ジュネーブ

火曜日の夜、肩が痛いまま、ボストンのローガン空港へ向かった。地下鉄でアクセスできる空港はすばらしい。スイス航空に初めてチェックイン。2002年に一度つぶれているが、その後どうなったのだろう。夜の9時半のフライトなのに、食事がどんと出てくるのには文字通り閉口する。その分、早く眠らせて欲しい。しかし、食事が終わっても肩の痛みでよく眠れない。結局、一睡もしないままチューリッヒに到着。乗り換えて30分のフライトでジュネーヴへ。初めてのスイスだ。

空港の外に出ると暑かった。額に汗がにじんでしまう。スーツケースにマフラーと手袋を入れてきたが、バカなことをしたと思った。バゲージクレームのところで手に入れた無料バスチケットを持って5番のバスに乗る。2両連結の長いバスだ。ドアは自分でボタンを押して開ける。6つめの停留所がホテルの目の前だ。周りの人たちを見ると、乗るときも降りるときもチケットを見せていない。ちょっと心配なので降りるときに運転手に見せるが、興味なさそうだ。豊かな国なんだなあ。ホテルにチェックインすると、さらに滞在中全ての乗り物が無料になるチケットをくれた。何なんだ。

少し眠りたいので横になるが、ホテルの改修工事が行われていてうるさい。NHKの国際放送がテレビで見られるようになっていたので、騒音を消すためにつけっぱなしで眠る。1時間ぐらいで目を覚ますと、『プロフェッショナル』をやっていた。トヨタ方式の大野さんに弟子がいたとは知らなかった。山田日登志さんという方の話。無駄を省くって重要だ。

20080424geneva01.JPG気を取り直して夕ご飯を食べに行く。またもや5番のバスに乗り、レマン湖を渡るまで乗ってみる。途中、国連欧州本部の前を通り、UNHCRの前も通る。鉄道の駅を通り、繁華街を通り抜け、レマン湖から流れ出る川を渡ったところで降りる。なかなか良い雰囲気だ。湖岸を少し歩いて散策する。ヨーロッパの都市は川沿いにあることが多いが、湖畔にこれだけ大きな街ができているところは他にあるのだろうか。

市街で食事。フランス語で分からないものを食べる元気がないので中華料理屋に入る。味はまあまあだけど、高い。何で3000円もするんだ。

20080424geneva03.JPG20080424geneva02.JPG帰りは歩いてホテルまで戻る。途中、国連欧州本部の前を通る。門の前に大きな椅子のオブジェがあり、足が1本かけている。その下にある解説を読むと、対人地雷防止条約の批准を呼びかけるためのものだそうだ。最初はよく分からなかったが、意味が分かるとインパクトがある。とにかく大きい。周りにはITU(国際電気通信連合)やWIPO(知的所有権機構)がある。こういう位置関係は現場に来てみないと分からない。グーグルのストリートビューを使ってもこの距離感はまだつかめないのだ。

国連欧州本部はもともと国際連盟本部だったところだ。日本は国際連盟の創設から常任理事国だった。しかし、自ら脱退してしまった。なぜそうなってしまったのだろう。

翌朝4時に目が覚める。時差ぼけだ。やはり東に行くと時差ぼけになりやすい。6時半まで寝直す。

ジュネーブに来た目的は、国連欧州本部で開かれる「情報通信技術と国際安全保障」というセミナーで話をするためだ。こういうテーマで国連がセミナーを開くなんて、今までやってきて良かったなあと思う。陽の目を見ないテーマでもいつか出番が来るものだ。聞き手は各国政府代表部の方々や本部のスタッフの方々など(一般にはオープンになっていない)。

20080424geneva04.JPG8時半にホテルを出て、国連欧州本部の裏口へ歩いていく。受付で2日間有効なIDを作ってもらい、中へ。会場はCouncil Chamberだ。ここは国際連盟時代の本会議場というわけではないだろうが、かなり大きな部屋で、天井と横壁に大きな絵が描いてある。開始前に日本代表部の人が声をかけてくれ、ロシア代表部の人も紹介してくれる。このセミナーを企画したのはロシアなのだそうだ。ロシアはこの分野に関心を強く持つようになっているという。意味深だ。

オープニング・セッションは国連側とロシア側の挨拶。セッション1の最初のスピーカーが私だ。トルコで話した内容をアップデートし、短くしたものを話す。今回はまじめな会議なのでジョークは控えたのだが、笑ってくれても良いようなところでもしーんとしている。笑ってくれるのは政府代表ではないパネリストだけだ。国連の会議というのは拍手がない。誰が話してもしーんとしていて、伝わったのかどうか分からない。話が終わった後の休憩時間やランチタイムにいろいろコメントをもらって、おもしろかったと言ってくれた人が多かったのでほっとする。

他のパネリストたちも、インターポールやスウェーデンの研究機関、ケルン大学の人などで、おもしろい話が多い。初日で一番おもしろかったのは、最後のセッションの最後の発表者。某国からオンラインで攻撃された国の研究者が、その時の分析を発表した。相手国の名前は一言も発しなかったので、知らない人には何が何だか分からなかったらしい。だけど、その相手国の代表がかなりむきになって何度も発言を求めたのだ。発表者の国の政府代表も負けじと発言する。表面的には穏やかな言い方なのだけど、緊張した40分だった。外交の現場を見た気がする。これを見られただけでも来た甲斐があった。明日はどんな話が聞けるのだろう。自分の出番が終わってしまうと気が楽だ。

ウォーミングアップ

先週はかなり研究をした。東京にいるときは一つのことに3時間まとまって使えれば良いほうだったが、こちらでは用事がないので、集中すると一日中ずっとできる。平日はいくつかの仕事をがっちりやって、土曜日の夜、奇跡的にとれたレッド・ソックスの試合を見に行った。松坂が前日に投げてしまっていたのが残念だが、ほぼ完全に売り切れているレッド・ソックスのホーム・ゲームなのだから贅沢は言えない。試合は最後に逆転ホームランで勝つという劇的な展開だった。あいにく岡島の出番もなかったが、ブルペンで調整する姿を間近で見られたのは良かった。

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20080419okajima.JPG試合そっちのけで岡島を見ていて興味深かったのは、他のピッチャーはいきなり投球練習を始めるのに対し、彼はゴムを使って手首の運動から始め、少しずつ体をほごし、負荷をかけていく。丁寧に体を作っていくのが印象的だった。良い仕事をするには準備が重要だと思う。

ところが翌日曜日、私の体はがちがちに固まり、特に左肩に痛みが走り、寝返りがうてなくなった。平日に無制限に仕事し続け、ナイターが寒かったせいだろう。さらにはベッドが柔らかいせいも大きい。年明け以降の疲れが出てきたのかもしれない。とにかくひどい痛みだ。床のカーペットにシーツを敷き、日曜日は休むものの、痛みはとれない。日曜日の夜はほどんど眠れなかった。

月曜日、マサチューセッツ州はパトリオット・デーで休日である。この日はあのボストン・マラソンが開かれる。沿道で観戦するのを楽しみにしていたのだが、外出できる状態ではない。テレビで観戦。しかし、中継方法が原始的であまりおもしろくない。日本のマラソンや駅伝中継はよくできていると気づく。

痛みが引かないので、医者に診てもらおうと、ウェブを使ってアポの申し込みをする。アメリカではアポがないと基本的に医者には診てもらえない。月曜日は休日なので診てもらえないとは思っていたが、月曜日と火曜日のできるだけ早い時間に診てもらいたいと申し込む。意外にもアポの返事はすぐに来た。しかし、設定日は来週の月曜日である。月曜と火曜が良いと書いたので、水曜日以降の日程は無視されたのだろう。でも来週じゃないんだけどなあ。

そして、整形外科の申し込みをしたのに、まずは主治医の内科医に会えという。整形外科はこの主治医の紹介がないと会ってもらえないのだ。一週間先に内科医に会って、それから整形外科に行けというのはのんびりしたものだ。整形外科のアポはさらに先になるのだろう。もちろん、救急患者は診てもらえるのだが、どうやら高く付くのだそうだ。

聞いてはいたけれども、アメリカの医療制度はやはりおかしい。日本であれば好きな病院にすぐに行って、どんなに遅くてもその日のうちには診てもらえるだろう。しかし、アメリカでは保険の適用範囲が決まっているので、勝手にかかりつけ以外の病院に行くと法外な診察料をとられる。その上、保険料が高いから、多くの人が健康保険に入れない。外国人研究者は国務省の規定で入らなくてはいけないから私はカバーされているが、アメリカ人で入れない一般の人はかなりいる。仮に入っていても、これでは痛いときにすぐには診てもらえないだろう。

日本の医療制度が完璧だとは思わない。不必要な薬が出たり、病院が社交場のようになっていたりするかもしれない。しかし、選択の自由があり、すぐに診てもらえる医療制度はやはり優れていると思う。もちろんそれはただではなくて、給与天引きですごい額が徴収されているからできることも確かだ。

大統領選挙で医療制度(健康保険制度)が重要な政策イシューになることも実感できる。自分でリスクをとり、カバーするのがアメリカらしさなのかもしれないが、もうちょっとどうにかなるだろうという気がする。

研究者の体も自己管理しなくてはならない。同僚のO先生がやはり1年間の在外研究に出たとき、「自分が疲れていることに気づくのに半年かかった」と言っていた。本当にそうかもしれない。毎日、岡島のような入念なウォーミングアップが必要なのだ。

単純さの法則

船便の荷物が届いた。太平洋を渡ってきたというのに箱はほとんど汚れていない。ヤマトさん、ありがとうございます。これで生活も落ち着くだろう。そろそろちゃんと研究モードに入らないと。

John Maeda, The Laws of Simplicity, Cambridge: MIT Press, 2006.

