井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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新刊『プレゼンテーション・パターン』(プレパタ)をよろしく!

2月に新しく出した『プレゼンテーション・パターン:創造を誘発する表現のヒント』(井庭崇+井庭研究室, 慶應義塾大学出版会)、出だしから売れ行き好調とのことです。

書店でも、学術系出版社からの本としては珍しく、平積みや面出でたくさん置いていただいていることが多く、書店の方や出版社の方に感謝です。


先日伺ったブックファースト新宿店さん(新宿駅西口)は、『プレゼンテーション・パターン:創造を誘発する表現のヒント』の特設コーナーをつくっていただいていました!これは、とてもうれしいです!

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丸善 丸の内本店では、プレゼンのコーナーのたくさん平積みだけでなく、店頭の棚にも面出で置いていただいていました! 入口を入ってすぐ右の棚です。店員さん、「普通と違うプレゼン本が出たなぁと思っていました」と。まさにその通り、異色な本です!

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八重洲ブックセンター本店でも、2階にエスカレーターで上がってすぐの「ビジネス新刊・話題書」のコーナーに、面出で置いていただいていました。

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これ以外の本屋さんでも、平積みしていただいている本屋さんが多くて、うれしいです。書店の方、どうぞよろしくお願いします。m(_ _)m

Amazon.co.jp 『プレゼンテーション・パターン:創造を誘発する表現のヒント』(井庭崇+井庭研究室, 慶應義塾大学出版会)

Amazon.co.jpでも、一時期、「ビジネス企画」ベストセラー1位となりました。現在は順位が下がってしまっているので、ぜひ、みなさんご購入を!(^_-)☆

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※書店での写真は、書店の方の許可を得て撮影しています。念のため付記。
イベント・出版の告知と報告 | - | -

パターン・ランゲージによる診断と、診断システム

アレグザンダーの本『オレゴン大学の実験』には、「マスタープラン」に代わる「診断」の原理が論じられている。昨年から井庭研で取り組み始めている診断システムとの関係を考えてみたい。

何かをつくるとき、マスタープラン、つまり基本計画をつくるのが一般的だが、そのようなマスタープランでは、ひとつの「全体」というものを創造できない、とアレグザンダーは言う。部分を集めた総体性(totality)を生み出すことはできても、全体性(whole)は創造できないという。

全体性は有機的秩序としてのみ形成可能であり、有機的秩序は漸進的成長によって生み出される。アレグザンダーは有機的秩序を「部分の要求と全体の要求との間に完璧なる均衡が存在する場合に達成されるような秩序である」、漸進的成長とは「ごく小さな歩調で前進していくような成長」であると定義する。

同書でアレグザンダーは「有機的秩序の原理」を提案する。

「計画と施工は、全体を個別的な行為から徐々に生み出してゆくようなプロセスによって誘導されること。この目的を満たすため、コミュニティはいかなる形式の物理的マスタープランも採用しないこと。・・・」

マスタープランのかわりに、「固定された未来のマップからではなく共有のパターン・ランゲージからコミュニティがその秩序を得ることを可能にする」プロセスを採用することを提案する。

漸進的成長のプロセスにおいては、パターン・ランゲージが「設計を指導していく」。パターンとは、「その環境に繰り返し出現する可能性のある課題を表し、この課題の出現する背後の状況を記し、さらにこの課題を解決するのに必要なすべての建設や計画の一般的特質を提供するものである」とされる。

アレグザンダーが提案するのは「自然界で解決される方法ときわめて類似した方法で課題を解決してゆく」方法である。つまり「有機体が統一的な全体を創造するため、漸進的プロセスをうまく導いてゆく」方法を採用しようというのだ。

その方法というのが、「診断と部分的な治癒というプロセスで解決が施される」ということなのだ。「有機体は、その生命の始源から、一貫して自らの内的状態を監視し続けている」のであり、自らを「診断」(diagnosis)し続けているということになる。


そして、「その診断に応じて、有機体は、このような状態を治癒するための成長のプロセスを動かし始める」のだ。この診断と成長は、初期の形成段階でも、成熟した後の維持においても言うことができる。それが「診断」と「治癒」(補修)のプロセスだ。

アレグザンダーの提案は、この診断と修復をパターン・ランゲージを用いて行なうということだ。対象を「パターンごとに診断することが可能となる」のである。そして、対象における「そのパターンの健康状態」を表すマップを描くことができるという。

ひとつのパターンによる診断結果をまとめた「パターン・マップ」をまとめた「合成マップ」(composite map)をつくれば、「有機体における監視プロセスと同じく、この合成マップで環境の成長と補修を誘導することができる」のである。

「合成マップは、どこが比較的健康な状態であるか教えてくれる」とともに、「どの場所が簡単な修正を必要としているのか教える」。ほかにも「どこでパターンが新たに必要とされているか」も教えてくれる。つまり、生成的(generative)なのである。

この診断マップはマスタープランとは異なる。「マスタープランは未来において何が正しいかを示すが、診断はいま現在において何が誤っているのかを示す」。つまり、マスタープランでは現在・現状が描かれず、ある目指すべき方向性が、いわば外から示されるのであるが、診断マップは現状を基点とする。

