井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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「論点:国の未来像、総参加で創造」(1999)

次に紹介するのは、1999年2月9日の読売新聞朝刊の[論点]に書いた「国の未来像、総参加で創造」というもの。

これは、ここ数回のエントリで紹介した論文を踏まえて、寄稿したものだ。論文の内容と重なる部分もあるが、よりコンパクトにまとまっているので引用しておくことにしたい。

小渕政権の時代。なつかしい。



[論点] 国の未来像、総参加で創造

どのような社会を目指すのか――。目標となる未来像は国においても組織においても政策決定の重要な指針となる。その未来像は人々のばらばらな方向性を束ね、目標に近づくことを可能とする。元来、社会予測は自己実現的であり、皆がそれを信じて行動すると実際に予測されたことが実現するという性質をもっている。

例えば、多くの人が経済の高成長が続くと信じて行動すれば、投資や生産そして消費が活発化し、実際に高成長が実現する。逆に、先行きのイメージが暗ければ、社会を閉塞(へいそく)状況へと追いやることになる。

現在、日本は戦後の社会を支えた高度経済成長という目標をほぼ実現し、次なる目標を失っているようにみえる。確かに雇用不安、金融危機、少子・高齢化社会における労働力不足、年金制度の崩壊、様々な制度疲労、エネルギー資源枯渇、環境破壊など、未来に向けて解決すべき課題は明確である。しかし、個々の問題を解決した後の帰結は見えてきても、人々が共感し得る目標としての「日本のあるべき姿」は見えてこない。

今、日本に最も必要なことは、具体的な未来像をつくり共有することである。個々の社会的課題に対する政策はもちろん重要であるが、それらによってどのような社会が到来するのかという総合的な未来像がなければ、人々は「建設的な楽観主義」にはなれない。未来への積極的な姿勢や活力は、具体的で信じ得る未来像があってこそ生まれるからである。

しかし現在、皆が共感し得る未来像をつくり出すことは容易なことではない。なぜなら、従来のように一部の代表者が未来像をつくるというトップダウン型の方法がうまく機能しなくなっているからである。

これまでの日本は、経済成長という強い方向性が共有されていたため、皆が共感し得る未来イメージをつくり出すことが可能であった。しかし価値観が多様化した現在では、社会全体がどのような状況で、人々が何を望んでいるのかということを一部の代表者だけで把握することは不可能である。私たちは未来像をつくるための新しいプロセスを考えなければならないのである。

ここで、未来像をつくることは創造的な行為であると捉(とら)えることが重要であろう。創造的思考のプロセスは「発散段階」と「収束段階」に分けることができるといわれる。未来像をつくる際にも、この二段階を明確に分離することが重要なのである。

発散段階とは、自由な発想で断片的なアイデアを持ち寄って多様性を生み出す段階であり、収束段階では多様なアイデアの中から現実的で有効だと思うものを絞り込んでいく。これまでは未来像をつくるプロセスに関して、発散段階が専門家の間だけで行われてきた。しかし価値観が多様化した現在は多様な視点を取り入れるために、一般の人々が発散段階に参加できるようにすべきなのである。

この現状を踏まえると、日本にはボトムアップ型の未来像創造の仕組みが不可欠である。その仕組みは一人ひとりの期待する未来像を吸い上げるもので、「イメージ・アブソーバー(イメージの吸収装置)」と呼ぶことができる。これは情報ネットワーク技術を用いて実現し得る目安箱であり、未来社会のイメージをあらゆる人々が提案できる。

これにより政策決定者は、いつでも人々の望む未来像を参照できるようになる。また一般の人々にとっては、自分の望む未来像を発言することによって、積極的に国や組織の未来像づくりに参加できるようになる。このイメージ・アブソーバーは、未来像の創造プロセスにおける発散段階として有用であり、皆が共感し得る未来像をつくることに役立つであろう。

小渕首相の施政演説によると、「二十一世紀のあるべき国の姿」について「有職者からなる懇談会」を早急に設置するとのことであるが、ぜひとも一般の人々からも未来像を吸収し参考にしてほしい。そしてそれを一時的なイベントとしてではなく、継続的に社会システムに組み込むことを期待したい。