ボストン・グローブ紙で何気なく読んだジョン・マエダ教授に関する記事が気になっていた。最初は日系の名前を持つMIT教授が気になっただけだが、「単純さ(simplicity)」にこだわる彼の考え方がおもしろい。マエダ教授はMITメディアラボのデザインの先生だが、6月にMITを去り、Rhode Island School of Designの学長になることが決まっている。SFCでデザインをやっているWさんに聞いたところ、良いデザイナーとして知られているとのこと。本の途中で別のSFCの同僚の名前が出てきた。世界は狭いなあ。

SIMPLICITYにはMITが隠されている。

この本は、彼が普段考えていることを10の法則にまとめたものだ。しかし、彼自身まだ思考の途中であることを認めている。ノウハウ本ほど実践的な役には立たない。しかし、考え方はとても参考になる。MITの人たちがどんな考え方をするのかを知る上でもおもしろい。特に、彼がMITでどうやって授業をしているかという話がおもしろい。

学生に勉強させるときに重要なのは、難しい課題を出して解かせることだと思っていたけど、10年間教師をしてみて分かったことは、BRAINなのだそうだ(次の五つの文章の頭文字)。そうかもしれないね。

  • BASICS are the beginning.基礎が始まりである。
  • REPEAT yourself often.何度も繰り返しやる。
  • AVOID creating desperation.絶望を作り出さないようにする。
  • INSPIRE with examples.例示でひらめかせる。
  • NEVER forget to repeat yourself.繰り返すことを忘れない。

同じテーマにじっくり取り組み、プレゼンを繰り返して聴衆を説得しようとする学生はうまくなる。複雑なこと、新しいことにやたらと飛びつき、すぐに飽きてしまう学生は伸びない。

教師の側も同じだ。毎年同じ授業をやっている先生のことを最初は「飽きてしまわないのか」と思ったらしいが、しかし、よく見てみると、同じ話を毎年しながら少しずつ工夫して、単純にすることでエッセンスを伝える努力をしていることに気がついたという。基礎の基礎に焦点を絞ることで分かりやすくなる。繰り返すことによって重要なことが身につく。(ついでの話として、ブッシュ大統領が再選できたのは、「テロ、イラク、大量破壊兵器」を徹底的にスピーチで繰り返して、単純にしたからだという。みんなだまされたものね。)

また、メディアラボのニコラス・ネグロポンテ前所長がマエダ教授に、レーザー・ビームになるより電球になれと言われたそうだ。レーザーのような正確さで一点を明るくすることもできるが、電球で周りにあるものすべてを照らすこともできる。

MITでは何か複雑なシステムを学ぶとき、分からないことがあったら「RTFM」というのだそうだ。「Read The F*cking Manual」である。マック・ユーザーの私はマニュアルなしでコンピュータは使えなくてはいけないと思っているので、マニュアルを読むのが大嫌いだ。しかし、正しく、素早く理解するためにはやはりマニュアルが大事というわけだ。

一番良いなと思ったのは次のところ。

In the beginning of life we strive for independence, and at the end of life it is the same. At the core of the best rewards is this fundamental desire for freedom in thinking, living, and being. (p. 43)

以下は最初に読んだ記事。

Scott Kirsner,”Running a college on the avant garde,” Boston Globe, February 10, 2008.

John W. Dower講演

20080407dower.jpg日本の占領期を描いた『敗北を抱きしめて』でピューリッツァー賞を受賞したジョン・W・ダワーが、MITのキリアン・アウォードを受賞し、記念講演を開いた。キリアン・アウォードというのは、MITの第10代学長で多大な貢献をしたジェームズ・キリアンを記念した賞で、毎年MITのファカルティから1人選ばれる。分野を問わずに優れた業績を挙げた人が選ばれる。慶應で言えば、福澤賞・義塾賞に相当するものかな。ちょっと違うのは、キリアン・アウォードを受賞すると、「Killian Award Lecturer」という肩書きが一年間与えられ、講演をすることになっている点だ。

講演のタイトルは、「Cultures of War: Pearl Harbor/Hiroshima/9-11/Iraq」というもので、歴史的な裏打ちもなく、パール・ハーバーや広島の原爆の話と、9-11やイラク戦争の話が対比的に語られるのは良くないと指摘していた。また、意外にもインテリジェンスの話が出てきて、インテリジェンスの失敗というのは、歴史的なイマジネーションの失敗でもあると強調していた。歴史を知らずしてインテリジェンスを語るなということだろう。戦争とは文化なんだという指摘もおもしろい。

http://web.mit.edu/newsoffice/2008/dower-tt0402.html

“Dower to deliver Killian Award lecture April 7,” MIT News, April 2, 2008

http://web.mit.edu/newsoffice/2008/dower-tt0409.html

“Dower probes ‘cultures of war’ in Killian award lecture,” MIT News, April 9, 2008

学問がおもしろくなった授業

またもや訃報である。内山秀夫先生が亡くなった。慶應の法学部政治学科に入ったとき、面接試験があった(今もあるのだろうか)。その面接官二人のうちの一人が内山先生だった。どんな本を読んだかとか、尊敬する人は誰かなんてことを聞かれた気がする。

勢い込んで入学したものの、日吉キャンパスは遊ぶところになっていて、まじめに勉強したいと思ってもあまりできなかった。必然的に勉強以外のことにのめり込むことになるのだが、一年生の授業で一番おもしろかったのが内山先生の政治学だった。同期のほとんどの人たちは、並行して開設されていた別の先生の政治学を履修していたが、私は大教室にまばらにしか人のいない内山先生の政治学が好きだった。

授業はほとんど内容が分からなかった。教科書が一冊指定されているが、毎回2〜3ページしか進まない。教科書の行間に書かれていることを解説しながら、内山先生の話は大きく脱線していく。その脱線具合があまりにも大きくて、受験勉強に慣れ親しんだ頭にはさっぱり入らない。

それでも毎回、頭の中をぐるぐるかき回される思いだった。なんだかよく分からないけど、授業に出ていって聞いていた。履修者が少なく、さらに出席してくる学生も少ないのだが、出てきている学生も時々退屈しておしゃべりを始めてしまう。すると内山先生は突然話を中断して、「たのしーかい、おじょーちゃん」と軽い調子で声をかける。みんなびくっとして教室が静まりかえる。内山先生は、そこに学生なんかいないかのような調子で、時に退屈そうに、時に興奮しながら独演していく。(これはもしかしたら私の記憶違いかもしれないけど)日吉の大教室の「禁煙」と書かれている張り紙の下で、内山先生はおもむろにホープ缶からたばこを出してを吸っていた。「キース・リチャーズみたいだな」と思った記憶がある(ホープではなくて、たばこを吸っている姿の話)。

どうやら内山先生は、だんだんおとなしくなりつつあった学生たちに不満を持っていたらしい。学生運動の時代へのノスタルジーもあったのかもしれない。内山先生なりのやり方で、学生を挑発しようとしていたのだと思う。本当は、「先生、禁煙て書いてあるじゃないですか。何でたばこを吸うんですか」と言って欲しかったのだろう。でもそんな勇気は私にはなかった。

二年生が終わる頃、ゼミを選ばなくてはいけなくなったとき、内山ゼミに入ろうと思っていた。しかし、内山先生は新潟国際情報大学の初代学長として転出されることになり、ゼミは開講されなくなってしまった。私は行き場が無くなり、迷いに迷って、新任の薬師寺泰蔵先生のところへ行くことにした。結果的に私の人生にはこれで良かったのだと思うけれども、あのとき、内山先生のゼミに入っていたら、ぜんぜん違う人生になったような気がする。

薬師寺ゼミに入ったとき、意外にも内山先生に興味があるゼミ友が何人かいたので、一緒に内山先生を誘って、新宿の居酒屋で飲んだことがある。内山先生は、熱燗ではなく、「ぬる燗」にこだわっていた。居酒屋チェーンのお店だから、ぬる燗なんてものは作れない。店員さんが困って、いったん作った熱燗に冷たいお酒を足していたらしい。内山先生はぜんぜん食べなくて、お通しで出てきた小皿のもやししか手を付けなかった。それなのにぬる燗をがぶがぶ飲むものだから、帰る頃にはフラフラで、われわれより酔っぱらってしまっている。軍国少年だった頃に覚えた敬礼の仕方をわれわれに教えてくださったのだが、いくら真似してもダメ出しされてしまったのが懐かしい。

大学はどんどんサービス産業化しつつあり、内山先生のような人間くさい授業はもうやりにくい。私がSFCで内山先生のような授業をやったら、授業評価でどんなコメントが学生から来るのだろうか。予備校的な授業になれてしまっている学生は、すぐに要点を教えてもらおうとする。しかし、答えなんてそんな簡単には見つからないし、テストのために覚えた知識はほとんど役に立たない。私にとっては内山先生の授業が原点のような気がする。あの授業を聞いていて、自分がたくさん知らなくてはいけないことがあるということを自覚して、学問をちゃんとやろうと思い直した。どうせやらなくちゃいけないなら、ああいう授業をやってみたい。

内山先生の名講義(復活!慶應義塾の名講義:2006年6月24日)

痛々しいお姿の上に、声が聞き取れないのが残念だ。

ジップカーに乗る

ボストンはここ数日天気が悪かった。暖かくはなってきているが、しとしと雨が降った。私は寝違えた首が痛く、やり残してきた二つの仕事をやっているがなかなか進まない。

20080405bostonglobe.jpg天気だけではなく、景気も悪い。テレビや新聞では悪い方向に進んでいるという調子のニュースが多い。景気は気分みたいなものだが、どことなくアメリカに元気がない。間が悪いことに、クリントン夫妻が大統領退任後の8年間に1億ドル(約100億円以上)も稼いだという記事が出ている(写真は4月5日付ボストン・グローブ紙の一面)。現職大統領が再選を狙うときは、思い切った景気てこ入れ策で景気を強引に上向きに持っていく。しかし、退任の決まっているブッシュ大統領にとってはそこまで頑張るインセンティブはないのだろう。

