今、海底ケーブルのことを研究テーマの一つにしている。「今」というよりはずっと関心があって、博士論文の中にも書いている。日本は海に囲まれているのだから、海底ケーブルなしでは情報通信のインフラストラクチャは成り立たない。そう思って1840年頃に海底ケーブルがイギリスで発明されて以来の歴史を折に触れて振り返ってきた(『情報とグローバル・ガバナンス』および『ネットワーク・パワー』に収録)。
「今」また関心があるのは、昨年、パラオに行ったとき、海底ケーブルがつながっていないために、パラオが大変な苦労をしていることを知ったからだ。パラオだけではない。少なからぬ太平洋島嶼国が苦しんでいる。海底ケーブルにつながっている勝ち組と、つながっていない負け組で結果がはっきり出てしまっている。例えば、国ではないが、グアムは米領になっているので複数の光海底ケーブルがつながっている。軍事基地でもあるグアムは、太平洋のネットワーク・ハブの一つになっている。しかし、そこから1300キロほど離れたパラオにはつながっていない。1300キロという距離は現代の海底ケーブル技術からすれば何でもない距離だが、いくつかの理由でつながっていない。
パラオを中心とする太平洋島嶼国について調べるとともに、海底ケーブルの現状も知りたくて、事業者へのヒアリングにも行った。特に、3.11の大震災で茨城沖の海底ケーブルが複数箇所で切断されたものの、すぐに復旧した努力には驚いた。
そうした関心の一環で、長崎の海底線史料館に行ってきた。長崎に行くのは初めてなので泊まりがけで行きたかったが、予定が立て込んでいるので日帰りにした。朝4時半に起きて羽田空港に行き、8時過ぎに長崎に到着した。レンタカーを借りて長崎市内へ向かう。長崎空港は大村市にあるので、40分ほどかかる。長崎駅で、福岡に帰省中のゼミ生K君と落ち合う。
11時前にNTT-WEマリンへ。長崎駅から20分ぐらいだっただろうか。NTT-WEマリンはNTTコミュニケーションズの関連会社で、ケーブル敷設船すばるの母港になっている。あいにくこの日はすばるは出航中で見ることはできなかったが、この場所は岩場に挟まれた天然のドックになっているとのことだった。普通の港では嵐が来ると船を沖に出さなくてはいけないが、ここではそのまま港の中に係留しておくことができるそうだ。
海底線史料館は普段は閉まっているので、予約が必要である。私も1ヶ月ほど前に電話してアポイントをとっておいた。案内してくださったのはSさん。上司のTさんにもご挨拶をして、まず見せてもらったのは修復用のケーブルである。大きな工場のような建物の中に合計六つの丸い大きな穴が開いており、その中にさまざまな海底ケーブルがぐるぐると輪になって保管されている。一つの穴の中に何層にもなって複数の種類のケーブルが入っている。これは現在使用されているケーブルが何らかの理由で切断されたり故障したりした場合の修復に使われるそうだ。したがって、最新の光ファイバが入ったケーブルだけでなく、昔の同軸線のものもある。
この工場のような倉庫の隣にある煉瓦造りの建物が海底線史料館である。長崎は日本で一番最初に海外との海底ケーブルがつながった場所である。19世紀から20世紀の変わり目頃に世界の海底ケーブルを牛耳っていたのは大英帝国である。しかし、日本に海底ケーブルをつないだのはデンマークの大北電信(Great Northern Telegraph Company)であった。海底線史料館の建物は明治29年(1896年)に海底電信線貯蔵池の電源舎として作られたようだ。しかし、とても風情がある。取り壊しの話もあったようだが、保存の要望があって残すことになった。そして2009年には経済産業省から「地域活性化に役立つ産業遺産」に指定された。
