井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

<< March 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

ピュシスとロゴスのあいだ:「生」への道の言葉をつくるパターン・ランゲージ

西田幾多郎の哲学を活かしている(創造的な読み取りをしている)本の読書の第二弾として、『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』を読んだ。この本は、「動的平衡」の生物学者 福岡伸一さんが、西田幾多郎の哲学の研究者である池田善昭さんに西田哲学について教えてもらい、さらに動的平衡との相同性を語り合うという本である。今の僕にとても刺激的で発見的な本だった。

この本の中でもっとも今の僕に発見的だったのは、ロゴス(理性)とピュシス(自然)を対比し、ソクラテス・プラトン以降、西洋哲学がロゴスの側に依拠していたという話、そこからハイデガーにつながるあたりの話で、パターン・ランゲージがやろうとしていることの哲学的意義についての見通しが、一気に開けた。少し長くなるが、見事にわかりやすく語られているので、そのまま引用したい。

「古代ギリシアで、いまから二千数百年くらい前(紀元前六世紀〜五世紀ごろ)に、哲学らしき活動がイオニアという場所で誕生するんですけれども、その時代に活躍した人たちの中で、ヘラクレイトスなどは、Aに対するノンA(非A)というような相反するもののあり方の中に最も美しい調和がある、ということを唱えたわけです。
 「相反するものの中に美しい調和がある」とは、一見、とても理解しがたいことです。よくよく考えると、さらに理解しがたい。結局のところ、これは人間のロゴス(logos、「理性」の意)では理解ができなくて、ヘラクレイトスの時代においてさえ、ヘラクレイトスを正しく理解する人はほとんどいませんでした。
ヘラクレイトスの立場は、「ピュシス(physis、「自然」の意)の立場」と呼んでいいのですが、それと対になる言葉として、「ロゴスの立場」があります。
 ヘラクレイトスによれば、ピュシス(自然)は「隠れることを好む」とされ、常に隠されている存在なのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れなさゆえにすべてが理解し尽くせると考える立場です。人間の理性【ヌース】にとって矛盾して相反するものは、見ることも理解することもできないものであるから問題にする必要がないとして、ヘラクレイトスなどのピュシス的な立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく「見えているもの」の原型・模範のみを探求するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテス、プラトンの時代です。
 ソクラテス、プラトンの時代になると、イオニアの自然哲学というのは完全に忘れられてしまいます。そして、そのあとの西洋の歴史というものは、全部、ソクラテスとプラトンの影響下にあることになります。」(池田, p.39-40)

まず、ヘラクレイトスと、ソクラテス、プラトンの位置付けがピュシスとロゴスの対比でよくわかった。そこから、ハイデガーなどに話は展開していく。

「二〇世紀に活躍した哲学者、マルティン・ハイデガーはこのことを鋭く指摘しています。つまり、「真の存在はピュシスの中にあった」と。それを然るべく突き詰めていくのが本来の哲学であったはずなのに、実はそれは理解えきないものとして葬り去られた。なぜかと言うと、「相反するものが最も美しい調和だ」などというのは矛盾しているから。そして、プラトン以降の哲学では、理性やロゴスに適った、われわれに理解できるもののみを人間は考えていくべきだ、という立場がずっと主流になってきたというのです。」(池田, p.41)

「こうした考え方の方向をはっきりさせたのが、パルメニデスとピタゴラスです。特にピタゴラスは、数学、とりわけ幾何学を発展させた最初の人物ということになるわけです。」(池田, p.41)

「ソクラテス。プラトン以降現在に至るまで、人間の思考はすべて数学主義、西洋哲学でいうところの合理主義の支配下にあったと言えます。プラトンのアカデメイアの入り口に「幾何学を知らざる者、この門をくぐるべからず」と書かれていたのは有名な話です。・・・そこでは、徹底的にロゴスの立場またはイデアの立場に立つことが推奨されたのです。」(池田, p.43)

