜中、荷物がホテルに届いたのは水曜日の午後。その間、必要品を揃えようと思って街を歩いたけど何もない。ワシントンやボストンではいたるところにある薬局兼雑貨屋のCVSもない。ついでにボストンではうじゃうじゃあるダンキン・ドーナッツもない。南部は別の国だ。

リトルロックは州都なので行政都市である。大きくて無愛想なビルが並んでいるだけで、繁華街と言えるものが見あたらない。リバー・マーケットというアーカンソー川沿いのエリアが観光ガイドには書いてあるが、ちょっと物足りない。

ここに来た目的はクリントン・ライブラリー(William J. Clinton Presidential Library)での公文書探し。外交文書は公開まで30年かかるので、クリントン時代の外交文書公開はまだまだ先だ。そのためか、文書アーカイブは閑散としている。しかし、内政に関する文書は、差し支えなければ公開されている。また、情報自由法(FOIA:アメリカでは情報公開法を情報自由法と呼ぶ)で公開が決まったものも出てくる。恒例のエリア51ロズウェル事件についてはもう文書が公開されていた(好きな人がいるんだなあ)。

本当に欲しかった文書はまだ見つかっていないが、関連するものは見つかった。クリントン政権の中堅幹部だった人にワシントンでインタビューしたことがある。その人が教えてくれた会議の議事録が出てきて驚いた。文書には「sensitive」とスタンプが押されているが、非公開にはなっていない。外交にも少し関係する文書なのだが、そのままあっさり出てきた。閲覧室には私しかいないことが多いので、アーキビストが私の動きをじっと見ているのだが、良い文書が出てくると思わずにやりとしてしまう。

しかし、一番欲しい情報はどうも見つかりそうにない。アーキビストに相談したところ、FOIA請求してみてはどうかとのことだった。10年前にFOIAがデジタル対応したことについて調べて書いたことがある(『ネットワーク時代の合意形成』という本に入っている)。いよいよ自分でFOIA請求するとはと思うとちょっと興奮したが、手続きは実にあっさりしたものだった。紙一枚に連絡先と欲しい情報を書くだけ。出てくるといいなあ。最短で1ヵ月ぐらいは待たないといけない。

クリントン・ライブラリーに行こうと思っている人のためにちょっとアドバイス。上述の通り、外交・安全保障関連の情報、大統領自身についての情報はほぼ全く公開されていない。内政についての情報はだいぶ出ている(基本的にはホワイトハウスの補佐官たちが保有していた書類が中心)。福祉政策関係の情報はかなり出ているようだった。アポは必要ないものの、事前にコンタクトをもらった方がスムーズだとアーキビストは言っていた(せっかく行って何もないとつらい)。きちんと調べるテーマが決まっていないと追い返されると思う(簡単には入れない)。一番近いホテルはCourtyard Little Rock Downtown(521 President Clinton Avenue)。ここからなら歩いていける。ホテルの隣にあるFlying Fishのなまずのフライがおいしい。

今日の教訓:やってみれば意外に簡単なこともある。

リトルロックにたどり着く

ボストンからワシントンDC経由でアーカンソー州リトルロックへ。ここはビル・クリントンの本拠地だ(ヒラリー・クリントンはなぜかニューヨークが地盤)。

この時期のアメリカは天気が悪く、トルネードやサンダーストームが暴れまくる。ボストン発の便はほぼ定刻に離陸したものの、予定時間になっても着陸しない。ワシントンDCが天候不良でダレス空港に着陸できないのだ。1時間ぐらい旋回し続けた後、ようやく着陸。

乗り換え時間が30分ぐらいしかないので心配だったが、どうせ出発便も遅れているに違いないと思って電光掲示板を確認すると、案の定、1時間遅れ。機内で食べようと持ってきた夕ご飯をコンコースで食べる。しかし、天候悪化で、他のフライトがどんどんキャンセルされていく。私のフライトも遅れていく。