ところで、日本から車の無事故・無違反証明(英文)が届いた。早速、ジップカー(Zipcar)の申し込みをした。数年前にハーバードにいたKさんからも聞いていたし、こちらに来てからも何人かに言われていた。毎日車を使うわけではなければ、ジップカーで良いのではということだ。車を購入すると、代金の他に、車の登録料、保険料、毎月の駐車場代、ガソリン代がかかってくる。中古車市場が発達しているので、車はまた売ればいいのだが、維持費はけっこうかかる。

ジップカーというのは、簡単に言うと、車を会員で共有するシステムで、ボストンから始まったらしい(MITかハーバードの学生が始めたとも聞いた)。車はボストンだけでなく、東海岸と西海岸の大都市を中心にたくさんあり、ボストンにはうじゃうじゃある(ここでボストンをクリックすると見える)。ウェブで予約をすれば、置いてある車を勝手に乗り回していいのだ。料金は利用時間に応じてクレジット・カードから引き落とされる。レンタカーと同じくらいの料金設定だが、1時間単位で借りられ、ガソリン代はかからない。ガソリン・スタンドで無料給油できるカードが車内にあり、足りなければ勝手に足し、十分残っていれば、そのまま乗り捨てていける。

20080405zipcar02.jpg私の住んでいるアパートの駐車場にも1台置いてあり、最寄り駅の駐車場にも2台置いてある。写真はアパートの駐車場のジップカー専用スペースである。ここにいつも同じ車が止まっている。先のKさんは私と同じアパートに住んでいたのだが、ジップカーで十分だったらしい。

ジップカーに申し込むには無事故証明が必要なので、それが届くのを待っていた。届いてから、オンラインでクレジット・カードを使って登録し、無事故証明をファックスした。すると、その日のうちに承認の連絡が来て、3日から1週間でジップカードが届くという。ところが、地元ボストンのためか、翌日にはカードが届いてしまった。何のことはないただのプラスティック・カードなのだが、おそらくICチップが埋め込まれている。このカードに書かれている番号をウェブでアクティベートして私の情報とひも付けすれば、準備完了である。

20080405zipcar01.jpg試しに買い物にでも行こうかと土曜日の午後に4時間分の予約を入れた。予約時間が間近になったので駐車場に行くと、車がない。いきなりこれかよと思ったが、ギリギリまで待ってみようと思って立っていると、時間ギリギリに車が戻ってきて、駐車場の所定の位置で止まった。中から出てきた人は、さっと降りて、駅の方向に歩いていってしまう。どうやらアパートの住人ではないらしい。

20080405zipcar03.jpg車自体の鍵は、ジップカーの中にある。ハンドルの脇にひもでくくりつけてあるのだ。鍵を持って車の外に出ることはできない。ジップカーのメンバーは、自分のジップカードを取り出して、運転席の窓に付いているカード読み取り機にカードをかざす。すると、ドアのロックが解除される。そこで中に入り、ぶら下がっている鍵でエンジンをかけるという仕組みだ。降りるときは、鍵を抜き去り、ぶらさげておいて、同じくカードでドアをロックする。

車のメンテナンスはジップカー社がやってくれることになっているので、普通に使う分には問題ない。中もほどほどにきれいで問題ない。普通のレンタカーレベルだ。車の調子はというと、ブレーキが軽くてふわふわしている一方、アクセルが重たいのが気になったが、それでも許容範囲だ。4時間、あちこちの店を回って食料品その他を買い込んだ。時間までにもどさないといけないのが大変と言えば大変だ。次の人が予約を入れて待っているかもしれない(遅れるとどうなるのだろう)。十分たくさん車があり、好きなときに乗れるのなら、ジップカーは良いシステムだと思う。

何かを皆で共有するという発想はアメリカ資本主義的には何となくおかしいような気もする。希少な資源を共有するというのは何となく共産主義っぽい。しかし、エコフレンドリーであることをアメリカ人が気にするようになってきているのはとても良いことだ。スーパーでもレジ袋をなくす傾向にあるようだ。エコフレンドリーで頑張っているホールフーズマーケットではレジ袋をプラスティックではなく紙に一本化し、マイバック持参を推奨している。ホールフーズマーケットの書籍コーナーにはアル・ゴアのInconvenient Truth他、エコ関係の本が揃えてある。リサイクル可能なボトルを使った商品などは高いけど、ちゃんとたくさん棚に並んでいる。ジップカーも、やたらと車を乗り回すのではなく、必要なときだけ乗ればいいじゃないという発想なのだろう。

ここでもウェブとインターネットが重要な役割を果たしている。拙著『ネットワーク・パワー』(NTT出版、2007年)では、海運・空運という輸送システムと、情報通信ネットワークの組み合わせがパワーを生み出す(経済学的には生産性の向上か)と指摘した。陸運は視野に入っていなかったが、アメリカという広大な国では、陸運は重要だろう。ヨーロッパでもかつてモルトケが鉄道の戦略的重要性を指摘している。どこに車があるか、いつ使えるかがすぐ分かり、思い立ったらすぐに予約ができるシステムがなければ、ジップカーは成立しなかっただろう。レンタカー屋に行って、面倒な保険の説明を聞いて、高い料金を払い、ガソリンを満タンにして返すのは面倒だ。いつも同じ車が同じ場所に置いてあり、ガソリンのことを気にせず乗れるのは気分が良い。少し離れた別の場所に行くと、違う車に乗れるのもうれしい。トヨタ、ニッサン、ホンダ、マツダ、スバルなどの代表的な車が揃っているし、ピックアップトラックにも乗れる。

ジップカーがどこまで大きくなるか、そもそもビジネスを継続できるか、注目していきたい。しばらくは乗り続けてみよう。

ネットに接続

6日目にしてもう日本食を食べてしまった。Oye先生に教えてもらったPorter SquareにあるPorter Exchangeというビルには日本食材店のKotobukiyaの他に、数店の日本料理屋(屋台と言った方がよいかもしれない)が入っている。ここではカツ丼やラーメンも食べられる。これで日本に帰らなくてもいいやという気がしてくる。食べる予定はなかったのだが、ちょっと食べてみるかということで、ホッケ定食を頼んでみたのだが、ボリュームたっぷりな上に味も良い。独身でボストンに来る人はPorter Squareに住めば問題なし。

ところで、ようやく自宅がネットと電話につながった。実は2月末に日本からネットでコムキャストにトリプルプレイを申し込んであった。コムキャストはケーブルテレビ最大手(?)で、ケーブルモデムによるブロードバンド(といっても数メガしか出ないらしい)+ケーブルテレビ+固定電話(VoIP)という三つのサービス(トリプルプレイ)をセットにして売っている。不動産屋さんが、今割引でやってますよというので安直に申し込んだのだ。

コムキャストのウェブで申し込みをして、終わったかと思うと、「チャットが始まりました。」「ジェニファーがログインしました」というメッセージが画面に出てきた。なんだこりゃと思って返事をしてみると、コムキャストのオペレーターとチャットをしながら、申し込みの確認をして、工事日を設定し、電話番号まで決めてしまおうというのである。これを電話でやられると言語に自信がない私としては困るのだが(電話というのは対面と違ってかなり情報量が減る)、チャットなら何とかなる。これは良いサービスだと思った。1ヶ月前に工事日が確定し、電話番号も決まってしまうと、後々のスケジューリングがやりやすい。

問題は、ちゃんと工事日の指定時間に来てくれるかどうかである。配送がダメなのと同じで、こういう工事もうまくいかないことが多い。これまた昔と比較してしまうが、ワシントンで電話がつながらなくなったとき、約束の時間に電話会社がぜんぜん来てくれなくて困ったことがあった。今回もそうなるのではないかと不安な一方、ボストンに来てからはほぼ順調(家具の配送が遅れたぐらい)なので、ちゃんと来てくれるのではないかという期待もあった。

約束の時間は午前8時から11時。ちゃんと8時には朝食を取り終わり、パソコンと電話機、そしてテレビを用意して待ちかまえているが、気配はない。コムキャストのバンはすぐ分かるので、来ないかと思って窓から外を見ているが、ぜんぜん来ない。10時半を過ぎ、ああ、やっぱりダメだったかと思った。午後一番に大学でアポが入っていたので、遅くなると困るなあと思った。

ところが、10時半を少し過ぎたところで、ゴンゴンゴンと扉をたたく音がする。開けてみると、腰に工具をぶら下げた学生風の若い男性が立っている。おおおっ、ようやく来たか! 彼は配電盤を開けたり、ケーブルをつないだりしててきぱきとセットアップしていく。問題はケーブルモデムだった。どうも何か特別な調整が必要らしく、私の日本語パワーブックに苦戦している。「何度もやってきたからアイコンで分かるんだけどさ」とはいうものの、日本語でポップアップメッセージが出てしまうと、「これ何?」って聞いてくる。しばらく携帯で何かやりとりをした後(ネイティブの若者言葉を聞き取るのは至難だ)、ようやくつながった。

いったん大学へ行き、研究所の所長であるRichard J. Samuels先生に挨拶する。日本語ぺらぺらの日本研究者なのだが、ここは米国なので英語で会話。彼は2メートルはあろうかという巨漢の割にきちっとした性格で、研究室はびしっと片付いている。古い雑誌のコレクションが趣味らしく、Time誌や日本の戦前の雑誌などがきちんとファイリングされて飾ってある。昔、京都の知恩院のそばに住んでいたそうで、文字の入った古瓦までコレクションとして飾られている。一つ釘を刺されたのは、ちゃんと研究所に出てくるということ。日本の研究者は、名前だけ在籍していてこちらのアカデミアと交わらず、どこにいるのか分からないまま帰ってしまうことが多い。成果の報告を折に触れてするようにとのことだった。肝に銘じておこう。