「「イデアの立場に立つ」ということは、しかし、同時に、ハイデガーの言う「現存在」(Dasein)としてのリアリティが失われていくことであったのです。「【現】存在」とは大まかに言えば、まさにいま生まれつつある存在、ありのままに起きている(「生起」的な)存在のことです。」(池田, p.43)

こうして、ハイデガーは、理念的世界で描かれる存在をザイン(Sein/Seyn:存在)と呼び、ピュシスの世界における存在をザイエンデ(Seiende:存在者)と呼んだのです。

「ピュシスとロゴスのあいだの葛藤が古代ギリシアに存在し、結果として、ヘラクレイトスが唱えたピュシスが忘れられて、ロゴス偏重の世界となったということ。その経緯について世界で初めて明らかにしたのはハイデガーだったと言えるかもしれませんけれども、しかし、ハイデガーはそのことについて西田のように徹底的に考えることはなかったのではないでしょうか。」(池田, p.45)


そして、西田幾多郎はピュシスの哲学を展開した、ということになる。

ここで、僕にとって大変視界がひらけたのは、パターン・ランゲージがどんな挑戦をしようとしているのかということである。アレグザンダーも僕たちも、生き生きとした状態を捉えようとしている。アレグザンダーの言い方では、『時を超えた建設の道』では「quality without a name(名づけ得ぬ質)」、『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では「life(生命)」「living structure(生命構造)」(ここで言っているのは「生物」という意味ではない)、僕らの言い方では「いきいきとした」ということになる。これはピュシスにおける存在について語っている。

その上で、パターン・ランゲージは、それを実現するためのロゴス的な手段を考え、つくり込む。個々のパターンには、状況においてよく起きる問題をどう解決・回避・解消することができるのかということ記述される。きわめて理性的な実践思考が込められるのである。

このことは、僕らが日頃、パターン・ランゲージをつくるときに、なぜこんなにも時間がかかり、相当の労力が必要となるのか、ということの理由でもあるだろう。つまり、ピュシスの存在としての、理性では分析しきれない「いきいきした」ものを感性的に捉えながら、それを生じさせるアプローチについて、ロゴスの理性をもって分析的に記述していく。こういうピュシスとロゴスのあいだを行ったり来たり、同時に見たりしながら、つくっているのである。いわば、ピュシスとロゴスのあいだをつなぐのがパターン・ランゲージの試みであると言える。

このことは、どちらかが損なわれているパターン・ランゲージは、パターン・ランゲージとしては(少なくとも僕らの観点からは)クオリティが低いと言わざるを得ないということに関係する。つまり、実践の手引きとなるが、いきいきとした側面が抜けている・捉え損ねているパターンは、いかにもマニュアル的な操作・作業の伝達しかせず、いきいきとしたイメージをもらたすことはなく、また実践しても、そういういきいきした状態にはならないであろう。他方、いきいきしたイメージを捉えているが、その実現のための実践方法の分析があまく、ほんわりとしか書けていないとなると、詩のような表現になり、実践を支えてはくれないだろう。

そう考えると、パターン・ランゲージをつくるということは、単なる実践知の記述の便利な方法というわけではなく、ロゴス中心であったソクラテス・プラトン以降の西洋哲学よりも広い視野に立って、ヘラクレイトスまで戻った上で、位置付けを考えるというスケール感で捉えるべきだということである。パターン・ランゲージはピュシスとロゴスを結ぶという大きな挑戦をしようとしている。特に僕らはそれを学問としてやろうとしており、それは近代科学のディシプリンに収まりきらないというのは当然だということになるだろう。それゆえ、僕らは、哲学のレベルから考える必要があり、しかも西洋哲学に収まらない広い視野で、東洋の哲学や、人類のあらゆる知恵の術まで含めて、考える必要がある。最近、仏教や東洋哲学の本をいろいろ読んで来たことが、ここでつながった感がある。

この本では、西田哲学やそこから展開する話にも発見的なところがたくさんあったが、今回のまとめはひとまずここまで。他の部分については別の機会に書きたいと思う。

『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』(池田善昭, 福岡伸一, 明石書店, 2017)

