牧野他「北西太平洋情報通信調査報告」

牧野康夫、小菅敏夫、潮田厳、田中正智「北西太平洋情報通信調査報告—ミクロネシアへの新たなアプローチ—」『電気通信大学紀要』第1巻1号、1988年、69〜82ページ。

 パラオを中心にミクロネシアの通信事情がよく分かる。しかし、いかんせん1988年と古い。パラオの独立は1994年だから、その前になる。

 当時としてはミクロネシアの通信事情に注目するのはとても先端的だっただろう。なにせ、インターネットすら普及していない時代である(当然、インターネットへの言及はない)。

長崎海底線史料館

 今、海底ケーブルのことを研究テーマの一つにしている。「今」というよりはずっと関心があって、博士論文の中にも書いている。日本は海に囲まれているのだから、海底ケーブルなしでは情報通信のインフラストラクチャは成り立たない。そう思って1840年頃に海底ケーブルがイギリスで発明されて以来の歴史を折に触れて振り返ってきた(『情報とグローバル・ガバナンス』および『ネットワーク・パワー』に収録)。

「今」また関心があるのは、昨年、パラオに行ったとき、海底ケーブルがつながっていないために、パラオが大変な苦労をしていることを知ったからだ。パラオだけではない。少なからぬ太平洋島嶼国が苦しんでいる。海底ケーブルにつながっている勝ち組と、つながっていない負け組で結果がはっきり出てしまっている。例えば、国ではないが、グアムは米領になっているので複数の光海底ケーブルがつながっている。軍事基地でもあるグアムは、太平洋のネットワーク・ハブの一つになっている。しかし、そこから1300キロほど離れたパラオにはつながっていない。1300キロという距離は現代の海底ケーブル技術からすれば何でもない距離だが、いくつかの理由でつながっていない。

 パラオを中心とする太平洋島嶼国について調べるとともに、海底ケーブルの現状も知りたくて、事業者へのヒアリングにも行った。特に、3.11の大震災で茨城沖の海底ケーブルが複数箇所で切断されたものの、すぐに復旧した努力には驚いた。

 そうした関心の一環で、長崎の海底線史料館に行ってきた。長崎に行くのは初めてなので泊まりがけで行きたかったが、予定が立て込んでいるので日帰りにした。朝4時半に起きて羽田空港に行き、8時過ぎに長崎に到着した。レンタカーを借りて長崎市内へ向かう。長崎空港は大村市にあるので、40分ほどかかる。長崎駅で、福岡に帰省中のゼミ生K君と落ち合う。

 11時前にNTT-WEマリンへ。長崎駅から20分ぐらいだっただろうか。NTT-WEマリンはNTTコミュニケーションズの関連会社で、ケーブル敷設船すばるの母港になっている。あいにくこの日はすばるは出航中で見ることはできなかったが、この場所は岩場に挟まれた天然のドックになっているとのことだった。普通の港では嵐が来ると船を沖に出さなくてはいけないが、ここではそのまま港の中に係留しておくことができるそうだ。

 海底線史料館は普段は閉まっているので、予約が必要である。私も1ヶ月ほど前に電話してアポイントをとっておいた。案内してくださったのはSさん。上司のTさんにもご挨拶をして、まず見せてもらったのは修復用のケーブルである。大きな工場のような建物の中に合計六つの丸い大きな穴が開いており、その中にさまざまな海底ケーブルがぐるぐると輪になって保管されている。一つの穴の中に何層にもなって複数の種類のケーブルが入っている。これは現在使用されているケーブルが何らかの理由で切断されたり故障したりした場合の修復に使われるそうだ。したがって、最新の光ファイバが入ったケーブルだけでなく、昔の同軸線のものもある。

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 この工場のような倉庫の隣にある煉瓦造りの建物が海底線史料館である。長崎は日本で一番最初に海外との海底ケーブルがつながった場所である。19世紀から20世紀の変わり目頃に世界の海底ケーブルを牛耳っていたのは大英帝国である。しかし、日本に海底ケーブルをつないだのはデンマークの大北電信(Great Northern Telegraph Company)であった。海底線史料館の建物は明治29年(1896年)に海底電信線貯蔵池の電源舎として作られたようだ。しかし、とても風情がある。取り壊しの話もあったようだが、保存の要望があって残すことになった。そして2009年には経済産業省から「地域活性化に役立つ産業遺産」に指定された。