史料館の中には予想を超えるさまざまなものが保存されていて驚いた。最初の部屋には各時代の海底ケーブルを短く切断したものが展示されている。KDDから提供された最初の太平洋ケーブルもあった。海底ケーブル自体の技術革新がよく分かる。隣の部屋にはまず最初に大英帝国の有名なケーブル敷設船Great Eastern号の模型がある。何度も本で読んだ船だ。第二次大戦末期に使われていて、ソビエトに撃沈されたとする説のある日本のケーブル敷設船小笠原丸の大きな模型もある。三つ目の部屋はロフトのように二層になっていて、巨大なケーブル移動用の装置が置かれていた。まだ整理し切れていないと思われるものも置かれている。
何よりも興味を引かれたのは、年代物の戸棚に収納されている文書である。背表紙のタイトルからして興味をそそられるものが多い。しかし、どれもかなりの年代物なので簡単に手にとって見られるものでもなさそうだ。時間をかけて丁寧に中身を見なくてはならないだろう。その量からして日帰りではどうにもならない。
会議を終えられてTさんとNさんが史料館にやってきてくださった。そこでお話を伺うと、私と同じような目的でこの史料館にやってきて、この文書をすでに見た研究者がいるとのこと。「いとうかずお」さんという方だったとのことで帰宅してから調べてみると、おそらく、伊藤和雄『まさにNCWであった日本海海戦』(光人社、2011年)だろうと分かる。この本はつい先日注文してあって、もう大学の研究室に届いているはずだ。一番乗りでなかったのは残念でならない。本の中身を確認して、私がまだやれる範囲があれば、もう一度この史料館に来て、文書を見てみたい。
NTT-WEマリンを辞去して、市内でK君とチャンポンを食べる。チャンポン発祥の店だそうだ。食後、すぐ隣の全日空ホテルの入り口へ。ここに「国際電信発祥の地」と書かれた記念碑が建っている。新しく見えるが昭和46年(1971年)のものだそうだ。隣には「長崎電信創業の地」と「南山手居留地跡」の碑もたっている。なぜここに記念碑があるかというと、港近くで陸揚げされた海底ケーブルが陸線につながり、全日空ホテルの敷地にかつてあったホテル・ベルビューで通信業務が行われていたからだそうだ。
また車に乗り、今度はやや離れた国際海底電線小ヶ倉陸揚庫へ。ここには海底ケーブルの陸揚げに使われた小屋が残っている。港のすぐそばで、民家の隣にぽつんと立っている。しかし、ここは柵で囲われていて中に入ることはできない。柵はそれほど古いものではなく、最近作られたように見える。この建物の手がかりになるものは、外側の石碑だけである。それによれば、「原形を復元し」となっている。1971年頃に復元されたらしい。管理しているのはKDDIのようなので、もし長崎再訪のチャンスがあれば、中を見られるかどうか聞いてみよう。
この時点ですでに14時近くになっている。時間が十分に余れば、グラバー園に行くか(グラバーも海底ケーブルに関係していたらしい)、長崎県立図書館で資料を調べようと思っていたが、16時半には市内を出ないと帰りの飛行機に間に合わない。そこで、市内を車で走っている最中に見つけた出島を見に行くことにした。出島は明治の開国で不要になった後、周囲の埋め立てが進んだり、運河の整備で一部が削られたりして、場所がよく分からなくなっていたようだが、最近の調査で境界が確認され、復元された。復元と行っても何度も火災があったので時代によって出島の姿はさまざまだったようだ。
この日、長崎は台風の影響があって、午前中は雨、午後は非常に蒸し暑かった。出島はそれほど大きくないが、ここでバテてしまう。長崎駅前で土産物を少し物色して、K君は電車で福岡へ戻っていった。私はまた車で空港へ。帰りの機内で、出島の売店で買った小冊子を読む。出島についてよくまとまっていて勉強になった。国際政治のパワーの中心がポルトガルからオランダへ、そしてイギリスへ移っていったことが出島にも影響した。
帰宅は21時頃になった。見たいと思っていた史料館が見られたという点では大いに満足した。しかし、そこに宝物のような文書が眠っていることも分かり、心が騒ぐ。次にケーブル敷設船が戻ってくる時期に行きたいが、授業があってその頃は難しそうだ。春休みにまた行けるかどうか考えてみよう。