先行きが不透明な今こそ、互いの視点や視野を補いながら想像力と創造力を駆使して、個々の政策の指針となる魅力的な未来像をつくりだしていきたいものである。

    ◇     ◇

いば・たかし 慶応大学大学院生。慶大政策・メディア研究科2年。共著に「複雑系入門」(NTT出版)。第4回読売論壇新人賞入賞。24歳。


(井庭 崇, 「[論点] 国の未来像、総参加で創造」, 読売新聞, 1999年2月9日朝刊 より引用)
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自己変革能力のある社会システムへの道標(抜粋)#3

「自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から」(井庭崇, 1998)からの抜粋第三弾。

この部分を読み直して、僕は10年前も社会的コラボレーションという話をしていたんだなぁ、と改めて気づいた。この頃よりも、かなり技術的・社会インフラ的な変化があった。社会形成のあり方も、もっと再考されてよいはずだと思う。



自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から
・・・
6. (2)ボイス・アブソーバーの設立、およびポリシー・インキュベーターの役割強化

社会が自己変革を遂げるためには、どのように変革するかのビジョンがなければ ならない。しかし、日本社会にはビジョンの創造力が圧倒的に欠如している。この社 会的欠陥を修復するために、社会的なコラボレーションの仕組みを構築する必要があ る。そこで私は、「ボイス・アブソーバー」(声の吸収装置)という社会装置の設立、 および「ポリシー・インキュベーター」(政策孵化装置)という役割の強化を提案し たい。

ボイス・アブソーバーとは、人々が考えたシステム改善のアイディアなどを吸収 し、公表していく組織である。ここでいうボイスとは、人々のニーズや工夫、意見、 理論など、思考の断片のことである。ボイス・アブソーバーは、発言オプションのボ イスをアブソーブ(吸収)する目安箱のような存在といえる。

ボイス・アブソーバーが受け入れるボイスの内容は、政治システムや生活、欲し いサービスやビジネスに関する意見など、様々な領域をカバーする。例えば、「投票 をすると千円もらえるのならば人々はもっと投票に行くのではないか」、「○○駅周辺 は学生の一人暮らしが多いため、健康的な惣菜屋が欲しい」、「空缶・空き瓶を毎日捨 てられるようにして欲しい」などの身近なものから、国政に関するものまで、あらゆ るものが提案できる。このようにボイス・アブソーバーでは、会社員であれ、主婦であれ、学生であれ、それぞれの立場から出てきたアイディアを有効に活かすことができるのである。

ボイス・アブソーバーでは、提案されたあらゆるボイスをフィルタリングせずに公開する。そして、一般市民や後に述べるポリシー・インキュベーターからのアクセ スを受け入れ、それぞれの要求に応じた検索を行なえるような情報システムを備えて いることが重要である。二十四時間いつでもボイスを受け入れたり、あらゆる手段によって受け付ける必要がある。電話やFAX、電子メールで送ることもでき、直接訪ずれることも、また街の中継所やスーパーなどで書き込むこともできるようにするなど、人々の心理コストを軽減するための配慮が求められる。そして、ボイス・アブソ ーバーは、様々な手段で提出されたボイスを、一貫した情報データベースになるように管理するのである。

このボイス・アブソーバーという社会装置は、政府や民間企業が行なっても構わ ないが、中立性を保つ意味でも複数のNGOが設立することが望ましいと思われる。 いずれにしても、このボイス・アブソーバーの組織が日本全国に存在することにより、 日本社会に欠けていた発言オプションを実現することができ、社会の自己変革能力を 支える柱となる。

次に私が強調したいのは、ポリシー・インキュベーターという役割の強化である。 ポリシー・インキュベーターとは、社会や組織の政策をインキュベート(孵化)させ る役割の組織・人を指している。ポリシー・インキュベーターは、ボイス・アブソー バーの情報をもとにボイスを実際の政策提言や組織づくりに活かす役割を担う。具体的な主体は、政治家、官僚、経営者、研究機関、学者、マスコミなどが考えられる。 様々な人々が提案した一貫性のないアイディアの山を参考にして、一貫性のある政策 に加工するのである。このポリシー・インキュベーターを機能させるために、優れた政策集団の育成や教育改革などが早急に必要であるといえる。