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 史料館の中には予想を超えるさまざまなものが保存されていて驚いた。最初の部屋には各時代の海底ケーブルを短く切断したものが展示されている。KDDから提供された最初の太平洋ケーブルもあった。海底ケーブル自体の技術革新がよく分かる。隣の部屋にはまず最初に大英帝国の有名なケーブル敷設船Great Eastern号の模型がある。何度も本で読んだ船だ。第二次大戦末期に使われていて、ソビエトに撃沈されたとする説のある日本のケーブル敷設船小笠原丸の大きな模型もある。三つ目の部屋はロフトのように二層になっていて、巨大なケーブル移動用の装置が置かれていた。まだ整理し切れていないと思われるものも置かれている。

 何よりも興味を引かれたのは、年代物の戸棚に収納されている文書である。背表紙のタイトルからして興味をそそられるものが多い。しかし、どれもかなりの年代物なので簡単に手にとって見られるものでもなさそうだ。時間をかけて丁寧に中身を見なくてはならないだろう。その量からして日帰りではどうにもならない。

 会議を終えられてTさんとNさんが史料館にやってきてくださった。そこでお話を伺うと、私と同じような目的でこの史料館にやってきて、この文書をすでに見た研究者がいるとのこと。「いとうかずお」さんという方だったとのことで帰宅してから調べてみると、おそらく、伊藤和雄『まさにNCWであった日本海海戦』(光人社、2011年)だろうと分かる。この本はつい先日注文してあって、もう大学の研究室に届いているはずだ。一番乗りでなかったのは残念でならない。本の中身を確認して、私がまだやれる範囲があれば、もう一度この史料館に来て、文書を見てみたい。

 NTT-WEマリンを辞去して、市内でK君とチャンポンを食べる。チャンポン発祥の店だそうだ。食後、すぐ隣の全日空ホテルの入り口へ。ここに「国際電信発祥の地」と書かれた記念碑が建っている。新しく見えるが昭和46年(1971年)のものだそうだ。隣には「長崎電信創業の地」と「南山手居留地跡」の碑もたっている。なぜここに記念碑があるかというと、港近くで陸揚げされた海底ケーブルが陸線につながり、全日空ホテルの敷地にかつてあったホテル・ベルビューで通信業務が行われていたからだそうだ。

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 また車に乗り、今度はやや離れた国際海底電線小ヶ倉陸揚庫へ。ここには海底ケーブルの陸揚げに使われた小屋が残っている。港のすぐそばで、民家の隣にぽつんと立っている。しかし、ここは柵で囲われていて中に入ることはできない。柵はそれほど古いものではなく、最近作られたように見える。この建物の手がかりになるものは、外側の石碑だけである。それによれば、「原形を復元し」となっている。1971年頃に復元されたらしい。管理しているのはKDDIのようなので、もし長崎再訪のチャンスがあれば、中を見られるかどうか聞いてみよう。

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 この時点ですでに14時近くになっている。時間が十分に余れば、グラバー園に行くか(グラバーも海底ケーブルに関係していたらしい)、長崎県立図書館で資料を調べようと思っていたが、16時半には市内を出ないと帰りの飛行機に間に合わない。そこで、市内を車で走っている最中に見つけた出島を見に行くことにした。出島は明治の開国で不要になった後、周囲の埋め立てが進んだり、運河の整備で一部が削られたりして、場所がよく分からなくなっていたようだが、最近の調査で境界が確認され、復元された。復元と行っても何度も火災があったので時代によって出島の姿はさまざまだったようだ。

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 この日、長崎は台風の影響があって、午前中は雨、午後は非常に蒸し暑かった。出島はそれほど大きくないが、ここでバテてしまう。長崎駅前で土産物を少し物色して、K君は電車で福岡へ戻っていった。私はまた車で空港へ。帰りの機内で、出島の売店で買った小冊子を読む。出島についてよくまとまっていて勉強になった。国際政治のパワーの中心がポルトガルからオランダへ、そしてイギリスへ移っていったことが出島にも影響した。

 帰宅は21時頃になった。見たいと思っていた史料館が見られたという点では大いに満足した。しかし、そこに宝物のような文書が眠っていることも分かり、心が騒ぐ。次にケーブル敷設船が戻ってくる時期に行きたいが、授業があってその頃は難しそうだ。春休みにまた行けるかどうか考えてみよう。

