井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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論文の書き方を身につける方法

論文の書き方は、実際に本気で論文を書いているときにしか習得することはできない。

それでも、事前に書き方のコツを共有しておくことは大切。だから、井庭研では、バーバラ・ミント著『考える技術・書く技術』や、伊丹敬之著『創造的論文の書き方』(伊丹 敬之, 有斐閣, 2001)を輪読している。

しかし、読んだときは頭ではわかっていても、実際に自分がやるときになっても実践できない。「できてないよ」と指摘されて初めてそのことに気づく。そこからようやく学びのプロセスが始まる。

自分で書いたものを見ると、頭ではわかっていたはずのコツはまったくもって実践できていないことを知る。そして、やろうとしても簡単にはできないことも知る。こうして、「あれ…???」となる。

ここからのもがきが重要で、どうしたらそういうことが実現できるのかを本気で考え、実践しようと努力する。一筋縄ではいかないので、何度も僕とやりとりをする。僕も(すでに共有されてはいる)コツを何度も引き合いに出しながら、アドバイスをしていく。そういうやりとりを繰り返した結果、「ああ、こういうことだったのか」と納得しながら論文ができあがる。

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一度このプロセスを通じないと、論文はかけるようにならない。コツも身につかない。これは、とても本質的な学びのプロセスであって、そう意識して取り組むことが大切である。「書き上げたは道半ば」の後半戦は、一度書いたものをちょこっと直すというような、追加の些細な作業なんかではないのだ。ここにしか、実践的な学びはない。教育的な観点から言うならば、この段階を経験するために、論文を書いているようなものだといえる。これが「つくることによる学び」の論文執筆版である。

そして、このプロセスを経ることでようやく、自分たちが何をやってきたのかも明らかになっていく。論文を書くと、いかにわかっていなかったのかが露呈される。自分たちの成果へとつながるIntroductionを読んで、「そんな表面的なこと・ありふれたことをやってきたのではないでしょ」と指摘される。そうして初めて「そうだったのか」と気づいたりする。だから、論文を書くことはとても大切なのだ。すでに終わってしまったことのただの「まとめ」などでは、断じてない。

だから、学会発表に向けて論文を書くと決めて取り組んでいるメンバーは、「学びのチャンス」を自らつかんだことになる。書くことを選択しなかったメンバーたちはそのチャンスを逃したわけで、せめて執筆している人たちと僕とのやりとりを、メーリングリストに流れるメールでしっかり追って、そこから少しでも学べるところを学ぼう、という姿勢でいてくれるとうれしいと思う。

井庭研では、次の本は、絶えず手元に置いておくように言っている。輪読したり、自分で読んだりして、重要箇所に線を引きながら、何度も読む。


MintoBook.jpeg 『考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則』(バーバラ・ミント, ダイヤモンド社, 1999)



ItamiBook.jpeg 『創造的論文の書き方』(伊丹 敬之, 有斐閣, 2001)



なお、僕の論文指導については、今年、他の学校の先生から依頼を受けて講演したときにまとめた。このスライドも参考にどうぞ。

「研究・論文執筆の指導について」(井庭 崇) @ Slideshare
「書く」ことについて | - | -

井庭研における論文執筆の"三種の神器"

井庭研で毎学期輪読している、論文執筆の“三種の神器”について紹介したい。

その三冊とは、『創造的論文の書き方』(伊丹敬之, 有斐閣, 2001)、『「超」文章法』(野口悠紀夫, 中公新書, 2002)、『考える技術・書く技術』(バーバラ・ミント, ダイヤモンド社, 1999)である。


1.『創造的論文の書き方』(伊丹 敬之)

book1.jpg1冊目は、『創造的論文の書き方』(伊丹敬之, 有斐閣, 2001)である。この本が素晴らしいのは、研究とは何か、テーマをどう探すか、仮説と証拠をどう育てるかというところから、論文・文章の書き方までを語ってくれているところだ。

この『創造的論文の書き方』の大きな特徴に、経営学者が書いているという点がある。この手の本で経営学者が書いているのは珍しい。スパッとは検証できない類の研究を含む経営学の分野だからこそのアドバイスは、実は僕らのような新しい分野で新しいタイプの研究に挑戦している人にとってはかなり役に立つ。

さらに、『創造的論文の書き方』にあって、他の本ではまず書かれていない内容もある。それは、「止めの打ち方」。つまり、論文の締めくくり、「おわりに」の書き方だ。「過度の一般化」(オーバー・ジェネラリゼーション)ではなく、「自分が何の一部だったのかを書く」という指摘は、とても重要だ。

というわけで、おすすめの1冊目は、『創造的論文の書き方』(伊丹敬之, 有斐閣, 2001)である。学生を指導しているなかでよく生じている問題・難しさを踏まえて書かれている感じがする。学生はもちろん、教員も、学ぶところが多いのではないだろうか。