IkedaFukuoka.jpg
パターン・ランゲージ | - | -

純粋経験、行為的直観、ポイエシスへの興味:佐伯啓思『西田幾多郎』を読んで

僕の研究・実践と、日本の哲学である西田幾多郎の思想との関係を考えたいと思っているので、まずは手始めに、本人の著作ではなく、それを取り扱っている本から読んでみようと思い、佐伯啓思さんの『西田幾多郎:無私の思想と日本人』を読んだ。

この本は、本人も、「もとよりこれは西田哲学の解説書ではなく、私自身の関心と西田哲学を交差させた評論的エッセイです」(p.255)と言っているように、西田幾多郎の入門書というよりも、西田幾多郎の話を取り上げ、それと絡めながら佐伯啓思さんの考えを述べている本である。

なので、まずは西田幾多郎の人物や概念を勉強するというよりも、どこがどう面白いと思われ、どう活かされているのかを知りたいと思っているので(きわめてプラグマティックなスタンスである)、その目的に合う本であった。

西田の「純粋経験」「行為的直観」「ポイエシス」などの概念がどのようなものなのか、ぜひ原著にあたってみたいと思った(こういう本での解説は著者の解釈のフィルターを通ったうえでの説明なので、それがそのまま原義だと思うべきではないため)。

まず、おなじみのこういう話題から。

「西洋思想では、この「私」という「主体」は決定的に重要なもので、「私」という「主体」が自然に働きかけて、自然をコントロールしたり、社会に働きかけて理想社会を実現したりしようとする。」(p.58)

「しかし、日本の思想には、どこか、「私」を消し去り、無化してゆく方向が色濃くただよっています。「主体」というものを打ち出さないのです。これは、言語的にいえば、日本語では、しばしば主語を省略したり、主語を重視しない、という点にもあらわれてくるでしょう。和歌や俳句でも通常、主語はありません。一場の情景と、その場に溶け込んだ詠み手の感情が一体化して切り詰められた言葉に乗せられるのです。むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実を享受されると考える。」(p.59)


西田は、体験そのものである「純粋経験」を振り返るときに初めて「私」というものが出てくるという。「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだすのです。経験があるからこそ、それを反省的に理解して、そこに「私」がでてくるわけです。

「個人あって経験があるのではなく、経験あって個人あるのである」(『善の研究』)というわけです。」(p.57)

「「私」という主体や自己意識があって、行為を組み立てるのではなく、ただ行為のなかに自分が表現されているだけ、と考えている。」(p.103)


この、「私」が主体として先行するのではなく、「経験」がそのままあり、「行為」をすることに付随して「私」が出てくるということだという発想は、パターン・ランゲージで行為が支援され実践されることで、自分らしさが出てくるという僕たちの考えに通じるものがあると感じた。

さらに、心的システムの作為による創造ではない「無我の創造」や、ティク・ナット・ハン師が言う「対象と一体になる」という話に通じる話も出てきた。

「西田は「物となって考え、物となって行う」といいました。そしてそれをまた「行為的直観」ともいいました。」(p.98)

「西田のいう直観は、・・・何ものかに憑かれ、それこそ突き動かされ、そこにもはや「私」は「我」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。」(p.99)

「たとえば画家が、絵具をもって「ひまわり」という対象(もの)に向かい、キャンバスにある「形」を生みだす。この時、絵になるべき「ひまわり」の図像があらかじめ頭に描かれているのではない。彼は、ただ「ひまわり」に触発され、それに肉薄しようと「私」など消し去って、ただひたすら絵筆を動かしているのです。しかし動かすことでまた「ひまわり」が直観されてくるのです。ここでは「描く」という行為と「もの」の本質直観は決して切り離された別々のものではない。その場合に、重要なことに、このような行為的直観にあっては、まずは自我を消し去り、無化しなければなりません。対象と自分を一体化しなければなりません。
 それが「ものになる」ということです。その時に、いわば意識の見えない奥底にある「鏡」(無の場所)に、その「もの」の本質が映し出されてくるのです。「もの」を映し出すということは、また、「もの」を通して「私」を映し出すことなのです。」(p.102)