小柏葉子「太平洋島嶼フォーラムと東アジア」

小柏葉子「太平洋島嶼フォーラムと東アジア」関根政美、山本信人編『海域アジア 現代東アジアと日本4』慶應義塾大学出版会、2004年、261〜280ページ。

 太平洋島嶼フォーラム(PIF)が日本、中国、台湾、ASEAN諸国との関係をどうやって発展しようとしてきたかが分析されている。その前提となるのは、旧宗主国であるヨーロッパとのロメ協定(第1次〜第4次)の終了が見えてきたことと、地域の大国であるオーストラリアとニュージーランドとの関係に変化が見えてきたこと。

 日本との関係でいえば、PIFからの強い働きかけで、国際機関である太平洋島嶼センター(PIC)が明治大学の中に開設されているらしい。知らなかった。ウェブを見る限りは、誰が所長なのか分からない。外務省はどれくらいかんでいるのだろう。

小柏葉子「南太平洋フォーラムの軌跡」

小柏葉子「南太平洋フォーラムの軌跡—多元化への道—」百瀬宏編『下位地域協力と転換期国際関係』有信堂高文社、1996年、176〜193ページ。

 南太平洋フォーラム(SPF)の発展過程を、形成期(1971〜70年代末)、変容期(80年代)、新たな展開期(90年代)に分けて論じてる。

 80年代のメラネシアン・スピアヘッド・グループの動きが詳しい。

 一連の小柏論文を読みながら、太平洋島嶼国は地域ガバナンスの事例としてけっこうおもしろいと思うようになる。

中国のインテリジェンス関連3本

高橋博「鬼が笑う十七大予想と中国情報機関の紹介」『東亜』第470号、2006年8月、78〜88ページ。

高橋博「中共軍高層と情報機関の変遷」『東亜』第471号、2006年9月、78〜86ページ。

高橋博「中国の情報機関」『東亜』第472号、2006年10月、74〜85ページ。

 中国のインテリジェンス(情報)機関についての数少ない論考。

 私はチャイナ・ウォッチャーではないので、やたらとたくさん出てくる人名とポストに閉口してしまう。話もあちこちに飛ぶ。

 昔の話がいろいろ書いてあるが、文革終了後のインテリジェンス機関については、総参謀部の第二部、第三部、第四部、連絡部(通信部?)などの軍関連のものの他、国家安全部、公安部、外交部、新華社、各企業があり、これに共産党の中のものが加わるらしい。それらがどう連携しているのかは読み取れない。

黒崎輝「日本の宇宙開発と米国」

黒崎輝「日本の宇宙開発と米国—日米宇宙協力協定(1969年)締結に至る政治・外交過程を中心に—」『国際政治』第133号、2003年、141〜156ページ。

 外交史的な観点から日本の宇宙開発の初期の様子を論じている。

 米国がインテルサットによる世界的通信衛星体制に日本を取り込もうとしていたという指摘にへええと思う。まあ、確かに今でもそういって良い状態かもしれないが、光海底ケーブルに通信容量で負けるようになってからは、通信衛星の重要性は相対的に下がったかもしれない。

松島泰勝「ミクロネシアとアジア」

松島泰勝「ミクロネシアとアジア」『外務省調査月報』1999年度第1号、1999年、75〜104ページ。

 「”帝国”の島 グアムと沖縄」と比べるとずいぶん落ち着いた筆致だが、問題意識は同じようだ(こちらのほうが古い論文)。執筆当時は在パラオ日本国大使館専門調査員。

 政治力学的には米国に引き寄せられており、経済力学的にはアジアに引き寄せられているミクロネシアについて分析。

 なお、松島先生はミクロネシアを中心とする北太平洋、小柏先生はメラネシア、ポリネシアをカバーする南太平洋をフィールドにしているという感じがする。松島先生は地域協力や国際組織には興味がなさそうだが、小柏先生はSPFやPIFに多大な関心を持っている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Pacific_Culture_Areas.jpg

松島泰勝「”帝国”の島 グアムと沖縄」

松島泰勝「”帝国”の島 グアムと沖縄」『週刊金曜日』第354号、2001年3月9日、52〜55ページ。

 媒体のせいか、学術論文ではなく、日米両政府と国民を糾弾する文章といった印象を受ける。『ミクロネシア』(早稲田大学出版部)の落ち着いた筆致とは違う。

 沖縄出身の著者はグアムと沖縄が事実上の植民地であると訴える。どちらも両国の憲法で保障された理念が制限されている。それはマハンに始まる地政学の考え方により、島嶼を海洋戦略の中に位置づけているからだという。