ここで、創造性を引き出すためのプロセスを考慮に入れて、ボイス・アブソーバ ーとポリシー・インキュベーターの位置づけについて考えてみたい。創造性(クリエ イティビティ)とは、関係ないものを結び付け、それに意味付けができることといえ る。創造的な思考プロセスは、発散思考段階と収束思考段階に分けて考えることができる [8]。

発散思考段階は、自由な発想で断片的なアイディアを多く持ちより、多様性を生 み出す段階である。一方、収束思考段階は、一見関係ないように見える断片どうしを をつなぎ合わせ、その意味や有効性を考える段階である。一人の人間が行なう場合には、なかなかこの奇抜な結び付けや意味付けに気づきにくいが、複数人で行なう場合には、異なる視点や世界観が有効に働く。発散段階で知識を共有したりアイディアを 出し合い、収束思考段階ではそれらを元に最終的なコンセンサスを生み出すのである。 特に、複数の人間が発散段階に参加した場合には、ちょっとしたアイディアが共鳴反応を引き起こし、他の人の発想に刺激を与えることになる。そしてその人の発言が、 さらにまた他の人の刺激になる、というコラボレーションにおける共鳴効果が期待できるのである。

社会において新しい仕組みや概念を生み出す創造的な過程は、いわば「ソーシャ ル・コラボレーション」と呼ぶことができる。特に、その過程の中で、発散思考段階 のことを「ソーシャル・ブレインストーミング」と呼ぶとすると、ボイス・アブソー バーは、このソーシャル・ブレインストーミングのためのメディアという位置づけになる。これに対し、政策作成を行なうポリシー・インキュベーターの強化は、収束思考段階を担うものであるという位置づけになるのである。


(井庭 崇, 「自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から」, 第四回読売論壇新人賞佳作, 読売新聞社, 1998 より抜粋)
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自己変革能力のある社会システムへの道標(抜粋)#2

「自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から」(井庭崇, 1998)からの抜粋第二弾。僕が社会変革に関する重要な分析枠組みだと思う、アルバート・ハーシュマンの voice-exit モデルの説明の部分です。

今回は、先に引用してから、現在との接点について書くことにします。



自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から
・・・
3. 社会変革のための退出と発言

社会や組織の変革の力として、A・ハーシュマンは「退出」(exit)と「発言」(voice)の二つの行動様式を提示している [2]。第一の退出オプションとは、不満のある商品や政党を選ばなくなったり、あるいは組織から脱退することによって、反対の意思表 示を行なうというものである。度重なる退出オプションの行使によって、経営者や政党は自らの欠陥を間接的に知らされることになる。第二の発言オプションとは、不満のある商品やサービス、政治、組織などへの反対や異議の表明を、直接あるいは世間一般に対して行なうというものである。ここでは、経営者や政党は、直接的に指摘された自らの欠陥を修正することになる。

社会システムを変革するために個人が行なえることには、この二つのオプションがあるわけだが、現在の日本ではこれらは有効に機能していない。第一の退出オプシ ョンは、もともと社会の経済的な側面の行動様式であるが、日本の社会では行使が困難なオプションである。例えば、雇用が完全に流動化していなければ企業に対し退出オプションを行使するのは困難である。また退出オプションは淘汰の犠牲によって無駄が生じることを前提としているため、来るべき環境福祉国家にはそぐわないオプションであるといえる。政治の場面においては、特定政党への投票行為が他の政党への退出オプションの行使にあたるが、各政党の提示する政策ミックスが似通ったもので あれば、退出オプションの効果を有効にはたらかせることはできない。以上のことから、現在の日本社会の社会変革の力として退出オプションに大きな期待をかけることはできない。

しかしそのもう一つの選択肢である発言オプションも、現在の日本では行使することが困難である。なぜなら、社会や組織に対して発言オプションを行使するための 仕組みがほとんど存在しないからである。これは、日本社会の同質性や調和の信念、そして経済成長という共通の方向性が長期にわたり続いたことから、発言オプションの行使の仕組みを整備することを怠ってきたことに起因している。