ゲートの前で待っていると、私のフライトの表示が消えてしまった。げっ、アナウンスを聞き逃して飛んでしまったか!と思ったが、しばらくするとまた表示され、元のフライトから4時間遅れになっている。待っている間もどんどん他のフライトがキャンセルされていく。

ワシントンDC市内に近いナショナル空港で一泊するのなら楽しみはいろいろあるが、市内から遠いダレス空港だと何もない。何とか飛んでくれ〜と神頼みをしていると、搭乗のアナウンス。やれやれと乗り込むと、今度は滑走路が大渋滞。ゲートを離れてから離陸するまでに1時間。機長のアナウンスによると、この飛行機はシャーロッツビルに行く予定だったが、リトルロック行きに振り替えたとのこと。そりゃありがたいのだけど、嫌な予感がする。窓の外を見ると、空港職員が飛行機から荷物を引きずり出している。おそらくシャーロッツビル行きのカバンを出しているのだろうけど、リトルロック行きのカバンはどうなっているのだろう。

離陸すると、飛行機は西に向かい、私の席は左の窓側だったのでお月さんがきれいに見える。周りに明るい星も見える。星を見たのは何ヶ月ぶりだろう。ボストンでは夜はほとんど出歩かないので星なんか見ていない。お月さんの下にある雲が時々ぴかっと光る。何事かとじっと見ていると雷だった。積乱雲の固まりの中で雷がぴかっ、ぴかっとやっているわけだ。音が聞こえないので変な感じだ。こんなに雷をじっとみるのも久しぶりだ。写真を撮ろうと思ったが、暗すぎて何も写らない。ビデオで撮っておきたかった。

リトルロックは中部時間なので、ボストンと1時間時差がある。ボストン時間の夜1時、リトルロックの夜12時に着陸。予想通り、カバンは出てこなかった。しかし、予想外は航空会社の職員が誰もいないこと。もう真夜中だもんなあ。みんな帰ってしまった気配である。他にもカバンのない人が10名ほど。関係ないTSA(運輸保安局)職員にみんなで詰め寄ると、航空会社の人を引っ張り出して来てくれた。しかし、私の仕事じゃないわよーという顔をしている。アメリカ的だなあ。ここで怒っていると疲れるだけなので、みんな順番にクレーム用紙を渡していく。

さらに嫌な予感がして、ダッシュで空港の外に出る。最後のタクシーが一台止まっている。と思ったら先客がいた。交渉して相乗りさせてもらうことにした。助かった。リトルロック時間の午前1時にホテル着。荷物はないが、ホテルの人が親切にいろいろ出してくれた。良かった。

おそらく、朝早くボストンを出て、昼にリトルロックに着くフライトならここまでひどいことにはならなかったのではないか。知人と朝ご飯を食べて、家で昼ご飯を食べて、ゆっくり出かけたのが敗因だ。

今日の教訓:田舎に着くときはなるべく早いフライトにせよ。田舎の夜は早い。

マリーン・ワン

ナショナル空港が懐かしいと書いてしまったばかりに、帰りは足止めを食ってしまった。機内に入ってから2時間、機械の故障で待たされた。挙げ句にフライトはキャンセルになってしまい、全員おろされ、取り直しになったフライトは5時間後。それも機体のやりくりが付かなかったみたいで、さらに45分遅れ。かなり疲れた。

おもしろいことが一つだけ。ナショナル空港で待っている間に、ポトマック側の向こう岸でヘリコプターが3機並んで飛んできた。ワシントンDCの上空を飛行機やヘリコプターが飛ぶことはまずない。ナショナル空港に離着陸する飛行機はポトマック側の上を飛ぶことになっている(騒音対策でもある)。3機並んで飛ぶとは何事かと思ったら、1機はホワイトハウス辺りに着陸した。大統領のマリーン・ワンだったのだろう。大統領が乗る大型ジェット機はエアフォース・ワンという空軍の飛行機だが、アンドリューズ空軍基地からホワイトハウスまでは海兵隊のヘリコプターであるマリーン・ワンに乗る(このエントリーにレーガン大統領が乗っていたマリーン・ワンが写っている)。