松島泰勝「太平洋覇権を狙う中国」

松島泰勝「太平洋覇権を狙う中国」『Voice』2001年9月号、158〜165ページ。

 中国が太平洋に出て行く元気を持っているのは当然のことだと思うけど、ここに描かれていることが本当だとすると、複雑な気持ちになる。

 日本が太平洋島嶼フォーラム(PIF)や太平洋共同体(PC)の正式メンバーになれという著者の提言はおもしろい。

古橋好夫「太平洋島嶼国間のテレコミュニケーション」

古橋好夫「太平洋島嶼国間のテレコミュニケーション」『太平洋学会誌』第24号、1984年、109〜122ページ。

 まだパラオ独立の10年前の講演録。ここで期待されているのは、予想以上に寿命が延びたATS-1という通信衛星の活用。海底ケーブルについてはほとんど言及がなく、人工衛星の時代まっただ中だったことがうかがえる。

 ATS-1についてはこちらも参照。

http://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/back_number/007/007.htm

小柏葉子「太平洋島嶼諸国の紛争と地域協力」

小柏葉子「太平洋島嶼諸国の紛争と地域協力—グッド・ガバナンス構築に向けての試み—」『広島平和科学』第30号、2008年、49〜70ページ。

 手元にある最後の小柏論文。

 「グッド・ガバナンス」をキーワードに、太平洋島嶼フォーラム(PIF)がどう変わってきたかを分析。外来の「グッド・ガバナンス」を上からと下から普及させようという試みがあった。

 「グッド・ガバナンス」は1989年に世界銀行が初めて唱えたが、PIFの中では、説明責任(accountability)、透明性(transparency)、政策決定過程へのすべての層の参加の三つの要素からなる。

 「紛争の多発するメラネシアでは、世界の言語の約4分の1にあたる約1200の言語が話されていると言われている」(52ページ)というのは驚きだ。

 アジア太平洋島嶼地域のデジタル・デバイドというのが私の関心事で、一連の小柏論文はその点については全く触れていないが、この地域の背景を知る上では有用だった。

今日は9.11

 今日は言わずとしれた9.11。東日本大震災から半年。9.11テロから10年。

 10年前のアメリカでの経験から私の研究テーマはずいぶん変わった。インテリジェンスなんて大学・大学院ではほとんど教えてもらわなかったが、自分では授業で取り上げるようになった。

 今日は何事もありませんように。私は日吉キャンパスで仕事の予定。

小柏葉子「太平洋島嶼フォーラムの対ASEAN外交」

小柏葉子「太平洋島嶼フォーラムの対ASEAN外交」『広島平和科学』第27号、2005年、1〜22ページ。

 さらに続く小柏論文。

 太平洋島嶼フォーラム(PIF)が経済関係を求めてASEANにアプローチするも、「人種的・文化的」違いからASEANに拒否されてしまう。しかし、2000年頃から政治・安全保障的な文脈からの関係再構築が行われる。パプアニューギニアと「人種的・文化的」に同じ「パプア特別州」がインドネシアにあり、独立運動が盛んなこともPIFとASEANの関係を難しくしている。

 いや、本当に太平洋島嶼国もいろいろあるもんだなと妙に感心。

小柏葉子「太平洋島嶼フォーラムの変化と連続性」

小柏葉子「太平洋島嶼フォーラムの変化と連続性—オセアニアにおける多国間主義の現段階—」『国際政治』第133号、2003年、93〜107ページ。

 さらに小柏論文。

 前半はこれまでの論文の集大成のような感じ。

 後半になって、南太平洋フォーラム(SPF)が太平洋島嶼フォーラム(PIF)へ移行する過程で、地域機構としてのまとまりを強めていく様子を描いている。それには、フィジーとソロモン諸島におけるクーデターが大きく影響しており、PIFはそれまで消極的だった地域内の問題への介入を決意していく。

 それにしても、フィジーというのは政治的にはけっこう不安定なんだなあ。南の島というと平和なイメージがあるが、しっかり見ていくと、それぞれ血なまぐさい歴史を持っている。

小柏葉子「南太平洋地域の核問題と日本」

小柏葉子「南太平洋地域の核問題と日本」広島大学平和科学研究センター編『ポスト冷戦時代の核問題と日本』IPSHU研究報告シリーズ第27号、2001年、21〜38ページ。