そして、次のような話がでてくるということで、西田幾多郎の『日本文化の問題』という本も、僕は読むべきだと思った。

「ここで西田が強調していることは、日本文化の核心とは、己を空しくし、無私や無我にたって事物に当たる精神だというのです。己を無にして「物となって見、物となって行う」ということです。私心も作為も意図も排し、ただ現実に向き合い、あたかも自己を一個の物であるかのように、己を現実に差出し、やるべき働きを行う。・・・たとえば、次のようにいう。

「私は日本文化の特色と云うのは………何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行うと云うにあるのではないかと思う。己を空うしえ物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う。……日本精神の真髄は、物に於て、事に於て一となると云うことでなければならない」

自己を否定し、私を排し、無心になって、対象と自己を一体にする。自分自身が物となる、こうしたことは芸術活動などを考えればわかりやすいことだし、あるいは、一幅の絵を見、茶碗をめで、桜に感動するといたいかにも日本的な美的な文化を取りだせばよくわかることでしょう。」(p.172)


そして、西田幾多郎は「ポイエーシス」ということを言っているので、オートポイエーシスや創造実践ということを扱っている僕としては、そのあたりのつながりも考えていきたいところだ。

「「個性」をもった「私」という「個物」は、ただ生まれてそのままで「私」でもなければ「個性的」でもありません。人は生まれたままで個性的なのではない。それは「ポイエシス(制作)」においてこの世界へ働きかけ、創造的力点となることによって初めて「私」となる。」(p.193)

「西田は次のように書いています。

「我々は我々の自己の底に、深く反省すればする程、創造的世界の創造的力点となると云う所に、我々の真の自己があるのであり、我々の自己が、かあかる意味に於いて個物的となればなる程、真の自己となると云うことができる」(「国家理由の問題」)」(p.194)


世界のなかで、主体としての「私」がまずあって、その「私」が世界とどう関わるのかではなく、経験があり、そのなかあで「私」がどう生じるのか、という発想を、もう少し勉強してしっかり理解し、関係を考えていきたい。

『西田幾多郎:無私の思想と日本人』(佐伯啓思, 新潮社, 2014)

Saeki.jpg
- | - | -

東洋からの貢献、空、ナチュラル・ウィズダム:『ブッダの夢』を読んで

河合 隼雄さんと中沢 新一さんの対談本『ブッダの夢』、最高に面白かった。

僕が目指しているパターン・ランゲージとは何かということを考えるためにも、とても勉強になり、かなり共感する魅力的な言葉たちに出会うことができた。

まずは、本書の冒頭の問題意識にところで語られている、中沢さんの以下の発言。

「仏教はふつうにいうところの宗教ではない。それは言ってみれば『知恵』なのである。」(中沢, p.9)

「東アジアの端っこの列島に生きてきた日本人が、なにか独創的な仕事で人類に貢献することができるとしたら、それはこのけっして体系をなさない、そして日常や実用からはなれることのない『知恵』の倉庫から出発して、つつましいけれども深い願いをこめたさまざまな『道』をつくりだすことしかないだろう、とぼくは思ってきた。仏教はそういう日本人がなにかの独自性をもった創造を行おうとするときに、いつも羅針盤のような役目を果たしてきてくれたのだった。僕たちの時代の新しい『知恵』のかたちを生み出していかなければならない。」(中沢, p.10)

僕はパターン・ランゲージの研究をしながら、その提唱者であるクリストファー・アレグザンダーが東洋的な考え方に影響されてつくった思想や理論、方法というものを、日本人である僕(たち)はどのように発展させ、返すことができるだろうか、ということを常々考えてきた(海外研究者から15 Propertiesについて日本人の視点から見るとどうなのかと問われてうまく答えられなかった経験もある)。知恵としての仏教という視点によって、というのは、まさに、共感するところである。最近の僕の関心にドンピシャで、それを言語化してくれているというような文章だった。