社会が自己変革するためには退出オプションと発言オプションの行使が不可欠であるが、日本社会はこれらのオプションの不完全性によって、自己変革能力が備わっ てないといえる。そこで、社会の自己変革能力を機能せさるためには、発言オプションを可能にする社会装置と、退出オプションが正当に機能するための社会的多様性を生み出す仕組みを実現しなければならない。その実現にあたり、同時に考慮すべき問題がある。それが社会変革オプションを行使する、社会の構成員が陥っている無気力の病についてである。

注[2] ハーシュマン,『組織社会の論理構造』,ミネルヴァ書房,1975
(邦訳では"voice"を「告発」としているが、本論では、邦訳者の三浦隆之も訳注で代替案として提示している「発言」の訳語を採用する。)

(井庭 崇, 「自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から」, 第四回読売論壇新人賞佳作, 読売新聞社, 1998 より抜粋)




興味深いのは、執筆当時に比べ、今はインターネットが「退出」と「発言」の両方を強化しているということだ。ただし、それは社会変革のためというよりは、「脱社会化」の傾向を助長する方向性で、である。特に日本においては、この傾向は強いように思われる。ネットを駆使することで、家にこもっていても生活できてしまう。これは、脱社会的な退出といえるだろう。また、2ちゃんに代表されるようなネタ化やつっこみというのは、一種の発言的機能をもつが、それは社会変革のためというよりは、コミュニケーションへの志向性が強い。

この流れを「若者論」として拒絶・否定するという方向性もあるだろうが、この流れもひとつの現状として認め、それを包括するヴィジョンでまとめあげていくという道もある。例えば、次のような問いが考えられるだろう。

社会活動的な発言・退出と、脱社会的な発言・退出をまとめあげて、社会変革の力とすることは可能だろうか?


ハーシュマンのいう退出や発言は、社会変革的な「活動」としての退出・発言であったが、上で触れたネットによる退出・発言は脱社会的であり、社会変革的な活動ではない。しかし、そのような退出・発言を「情報」としてすくい上げることで、社会変革の力とすることは可能なのだろうか? これが、ハーシュマンの Voice-Exit モデルから発想されるひとつの論点である。
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自己変革能力のある社会システムへの道標(抜粋)#1

最近、集合知(collective intelligence)を使うことで新しい政治の可能性が開けるのではないか、という議論が始まった。その問いに対する僕の解答はしばらく時間をもらうことにして、このブログでは、関連する情報や考えを紹介していきたいと思う。

まず最初に紹介したいのは、僕がいまから11年前に書いた論文である。タイトルは、「自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から」。この論文は、学術論文としてではなく、懸賞論文として書かれたものだ。結果は、読売新聞社主催の第四回読売論壇新人賞の佳作となった。最優秀賞でないのが残念なところだが、論文をほとんど書いたことがないコンピュータ・映像系の学生が、社会人相手に戦った結果としては、まずまずの結果だとも言えなくもない。これを書いたのは修士の学生だったときで、福原くんとの共著『複雑系入門』(NTT出版)を書いた直後である。

この論文で書いたことは、多くはいまでも僕の根本的な問題意識となっている。1998年当時を思い起こしてもらえればわかるように、インターネットの社会的普及という面では、まだまだ序盤であった。もちろん、Web 2.0なんて言葉も事例もない時代であり、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンがちょうどGoogleを立ち上げ始めた頃のことだ。いま振り返れば、この論文で最も欠けているのは、「集合知」技術への視点である。上に述べたように、時代背景的には発想できなくて当然といえば当然なのであるが、複雑性の縮減をいかに行うかということに答えていないということは認めなければならない。しかし、その問題意識については、明確に書かれていると思われる。

そこで、数回にわたって、この論文のなかに書かれた「自己変革能力のある社会」のための提言の一部を抜粋したいと思う。(無気力の心理学などの話も面白いのだけれども、焦点を絞るために省きたいと思う。)以下は、論文のイントロ部分だ。