そのため、どのように治癒・修復するのかは、自分で考えていく必要があるのであり、つまりは、自由に創造する余地があるということである。診断マップは「人びとの想像力に刺激を与え、現在の細部の欠陥をすべて修復するように物事を変えてゆく方法を発明するようにと、人びとに挑んでくる」のだ。



さて、ここからアレグザンダーの本から少し離れて、井庭研で昨年から取り組み始めた診断システムの話との関係を考えてみたい。昨年11月のORF(オープン・リサーチ・フォーラム)で、Generative Beauty Patternsを用いた診断システムの展示を行った。

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まず、そもそもなぜ、Generative Beauty Patternsという「いきいきと美しく生きる」ためのパターン・ランゲージなるものをつくったのかという話から始めよう。それは、どこかから調達したマスタープランでは「いきいきと美しく生きる」ことは実現できないと考えるからだ。

「いきいきと美しく生きる」ということの全体性は、有機的秩序としてのみ形成可能であり、それは漸進的成長によって生み出される。つまり、どんなテクニックや方法も、いまの自分に合わないのであれば、全体性の成長には寄与しない。そうではなく、いまの自分を基点としなければならない。

その漸進的成長による有機的秩序の実現のために、「理想的にはこうあるべき」という "固定された未来のマップからではなくパターン・ランゲージから自分でその秩序を得る" プロセスを支援する。これが、Generative Beauty Patternsが行なおうとしていること。

そうなると、「いきいきと美しく生きる」ということが、いま現在の自分はどのように実現できているのか(裏返すと、何が実現できていないのか)を把握=診断する必要がある。診断なしに治癒・補修→成長はあり得ないからだ。

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パターンの冊子を見ながら、自分で診断マップを描いてみるというのもよいだろう。その発想とやる気がある人はそういうことを自然とやると思うが、多くの人は、そうではない。なにかのきっかけがなければ、あるいは支援してくれる方法や道具がなければ、診断しようとは思わず、そのやり方もわからない。

そこで、昨年僕らは、診断を支援するシステムのごく最初のプロトタイプをつくった。僕らが診断システムでやりたいことの、おそらく1%くらいしかできていないシステムだったが、実際につくってみて、多くの方に使ってもらうことで得たものは大きい。


「Generative Beauty 診断」では、現在体験しているだろうパターンを、このようなレーダーチャートで表した。色が塗られている部分が現在の自分を表す部分である。そして実は重要なのは、色がついていない外部なのだ。

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診断は表向きには「現在のあなたを把握するため診断をします」となっていて、その側面はたしかにある(顕在的機能)。しかし同時に、「なぜここが凹んでいるのだろう」とか「○○の軸が思ったほど伸びていない」ということにも目がいくようになっている。これが診断→補修→成長の誘発(潜在的機能)。

「あなたはこうしなさい」とか「あなたはこのタイプなので、このロールモデルのやり方をしましょう」ということは言わない。それでは、漸進的成長による有機的秩序の形成にはつながらないからだ。

現状肯定のために「現在のあなた」ということでレーダーチャートに自分ができている部分に色がついてカタチができる。そうして、区切りがなされると、その外部があることに気づき、ついついそこが気になってしまう。レコメンドは2つだけ。自発的に気になることの誘発。

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アレグザンダーは、建築・環境が対象だったので、診断マップというのは、地理的な地図の上にパターンでの診断結果を色づけしたものだった。でも、僕らの対象は人間行為であり生き方なので、いわゆる(地理的な)「地図」ではなく、生き方のマップのなかにパターンで色をつけていくというイメージだ。


パターン・ランゲージは、ただ存在するだけでなく、プロセスのなかに組み込まれなければ真の力は発揮し切れない。井庭研でここ数年やろうとしているのは、まさにそのことで、だからこそ対話ワークショップをやったり、診断システムをつくったりしてきた。

これからの井庭研でやりたいことのひとつに「診断システムプロジェクト」があるのは、まさに、診断→補修(治癒)→成長というプロセスを支援するための方法と道具を開発したいと考えるため。Generative Beauty Patternsだけでなく、ラーニングもプレゼンもコラボも同じ。

いま動いているGenerative Beauty Projectの新しい展開も、本質は、すべてこのプロセスのデザインと実践にある。診断システムのプロジェクトでも、ラーニング・パターンも、プレゼンテーション・パターンも、コラボレーション・パターンもこのプロセスを支援する方法・道具をつくりたいと思っている。

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パターン・ランゲージ | - | -

パターン・ランゲージ4.0(社会・コミュニティデザインの言語)の構想

これまで井庭研で作成してきたものは、人間行為(human action)のパターン・ランゲージだった。学び、プレゼン、コラボレーション、いきいきと美しく生きる、社会変革などなど。これらのパターン・ランゲージを、僕は「パターン・ランゲージ3.0」と呼んできた。

パターン・ランゲージ3.0の「3.0」としたのは、それ以前の「1.0」と「2.0」と僕が呼ぶものとの対比を明確するためであった。1.0は、アレグザンダーたちの建築のパターン・ランゲージ、2.0は、ソフトウェアや組織のパターン・ランゲージである。

これまで僕は、パターン・ランゲージを、1.0 + 2.0 + 3.0というかたちで捉えてきたが、これに、新たに 4.0 を加えたいと思う。「パターン・ランゲージ4.0」(Pattern Language 4.0)である。