帰宅して調べてみると、前日の10日にブッシュ大統領夫妻はテキサスの牧場で娘の結婚式に出ており、翌11日にホワイトハウスに戻ってきたところだったのではないだろうか(ホワイトハウスのプレスリリース。大統領の後ろにエアフォース・ワンが写っている)。

夏時間のせいで、午後7時にボストンに着いてもまだ明るいのが救いだ。でもやはりまだ寒い。まだ寒いのに、MITは今週で授業が終わり、試験期間の後、5月26日のメモリアル・デーからは夏休みだ。サマー・セッションもあるけど、長い人は9月1日のレイバー・デーまで3カ月の休みに入る。うらやましい(私はずっと休みみたいなものだけど)。

ワシントンDCへ

20080507washington.JPG昨日、ワシントンDCへ来た。過ごした時間のせいか、ワシントンDCは私にとってアメリカでのふるさとだ。ナショナル空港のターミナルに着いただけで懐かしい思いでいっぱいになる。ここをホームにいろいろなところへ飛んでいった。遠くに見えるワシントン記念塔を見ると帰ってきた気になる。

といっても10ヵ月前にもワシントンDCには来ているから、そんなに久しぶりでもない。でもほっとするのは、やはりふるさとだからだろう。ボストンに戻ったときもそんな気になる日が来るのだろうか。

ワシントンはボストンと比べて暖かい。南部に来たという感じがする。今日は特に初夏といっても良いような陽気で、半袖で歩いている人も多い。

午前中、ウォーミングアップの意味を込めて、昔よく通ったLストリートの本屋ボーダーズへ。だいぶ本の配置が変わっている。地下に行ったらMANGAコーナーができていた。ボストンとは違う品揃えで、政治関係・軍事関係の本が充実している。6冊ほど欲しいものがあったが、3冊だけ購入し、後はネットで買うことにする。

ランチは二人の専門家におもしろい話をうかがいながら、Kストリートで中華をいただく。ここの麻婆豆腐も懐かしくて食べ過ぎてしまった感がある。知りたかったけど良く知らなかったことが聞けて良かった。このランチだけでもワシントンに来た甲斐がある。

Kストリートはロビイストの事務所やシンクタンクなどが多いことで知られている。しかし、数字とアルファベットをストリートの名前にするというのはボキャ貧も甚だしい。ワシントンDCの街を設計したランファンはわかりやすさを重視したのかもしれないが、その割にはJストリートがないなどよく分からないところがある。西洋流の一種の風水を取り入れて作られていると主張する本(デイヴィッド・オーヴァソン『風水都市ワシントンDC』)もあるけど、どうなのかなあ。

午後はジョージ・ワシントン大学の図書館の中にあるナショナル・セキュリティ・アーカイブに行く。ここはインテリジェンス関連の資料をたくさん集めている。しかし、行ってみて分かったのは、ここの資料のほとんどはオンラインに上がっており、わざわざ資料室をひっくり返して出てくるような目新しいものはないということだ。しかし、ここで専門家数人の連絡先を教えてもらえたので、それをたぐっていくことができる。

資料がないことは少しがっかりしたが、新しい可能性がいくつか見えてきた。調べるべきポイントもより明確になってきたし、話を聞ける人が見つかったことも大きい。フィールド調査をやるときは、こうした可能性に自分の心を開いておくことが重要だと思う。うまくいかないことも多いが、そこでふてくされていると先に進まない。

ヨーロッパで狙撃?

先々週から先週にかけてヨーロッパに出張する。通信と放送の融合に関する調査と学会参加が目的である。

最初の目的地はロンドン。空港からタクシーに乗った。窓の外を見ながらボーとしていたところ、突然バーンと大音響が響いた。何事かと後ろを振り向くと、タクシーの後部座席の窓が粉々に砕け、バスケットボールぐらいの大きな穴があいている。全く何が起きたのか分からない。運転手は私が頭をぶつけたのではないかと思ったらしく、大丈夫かと聞いてくるが、私はどこもぶつけておらず、ガラスの粉をかぶっただけだ。