夕方帰宅して、今度はアップルのAirMac Expressで無線LANのネットワークを構築することにする。これがあれば、自宅でどこにいてもつながるし、イーサーネットのケーブルに縛られずにウィンドウズのラップトップもつなぐことができる。ところが、つながらない。設定のところでエラーが出てしまい、AirMac Expressのランプが点滅し続けている。設定をいろいろ変えてみるがうまくいかない。いったん有線に戻し、検索してみると、このページが見つかった。この人は申し込み時点のチャットでうまくいかなかったらしい。さらに下を読むと、AirMac Express とコムキャストのケーブルモデムの接続の対処法について書いてある。ここからたどって出てくる英語の投稿の対処法を読んでその通りにやってみると、なんとつながった。意味不明だが、電源を抜き差しする順番が問題らしい。このエントリーに付いているコメントを読むと、コムキャストのケーブルモデムがMACアドレスを読み込んでしまうのが問題だという。

コムキャストはあまりユーザー・フレンドリーでないことで知られていて、ネットワーク中立性ではいつもやり玉に挙がる。P2Pの制限もしているらしい。日本のブロードバンドほど速さは感じないが、それでも使えるレベルのスピードだ。 割引で年間契約してしまったので使い続けるしかない。いろいろ試してみよう。

ケンブリッジの日本食材店

5日目の朝、メールを読もうとMITまで出かけると、Kenneth Oye教授に会った。Oye教授とは1月に東京で会っている。Cooperation under Anarchyの研究で知られており、私がMITで所属する研究所の前所長でもある。今は技術と国際関係に関するプロジェクトを展開しており、それに私も少し参加させてもらうことになっている。Oyeという名前はおそらく「大家」で、日系の先生なのだが、日本語はほとんどお話しにならない。

Kendallの駅を見晴らす眺めの良いOye教授の部屋で少し話をして、生活の立ち上げがまだ十分できていないと言ったら、今から買い物に行こうと言ってくださる。しかし、平日の昼間から買い物に行ったら仕事に支障が出るのではないかと言ったら、どうやら今はイースターホリデー期間らしく、大学はお休みモードなのだそうだ。各所の事務部門は開いているので気づかなかったが、授業は行われていないらしい。メールを読み終わる前にせかされるように買い物に行くことになった。

教授のスバル・レガシーに乗り、私の自宅で妻を乗せてから、日本食を売っている郊外の店へ向かう。途中、Porter Squareというところで日本食を売っているお店と小さなレストランが集まっていると教えてくださったが、そこはちょっと高いらしい。そこから少し離れたところにあって、車がないと行けないReliable Marketというお店が目的地だ。韓国系のお店だが、日本の食材はほぼ完璧に揃っている。ワシントンDCの日本食材店よりも豊富だし、賞味期限が切れていない。たぶん入手できないだろうなと思っていたしゃぶしゃぶ用の薄い肉まで売っている。ケンブリッジはあなどれない。外国に住むとにわかナショナリストになってしまうことが多いが、そんなときは日本食を食べて元気を回復しよう。

もう一軒行こうと連れて行ってくださったのがポルトガル・パンの店Central Bakery(732 Cambridge Street, Cambridge, MA 02141)である。実に地味な構えで、紹介がなければ入る気のしないお店だ。ポルトガル特製のコーン・ブレッドという大きなパンがおすすめらしい。私たちの次の客は大量に買い込んでいる。レストランで出しているらしい。帰宅してから食べてみると、外側はカチカチに固いのだが、内側はもちもちしていて確かにおいしい。

このパン屋の周辺はいろいろなエスニック系の店が並んでいるようだ。高層ビルが建つボストンからチャールズ川を隔てたケンブリッジ側は、あまり高い建物もなく、田舎町の風情が少し残っているが、なかなか捨てたものではない。大きすぎるニューヨークや、ぎすぎすしたワシントンと比べても、住み心地の良いところに思えてきた。J・K・ガルブレイスの本の中でケンブリッジが良いところだと書いてあるのも分かってきた。世界中から研究者が集まってコスモポリタン的だし、学生・大学院生が多いから活気もある。

5万年前

ニコラス・ウェイド(沼尻由起子訳)『5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった―』(イースト・プレス、2007年)。

衝撃的な内容だ。われわれの祖先は5万年前にアフリカ大陸を脱出した、たった150人にさかのぼることができるという。その150人は、アフリカ以外の大陸に広がった全ての人の祖先である可能性が高い。当然ながらその150人は一つの言葉を話していたに過ぎないが、5万年の間にわれわれの言葉は複雑に分化して通じなくなり、肌の色も、体格も、別々に進化してしまったという。

トンデモ本と違うのは、近年の遺伝子の分析結果に基づいていることだ。ヒトゲノムのデータ解析が終わったのは2000年であり、それから一気に人類の歴史を分析する作業が始まっている。そしてそこから得られた知見を本書では考古学や歴史学、社会学などの成果とすりあわせを行っている。著者は『ネイチャー』や『サイエンス』の科学記者を経て、『ニューヨークタイムズ』紙の編集委員をしていた。経歴から判断すれば、信頼できる人物ということになるだろう。

ヒトと最も近いのはチンパンジーである。チンパンジーの毛の下に隠されている皮膚は青白い。チンパンジーと分かれる前のヒトの祖先も同じだった。しかし、森の生活を脱して二足歩行をするなど生活環境が変わるうちに、毛がない個体が有利になって(異性へのアピールやシラミが寄生しにくいなど)、自然淘汰が進んだ。そして、アフリカの太陽に対応するために肌の色は黒くなった。その人たちがアフリカ大陸を脱出し、ユーラシア大陸に行った後、西方と東方に分かれ、ベーリング海を渡って南北アメリカ大陸に渡ったり、オーストラリアに渡ったりした。アフリカほど日差しが強くない地域ではビタミンDの合成のために肌の色を薄くする必要が出てきた。東アジアのわれわれのような顔は寒さに対応するために進化したらしい。

その他にもにわかには信じがたい話がたくさん出てくるが、遺伝子の解析を進めていくことで明らかになってきた仮説が興味深く展開されている。例えば、「現在の男性のY染色体はすべて、もとを正せば、供給源はたった1つしかない。つまり、全男性は、人類の祖先集団のメンバーだったたったひとりの男性か、あるいは祖先集団より少し前に生活していたひとりの男性のY染色体を受け継いでいる。これはミトコンドリアDNAにもいえることだ。じつは、現代人のミトコンドリアDNAはみな、たったひとりの女性のミトコンドリアDNAの複製なのである」(70ページ)というのだ。

これは国際政治学にとっても大きなインパクトを持つ話である。人種をめぐる優劣論が倫理的に問題があることは言うまでもないが、科学的にも無意味であることになるだろう。人類は同じ祖先を持っており、遺伝的浮動(世代ごとに遺伝子頻度がでたらめに変化すること)、遺伝子の突然変異、自然淘汰、環境変化とそれへの対応などによって進化し、分化してきた。

科学における理論はなるべく一般的な法則を見つけようとする。社会科学においても、例えば紛争の一般理論のように、世界の人々、国々に共通する普遍的な仮説を求めてきた。しかし、ウェイドの著述を受け入れるとすれば、社会科学における一般理論が成立するのは最初の150人だけであり、それ以降の人類に共通する一般理論を見つけるのは、歴史が下るにつれて困難になる可能性がある。世界に散らばる人類がそれでも同じ性質を保持し続けているなら、そこに一般理論を見つけ出すことは可能かもしれないが、それは望めないかもしれない。

その傍証となるのが言語である。同じ言語をわれわれは話していたはずなのに、敵と味方を区別するために方言を作り出し、それが別の言語へと進化していった(これは今でも行われている。若者言葉を年配者が理解できないのは、若者たちがわざと差別化しようとしているからだ)。元が同じだったとはいえ、現在の6000ほどある言語の中で一般法則を見出すのは困難である。

無論、これは程度問題で、われわれはまだ異人種間でも結婚し、子供を産むことができる。しかし、ウェイドは本書の後半で、人種のるつぼといわれるアメリカでも人種を越えて行われる結婚はそれほど多くなく、ひょっとすると将来は不可能になるかもしれないと示唆している。例えば、人種によって効く薬と効かない薬が出てきている。

そうすると、社会科学における一般理論は、発見するものではなく、構築ないし構成する、あるいは設計するものと考えた方が良いのではないだろうか。われわれは生物的には多様になっている。しかし、グローバリゼーションと呼ばれるコミュニケーション量の拡大は、お互いの知識と知恵を交換・共有することを可能にしている。われわれが共存するためにはどうしたらいいのかということを考えていくことで、人類に共通する一般理論を作っていくほうが望ましいアプローチなのではないだろうか。存在しないものを探すよりも、作ってしまった方が早いというわけである。

いろいろなことを考えさせられる本だった。30年前に書かれたリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』も刺激的だが、その後の成果を織り込んだこの本も刺激的だ。たぶんこの本に対する批判や反論は多くあるだろうが、それも今後の遺伝子の研究によって検証されていくだろう。

ITと生産性

ボストンに着いてから生活の立ち上げに追われている。到着の翌日にはヘルスケアのオリエンテーションがあり、アパートの入居手続きをしたり、銀行口座を開設しに行ったりした。3日目は車をレンタルし、家具や生活道具を集める。本当なら家具付きのアパートにしたかったが、ボストンにはあまりないようなので、仕方なく家具なしのアパートにした。