この本のなかでは中沢さんが仏教にはまる経緯について語られている部分があるのだが、そこで、二元論に対する第三の道というか、能動と受動の間の「中動」のような、中間に関する話が出てきた。

「あるとき、たまたま読んだ本に禅の悟りについて書いてあった。そこには禅というのは、悟りは自力だ自力だと言うけど、自力じゃないんだとある。禅の悟りというのは、卵の中に雛がいるようなもので、雛が、もう孵化しようかというときに、中から黄色い嘴【くちばし】で、卵をツンツンツンツンとやるんです。そうすると、その気配を察知した親鳥が、上からツンツンって硬い嘴でつついてくれる。その二つのリズムが合体したとき、すっと割れるんだ、悟りというのもそういうもんなんだ、ということを言っておりますね。それを読んで、自力と他力には、ちょうど中間点があるんだなというのを感じたんです。そこで自分の求めているのはこういう、中間なんだと思いました。」(中沢, p.22)

「僕が決定的に仏教に転向したのは、構造主義がきっかけになっています。レヴィ=ストロースやラカンを読んで、自分が仏教徒であることを自覚しました。・・・ただ、キリスト教の自力と浄土真宗が教えている他力思想のちょうどうまい中間点があるかもしれない。それはどこにあるのだろうという探究が始まったのが二十代の後半くらいで、それから僕は、本格的にチベット人のところに行き出したんです。」(中沢, p.23)

僕が探究しているのも、まさにこの中動の領域である。中沢新一さんは、こういうことにずいぶん早くから気づき、取り組んでいたんだなぁ、と、やはりもっと本を読んでみたいと思った。そして、いずれ、僕の方も考えがまとまったら、ぜひ一度お話ししてみたいものだ。

なお、この流れで、河合隼雄さんも、中動の話をしている。

「中間点という言い方をすると、僕の場合の中間点は、治すと治るの中間点ですね。」(河合, p.24)

僕が無我の創造で論じていることにも通じるし、「支援する」と「する」の間になるパターン・ランゲージによる支援にも通じる話である。やはり、中動態は熱い。

他にも、「名づけ得ぬ質」とパターン・ランゲージの関係に重なるような内容も語られていた。次の文は、河合さんの発言と、それを受けての中沢さんの反応である。

「僕がいま考えているのは、・・・たとえば僕がこのコップのことを言いたいんだったら、このコップを言葉で記述するのではなくて、僕の言葉に乗った人は、その調子で行けばコップに当たるとか、そういう言葉の使い方がありはしないかと考えて入るわけです。つまり、そのことを直接には表現できないので、この線を無限にたどればそこに行きつくというような、方向と運動を与えるような言葉の使い方はできないだろうか。そういう言語の使用法というのはまったく違いますね。精神分析における言葉と。」(河合, p.40)

「先生は今、ほのとに唯識【ゆいしき】の思想に近づいている……。心の分析の究極に、たんなる「無」じゃなくて、「充実した空【くう】」を出現させようってわけですから」(中沢, p.46)


河合さんができないかと言っている言語の使用法こそ、パターン・ランゲージが目指しているものではないかと思う。つまり、「名づけ得ぬ質」そのものは言語化できないが、それへと至るパターンを言語化するという発想である。それにしても「名づけ得ぬ質」を「充実した空【くう】」と捉えるのは、とても魅力的である。

マレー・ゲルマンの『クォークとジャガー』の本が取り上げられ、複雑系の話になる。複雑系科学出身の僕としては、胸熱な話である。そこから西田哲学の話に行き、宗教の話になる。この組み合わせも抜群に魅力的だ。