驚いたことにタクシーの運転手は止まりもしないで走り続ける。銃で撃たれたのか、石が飛んできたのか、と聞いてくるが、私には何も分からない。ガラスが内側に向けて割れているのが確認できるが、石は見当たらない。警察に電話したらどうかと運転手に言ってみるが、そのまま走り続ける。狙われて銃撃されたのなら走り続けるのが正しいが(この辺がロンドン・タクシーのプロフェッショナリズムか)、そんな覚えはない。

運転手は携帯電話で誰かに話し始めたが、どうも家族か友人に話しているような口ぶりだ。そのまま市内のホテルに到着した。車を止めて二人で確認するが、何が起きたのかよく分からない。あまりにびっくりして写真を取り忘れたのが悔やまれる。正確には、撮ろうと思ったのだが、それどころじゃないだろともう一人の自分が言っていた。

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インテリジェンスの研究なんかやるから警告されたのだろうと友人に言われたが、懲りずにMI5(上の写真)とMI6(下の写真)を見物に出かける(もちろん外観だけ)。両者はテムズ川を挟んでそれほど遠くないところに位置している。MI6の建物は英国らしくない奇妙なデザインだ。007シリーズでここからボートに乗って007が飛び出してくるシーンがあるらしい。

その後、学会のためにフランスのニースに行き、再び調査のためにベルギーのブリュッセルに行く。両方とも2回目なので懐かしい。

9月はじめにオーストリアで開かれたザルツブルグ・グローバル・セミナーで会った欧州委員会の友人にブリュッセルで再会。彼は欧州委員会で安全保障を担当している。ロンドンでの経験を話したら、そんなことあるかと笑っていた。しかし、原因は分からない。ヨーロッパは危ないところだ。

全然関係ない話だが、ブリュッセルで会ったスコットランド人にITとエネルギー/環境問題について日中共同研究をしているんだと説明したら、「お前はロンドンの霧って見たことあるか」と聞かれた。話には聞くけど見たことはない。実はあれはテムズ川の霧ではなく、工業化によるスモッグだったのだとか。今の中国と同じというわけだ。霧というとロマンチックだが、スモッグといわれるとがっかりする。

琵琶湖畔で研究合宿

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先週のことになるけど、昨年に続いて琵琶湖畔で研究合宿。ヨーロッパかと思わせるようなホテルで設備は豪華なのに、何も使う時間がない。プールで泳ぐ時間すらない。朝の新幹線に乗り、昼過ぎに到着。13時から翌日の16時まで、3時間のセッションを4回もやる。少人数なので眠っているとすぐばれる。グーグー眠っていたコメンテーターが「すばらしい発表でした」とコメントしているのには内心大笑い。つくづく彼は大物だと思う。

それぞれのキーノート発表はおもしろかった。文学についての研究発表なんてたぶん初めてではないか。刺激されて、帰ってきてからフィッツジェラルド(村上春樹訳)の『グレート・ギャッツビー』を読む。こんな話なのね。

先週は比較的時間があったので、本をかなり読む。しかし、積み上げられた本はなかなか減らない。人生の中で読める本の数は実に少ないと悲しくなる。来学期、学生と読む本をほぼ決める。

北京の空は暗い

共同研究の一環として北京の中国現代国際関係研究院を訪問。前回2001年(?)に訪問した時にはなかった立派な建物ができている。キャンパスのような作りで、大きな庭や豪華な会議室がいくつもあってうらやましい。人口が多いと言っても、北京は街の造りが広々としている。

そのせいか、初めて北京に行った1999年と比べても、どんどん自転車の数が減り、車が増えてきている。車のグレードも上がっている。タクシーも以前はシトロエンなんかが多かったけど、もう少し大きくてしっかりした車が増えてきた。ホテルの窓から見ていると、ひっきりなしに車が走り続けている。すっかり車社会になってしまった。