4日目はお世話になる国際関係研究所(Center for International Studies)に行って事務手続きをする。ここは地下鉄レッド・ラインのケンドール駅の上にあり、ビルの1階はMIT Pressの本屋、向かいにはMITの生協があり、絶好のロケーションである。アパートもレッド・ライン沿線なので、地下鉄で15分程度で通える。個室はもらえないが、在外研究の場合はいろいろ教えてもらうために相部屋のほうがむしろ望ましい。同室にはなんと早稲田の教授がいらして、他にインド系アメリカ人の若い研究者がいるらしい。この部屋には窓がないのがさびしい。International Scholars Officeのオリエンテーションに参加すると、私の他に、中国人2人、台湾人1人、韓国人1人、タイ人1人、インド人1人、ブラジル人1人とアジア・シフトが著しい。

問題はこの4日目の午後、発生した。午後1時に約束した家具が届かないのである。MITにはStudent Furniture Exchange(FX)というすばらしいサービスがあって、MITの関係者がいらない家具を寄付し、それを安く再販売している(学生じゃなくてもMITやハーバードなどの関係者は買える)。家具をレンタルすると毎月500ドルぐらいかかってしまうが、FXで最低限必要なものを揃えたら500ドルぐらいで済んだ。新品の家具ではないが問題のない家具ばかりで、500ドル×11ヶ月分浮くのは良い。

問題は配送である。アメリカの配送システムは全く当てにならないことを前回のアメリカ生活で学んでいたので、期待はしていなかったが、やはりうまくいかない。ソファのような大きな家具があると宅配業者ではダメなので、引っ越し業者に頼むのだが、最初は午後1時に持ってきてくれるという話だった。ところが、メールが来て、その日はダメになったので、一日早く持ってきたいというのである。しかし、前の日はレンタカーを予約してあり、各所を回る予定になっていたので、約束の日に持ってきて欲しいと電子メールで返信する。最初はホテルのネットを使っていたが、自宅にはまだ通信回線がなく、3日目にはホテルをチェックアウトしてしまったのでコミュニケーションがとれなくなる。配送当日(4日目)の朝、MITでメールを開いてみると、午後遅くに配送すると連絡がきた。とにかく電話がないので、ずっと部屋にいるから持ってきてくれと返信し、すぐにアパートに戻る。

午後遅くと書いてあったので、1時に持ってきてくれるということはないだろうと思い、本を読んでいたが、時差ぼけのせいか、昼寝をしてしまう。目を覚ますと午後4時で、まだ来ない。アパートの管理人のところに行ってきいてみるが、まだ何も連絡はないという。ああ、まただめかと思ったが、日本のようには行かないなと思ってあきらめ気分になる。

アパートの窓から外を見ると、帰宅ラッシュが始まり、大渋滞になっている。幹線道路に出るための道が混雑し、クラクションを鳴らす車も多い。ニューヨークほどではないが、ボストンの人たちはワシントンDCや西海岸と比べて割とクラクションを鳴らすような気がする。渋滞の車を上から見ているのはけっこう楽しくて時間が早く過ぎていく。今日は家具は届かないかなあと思っていたら、午後7時半になってトラックがゆっくりとアパートの前に止まった。FXから家具を運び出してから、部屋の中に設置するまで2時間半かかったらしく(そりゃ渋滞の中を走って来ればそうなるわな)、時間制の配送料はかさんでしまったが、その日のうちに到着しただけでも良しとしよう。

ここまで数日経ってみて、2001年にワシントンDCに行ったときよりも、格段にスムーズに事が進んでいる。2回目ということもあるだろうし、私の英語が少しましになったこともあるかもしれない。ワシントンDCよりもボストンが効率的とは考えにくいが、それもあるかもしれない。しかし、たぶん、ITを使って生産性が上昇しているのではないかという印象を受ける。特に大きな組織は改善しているように見える。入居したアパートの管理会社は手広く多くのアパート管理をしていて、賃貸料はアメリカではめずらしく銀行引き落としができるようになっている。補修などのリクエストもウェブで予約できるようになっているのは新しい。銀行口座の開設では、コンピュータの端末を目の前で担当者と一緒に操作しながら各種情報を入力し、その日のうちに一時的に使えるATMカードと小切手をもらうことができた。同じ銀行で2001年に口座開設をしたが、その時は1週間かかった。MITの一連の登録作業も効率的で、私のデータベース情報が一元化されていて、ペーパーワークはほとんどない(テロ対策の一環として外国人管理を徹底するよう政府の意向が働いているという側面もある)。

しかし、引っ越し業者のような中小企業では、まだこうしたIT機器・サービスを徹底することができていないのではないだろうか。もちろんたった一件のケースで判断することはできないが、前のエントリーでも紹介した梅田望夫『シリコンバレー精神』では、大企業・大組織こそがITで生産性を上げるという話があった。ITはベンチャーや中小企業にとっても大きなメリットをもたらすが、ネット系ベンチャーでもない限り、昔ながらのやり方を大きく改善するのは難しいかもしれない。私が使った引っ越し業者もウェブページを持っていて、そこから引っ越しのリクエストを出せるのだが、メールのやりとりを見ると、どこかのホスティングサービスとアプリケーションサービスを中途半端に使っているようで、設定がうまくできていないのではないかと思えた(例えば、ウェブ上に掲載されているメールアドレスにメールを出すと不達エラーになる)。

アメリカには毎年のように来ていたが、生活をしてみて分かってくることがやはり多い。ホテルに数日滞在しただけでは生活文化に触れることは難しいと再確認させられる。数年を隔ててまたアメリカ生活を経験できるのは貴重だ。

ボストンへ

3月13日にトルコのアンカラ帰ってきてからあっという間に10日間が過ぎた。17日から20日までの4日間はいろいろな人たちと会い、ご飯を食べまくった。大学の研究会(ゼミ)も解散になるので、OB&OGも含めた解散パーティーを企画してくれて、これは愉快だった。なんといっても学生たちの才能の豊かさ、発想のおもしろさにはいつも驚かされる。最初に会ったときは無個性に見えた彼らが、だんだんと本性を現し、おもしろいことを話し出すのを見ているのは実に楽しい。

21日から23日までは家族や親戚と会ったり、お墓参りをしたり、最後の荷造りをしたりして過ごした。その間も外食が多かったので、確実に太ったと思う。

そして、24日、雨の中、大きな荷物と共に成田空港にたどり着き、飛行機に乗った。実に疲れた。天候が悪くて離陸してからしばらくは揺れがひどかった。本を読み始めたのだが、揺れが帰って気持ち良くなり、すぐに眠ってしまった。目が覚めてからまた本を読み続けた。

読んだのは、Nさんに紹介してもらった勝間和代さんの『効率が10倍アップする新・知的生産術—自分をグーグル化する方法—』(ダイヤモンド社、2007年)である。Nさんのお知り合いだとかで、おもしろい人だとうかがっていた。本の内容も強烈だった。私が最もショックを受けたのは、カカオ(チョコレート)も一種の依存症を引き起こすものであり、それに依存しているということは頭の働きがかなり落ちている可能性があるという指摘である。私は麦チョコが好きだったと言ったら、学生が山ほど麦チョコをくれたことがあったが、チョコなんか食っているのは知的生産者としては失格ということになる。まずいなあ。

機内での食事が終わって、ようやく一息付けるようになったので、ノートパソコンを開いて、このエントリーを書き始めた(ブログに乗るのはまたしばらく先になるだろう)。3月に入ってからはメールを書く余裕もなくなり、読む時間すらなくなったので、返事待ちがたくさんたまっている。出発前に終わらせなくてはいけない仕事も結局持ち越してしまった。悪いことに、最近は神経が麻痺してきて、メールを読まなくてもいっこうに平気になってしまった。

もう一冊読んだのが、梅田望夫『シリコンバレー精神』(ちくま文庫、2006年)だ。とてもおもしろく読んだのだが、えっと思ったのが岡本行夫さんとの出会いの話。梅田さんと岡本さんが出会った直後の頃だと思うが、岡本さんとほんの一瞬だけ仕事をご一緒したことがあって、この本に出てくる話を聞いていたことを思い出した。あの話は梅田さんの話だったのかと驚いた。

乗り換えのシカゴに近づき、飛行機の窓のシェードを開けると、白い雲が一面に見える。ところが地面も真っ白だ。3月の末だというのにシカゴでは雪が降ったらしい。幸い、ボストンでは雪はなかった。しかし、東京よりはまだ寒い。

ところで、なぜ飛行機に乗ったかというと、普段お付き合いのある方々にはすでにお知らせの通り、これから来年の春まで約一年間、米国ボストンのMIT(マサチューセッツ工科大学)で在外研究を行うことになっている(正確には、MITやハーバードはボストン市の隣のケンブリッジ市にある)。なぜ米国か、なぜMITかという説明はとても長くなるのだが、ヨーロッパに行こうと思っていたけど、扉が重くてなかなか開かず、知り合いが誘ってくれたのでMITにしたというのが簡単な説明だ。7年前にも米国に行き、1年間過ごしたことを考えると、ヨーロッパのほうがおもしろそうだと思っていたのだが、今年は米国の大統領選挙があるということも米国に方針転換する要因になった。ここまでもつれるとは思っていなかったけれど、おもしろい展開である。

しかし、大統領選挙を研究しに行くわけではない。おそらく、マスメディアや在米日本人ブロガーがたくさん大統領選挙はウォッチするだろうから、私が出る幕ではないと思う。純粋にエンターテインメントとして楽しもうと思う(エンターテインメントといったら叱られるかもしれないけど)。

さっきの勝間さんの本では、五つのテーマを普段から持っていると良いと書いてあるので、この一年間見ていきたいテーマを五つ挙げておこうと思う。たった1年で五つを追いかけるのは難しいかもしれないけど、テーマを一つに絞れない私としては片手で数えられる五つを積極的に追いかけていこうと思う。