「散文は複雑系を追求し、科学が単純系を追求し、単純と複雑の結合を詩が描く。そして、西田哲学はどこにあるかというと、この詩というものの延長になると思います。あるいは詩の直前にあるかもしれません。これは概念という単純系によって複雑系の世界の本質を描き切ろうとするわけですね。だから「絶対矛盾の自己同一」とかいろんな言い方をする。・・・宗教というのは、その先にあるものだと思いますね。宗教というのは、複雑系の底の底まで行った時、それがきわめて単純なものであることを見出して、同時に科学を探究していった時に、それはもっとも複雑なものを生み出し得ることを同時に捉える視点です。だから、詩的な思考法と宗教の思考法は、同じ方向性を向いている。・・・たぶん宗教と科学は、この意味で言うと、対立などはしないんじゃないか。新しい科学の形として、詩的言語の方向へ向かい、ヴィトゲンシュタインが言ったように、あるいはアインシュタインが考えたように、科学は芸術に近づいていきます。単純系と複雑系をひとつのところへ絶対矛盾の自己同一化させてしまうようなものはつくり得る。」(中沢, p.76-77)


この本にこういうふうに複雑系の話が出てくるあたりに、もと映像(映画)クリエイターで、最初は複雑系の研究をしていた僕が、なぜパターン・ランゲージを研究していて、なぜいま仏教と神話に興味があるのか、ということがよくわかる。その意味で、アプローチや軸足は違うけれども、中沢さんはかなり僕の先行探究者であると言える。

この本に出てくる箱庭療法の話も面白いのであるが、僕の関心でいうと、箱庭療法と芸術作品の関係についての質問に対しての河合さんは次の答えが、とても興味深いので取り上げたい。

「芸作作品の場合とほとんど似ています。しかし、芸術家と呼ばれている人は、自分の内的体験が、他の人とつながるということが、どこか念頭にあるでしょうね。自分自身ももちろん、これと同じようなプロセスで癒されているわけだけれども、それが他の人に対しても意味のあるものとして提示できるという才能がなかったら芸術家になれないですね。」(河合, p.120)


この話は、まさに、村上春樹が、小説を書くことは自分の癒しであるとともに、意識の地下に潜って、読者に通ずる水脈まで突き抜けるという話に通じていると思う。

その流れで、箱庭療法では、人生の空虚を分離していくんだという話になり、その箱庭療法で行なっていることを、宗教に重ねて、中沢さんはこのように語っていた。とても面白い。

「ちゃんとした宗教を通過していくというのは、日常の人生の空虚感を抱えて、それを意識して自分の内部から分離できるかにかかっているように思います。」(中沢, p.123)

「禅宗なんかが、悟りと言っているのがそれだと思います。禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという、「わざ」を教えている。「空」が、自分の目や鼻から出入りしている、そういうふうにして、自分はあるということを知ることです。ですから、悟りを得るといっても、完全解脱【げだつ】とか、絶対幸福の中に移ってしまうのは、まだ宗教としては未熟な、途中のものだと思います。宗教はそれをこえていく必要がある。自分の抱える空虚をちゃんと心の中で分離して、距離をうまくつくりだすことができれば、それで人間ができることとしては十分なんだということしか禅は言ってない。しかしそれが言えるということが宗教の究極なんじゃないかしら。」(中沢, p.124)

なるほど、「禅は人生の空虚をどうやって分離していくかという、「わざ」を教えている」のか。興味深い視点を得た。

他にも、チベットの土着のボン教の話から、ナチュラル・ウィズダム(Natural Wisdom)という話が出てくることろがある。

「宗教というのは、宗教としての極点を登りつめたら、ナチュラル・ウィズダム(Natural Wisdom)みたいなものに向かって自分を開いていくものだと思うのです。だから、宗教の体系とか哲学とか、とにかく極めるだけ極めちゃったら、もうそれは全部捨てて、解体して、自分もナチュラル・ウィズダムのほうに開いていくものだという考えですね。ボン教の人たちを見ていると、ナチュラル・ウィズダムを出発点にして、宗教に行かないんですよね。仏教のような宗教へ行かない。それが、アメリカ・インディアンの世界観とよく通じています。」(中沢, p.133)