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(クリックで拡大)


パターン・ランゲージ4.0は、「社会・コミュニティ」のデザインについてのパターン・ランゲージである。つまり、不特定多数の人が関わる「社会」や、組織よりも境界があいまいな「コミュニティ」をどのようにつくるのかに関するパターン・ランゲージである。

もちろん、これまでのパターン・ランゲージ、例えばアレグザンダーの建築のパターンも、いきいきとした社会やコミュニティを実現するためのパターン・ランゲージであったが、デザインの対象は建築であった。パターン・ランゲージ4.0では、デザインの対象が社会やコミュニティそのものになる。

社会やコミュニティは、自生的に形成されるため、「デザイン」するといっても、すべてをつくるという意味でのデザインではない。そうでなく、社会の自生的な側面をい考慮にいれた意味での「デザイン」ということになる。

その意味で、1.0→2.0→3.0の流れのなかで「デザイン」の特徴が変わってきたように、4.0でも新しい特徴が加わってくる。他者と未来(の成長)に開かれたかたちのデザインとなる。そのため、デザインが、結果の直接的なつくり込みではなく、間接的な影響にとどまる。また、結果は、デザイン時ではなく、後に生じることになる。

パターン・ランゲージの目的・使い方も、これまでとは異なってくる。各人がそれぞれにもっている未来像をつなぎ、未来をつくっていくための言語となる。個々のパターンには、社会の仕組みについての認識・発想が「状況」「問題」「解決」の形式で書かれる。そして、それが社会・コミュニティの仕組みについてのひとつの発想の表明として用いられることになる。そのため、複数のパターンのなかで相矛盾する認識・発想が書かれることがあり得ることになる。

また、これまでのパターン・ランゲージは、ひとつのランゲージでは理想とされるひとつの方向性をもち、閉じていたが、パターン・ランゲージ4.0では、相互に重なり合う体系としてのランゲージが形成される。そのような開かれたランゲージを用いて、どのような社会・コミュニティをつくるのかの対話をし、議論をし、つくり込みをしていく。そのような目的で、パターン・ランゲージ4.0は使われることになるだろう。

パターン・ランゲージのつくられ方も、変わってくるだろう。一部の人が書くというよりも、多様な主体が関わり、書かれ、評価され、議論され、修正されていく。3.0までは、つくり手はあるグループに閉じられていたが、4.0では開かれたプロセスで、あちこちでつくられていくイメージである。オープンソース・ソフトウェア開発や Wikipediaの編集コラボレーションのようなものを思い浮かべるとよいかもしれない。


パターン・ランゲージ4.0は、井庭研の新しいプロジェクトでは、"good old future"(なつかしい未来)プロジェクトや、政策言語プロジェクトなどが、これにあたるだろう。このあたりの探究・実践を通じて、考えを深めていきたい。

本当は、僕は物事を3つにまとめるのが好きなので、3.0で止めておくのが美しいと思うのだが、今回はどうしても4.0の考え方が必要だと感じた。もうここまで来たら、おそらく後には5.0も考えることになる予感がしている。5.0では、社会を超えて、人間を含む自然や宇宙との関わり方になるのではないかと、なんとなく感じている。とはいえ、まずは、4.0についてより深く考え、実践していきたい。
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パターン・ランゲージ3.0とは (新バージョンの説明)

僕は、パターン・ランゲージの進化を、「3つの波」で捉えている。ここで「波」と呼ぶのは、このパターン・ランゲージの進化が断絶的な移行を意味するのではなく、段階が進むごとに新しい特徴が加わっていく加算的な発展であるためである。

そして、これらの波それぞれに、便宜上の名前をつけている。アレグザンダーによって提案された建築分野でのパターン・ランゲージが「パターン・ランゲージ 1.0」、その後ソフトウェアの領域に輸入・展開されたときのものが「パターン・ランゲージ 2.0」、そして、人間活動のパターン・ランゲージが「パターン・ランゲージ 3.0」である。

この3つの波は、「デザインの対象」「デザインの特徴」「ランゲージの使い方」という3つの視点で比較することで、それぞれの特徴が明らかになる。

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(クリックで拡大)


1. デザインの対象

3つの波を捉える第一の視点は、「デザインの対象」である。まず、パターン・ランゲージ 1.0では、建築という「物理的なもの」がデザインの対象であった。

そして、パターン・ランゲージ 2.0では、ソフトウェアや組織という「非物理的なもの」が対象として加わった。

パターン・ランゲージ 3.0では、人間活動がその対象になっている。具体的には、学び、教育、プレゼンテーション、コラボレーション、組織変革、社会変革などである。

パターン・ランゲージ 3.0における最大の特徴は、デザインする対象(客体)がデザインする主体自身であるということである。パターン・ランゲージ 1.0やパターン・ランゲージ 2.0では、そのデザイン対象はあくまでもデザイン主体とは別のものであった。しかし、パターン・ランゲージ 3.0では、デザインの主体自身がデザインの対象となる。このことが「デザインの特徴」と「ランゲージの使い方」にも大きな影響を及ぼすことになる。


2. デザインの特徴

第二の視点は、「デザインの特徴」である。パターン・ランゲージ 1.0のデザインでは、建物や街をデザインする段階と、そこに住人が住むという段階を明確に区別することができる。つまり、デザインの事前と事後がはっきりしているのである。