自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から

1.自己変革能力のある社会システムを目指して

硬直した巨大システムの中で、途方に暮れる無気力な人々――――これが現在の 日本を象徴する構図である。人々は、自分ではコントロールできないほど巨大化した システムを前に、時代遅れのシステムのルールを仕方なく受け入れ、その状況を変え ようとする気力や手段を喪失している。

かつてA・ハーシュマンは、社会や組織の変革の力として退出(exit)オプションと発言(voice)オプションの二つの重要性を述べた。退出オプションとは、ある政党を選択しなくなったり組織を脱退するという退出行為を通じて社会を変える方法である。一方、発言オプションとは、その政党や組織に対し直接意見を述べることによって社会を変える方法である。この観点から現在の日本を眺めてみると、退出オプションが若干機能しているだけで、発言オプションはほとんど機能していないことがわかる。この社会変革のための退出・発言オプションの選択ができない日本社会は、社会システムとして自己変革能力に欠けていると言わざるを得ない。

また、社会変革の中心を担う人間が無気力になっているのも、日本社会の自己変革が困難な理由の一つである。心理学の分野で研究されてきた無気力の獲得メカニズ ムを現代社会に当てはめてみると、人々を無気力にさせるメカニズムが社会の中に組み込まれていることがわかる。

現在表面化している様々な社会問題の背後には、実はシステムの自己変革能力の欠如と人々の無気力の問題が隠されているのである。今、私たちに必要なことは、システムとそれを構成する人間の相互の関係性を考慮しながら、社会や組織が自己変革能力を獲得するための処方箋を模索することである。

自己変革能力をもつシステムで、最も身近なものは生命システムである。生命は内在する自己変革能力によって、自己を成長させ、また状況に応じて環境に適応する。 これが「生きている」ということに他ならない。私は、自己変革能力をもつ社会システムを目指す際には、この生命の「生きている」仕組み、すなわち複雑系のシステム 観を導入するとよいと考える。複雑系とは、システムを構成する要素の機能(役割)が 全体の文脈によって変化するシステムのことである。この複雑系の視点で社会システ ムを再構築することにより、従来の機能固定的なシステム観では実現できない、自己変革能力のある「生きている」社会システムの構築が可能になるのである。

本論で私は、複雑系と無気力の心理学の視点から、日本社会に自己変革能力を組 み込むために以下の具体的な提言を行なう。

(1) 自律的なサブシステムへの分権化
(2) ボイス・アブソーバーの設立、およびポリシー・インキュベーターの役割強化
(3) 効力感を育成する教育への改革
(4) 人々の心理コストを考慮したシステム設計の奨励

私はこれらの実現により、社会システムに発言オプションを導入でき、また人々 の無気力を回復することができると考える。その結果、自己変革能力を備えた創造的 で柔軟な社会へと躍進できるのである。


(井庭 崇, 「自己変革能力のある社会システムへの道標:複雑系と無気力の心理学の視点から」, 第四回読売論壇新人賞佳作, 読売新聞社, 1998 より抜粋)
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もうひとつ、新しいブログ『カオスの想像力』

もうひとつ、カオスの研究に関するブログも立ち上げることにしました。井庭研メンバーの下西風澄君と一緒に書きます。彼とはここ数年、カオスについてのとびきり面白い研究を一緒にやってきました。ここからさらに、想像力をはばたかせたいと思います。

"カオスの想像力 — UNBOUNDED IMAGINATION FOR CHAOS"
http://uichaos.blogspot.com/

UIChaos



僕らの最近のオリジナルな研究成果も紹介していきます。
そして、文体も、いつもとは少し違うタッチで書きたいと思います。

こちらのブログも、ぜひよろしく!
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新しいブログ『Creative Systems Lab』

創造性の研究において、自分の考えの枠組みが明確になってきたので、新しいブログを立ち上げることにしました。

"Creative Systems Lab"
http://creativesystemslab.blogspot.com/

この新しいブログでは、最近僕が考えている「創造システム理論」(Creative Systems Theory)の内容を紹介したり、創造性に関する文献や議論を紹介したいと思います。