・インテリジェンス・コミュニティ:特にブッシュ政権の通信傍受。たぶん、これについては複数進んでいる裁判の判決が出るとともに、議会もそれなりの対応策(通信会社の免責法案など)を決めるのではないかと思う。

・情報通信政策:これは私にとってはサブテーマなのだけど、なぜかこちらのほうが需要が大きいのでやめられなくなっている。通信と放送の融合や、電波政策などの他、新しい動きがあればウォッチしたい。ただし、大統領選挙中なので、あまり大きな動きは出なくなっているのではないかと思う。FCCの高官たちも身の振り方を考えなくてはいけない時期だ。しかし、逆にどさくさ紛れに変な動きが出るかもしれない。

・国際政治理論:大学でのメインの授業は国際関係論ないし国際政治理論なので、この動向もウォッチするとともに、日本やアジアの思想・理論をどうやって統合するかも考えたい。

・文明論・帝国論:米国が衰退しているといわれたり、イラク戦争とアフガン戦争が終わらなかったりしている中、大統領選挙が行われる。米国がこの先どうなるのか、長期的な視点で考えたい。

・科学技術政策:最近興味があるのが遺伝子だ。この分野での発展は著しい。ヴァネバー・ブッシュ以来、MITは米国の科学技術政策に大きな影響を与えてきたので、この辺も追いかけていきたい。

全部で成果を出すのは難しいかもしれないが、とにかくどん欲にやってみよう。

ここ10日ぐらいのこと

3月4日、小島朋之先生の訃報が届いた。私にとっては大恩人である。私が政策・メディア研究科の後期博士課程にいた当時、主査は学位審査委員会の委員長になれないというルールがあった(今はなくなったらしい)。そこで、委員長を小島先生にお願いし、研究科委員会で学位取得のイニシアチブをとってくださった。私が総合政策学部の助教授としてSFCに戻ってきたときの学部長も小島先生だった。その後も折りに付けていろいろなアドバイスをくださった。まったくもって惜しい人をなくした。定年まであと一年で、定年後はライフワークとして残してある中国の思想家の伝記を書きたいとおっしゃっていたことを思い出す。ぜひ書いていただきたかった。

小島先生の通夜は10日、告別式は11日になった。これを知って二重にショックだった。この二日間、私はトルコの首都アンカラでシンポジウムに参加することになっていた。しかし、もともとこれは私が招待されたわけではなく、代役のそのまた代役だった。だから、この二人の同僚と、もう一人、間にはさまっていた元トルコ大使に連絡し、葬儀に出たいのでシンポジウムはキャンセルしたいと伝えた。もちろん、一度引き受けた仕事なのだからというとまどいもあったが、私にとっては小島先生は大事な人であり、シンポジウムのアジェンダを見る限り、最終日の一番最後の「その他」というセッションが私の出番であり、そのセッションで3人いるうちの一番最後で、おまけのように付いているトピックである。どう見ても私の不参加が大きな影響を与えるとは思えない。

辞退しようかどうか迷っているなか、6日の午後に小島先生の棺を乗せた車が三田キャンパスに来ることになっていた。三田の新研究棟の前でお見送りをし、やはり葬儀に出て皆と一緒に小島先生をお送りしたいと思った。その場に来ていた同僚のSさんとも話してその意を強くし、辞退のメールを主催者に送った。

その日の晩、プロジェクトの慰労会があって、都内のレストランで食事をしていた。レストランは地下一階で、携帯電話の電波が届かないところだった。店を出て携帯を見てみると、留守番電話のメッセージが二件入っているので聞いてみるが、何を言っているのか良く聞き取れない。削除してそのまま帰宅しようと駅まで行ったところ、携帯電話が鳴ったのでとってみると、在アンカラ日本大使館の駐在武官の方からの電話だった。国際電話の上に、駅のプラットフォームで電車が走っているのでよく聞き取れないのだが、どうやらトルコのシンポジウムに来て欲しいということらしい。なぜ日本大使館の人が電話をかけてくるのかよく分からなかったが、検討しますとだけ答える。

帰宅してからメールを開いてみると、主催者からの返事が来ていて、「事情は理解したが、VIPが待っているので今さらキャンセルはできない。準備万端整っているので再考して欲しい」との内容で、何やら脅しがかった文面である。先の駐在武官からも事情説明のメールが入っており、主催者からトルコ軍参謀本部に連絡が入り、そこから大使館の駐在武官に連絡が行き、私をどうしても引っ張り出せという要請を受けたらしい。

何だが強引なやり方だなあと思う一方で、直前になって辞退したことの後ろめたさもある。しかし、なぜ軍の参謀本部が出てこなくちゃいけなのか分からない。小島先生の葬儀を取り仕切るKさんその他に連絡し、何か方法はないかと探る。しかし、通夜が午後7時までで、仮に7時半の飛行機に乗れたとしても、アンカラの空港に着くのは私のセッションが始まる30分前である。無理な話である。仕方がないので、香典をSさんに託し、Kさんのアドバイスに従って供花を出し、学部長と理事の了解を得てアンカラに行くことにした。駐在武官に連絡をし、参加の意向を伝言してもらう。

9日(日)、昼に成田を飛び立つ飛行機に乗り、ミュンヘンを経由してアンカラへ到着。時間は夜の11時。日本時間では朝の6時である。機内では眠れなかったので、徹夜状態だ。タラップを降りると制服を着た軍人がぞろっと立っている。その一人が私の名前を持った札を持っている。名乗るとこちらへ来てくれと言われて、普通の旅客が通らない階段へ連れて行かれ、地上で待っていたミニバスに乗せられる。他にも何人かシンポジウム参加者と見られる外国人が乗ってきた。そして、パスポートと預けた荷物のタグを渡せという。パスポートはどこかに持って行かれたままバスは動きだし、少し離れた建物に着くと、VIPルームに通された。こちらは眠くて仕方ない上に、パスポートまでとられ、軍人にぞろぞろ囲まれて不安で仕方ない。隣に座った参加者らしき二人の英語がまったく理解できない。私の英語力の問題か、彼らのなまりのせいか、はたまた眠気で集中できないせいか。軍人が一人やってきて、私の隣の人のパスポートが受け付けられないと言っている。しかし、その人は「私のパスポートは外交官用だ。そんなはずはない」と食い下がっている。一体何が起きているのだ。

私は20分ほど待たされると、案内がやってきて、空港の外に連れて行かれた。そこには車が待っていて、私の荷物が載せられている。パスポートを返してくれ、これに乗っていけばホテルに着くといわれる。もうどうでも良い気分なので、素直に従って乗り込む。

夜の11時半を過ぎた道路はがらがらである。一般道なのだが、運転手はあくびをしながら100キロを超えるスピードで突っ走る。4車線ある幅広い道路なのだが、車線を示す線が消えかかっており、レース場を走るような感覚である。30分ほどかかってホテル兼会議場に到着する。今度はホテルのレセプションで何やらもめている。どうやら事前に聞いていた料金と違うとか何とかということを4人ぐらいの人がホテルと交渉している。勘弁してくれ〜と思いながらもずっと待たされる。ようやく私の順番が来た。予想外にも私には鍵だけ渡され、スムーズにチェックインできた。ホテルの部屋にはいるとベッドの上に巨大な箱が置かれている。何かと思って開けると、トルコ軍参謀本部からのプレゼントだというティーセットが入っている。こんなでかい箱をどうやって持って帰れというのだ。それでもって何で軍がこんなに出てくるのだ!

翌朝、目が覚めて、窓の外を見ると、テレビの中継車が数台と、軍人がぞろぞろ歩いている。朝食をとろうと思ってロビーに出ると、またぞろぞろと制服の軍人たちが歩いている。どうやらこのシンポジウムは軍の関係のものだと理解し始めた。テーマは「Global Terrorism and International Cooperation」なので、軍人がいても全くおかしくないのだが、軍の主催だとは聞いていなかった。しかし、これは軍が中心になって組織してるのだ。

20080311ankara1.jpg9時になってシンポジウムが始まる。会場は数百人入っている。後で聞いたところでは690人の参加者がいたそうだが、その8割は制服の軍人だろう。すると突然皆が立ち上がった。何事かと思ったら、トルコ軍の総司令官の登場である。彼が挨拶を始めるとフラッシュがたくさんたかれ、数えてみるとテレビカメラも19台入っている。隣に座ったアメリカ人とドイツ人といったいこれは何なんだろうねとひそひそ話をする。挨拶などを聞いていると、どうやら主催している組織はNATO(北大西洋条約機構)が金を出しているらしく、参加している軍人たちはNATOに関連する国の人たちらしい。しかし、なぜNATOのメンバーではない日本から呼ばれたのかよく分からない。

シンポジウムは二日間でキーノートの他に、五つのセッションが用意されていた。それぞれ司会と3人程度のパネリストがいる。全部で34名の登壇者が予定されていたが、何と、3人も来ていない。キーノート・スピーカーの1人まで来ていないのだ。くそお、私も来なければ良かった。しかし、私のパネルはもともと3人のスピーカーが予定されていたのに、私を入れて2人になっている。先に逃げた人がいたのだ。私が来なければ1人になってしまう。そこで焦って私を引っ張り出そうとしたのだろう。

シンポジウム自体は、総司令官の挨拶の後は、テレビカメラが5台に減り、淡々と進んでいく。というのも、ほとんどの人がパワーポイントなどを使わず、用意してきた原稿をただひたすら読み上げ、時間オーバーで途中で無理矢理終わらされるというパターンだからだ。さすがに聞いている軍人さんたちは行儀が良くて、おしゃべりしたり、退出したりはしないのだが、どちらかというと退屈だ。テーマも、テロの定義は何かといった概念的な話が多い。