もちろん、パターン・ランゲージを考案したクリストファー・アレグザンダーは、住人が建物や街を漸進的に育てる重要性を強調してはいた。しかし、建物や街という「物理的なもの」は、一度つくられてしまうと、それらを全面的につくりなおすことは極めて困難であるため、デザインの事前と事後には「切断」があると考えられる。

パターン・ランゲージ 2.0のデザインでは、デザインは断続的に繰り返される。ソフトウェアという「非物理的なもの」を、全面的につくりなおすことは、物理的なものと比較すれば、はるかに容易である。そのため、「バージョン・アップ」と「リリース」というかたちで何度もデザインのやり直しが発生する。このように、デザインは断続的に繰り返されることになる。

パターン・ランゲージ 3.0のデザインでは、継続的にデザインが行われる可能性がある。人間活動のデザインでは、1ヶ月毎でも、1週間毎でも、1日毎でも、デザインをして実践することができる。人間活動のデザインの場合には、自分で自分の行動をデザインすることになるので、デザインと実践はかなり密接につながり、その境界も曖昧になる。こうして、パターン・ランゲージ3.0では、継続的なデザインが可能となるのである。

このように、ひとえに「デザイン」といっても、パターン・ランゲージのそれぞれの波によって、時間のなかでの特徴はまったく異なるのである。


3. ランゲージの使い方

3つの波を捉える第三の視点は、「ランゲージの使い方」である。あまり認識されていないことだが、実はパターン・ランゲージ 1.0から 2.0に移るときに、パターン・ランゲージの使い方は大きく変わった。

アレグザンダーは、デザインする人(建築家)とその結果を享受するユーザー(住人)の橋渡しをするために、パターン・ランゲージを考案した。

しかし、パターン・ランゲージ 2.0になると、デザインする人(エンジニア)のなかで熟達者と非熟達者の差を埋めるために、パターン・ランゲージが使われるようになった。熟達者の技を学ぶために、パターン・ランゲージを読んで学ぶということが行われるようになったのである。そこには、デザイナーとユーザーのコラボレーションという視点はない。

このように、パターン・ランゲージ 1.0とパターン・ランゲージ 2.0は、使い方において大きな違いがあるのである。しかしながら、どちらの場合も、実践知の伝達がパターンによって目指されているという点では一致している。

これに対し、パターン・ランゲージ 3.0では、人々が暗黙的に持っている経験に光を当て、それを捉え直し、語ることを支援する「語りのメディア」もしくは「対話のメディア」として、パターン・ランゲージが使用される。

興味深いことに、この「語りのメディア」・「対話のメディア」としてのパターン・ランゲージは、熟達の度合いや経験の多少にかかわらず機能する。それぞれ経験しているパターンが異なるため、パターンを介してお互いの経験について語る機会が生じるのである。抽象的に書かれたパターンの具体的な経験談を集めることで、そのパターンの内容を深く理解し、今後自分が実践するときのことを想像することが容易になる。

このように、パターン・ランゲージ 3.0では、それぞれ異なる経験を持つ多様な人々(行為者)をつなぐために、パターン・ランゲージが使用される。なお、ここで「行為者」という言葉を用いたのは、パターン・ランゲージ3.0では、デザインの主体と客体が不可分になり、デザインする人と使う人という区分自体が曖昧になるためである。


井庭研では、これまで8年ほど、「パターン・ランゲージ3.0」(Pattern Language 3.0: PL3.0)にあたるパターン・ランゲージを何種類もつくってきた。それらが、建築やソフトウェアのパターン・ランゲージと共通する特徴を持ちながら、新しい側面ももっているのは、上記のような理由からだと考えている。
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創造性(クリエイティビティ)の新しい捉え方

僕の創造システム理論では、「創造」は「発見」(小さな発見、気づき)の連鎖だと捉える。

つまり、ある活動やプロセスが「創造的」(creative)であるというのは、「発見」が次々と生まれているかどうか、だと考えるのである。「発見」が途絶えてしまい、もう生み出されなくなってしまった活動・プロセスはもはや創造的と言うことはできない。

このとき、得られた発見の内容や、生み出した成果が、社会的に見て、新規性があったり、価値があるものか、ということは、ひとまず問わない。それは、創造の観点ではなく、社会的な観点だからである。

なぜそのように考えべきだと考えたかというのを、二つの話でしたいと思う。

ひとつめは、子どもが登場人物である。「積み木」で遊んでいた子が、しばらくしてその積み木でドラムのように音を出したとする。それに合わせて、誰かが歌を歌ったとしよう。この子たちは、創造的だろうか?

僕はその子たちは創造的だと捉える。世界中の保育園でしょっちゅう起きていることなので社会的にみれば新規性はないだろう。しかも、そこに何かの役にたつ付加価値があるわけでもない。それでも、積み木で音を出すことを発想したり、それを音楽だと思って歌を歌おうとしたことは創造的なことだと思うのだ。

もう一つは、孤島に住む研究者の話である。その研究者は数年間の研究の末、誰も解決できなかった理論的問題を解決した。それをもって学会に出向いたところ、同じような論文が1ヶ月前に発表されていたことを知る。彼の方が後の発表なので新規性はない。それでは、彼の研究は創造的ではなかったのだろうか?