 引き続き、小柏論文。

 南太平洋島嶼フォーラムは1971年に結成されたが、その後、1980年代に活動を活発化させたのは、日本による放射性廃棄物の海洋投棄計画、その後の海上輸送がもたらした問題だったことを指摘している。前者はすったもんだの挙げ句、中曽根政権によって事実上中止される。

 原発問題が厳しい今から見ると、日本の原子力政策は総合的な視野を欠いていたのではないかと思ってしまう。

江副卓爾「太平洋横断同軸海底ケーブル」

江副卓爾「太平洋横断同軸海底ケーブル」『科学』第34巻12号、1964年、658〜659ページ。

 47年前の論文。ただし、論文と呼べるほどの長さはなく、見開き2ページのB4サイズ。著者は日本国際電信電話株式会社の人。

 1906年に太平洋の海底ケーブルは開通しているが、電信線1本だった。1956年に大西洋で同軸海底ケーブルが開通し、太平洋には1964年に敷設された。そこで使われた技術について解説している。細かい技術的な点はよく分からないが、大きなイノベーションだったことは分かる。

電子メール

 電子メールに費やす時間が本当にばかばかしくなってきたので、メーリングリストや情報提供メールの類をどんどん購読解消している。

 ここ数年、そうしたものは読めない状態が続いていたから、この先受信し続けていても意味はない。

 メールサーバへの負荷を減らすためにも、必要最低限のものしか来ないようにして、アクセスする頻度も減らそう。

 ついでに、長々と書くのもやめて、相手には悪いけれども、ごく簡単な返信で許してもらおう。

 その分、必要な研究や教育、大学運営、家庭にちゃんと時間をとれるように努力しよう。

駒村圭吾「国家なき立憲主義は可能か」

駒村圭吾「国家なき立憲主義は可能か」『ジュリスト』第1422号、2011年5月1日〜15日、21〜28ページ。

 慶應法学部の駒村先生。かつてSFCでも授業をしてくださっていたことがあって面識があるが、こんなことをお考えだったのかとちょっと驚く。ホッブズからサンデルまでいろいろな論者を引用しながら、国家の境界について議論されている。

構成的共同体の形成を批判的に査定しうる理論を用意することが必要である。ひとつの可能性は情報論であろう。互酬性の関係を担保するのは情報の相互交換のスケールである。だとすれば、愛着や安心を確保するために適切な情報を相互に提供できる範囲に構成的共同体は限定されるはずであり、それを超えて構想される構成的共同体は「想像の共同体」に等しく、抽象化された友敵関係の輪に転化する危険性をはらむことになる(28ページ)。

 ソーシャル・メディアが実証的にそれをやっているともいえる。

友敵関係の境界線を相対化するには、国家の境界そのものの消去ではなく、それを前提とした上で多様な境界線を張り巡らすことによってなされるべきであろう。かかる重層的なネットワークが、共同体の実存的な要求を回収し、それに居場所を提供することになる(28ページ)。

 ある共同研究のプロポーザルの参考にしようと思って読んだが、予想以上に刺激を受けた。

駒村圭吾「国家と文化」

駒村圭吾「国家と文化」『ジュリスト』第1405号、2010年8月1日〜15日、134〜146ページ。

 先の「国家なき立憲主義は可能か」を探したときについでにコピーしてきた論文。論文ではあるのだが、どうやら座談会の席の基調報告で、この後に長い座談会の記録が付いている(147〜169ページ)。

 国家は文化に介入すべきではないという何となくのルールがあるような気がする。しかし、駒村先生は、「文化を掌握すれば意味の秩序を支配できたのである。国家は文化を支配することにより意味の秩序を支配しようとした。同時に、国家は、革命による政府転覆と同様に、急進や退廃による意味秩序の崩壊を常に恐れてきたのである」とある。なるほど。この視点はおもしろい。

 戦後直後の日本に「文化国家」ブームというのがあったのもおもしろい。

 座談会の最後に近いところに、こんな話が出ている。

私たちの業界で言えば、研究者・研究会を含む学界、査読システム、出版編集者……、ジュリストに寄稿するのに辿り着くまでは結構大変なわけです。下積みや修業の時代があって、同期・同僚の目を気にしながら、指導教授からいろいろなことを言われたり、出版社の人と飲み会をして執筆内容を揉んだり、あるいは長谷部[恭男]さんに鍛えられたりと、そういったことがあったと思うのです。(168ページ)

 たしかに、こういう「業界秩序」は崩れつつあるなあ。