2.『「超」文章法』(野口 悠紀夫)

book2.jpg2冊目は、『「超」文章法:伝えたいことをどう書くか』(野口悠紀夫, 中公新書, 2002)である。この本は、僕らは全部ではなく、いつも一部しか読まないのだけれども、そこにとても重要なことが書いてある。メッセージとは何か、そして、面白いか/ためになるか、という基準の話。

『「超」文章法』のp.10に書いてある、次の部分は、いつもハッとさせられる。「仕事を効率的に進めるには、書類の整理をうまく行う必要がある。」というのは、メッセージになっていないのであり、「書類は、内容別に分類するのではなく、時間順に並べるのがよい。」となってこそメッセージだ、と。

文章を書き始めるときに、メッセージが大切なのはいつもわかっているが、そのメッセージというのがつい前者のようになってしまいがちだ。しかし、アブストラクト(概要)に結論を書くのと同じように、メッセージにも中身がなければならない。そうでなければ、ただ必要性を叫ぶだけになってしまう。

そんなわけで、僕も、井庭研でも、文章を書くときはいつも、『「超」文章法』(野口悠紀夫, 中公新書, 2002)のこの部分を読んで、セルフチェックをする。


3.『考える技術・書く技術』(バーバラ・ミント)

book3.jpg3冊目は、『考える技術・書く技術』(バーバラ・ミント, ダイヤモンド社, 1999)である。この本は、ビジネスの方で有名な本だけれども、論理的な文書の書き方として参考になる。メッセージをトップにどのような論理階層・構造で書くとよいのか、ということがわかりやすく書かれている。

『考える技術・書く技術』では、まず、パラグラフ・ライティングの話を学ぶが、それ以外に、他の本にはない優れた部分は、「導入部」(Introduction、はじめに)についての部分。どのようにして、読者を本論へと導くのか、ということが書かれており、とても役立つ。

この部分を読めば、導入部(Introduction、はじめに)をどう書けばよいのかが見えてくる。よく学生に、「アブストラクト(概要)とイントロダクションが内容的に似てしまうんですが…」という相談を受けるが、これを読めば、それらはまったく違う役割・内容だということがわかるはずだ。

ということで、おすすめの3冊目は、『考える技術・書く技術:問題解決力を伸ばすピラミッド原則』(バーバラ・ミント, ダイヤモンド社, 1999)である。


以上をまとめると、「よい研究とは何か」と「論文の閉じ方」を『創造的論文の書き方』から学び、「メッセージとは何か」を『「超」文章法』から学び、「論文の全体構成」と「導入部」の書き方を『考える技術・書く技術』から学ぶ。このように3冊を読んで、論文の書き方を学ぶというのが井庭研流。

もちろん、すぐにはすべてができるようになるわけではないので、毎学期読んで、再度学びながら、書き続ける。こうやって、毎学期書くことで、徐々に身についていくのである。
井庭研だより | - | -

とにかく一度全体を書き上げるということ

論文にしろエッセイにしろ、多くの人にとって、「書く」というのは、なかなか大変な行為だろう。

僕も、「書く」ということには、いつも悩まされている。短めのちょっとした文章でも、七転八倒して書いているのがほとんどだ。自分は「書く」のは向かないのではないかという気もするが、職業がら書くことは不可欠だし、僕自身、「書きたい!」という気持ちがある。そんなわけで、「書く」ことに対する考え方や方法にとても興味をもっている。

今日、研究会の学生が教えてくれたのが、レヴィ=ストロースの話。とあるブログで取り上げている話で、そのソースは『海』(中央公論社、1978年11月号)らしい。

「大事なのはただひとつ、とにかくひとつの原稿を産み出すこと。もしかしたらそれは化物のようなものかもしれませんが、とにかく終わりまで書かれていることが大切なのです。」(レヴィ=ストロース)


ここで言われていることは、僕も多くの先輩・同僚から聞いたコツでもある。

とにかく一度全体を書き上げる。そして、それを修正していく。

だから、第一稿というのは、全体の70%のところまで書けている原稿ではなく、粗いところがあっても構わないので全体が書けている原稿のことなのだ(研究会論文などでは、こうなっていないことが多い。第一稿の提出というと、前半しか書けていない原稿が出てくる。これではだめだ)。

そして、一度書き上げたら、徹底的に修正する。全体がみえて、初めて細部を詰めることができるのだ(ちなみに、英語の“see”は、「見る」ことであり「わかる」ことである。全体を見ることで、自分が何を書いたのかがわかるのだ)。

この修正は、仕上げの微修正という感じではなく、大手術(抜本的な構造改革)となる。小説やエッセイの場合と異なり、論文の場合には特に大きな手術となる。論文では、思考や出来事の時間的な流れとは別の構造でまとめあげる必要があるからだ。だからこそ、“「書き上げた」は道半ば”(学習パターン)なのである。


修論、卒論、研究会論文など、「書く」ことに取り組んでいる人も多いと思う。

とにかく一度全体を書き上げる。そして、それを修正していく。

このことを心の片隅におき、まずはどんどん書いてみるといい。

そう書いている僕自身、「とにかく一度全体を書き上げる」べき原稿をいくつか抱えている。がんばりたい。
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