僕は、このような場合、研究成果としての社会的価値は下がると思うが、研究自体は創造的であったと考える。つまり、彼は研究のなかで、次々と発見(発想・気づき)をつないでいって、創造をしたのである。

その意味で、「創造的かどうか」ということを、社会的に新規であるか、価値があるかということを切り離して考えたいのだ。

そうだとすると、創造をどのように考えればよいのか。創造性は学問的にはふつう心理学で扱われる。創造的な思考は、認知・心理・意識の観点からどのように説明できるのかということが研究される。しかし、僕はそれとも違う道を行きたい。

というのは、意識・思考のなかにだけではなく、論理展開やコミュニケーションのズレのなかにも、創造的な発見の源があるからだ。人(の意識・思考)が創造的だと捉えるのではなく、プロセスそのものが創造的であるということを捉えたい。

そこで、創造というものを、ひとつの次元として切り出し、社会にも心理(思考)にも還元しないアプローチをとる。創造そのものの成り立ちを考え、そこで起きていることを直球で捉えたい、と思う。

創造のプロセスを考えるとき、何がその創造における「発見」になるのかというのは、その創造のプロセスのなかでの意味づけに過ぎないということに注目する。「アイデア」は、「アイデア」というものがどこかに在るわけではなく、その創造のコンテクストのなかで、ある考えが「アイデア」となるのである。

そう考えると、創造は発見の連鎖で成り立っているが、その発見は、創造のコンテクストに依存して定義されることになる。このような円環構造が創造にはある。そしてそれこそが本質的なのだ。

この円環を、システム理論的にはオートポイエティックな関係という。僕の考えでは、創造は発見を要素とするオートポイエティック・システムなのである。ある発見は次なる発見の前提となり、発見が連鎖していく限りにおいて創造が成り立つのであり、そのことによって要素である発見の生起が可能になる。

創造の要素ではる《発見》とは何かというと、ある「アイデア」がいま取り組んでいる創造に「関連付け」られると「見い出す」ことができたときに生じる。アイデアは外に開かれていて、関連付けはその創造自体を指し示す。このことから、プロセスとしては「閉じ」ながら「開く」ことができるのである。

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これが、僕の提唱する「創造システム理論」(Creative Systems Theory)の考え方だ。社会学者ニクラス・ルーマンは、社会というものを意識・思考から切り分け、社会システムと心的システムを定義したが、僕はこれに創造システムを加える。

これら3つのシステムは別の論理・コンテクストで動くが、連動はしている。その観点から捉えると「創造のプロセスは、意識によって心的に転がしたり、コミュニケーションによって社会的に転がしたりする」と捉えることができるようになる。これが、心理次元にも社会次元にも還元しない、創造性の新しい捉え方である。

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【創造システム理論について書いた論文・書籍】

  • "An Autopoietic Systems Theory for Creativity" (Takashi Iba, Procedia - Social and Behavioral Sciences, Vol.2, Issue 4, 2010, pp.6610-6625)

  • 「自生的秩序の形成のための《メディア》デザイン──パターン・ランゲージは何をどのように支援するのか?」(井庭 崇, 『10+1 web site』, 2009年9月号)

  • 『社会システム理論: 不透明な社会を捉える知の技法(リアリティ・プラス)』(井庭 崇 編著, 宮台 真司, 熊坂 賢次, 公文 俊平, 慶應義塾大学出版会, 2011)第2章
  • 創造社会論 | - | -

    創造社会とクリエイティブ・メディア

    僕は時代の変化を、C→C→Cという3つのCで捉えている。

    Consumption(消費社会)→Communication(コミュニケーション社会=狭義の情報社会)→Creation(創造社会)である *。

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    創造社会は,人々が自分たちで自分たちの認識・モノ・仕組み,そして未来を創造する社会である。創造社会は、企業等の組織だけでなく、一般の個人が「創造」を担う点に特徴がある。

    かつてP.F.ドラッカーは、「知識社会」の到来を指摘したが、そこでの主眼は企業・組織と労働者をめぐる社会的変化であった。

    創造社会においても、知識社会と同様に「イノベーション」が重要であることは変わらないが、創造(つくること)が企業・組織の内に留まらず、また労働と切り離して捉えるという点で、よりラディカルである。

    そう考えると、「創造社会」、ひいてはそこに至までの「社会の創造化」は、企業・組織の現象ではなく、社会の現象として捉えるべきである。

    そのような観点で考えるとき、公文俊平先生の「情報社会」の議論が参考になる。オープンソース・ソフトウェア開発やWikipediaの編集などでは、従来の組織とは異なるかたちでコミュニティが形成されている。情報技術の発展により、人々は活動のなかで自由につながり組織化されていくのである。

    同様に、「創造社会」では、これまで企業・組織で行われてきた創造行為が広く一般に解放されることを意味する。「創造社会」においては、人々の創造活動の過程で社会的なネットワーキングがなされ、コミュニティが形成される。

    つまり、「組織によって創造がなされる」ことから「創造の過程でコミュニティが形成される」ことへのシフトが生じるのである。

    もちろん、企業・組織が無くなるというわけではない。しかしながら、創造社会における企業・組織あり方は、人々が創造的な活動をすることを踏まえたかたちに変わっていくだろう。