それにしても、軍のお偉いさんたちは一番前のソファに座って聞いているのに、スピーカーのわれわれは後ろのほうのパイプ椅子というのはひどくないかと思った。実に座り心地の悪い椅子で、ずっと座っていると腰が痛くなる。ぎっちり人が座っており、われわれの席は指定席になっているので、適当に動くこともできない。

一日目の夜、レセプションが開かれることになっていた。私はパーティーが嫌いなので、本当は欠席したかった。しかし、690人もいる中で、アジア顔をしている人はほとんどおらず、おまけにぼさぼさの長髪の男性というのはなかなかいない(軍人はみんな短髪)。そのためどうも目立つらしく、じろじろ見られる。ここで出席しないと後で何か言われるに違いないと思って、無理矢理参加する。ホテルからバスに乗せられて、市内にある軍所有のクラブでレセプションは開かれた。

ここでも主役は総司令官である。テレビカメラに囲まれ、人だかりができて、まるで芸能人のような感じだ。私は英語があまり得意でないトルコ空軍のおじさんと身振り手振りで話す。高校を出てから26年間、空軍一筋だそうだ。たぶんこの国で軍人であるということは良い身分なのだろう。誰に聞いたのか忘れたが、現在のトルコ政府は宗教色が強く、それを軍は快く思っていない。可能性は低いが、軍によるクーデターの期待もあり、総司令官の人気が高いらしい。途中でレセプションを抜け出して、市内を散歩できればいいと思っていたのだが、警備が厳しく、街からも遠いので出られない。おまけに夜は寒くてコートなしでは歩けない。

翌日のシンポジウムも淡々と進む。しかし、アメリカのジョージ・ワシントン大学の元先生の話は比較的おもしろい。しかし、たくさん文字の入ったスライドをぱらぱらとめくっていくので消化不良。もう一人、アメリカのジョージ・メイソン大学の先生の話もおもしろかった。テロの資金源の話だ。

昼食休憩が2時に終わり、ようやく私のセッションが始まった。最初のスピーカーはドイツ人の国連職員で、WMDについての話である。国連のような国際組織は窮屈で、あらかじめ上司の承認を受けたテキストを読み上げることしかできないらしい。ジョークも言えないのかと聞いてみると、言えないという。質疑応答はどうするのかと聞くと、差し障りのない答えしかできないとのこと。大変だなあ。彼女は用意した7ページのテキストをひたすら読み上げていく。

私は普段、テキストを読み上げることはしないのだが、主催者から事前に出してくれと頼まれ、それを読み上げるように言われていたので、一応はそうする。私のゼミのN君に訳してもらった(彼はネイティブ・スピーカーだ)テキストに、いくつかのコメントを加えてパワーポイントを使いながら話をした。テーマはサイバーテロリズムである。外国人相手だし、私の英語も下手なので、読み上げはゆっくり、パワポは文字をレッシグ並に減らし、図を多用して説明した。これが良かったらしく、後で分かりやすかったとお誉めの言葉を多くちょうだいした。居眠りしかかっていた将軍も起き上がり、私に質問をしてくれたのも何となくうれしい。

もう一つ分かったのは、私のセッションは最後のおまけのようなセッションであるのだが、しかし、その後に締めのセッションと、副司令官の挨拶、そして例の総司令官からスピーカーに対して参加証と記念の楯を渡すセレモニーがあるということだ。最後のセッションに私が参加せず、スピーカーが1人だけだと締まらないのでまずいという判断が主催者側にあったのだろう。

シンポジウムの後、何人かの人たちと連絡先を交換し、分かれる。私は日本大使館に戻るという例の駐在武官の方の車に便乗させてもらい、新市街へ出かける。今回はまったく観光の時間がなかったので、せめて街をぶらぶらしたいと思ったからだ。この駐在武官の方は海上自衛隊の飛行機乗りだそうで立派な方だ。私の携帯電話にかけてくる前、トルコ軍の参謀本部に呼び出されたそうで、申し訳ないことをした。車の中でトルコのことを少し話してもらい、新市街で車をおろしてもらってお別れする。

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夕暮れ時で、若い人がたくさん通りを練り歩いている。バス・ターミナルでは帰宅する人たちが並んでいる。スターバックスもちゃんとある。お腹が空いていたので、学生食堂のようなところに飛び込み、写真を指さしてこれを食べさせてくれと頼む。なかなかおいしい。日本のテレビをいつか見ていたら、中東でドバイの次に発展するのはトルコではないかと言っていた。おそらくイスタンブールのことだと思うが、アンカラもなかなかのものだ。古本街みたいな一角があって、たくさんトルコ語の本が並んでいる。自国語で出版ができる国は幸せだ。

ホテルに戻ると、朝の4時10分に迎えの車が来るというメッセージが届いた。フライトは朝の6時10分である。本当はすぐに寝た方が良かったのだが、読みたかった本を読み出してしまい、なかなか眠れなくなる。午前3時に起きられるか不安だったが、目覚ましが鳴る前にふっと目を覚ますと3時だった。しかし、目覚ましは結局鳴らなかったので危ないところだった。この日は結局誰も軍人は登場せず、ミュンヘンまでたどりつく。ここで7時間、仕事をしながら時間をつぶして、成田行きの飛行機に乗り、13日に帰国する。

小島先生の葬儀に出られなかったのはとても残念だった。しかし、私に代役を振ってきた二人は、立場上必ず葬儀に出なくてはいけない二人だった。私は、自分では葬儀に出たかったが、しかし、私が出なくてもさして葬儀そのものに影響はないことを考えると、これも小島先生の深謀遠慮であったのかもしれない。いつものように、にやっと笑ってくださっている気がする。おかげで人脈も豊かになった。別の場所で話をする招待もいただいたことは素直にうれしい。小島先生はいつも外に出て行って頑張ることを期待してくださっていた。そのミッションを忘れずに研究生活を続け、小島先生のご冥福をお祈りしたい。

舞台裏

20080226keidanren.jpgおととい、経団連ホールで国際シンポジウム「通信と放送の融合をめぐる法制のあり方について」を開いた。慶應のSFC研究所と21世紀政策研究所の共催である。あまり深く考えていなかったのだが、13時から18時まで5時間かかるシンポジウムというのも、言われてみればあまりないかもしれない。

第1部では海外からのゲスト3人がキーノートとして話した。米国ジョージ・メイソン大学のトーマス・ヘイズレット教授は規制撤廃が投資を促進すると主張し、エコノミスト誌のケン・クーキエ氏はメディア融合とは脅威ではなく機会であり、早くコンバージェンスに対応するほど強くなれるという。延世大学のイ・ミョンホ教授は規制改革、制度改革には政治的な決断が必要だと韓国の事例から述べた。

第2部で慶應の國領二郎&中村伊知哉の対談があり、総務省研究会の舞台裏、思惑が議論された。それがおもしろかったのか、最前列で聞いていた元政治家二人が「官僚統制はダメなんだ」と叫びだして異様な盛り上がりになった。

私は第3部のパネル・ディスカッションの司会をしたが、ここはちょっと時間が足りなくて、壇上のパネリストには2回ずつしか発言の機会を与えられなかった。実に残念。しかし、それぞれの主張は明確で、総務省の内藤氏が総務省の議論を紹介し、世界最先端の法体系を作ると述べたのに対し、経団連の上田氏は、事業者主導からの転換、事後規制への転換という対案を示した。ソウル国立大学のキム・サンベは、韓国のIPTV論議は3年もかかり、新大統領の下で新しい規制機関を作ることを明らかにし、エセックス大学のクリス・マーズデンは、レギュレーターが大きな杖を持って後ろに立っているというco-regulationというアイデアを紹介した。慶應の金正勲は、ただ法律をいじる話をしてもダメで、市場にとっての意味、法政策にとっての意味を考えろと主張した。

フロアからも、制作プロダクション、芸能プロダクションという作り手の話をしなくちゃダメだというもっともな指摘などがあり、とても有意義だった。

私の感想は、(1)大きなチャンスだ、(2)グローバルに通用するものにしたい、(3)まだまだやることが山積みだ、という三つ。やることとしては、話に出ていたように、著作権のこと、電波割り当てのこと、レギュレーターのこと、広告ビジネスの変容のこと、基幹放送のことなどなど。融合の話をすると、いつも放送局がやり玉に挙がる。確かに放送局にはもっと変わってもらいたい。しかし、通信事業者ももっと変わって良いと思う。中村さんによれば、日本はインフラでは先進国だったのに、コンテンツでは後進国になってしまったそうだ。

後進国でもいいのかなという気も私はするのだけど、おもしろいコンテンツやサービスが出てくるのは大歓迎だ(ついでにアメリカのように日本でもネット政治が盛り上がってくれるといいなあ)。

ところで、冒頭の写真は舞台裏の控え室でのもの。登壇者がみんなで窓の外の風景を議論しているところ。みんな暇だったんだね。私はとにかく疲れた。だけど、多くの人が手伝ってくれたからこそうまくいったのは言うまでもない。感謝!