交通量の増大に伴って気になるのが大気の状態。うだるような暑さの北京を予想していたのだが、到着した夜は霧がかかっているような感じで意外にも涼しい。翌朝も曇っているのか、スモッグなのか、空が暗い。雨も降ってきて、涼しいまま過ごせた。東京の方がずっと暑い。単に天気が悪かっただけならいいのだけど、大気汚染が進んでいるのだとすると心配だ。

北京は昨年一泊二日で訪れて以来だが、今回の滞在も二泊三日。一日目の夜に着いて三日目の早朝に発ったので実質一日だけ。万里の長城も見たことがないので、もう少しゆっくり見て回りたい。特に今回は中国の図書館を見たかったのだけど、時間がなくて行けなかった。残念だ。

出かける前に二冊、中国に関する本を読んでいった。夜の宴会の席で、酔っぱらった勢いでいろいろ仕入れたネタを確かめてみる。

「中国は六つのリージョナル国家に分かれていて、台湾を含めたUnited States of Chinaというアイデアもあるそうですが、どう思いますか?」

「中国は一つに決まっています。」

「香港を取り戻すとき、一国両制といったのだから、台湾の場合は一国三制というのはありえるのですかね。」

「香港と台湾は同じなので、一国両制でいいんです。」

「生産手段の共有が共産主義の定義だとすれば、中国は共産主義を採用しているようには見えません。世界の誤解を解くために、共産党はやめて人民党に変えたらどうですか。共和党でもいいですよね。中華人民共和国なんだから。共和党ならアメリカの人も台湾の人も喜びますよ。」

「ここにいるわれわれは共産党員なんですよ。あなたは何てことを言うんですか。」

あとは乾杯攻撃に遭って覚えていない。

北京弾丸ツアー

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水曜日に一泊二日で北京まで行く。記憶違いでなければ北京は5年ぶりだ。2001年に行ったきりのような気がする。ネット関係の聞き取り調査で、Hさんにお世話になりっぱなしだった。ありがとうございます。

回れたところは当然少ないけれど、人民日報のウェブ版である人民網や政府とパイプを持つコンサルティング会社などで良い話を聞くことができて、大きな収穫があった。一枚目の写真は、人民網でライブチャットをするときのスタジオ。ちょうど終わったところだったが、こんな風に輪になりながら、オンラインで議論しているらしい。

本当はいつもお話しをうかがう星流さんにも行きたかったのだが、時間がなくて断念。平壌ウォッチャーの方との朝食も実におもしろかった。

20060920beijing_1夜は、Hさんの友人であるYさんの会社の大宴会に参加させてもらった。なんと西太后の避暑地だった頤和園である。ネット系ベンチャー企業なのだが、中国、アメリカ、日本、ドイツ、カナダに拠点を持つ勢いのいい会社だ。舞台では音楽や踊りを見せてくれているが、宴会自体が賑やかなので実に楽しい。英語、中国語、日本語が飛び交う。

しかし、疲労と寝不足と北京の砂埃にやられて、帰国してから一日ダウンしてしまった。おかげで出なくてはいけない研究会に出られず、何のために弾丸ツアーにしたのかよく分からなくなってしまった。

日本の神々

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先週、九州を旅してきた。一番おもしろかったのは、高千穂の天岩戸神社だ。神話にある天照大神が隠れてしまったという岩戸がある。岩戸は神社から川を挟んだ崖っぷちにあって、お願いすれば川を挟んで20〜30メートル位のところから見せてもらえる。写真はNGだが、洞窟はかなり大きな岩壁の中腹にあって、屋根にあたる部分と床にあたる部分は崩れ落ちてしまっているそうだ。大きな岩の裂け目になっているといったほうがいい。崖の斜面に生えた木々で覆われてしまっているが、大きな台風が来ると、その木々も崩れ落ちていってしまうという。

神社の方のお話しがまたおもしろい。日本で神様になる人は、生まれたときから神様なのではない。菅原道真など、実際に生きていた人が、死後になって神様として祭られるようになる。天照大神も今では太陽の神ということになっているが、実は普通の人だった。しかし、亡くなった後にその人を偲ぶ人たちから天照大神と呼ばれるようになったのであって、生前には普通の人間としての名前を持っていたはずだという。

しかし、本当なのかなあ?