    従来は、個人と企業・組織の関係は「労働」や「商品・サービス」の関係に限定されてきたが、創造社会においては創造活動の協働的なパートナーシップが個人と企業・組織の間で築かれることになるのである。

    そうなれば、企業・組織における知識や情報の蓄積や管理のあり方も変化を迫られることになる。創造活動が組織的な境界を超えて縦横無尽に展開されるようになるため、それらを囲い込むことはできなくなり、また囲い込むことが戦略上不利になる可能性が高くなる。

    そのため、暗黙的であれ形式的であれ、企業・組織内に蓄積される知識・情報をどのように記述し、共有し、外部と未来に開いていくのかということは最重要な課題となるだろう。特に、創造に寄与する知識の記述と共有は、重要なテーマとなる。

    このような創造社会においては、創造を支える新しいメディアが求められ、重要な役割を果たすことになる。そのようなメディアを、僕は「クリエイティブ・メディア」(Creative Media)と呼んでいる。

    このようなクリエイティブ・メディアとして僕が有力視しているのは、「パターン・ランゲージ」だ。パターン・ランゲージは、創造における実践知を記述する言語であり、それが人々の創造を支援するメディアとなるのである。



    * 以前は、2つ目のCの時代を「情報社会」と記述していたが、最近は、「コミュニケーション社会(狭義の情報社会)」と呼ぶことにした。これで、混乱なく、公文俊平先生の「情報社会」が、僕の2つめのCと3つめのCを包含する概念だと捉えることができるようになる。
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    ある一人の研究者の転換点をめぐるメモワール

    いまから振り返ると、2008年から2010年あたりの僕には、研究における大きな変化があった。

    そのあたりの経緯については、あまり語ったことがなかったので、ここで覚え書きとしてまとめておくことにしたい。

    2008年は僕にとって、まず最初の特別な年だった。2009年度の僕のサバティカル(研究休暇)に向け、研究会の新規募集を止めた。そのときいた1〜3年生のメンバーは、翌年僕がいない1年間を過ごすことになるので、僕がいるうちに伝えられること・一緒にできることをすべてやろうと思った。

    そうして2008年は、僕も自分の個室ではなく、学生が集う共同研究室に常駐するようにした(いまの井庭研のスタイル)。何もなくても、学生と同様に、共同研究室でひとり作業をすることも。なんでもないやりとりも含めた密接な立ち位置。

    2008年は、学習パターン(ラーニング・パターン)を制作した年。春から学生たちが取り組んでいたが、なかなか難航していたので、夏から僕も本格参戦した。メンバーはみんな自分の個人研究を抱えながら、それとは別の活動として学習パターンの制作に取り組んだ。今から考えると相当すごいこと。

    これが僕にとって、初めての本格的なパターン・ランゲージの制作経験となった。それまで博士論文で、シミュレーションための「モデル・パターン」というのを書いていたが、学習パターンは本格度とつくり方がまったく違った。僕がパターンについて語ることは、このときにつくりながら学んだことが多い。


    このころ、僕や井庭研にとってパターン・ランゲージは研究・実践のひとつでしかなく、井庭研の主力はネットワーク分析や「カオスの足あと」などの研究であった。ネットワーク科学国際学会でバラバシ教授に初めて話しかけ、自分たちの研究(楽天ブックスのデータ分析)を紹介したのはなつかしい思い出。

    初めて、国際的なCGなどのカンファレンスであるSIGGRAPHに行った。「カオスの足あと」(のちに、ChaoticWalkと呼ぶ)の発表をして、まったく違う領域にも踏み込んでいた。

    いろいろ迷いながら、サバティカルで行く先をMITのCenter for Collective Intelligenceという研究所にした。Peter GloorさんがCollaborative Innovation Networkという視点で新しいネットワーク分析をしていた。

    このころ、サバティカルで行く先をいくつか迷っていて、ネットワーク科学の中心のバラバシラボも考えたりした。実際会いにいっていろいろ話したりもしたけれども、自分がガチであの手の解析だけで行くのかというのに迷いがあった。創造性やその支援ということに当時も興味があったから。

    もうひとつ、MITメディアラボも魅力的だった。ミッチェル先生やレズニック先生など、いくつかの研究室を見学させてもらって話もしたけれども、やはりものをつくるという側面が大きく、僕の抽象的なメディア観と合いにくい(僕があまりにも門外漢すぎる)というのを感じた。
    (もちろん、何のツテもないので、アポをとって、現地に行き、自分が何者で何をしたいのかを説明し、相手側がやっていることを聞き、その接点を探るということをしていくのであって、僕が行きたいから行ける、というわけではない。)

    こうして、いろいろ迷った挙げ句の果て、Peter Gloorさんのもと、MIT Center for Collective Intelligenceに行かせてもらうことにした。このセンターの所長は『The Future of Work』の Thomas W. Malone教授。

    こうして2009年3月からMIT Center for Collective Intelligenceで1年間の研究を始めることになるわけだけど、到着時はまだ学習パターンが完成しておらず、ボストン-日本間でskypeとメールをしながら、学習パターンの仕上げをした。これが最初。