戦前の日本アニメとアニマル化

もうすぐ今年度が終わるが、今年度の後半は通信と放送の融合のプロジェクトに追われてしまった感がある。もともと融合なんて簡単じゃないから頑張ってやらなくてもいいじゃないというのが私の立場だった。たまたまプロジェクトに関わるようになり、いろいろ調べていくとやはりおもしろいのだが、何でだろうなあと思うことも多い。その一応の区切りとして26日にシンポジウムをやるのは先にお知らせの通り。

そのための下調べとして欧米を回ってきた。欧州ではおしろい話が聞けたのだが、一人でボストンに移動してからがしんどかった。頭で分かってはいたのだが、ボストンの寒さは本当に頭に来てしまって、帽子がないとすごい勢いで熱が頭から逃げていってしまう。一日の内でも吹雪いていたかと思ったら青空が見えたりして変な天気が続き、風邪を引いてしまう。おまけに雪でこけて足をねんざし、なんだかさんざんだった。まだ本調子ではないが、そうも言ってられない。

20080216cambridge.jpg

しかし、おもしろかったのは、旧知のイアン・コンドリーが主催するCool Japan Research Groupの会合だった。イアンはMITの所属だが、会合はハーバードのライシャワー日本研究所で開かれた。ジャパン・パッシングとかジャパン・ナッシングとかいわれ、中国への関心が集まっているのだから、たいして人は集まらないのではないかと思ったら、予想よりも多い人が集まっていた。おまけに日本人はほとんどいなくて、アメリカ人やアジアの人たちが集まっていたのには驚いた。まだ関心はそれなりに続いている。

テーマもすごかった。戦前の日本アニメというのだ。戦前にアニメなんかあったのかいなと思っていったのだが、メイン・スピーカーのTom Lamarre教授(カナダのマギル大学)は、『桃太郎:海の一兵卒(そんなアニメ本当にあったのか?)桃太郎・海の神兵』とか『のらくろ』とか、古いアニメをデジタル化してマックにため込んでおり、それについて延々と解説してくれるのだ。なんでそこまで話せるのってぐらいまじめに話している。

何を話しているのかというと、「アニマル化された人、人化されたアニマル」がテーマなのだ。なんだか東浩紀さんの『動物化するポストモダン』を思い出すのだが、ポストモダンなんて話が出てくるよりずっと昔の戦前の話なのだ。なぜ日本人はのらくろという犬を使って自己表現をしたのか、日本の伝統宗教とspeciesism(種偏見?)なんて話が展開して、まじかよとなかばあきれてしまう。たぶん深い議論なんだろう(けど、ちょっとついていけなかった)。

イアンは、「ポケモンも一種の動物だけど、通じるところがあるのかな」なんてコメントをしていた。でもポケモンはモンスターでしょ。戦後は怪獣とか、宇宙人とか、昆虫(仮面ライダー)とか、ロボットとか、多彩になるよなあなんてことも思うが、そこに何か日本人らしさなんかあるのだろうか。よく分からん。通信と放送の融合にはあまりつながらない話だけど、頭の中をかき回してもらっておもしろかった。ボストンはおもしろいところだ。

「DREAM」—カルカッタのこどもたち展

大学時代の友人からもらったお知らせです。http://web.mac.com/tsukuasa/Site/Welcome.htmlにあるフィルムも印象的です。カルカッタの子供たちの顔は明るいですね。

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■—「DREAM」—カルカッタのこどもたち展のオープニングレセプション、笛奏者雲龍さんのスピリチュアルライブのお知らせ

この度ecLigでは—「DREAM」—カルカッタのこどもたち展のオープニングを記念して、龍村仁監督映画『地球交響曲第六番』虚空の音編に出演され、細野晴臣with環太平洋モンゴロイドユニットのメンバーでもある笛奏者、雲龍さん(http://shana-records.com/top.html)をお招きし、カルカッタのこどもたちの絵と写真をイメージして頂いた演奏をして頂きます。是非カルカッタのこどもたちの清々しい絵と雲龍さんのスピリチュアルな演奏の競演をお楽しみ下さい。

日時:2月17日(日)

17:30 Open

18:00 start

charge -2.500yen (includes 1 drink)

<要予約>

事前のご予約をお願いいたします。

03-6380-5425 / info@eclig.jp

定員 : 30名

定員になり次第締め切らせていただきます。

■ハンカチレターforカルカッタレスキュー

—「DREAM」—カルカッタのこどもたち展の会期中、会場にいらして頂いた方達に白地のハンカチにカルカッタのこどもたちに向けて絵とメッセージを描いて頂くワークショップを開催致します。お子様達とご一緒に是非いらして下さい。尚、皆様に描いて頂いたハンカチはカルカッタレスキューに送られ、子供たちに使ってもらいたいと考えています。

協力:ブルーミング中西 http://www.blooming.co.jp/

—「DREAM」— カルカッタのこどもたち展

会期:2月12日(火)〜3月30日(日)

URL:http://eclig.jp/news/index.html

ecLig(エクリグ)

渋谷区神宮前3-5-2 EFビル1F

お問い合わせ先

TEL:03-6380-5425

info@eclig.jp

定休:月曜・祝祭日

営業時間:12:00-19:00(火〜土)

12:00-18:00(日)

The Calcutta Rescue:www.calcuttarescue.org

展示会の情報(英語):http://web.mac.com/tsukuasa/Site/Welcome.html

2/26 国際シンポジウム「通信と放送の融合をめぐる法制のあり方について」

夏から続けてきたプロジェクトのシンポジウムがあります。

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国際シンポジウム「通信と放送の融合をめぐる法制のあり方について」開催のご案内

慶應義塾大学SFC研究所は、経団連21世紀政策研究所と「通信と放送の融合をめぐる法制のあり方」をテーマに、共同研究プロジェクトを進めてまいりました。

本プロジェクトの一環として、下記内容で国際シンポジウムを開催します。シンポジウムでは、日・米・英・韓の研究者の講演・パネルディスカッションを行います。各国の研究者を交えて、新産業創造のための法整備のあり方といった幅広な視点からこの問題を議論し、理解を深めたいと思います。

年度末でご多用の折ではございますが、お差し繰りご出席賜りますようご案内申し上げます。

 #本メールの末尾に出席連絡フォームをつけております。

 #ご出席の場合は、添付のフォームにてお知らせいただけますと幸いです。

皆様のお越しを心よりお待ち申しあげております。

                 記

1.日時    2008年2月26日(火) 13:00-18:00

2.場所    経団連会館11階 国際会議場

3.プログラム(予定、敬称略)

【第1部 基調講演】

トーマス・ヘイズレット 米・ジョージメイソン大学教授

ケネス・クーキエ    英・エコノミスト特派員

イ・ミョンホ      韓・延世大学教授

中村伊知哉&國領二郎  日・慶應義塾大学教授(対談)

【第2部 パネルセッション】

内藤 茂雄     日・総務省情報通信政策局通信・放送法制企画室長

クリス・マーズデン 英・エセックス$’学ITメディア・電子商取引法ディレクター

キム・サンベ    韓・ソウル国立大学教授

上田 正尚     日・日本経団連産業第二本部

金 正勲      日・慶應義塾大学准教授

土屋 大洋     日・慶應義塾大学准教授

  *日英同時通訳をご準備しております。

4.参加費     無料

5.出席連絡フォーム

下記フォームにご記入頂き、【2008年2月18日までに】下記宛先にご送付

くださいますようお願い申しあげます。

  • <送付先>-

日本経団連事業サービス 岩松様 宛

iwamatsu@keidanren-jigyoservice.or.jp

外星人

今日、日中共同プロジェクトの最終報告会があった(残念ながらクローズド)。その打ち上げの席で中国の研究者に教えてもらったところによると、中国では宇宙人のことを外星人というそうだ。外国人と同じ発想である。分かりやすい。

外星人が北京にやって来ると、北京の人々は国家安全保障問題だから政府に通報しようと言うらしい。外星人が上海にやってくると、上海の人々はビジネスにしようと言うそうだ。外星人が河南省にやってくると、海賊版コピーを作ろうと相談するらしい。外星人が広東省にやってくると、スープにしてしまおうと言うそうだ。

利己的な遺伝子

リチャード・ドーキンス(日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳)『利己的な遺伝子<増補新装版>』紀伊國屋書店、2006年。

30周年を迎えた遺伝子についての名著である。 その主張は、

われわれは生存機械――遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。この真実に私は今なおただ驚きつづけている。(p.xxx)

私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には個体でもないことを論じるつもりである。それは遺伝の単位、遺伝子である。(p.16)

などに表されている。そして、われわれ個体は、不死身といっていい遺伝子の乗り物(ヴィークル)に過ぎないという。

読み進めると、生きるとはいったいどういうことなのだろうと考えさせられる。

救いに感じられるのは遺伝子とのアナロジーで語られるミームである。

われわれが死後に残せるものが二つある。遺伝子とミームだ。われわれは、遺伝子を伝えるためにつくられた遺伝子機械である。しかし、遺伝子機械としてのわれわれは、三世代もたてば忘れられてしまうだろう。子どもや、あるいは孫も、われわれとどこか似た点をもってはいよう。たとえば顔の造作が似ているかもしれない、音楽の才能が似ているかもしれない、あるいは髪の毛の色が似ているかもしれない。しかし、世代が一つ進むごとに、われわれの遺伝子の寄与は半減してゆくのだ。その寄与率は遠からず無視しうる値になってしまう。われわれの遺伝子自体は不死身かもしれないが、特定の個人を形成する遺伝子の集まりは崩れ去る運命にあるのだ。エリザベス二世は、ウィリアム一世の直径の子孫である。しかし彼女がいにしえの大王の遺伝子を一つももち合わせていない可能性は大いにあるのである。繁殖という過程の中に不死を求めるべきではないのである。

しかし、もしわれわれが世界の文化になにか寄与することができれば、たとえば立派な意見を作り出したり、音楽を作曲したり、発火式プラグを発明したり、詩を書いたりすれば、それらは、われわれの遺伝子が共通の遺伝子プールの中に解消し去ったのちも、長く、変わらずに生き続けるかもしれない。(p.308)

いずれにせよ、人生あくせく生きてもそれほど意味はないのかもしれない。何せ「獲得形質は遺伝しない」のだから、われわれがいくら意識的に頑張ってみても、子供に伝えられるものは遺伝子レベルで決まっている。無論、子供は環境にも影響を受けて育っていくから、遺伝子で人生すべてが決まるわけではない。しかし、われわれは単に遺伝子の乗り物に過ぎないのだ。そんな人生にどんな意味があるというのだろう。