聞きながら、キリスト教やイスラームのような一神教の神と、日本の神々とは本質的に異なるのだと思った。一神教の神はこの世に生まれたことはない。預言者を通じて話をするだけだ。天岩戸神社の方によれば、日本の神々になった人々は、この世に生きた人たちだ。

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九州の最終日、中津まで足を伸ばして、福澤諭吉記念館にも立ち寄る。福澤先生(とKOでは呼ばなくてはならない)が19歳まで過ごした旧居が保存されている。勉強したという土蔵はあいにく修復作業中だった。記念館の中では50分もかかる福澤先生の生涯についてのビデオが流されている。その冒頭で、少年時代の福澤先生が、神社のお札を踏みつけてみたけど何も罰が当たらなかったという有名なエピソードが紹介されていた。愉快な人だ。

滋賀の旅:長浜

旅の最終地は長浜。秀吉が城と町を作った。その後、NHKの大河ドラマ『功名が辻』で取り上げられている山内一豊と千代が、土佐藩に移る前に住んでいたところだ。残念ながら再建された長浜城はいまいち迫力がない。近くに大きなマンションが建ってしまっているのも興ざめだ。しかし、中の博物館は割と楽しめた。ここの売店で中公新書の宇田川武久『鉄炮伝来』(中公新書、1990年)を思わず買ってしまう。

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長浜では食べ物が楽しめた。彦根には申し訳ないけど、長浜のほうがおいしいような気がする。みんな観光客向けのお店だけど、まずは鳥喜多の親子丼。けっこう繁盛している。おいしいけど分量が物足りない。地元の人らしきおっちゃんたちは麺類も一緒に食べていた。

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二軒目は茂美志(もみじ)やの「のっぺうどん」大きくて分厚い椎茸が入ったあんかけうどんだ。

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最後に、滋賀といえば近江牛。もちろんおいしかったけど、ヒットは「よいこのびいる」だ。きれいに泡がたって色もそっくりだが、甘いジュースだ。東京の飲み屋にも置いてくれれば、私は飲むぞ。

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滋賀の旅:国友

今回の旅でもう一カ所行きたかったのが国友だ。戦国時代に鉄砲を作ったところである。技術と国際政治を研究している者としては避けられない。

国友は長浜のすぐそばだが、やたらと静かなところだ。なぜか司馬遼太郎の碑がいくつもある。『街道をゆく24 近江散歩・奈良散歩』で紹介されたらしく、そこからの引用がいくつも碑になっているのだ。そのうちの一つにあるように、とても静かだ。しかし、決して貧しいわけではない。人影が無く、物音がしないのだが、家々はとても大きく立派で、よく手入れがされている。昔ながらの豊かさをうまく受け継いでいるのだろうか。もちろん、今は鉄砲は作っておらず、火薬を応用した花火や、鉄砲の装飾を応用した金細工などが行われているらしい。しかし、工場や作業場らしきものは見あたらなかった。

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ここには国友鉄砲の里資料館というのがある。それほど大きなものではなく、受付のおじさんがいるだけで、他に見物人もいなかったが、なかなか楽しい。最初に真っ暗な部屋でスライドショーを見せてくれる。後ろでスライドががしゃがしゃと入れ替わるおもしろいシステムなのだが、映画のように鉄砲と国友の歴史を見せてくれる。

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二階の展示室にはずらりと鉄砲が並んでいる。火縄銃を見るのも初めてだ。けっこう長い。

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実物を持ってみることもできる。ずしりと思い。これを持ち歩くのは大変だろう。弾込めにもそれなりに時間がかかりそうなので、信長がやったように、何列かに分けて順番に使わないとあっという間に相手の馬が迫ってきてしまうに違いない。弾が撃てる状態になっていないと、この重さでは足手まといになったのではないだろうか。

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このお店も司馬遼太郎の本に出てくるらしい。天文十三年というのは、種子島に鉄砲が伝わった翌年だという。このお店の中に国友鉄砲鍛冶資料館というのがあって、司馬はそこにも入ったようだ。しかし、今は見られないそうなので、外からだけ。