    MIT Press Bookstoreという僕の大好きな小さな本屋さんがあるのだけど、そこで当時出たばかりの二冊の本に出会った。ひとつは、スチュワート・カウフマンの『Reinventing the Sacred: A New View of Science, Reason, and Religion』、もうひとつは『How Mathematicians Think: Using Ambiguity, Contradiction, and Paradox to Create Mathematics』

    当時、僕の予想では、「カオスの足あと」の研究をウォルフラムみたいに研究したいということと、Wikipediaのコラボレーションのネットワーク分析と、構造と意味の両方を分析できるネットワーク分析手法・道具の開発に取り組むつもりだった。

    そんなわけで、2009年の春は、ばりばりプログラミングばかりしていた。Chaoticwalkerをつくったり、Wikipediaのデータからネットワーク分析をするプログラムなど、久々に自分でプログラミングできることに喜んでいた。

    そうそう、そのころ『Refactoring: Improving the Design of Existing Code』を買い、他の人が書いたパターンは、かなりためになるという実感もした。自分のプログラムの改善に役立った。

    で、朝から晩までプログラミングをしていたとき、さきほどの『Reinventing the Sacred』に本が出ているのを見つけた。この本で、複雑系の熱が再燃して、日本語訳だけもっていた複雑系の本の原著を買い集めることに。やっぱり面白くて、これで原点回帰することになった。

    で、もうひとつ、『How Mathematicians Think』は僕のなかで大きな変化をもたらした一冊(僕の人生を変えた10冊のなかに入っている)。この本は、ロジカルな数学というのを生み出す数学者は、生み出す過程ではロジカルではなく創造的なのだ、という話を書いた本。サブタイトルをみれば、それがわかる。『How Mathematicians Think: Using Ambiguity, Contradiction, and Paradox to Create Mathematics』(William Byers)。とても刺激的だった。

    この本が、ambiguity、つまり、「多義性」というかある種の「曖昧性」のようなものが創造において重要であるということを意識するきっかけになった。そして、それまでコラボレーションにおける創造性を考えていたけれども、個人のなかでの創造性も面白いと思った。


    それまでは創造的なコラボレーションを、どのように社会システム理論(ルーマン)で説明できるかを考えていたが、『How Mathematicians Think』のように、創造において何が起きているのかを考えるべきだと考えるようになった。個人でもチームでも、創造とは何か、という。


    このころ2つの発表の機会があった。ひとつはPeter Gloorさんが中心に組織化しようとしていたカンファレンス、Conference on Collaborative Innovation Networks (COINs)である。この年初年度で、僕も運営側で手伝った。

    もうひとつは、建築系のWebマガジン、10+1 web(テン・プラス・ワン)。こちらは、たしか、社会システム理論によるパターン・ランゲージの理解のような依頼だったと思う。

    そこで、この2つの論文で、日・英で、自分の創造性の理論というものを書いてみようと考えた。2009年の夏頃の話。

    まず考えたのは、創造性にとって重要な要素は何か。ひとつめは『How Mathematicians Think』にあったAmbiguityであることは決めていた。他にも、Analogyは絶対重要だろうと考えた。2つ出たので3つ目はなんだろう?しかもA始まりの言葉だと素敵だと考えた。

    いろいろAから始まる言葉を考えてみたが、これまで自分が大切だと思ってきた概念で、しっくりくるものはなかなかなかった。そして、延々考えていった挙げ句に、ふと、AutopoiesisもAから始まる言葉であり、創造には不可欠な気がしてきた。しかし、ほかの2つの言葉とレベルが合わない。

    そう考えていると、Autopoiesisこそが絶対的に重要なのではないか、つまり3つのキーワードではなく、Autopoiesisで説明すべきではないかと考えた。そこで、ルーマンの社会システム理論を参考に、創造システム理論というものを考えてみようと考えた。

    ルーマンの社会システム理論などの本で重要な箇所を抜き出し、それを「社会システム」ではなく、「創造システム」の話といてパラフレーズして書いていく。そうすると、ルーマンの思考の型を使って、社会ではなく創造を考えることになる。そういう作業を進めた。

    「社会」と「創造」は本来違うものなので、一筋縄ではいかない。単に、横滑りさせればよいというものではなく、なぜルーマンは社会をこのように捉えるのかや、なぜこの概念をもってくるのかなどの背後の意図や機能について考えざるを得なくなる。

    このときは、本当にルーマンの理論の理解が進んだ。その理論を学んで理解する立場としてではなく、つくる側として理論に向き合う(もちろん本人ではないので僕なりの想像による解釈にすぎないが)、ということができた。これこそ「つくることによる学び」である。

    こういう作業をしながら、書き上げたのが、10+1 webの原稿。この原稿は本当に苦しかった。書いたあとも、「なんかわかりにくい変な論文になってしまってすみません」と編集者にメールをしたのを覚えている。



    でも、この原稿が書けたことで、大きな一歩を踏み出せた気がした。ここで書いたことをベースに、より詳細に考えていこう、と考えた。そこで、creativityに関する文献も読み始め、なぜ新しい理解が必要なのかについて考えを深めようとした。

    それが、COINsカンファレンスで発表した論文。30分の発表の後、とても反応がよかったのは、意外にもデザイン系の人たちからだった。意外というのは、オートポイエーシスのシステム理論の話だったからだ。「詳細はわからないが、感覚と合う」という話だった。これはうれしかった。