CreativeSystemsLabBlog



創造性以外の話題については、これまで通り、Concept Walkブログの方に随時書いていきます。英語版と日本語版はほとんど内容が違います。興味がある人は、両方フォローしてみてください。

Concept Walk(英語版)
http://conceptwalk.blogspot.com/

Concept Walk (日本語版)※このブログです。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/
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英語能力をどう強化するか

今回のアメリカ生活は、留学経験のない僕にとっては、いろいろと学ぶことが多い。

こちらの生活や文化についてもそうなのだけれども、外国語(英語)の習得ということについても、いろいろ考えさせられる。実際、英語が通じなくて苦労することが多い。旅行の英語はあんまり問題ないのだけど、日常的な会話(なにげない話)や研究の話は、相当厳しい。これにはいくつかの理由がある。


まず、言い回しや表現のパターンが、自分のなかにまったくストックされていないということを痛感している。レゴで、ブロックがないので何もつくれない、というイメージ。竹中先生が『竹中式マトリックス勉強法』に書いていたが、「頭に『英語』が入っていなければ、逆立ちしたって喋れない」は本当だと思う。

そんなわけで、今年僕は、これまで日本語で読んでいた本も、英語で読み直している。単語や言い回しを身につけようと思って。そうすると、知りたかった単語や言い回しだけでなくて、日本語では何気なくできてしまうような、話の展開のための言い回しや補足的な文の言い回しについても学ぶことができる。内容的にはすでに知っていることなので、純粋に英語の勉強になっている。


そして次に、発音や喋り方のリズムというのも、なんとかしないと通じないと痛感している。日本ではしばしば「発音は気にしなくていい。それよりも積極的にしゃべることが重要」というようなことが言われるが、それは一面では正しいが、他方で正しくないと思う。やっぱり、発音やリズムの基本ができていないと、伝わらないのは事実。しかも、話していてつらい。これは、意識して練習しないとうまくならないと思った。

最近、教会で開催されているESLに行っているのだけど、そこで参加しているAcademic Presentation & Pronunciationというクラスのやり方が、とてもよい。そのクラスでは、自分の研究に関係する単語で、言いたいけどうまく言えないものを持ち寄って、みんなで練習する。これがものすごくためになる。みんな専門分野は違うのだけど、だいたいもってくる単語は、一般的なものになる。例えば、僕の研究に重要な単語、"pattern"とか"theory"("systems theory")とかの発音がよくなった。これまでなかなか通じにくかったんだよね。一般的な単語で発音練習するだけでなく、自分の言いたい単語がうまくなるので満足度も高い。これだけでは足りないと思うけど、いままで考えたことがないやり方なので、日本の大学・大学院の英語教育でもどんどんやったらいいと思った。

リズムや会話のテンポ・展開については、英語ドラマを見るといいと言われているが、たしかにそうだと思う。僕もたまにDVDで見たりしているが、研究の時間を減らしてドラマを見るというのが、なかなか難しくて、あまり実践できていない。でも、効果はありそう。


そして最後に、持久力の面でも、限界を感じる。学会で個々の発表を聞くのは、なんとかいけたとしても、一日英語の発表を聞き続けると、疲れ果ててしまう。コーヒーブレイクは交流のチャンスなのだけど、もはや誰かと話そうという気力が起きない。もったいない。でも、これは純粋に経験値の問題だと思う。長い時間英語を聞き続ける経験を積むしかないんじゃないかな。「言語のシャワー」を浴び続けるしかない。


というわけで、僕の最近の考えとしては、大学・大学院での英語教育では、研究分野の徹底した読書と、各自の研究に関係する発音や喋り方のリズムを強化をすべきだと思う。持久力については、日本で長く英語に触れる環境をつくるのは難しいと思うので、英語のオーディオブックとかインターネットラジオをずっと聞き続けるというのが、いまのところ考えられる現実的な策だと思う。

いずれにしても、こちらに来ている各国の人たちを見ていると、日本はもっともっと英語を強化しないとまずいと思う。大学・大学院は、多面的に、しかし徹底して学ぶチャンスをもっと提供し、各自はそれをフルに活用しながら、自らの英語能力を強化する。そのための「断固たる決意」が、今必要だと思う。
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