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滋賀の旅:安土

なぜ琵琶湖周辺を旅しようかと思ったかというと、小学校の時に織田信長の安土城について調べたことがあって、是非行ってみたいと思っていたからだ。安土城は信長が本能寺の変で敗れてからすぐに燃えてしまったので、小学校の時に調べたときは謎の城ということになっていた。しかし、先日お酒の席で、T先生が「安土城は発掘が進んできてかなりおもしろい」と言っていて、これはいかなくてはと思っていたのだ。

たぶん1980年代だったと思うが、安土城の図面が見つかったので、それを元にいくつか模型が作られている。下の写真は安土駅前の安土町城郭資料館にある20分の1のもの。ちなみにこの模型はまっぷたつに割れて、内部も見ることができる。

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また、いつだったかの万博のために天守閣も実物大で復元されている。信長の館というところにそれが置いてある。

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最上階の内部は実にきらびやかだ。しかし、内部の装飾については文献に基づいて「こんな感じだったのでは」という想像よるものだそうだ。

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今は普通の山になってしまっている安土城。真ん中の山の頂上に天守閣があった。

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天守閣跡まで登ることができる。この階段は入り口付近。城が焼け落ちた後、中腹にあるお寺だけが残り、そのお寺がずっと管理してきた。発掘調査が進むとともに、観光地化も進められるようで、今年の秋からは入山が有料になるそうだ。この写真の階段は、土砂で埋もれていたものを掘り起こし、石を積み直して登りやすくしているが、上に行くほど段差がきつく、非常にくたびれる。真夏なので汗がしたたり落ちる。こんなもの毎日登っていたら大変だ。

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この写真はところどころにある石仏。信長はこんなものまで敷石にしてしまった。彼のラディカルな思想が現れていておもしろい。現物は見つけられなかったが、墓石まで敷石になっているそうだ。

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入り口に近いところにある羽柴秀吉の邸宅跡。ここの発掘が一番進んでいて、安土城考古博物館というところに解説がある。石階段を挟んで秀吉邸の向かい側には前田利家の邸宅跡とされているところがあるが、こちらの発掘はあまり進んでいないようだ。どちらも山の中にあるせいか、それほど大きなスペースではない。

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30分ほどかけて急な石階段を上ると、二の丸に信長の廟がある(入れない)。その上の天守跡がこの写真。礎石が並んでいるだけで、木々に覆われている。

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天守跡の石垣を登って藪の中へ入っていくと、琵琶湖が見えるスペースがある。安土山の周りは、今は田畑になっているが、これは埋め立て地で、信長の時代は城のすぐ下にまで湖が来ていたという。さぞかしいい眺めだっただろう。

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エジプトのピラミッドにも中国の万里の長城にも行ったことはないが、権力者というのはとてつもないものを作るものだ。

滋賀の旅:彦根

だいぶ間があいてしまった。春学期はいろいろあって書く暇と気力がなかった。

ある研究会の合宿で琵琶湖まで行ってきた。遅ればせながら読んだ『ウェブ進化論』によると「あちら側」に情報を置いておくことが重要なので、写真と感想を書いておこうと思う。

たぶん、琵琶湖を直に見るのは初めてだったと思う。鉄ちゃんのA先生が、湖西線は最高だと言っていたので期待していたが、電車の中は部活の合宿の高校生であふれかえっていて、景色など楽しめなかった。

合宿が終わった後、かんかん照りの中、最初に行ったのは彦根城。桜田門外の変で暗殺された井伊直弼ゆかりの場所。なかなか立派なお城だ。

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船に乗って遊びに行ったのが竹生島。船で30分ぐらいかけて行くのだが、琵琶湖は広いと実感。

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この島は断崖絶壁で囲まれていて、一カ所だけ船が着けられる港がある。島は山になっていて、神社や資料館などがある。下の写真は豊臣秀吉が寄進したという竹生島神社。

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ここから見ると琵琶湖は海のように見える。

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ホテルから見えた夕日。

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