    この論文を書くためには、いろいろ言い回しを学ばなければならなかった。ルーマンを英語で読み直し、creativityについての文献を読み、そこでの言葉遣いを学ばなければならなかった。この論文も相当苦しい戦いになった。

    これらの思考を深めていくときに、根本的なところで依拠していたのがニクラス・ルーマン。彼の「社会」を人から引き離して捉えるという発想が、僕の「創造」を人から引き離して捉えることの唯一の土台。この年、僕はルーマンから離れたように見えるが、実際にはより深くコミットしたといえる。

    この創造システム理論は、もっと詰めたいと思っている。実は2010年のCOINsカンファレンスでは、"Autopoietic Systems Diagram for Describing Creative Processes" (Takashi Iba) というのも書いている。

    (ルーマンの研究計画「社会の理論:30年」というのを真似て、「創造の理論:30年」というのを言ったら、同僚の某T先生に「そんなにかかるんじゃ、誰も待てないよ」と言われたので、急いでがんばらないといけないのです!w)

    そして、久しぶりに、創造システム理論について語ったのが、こちら。



    今年は、創造システム理論について深めていきたい。
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    詩、小説、そしてパターン・ランゲージ

    パターン・ランゲージは、内から創造を支える言語。パターン・ランゲージを書くということは、そのような生成力(generative power)をもつことばを生み出すということである。

    パターン・ランゲージを書くということは、読者の想像力を引き出しイメージをつくり出す生成力をもつという点で、小説や詩を書くことに通じる(この関係性については、僕だけでなく、リチャード・ガブリエルも語っている。彼は、ソフトウェア分野のパターン・ランゲージの大御所の一人だが、ソフトウェア・エンジニアであるとともに、詩人であり、写真家でもある。彼こそが、パターン・ランゲージの世界に、詩や小説の分野の「ライターズ・ワークショップ」を取り入れた張本人である)。

    文学とパターン・ランゲージとの違いは、読者がある分野においてデザインを支援することにある。パターンは、自らの問題を発見・解決するための記述形式になっているのだ。

    つまり、小説や詩が、ひとつの世界を表現したひとまとまりのパッケージだとすると、パターン・ランゲージは、読者がデザインするための操作可能性をもったブロックのようなものだ。

    また、小説や詩は、読者を違う世界へと連れて行く、いわばヴァーチャル・リアリティ(事実上の現実)の表現である。パターン・ランゲージは、読者は自分の世界にとどまり続け、それと重ねながら現在や未来を違う風に見せるという、オーギュメンテッド・リアリティ(AR:拡張現実)の表現だと言える。

    小説や詩では、読者は読者にとどまるが、パターン・ランゲージでは、読者はそれを用いたデザイナーになる。パターン・ランゲージをつくるということは、すなわち、デザインをデザインするということである。ここに面白みと難しさがある。
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    パターン・ランゲージの全体像をつくるときの(密かな)こだわり

    パターン・ランゲージ制作の後半では、どのように全体像をつくるのか、これまであまり語ることがなかったので、ここで書いておきたいと思う。

    全体像をつくるというのは、実は単なるボトムアップではなく、部分→全体、全体→部分を行ったり来たりしながら構造化していく。

    そのときに、僕のなかにいくつかの方針(制約)があって、チューニングしながらつくるのである。

    その方針(制約)の第一は、「3つ」でまとめるということ。全体を3つに分ける。個々のパターンも3パターンでひとまとまりとする、など。ラーニング・パターンも、プレゼンテーション・パターンも、コラボレーション・パターンもすべて「3」でまとめている。

    方針の第二は、中心(No.0)をつくる、ということ。パターン・ランゲージにNo.0をつくっているのは、実は僕らぐらいのもので、これにはこだわりがある。このパターン・ランゲージの中心に位置するもの(センター)は、このランゲージのなかにあるべきだと考えている。外ではなく内に持ちたい。

    方針の第三は、パターンの順序。僕らはパターンにあえてシーケンシャルな番号をつけている。その順に冊子に収録されることになる。なので、前から読んで違和感がなく、理解しやすいような順番性を考える。しかも、各まとまりのなかで重要なものが先に来るようにし、オプショナルなものは後にしている。

    こういう観点から、パターン・ランゲージの体系をつくり込んでいく。もちろん、単純な線形的なプロセスでは進まず、全体での位置が変わるとパターンの内容やニュアンスが変わってくる。そうやって、部分と全体を行ったり来たりしながら、パターンの関係性を構造化していくのである。

    あるとき納得した順番も、よくよく考えると、やっぱりしっくりこない、ということがよくある。その繰り返しなのだ。だから、パターンの順番の並び替えは、実は冊子完成の数日前まで行なっている。完成すると、まるで当たり前のような顔をして存在している全体像も、最後の最後まで、より最適な配置となるように編集されているのである。

    これが、パターン・ランゲージの全体像をつくるという際の、これまで語られることがなかった密かなこだわりなのである。


    lp_overview.jpg
    ラーニング・パターンの全体像


    pp_ovewview.jpg
    プレゼンテーション・パターンの全体像


    cp_overview.jpg
    コラボレーション・パターンの全体像
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