「ナチュラル・ウィズダムに、ちょっとだけ体系化の手を加えるんだけど、その体系化は神話のレベルぐらいにとどめといて、けっしてきちんとした宗教をつくらないんです。・・・現代のアメリカ人はそのインディアンの世界に、精神的な遍歴の果てに辿りつこうとしている。宗教とか国家とか文明とかを辿り尽くして、極限まで来て、さあここからどちらか別のところへ向かわなきゃいけないという時、そういうものを解体して、放棄していく方向へ行こうとしている。その向こうにナチュラル・ウィズダムみたいなものが開けているんだろうなと、僕は感じとれるんです。」(中沢, p.133-134)


このことと、パターン・ランゲージが普遍知ではなく、日常的な実践の人々の知恵を言語化していることや、僕が井庭研の看板を最近「Natural & Creative Living Lab」とたのは、偶然の一致ではない。Naturalは、単に自然が好きとかそういうレベルのものではない。生きるということや生命に通じるレベルでのNatualである。

最後に、神話世界を構成する神話以外の要素についての話も興味深かった。儀礼や巡礼、踊り、詩などは、神話では伝えきれない、神話からはこぼれてしまう大切なことを共有するためのものだという話。

「神話には、とにかくある論理があって、世界観や論理を組み立てていくけれども、そこからこぼれちゃう経験があって、それを全部拾い集めてくるのが儀礼じゃないか。だから神話と儀礼を対立させるなんていうのはだいたい間違った考え方で、神話も儀礼もいっっしょくたになった人間の経験の領域があるんだ。現代人は、それを小説のような物語でやったり、映画で解消しようとしている。・・・神話はそれだけが自立しているのではなくて、神話では語れないものがある、夕日の輝きそのものを取り出す語りであったり、踊りであったり、あるいは詩のようなものだったりするものが、神話を取り囲んでいる。そういうものの全部で、神話世界は構成されているんだという考えですね……」(中沢, p.140)

これも、パターン・ランゲージを神話的な何かとして見るべきではないか、と感じている僕にとっては、発見的な内容であった。パターン・ランゲージが神話そのものとの機能的な等価性を言う以外の可能性についての視野が開けた。

『仏教が好き!』もそうだが、中沢 新一さんと河合 隼雄さんの対談は、めちゃくちゃ面白い。もうこういう対談が聞けないのだと思うと、残念極まりない。もっとお二人の対談を聞きたかったし、その後の展開も見てみたかった。

『ブッダの夢―河合隼雄と中沢新一の対話』(河合 隼雄, 中沢 新一, 朝日新聞社, 2001)
KawaiNakazawa2.jpg
- | - | -

パターン・ランゲージは、一人称・二人称・三人称を総動員してつくる

最近気づいた重要なことのメモ。

僕らのパターン・ランゲージをつくるプロセスや、仕上げのつくり込みのときには、一人称の視点・感覚、二人称の視点・感覚、三人称の視点・感覚を総動員してつくっている。そうやって、どの視点からも共感・活用できる重層的な作品になることを目指しているんだと思う。
パターン・ランゲージ | - | -

うまくいっているコラボレーションで起きること:フローとグループフロー

最近、しばらくの間、移動時間やカフェでは『臨床哲学対話 あいだの哲学 ―木村敏対談集2―』を読んでいた。木村敏さんの対談集である。

それにしてもこの豪華な顔ぶれに驚いた。野家啓一、坂部恵、中村雄二郎、新宮一成、浅田彰、柄谷行人、中井久夫、市川浩、大澤真幸、村上陽一郎。僕にとっては専門外の分野の話題が多いので、難しいところも多々あったが、勉強になるところ、面白いと思うところが、あちこちにあった。

特に、坂部恵さんとの対談で、ポイエーシスの中動相から西田幾多郎につながる話などは、胸熱であった。その部分は、やりとりが面白く、引用に適さないので、他のパートで面白かったところからひとつ取り上げたい。木村さんの発言。

「バイオインとチェロとのトリオでピアノを弾いていますと、僕自身はピアノパートの音しか出していないはずなのに、音楽が流れはじめると、元来持ち寄りであるはずのトリオの音楽が、それぞれのパートから独立した一つの生命を持ってしまって、それが主体となって一人ひとりの演奏を引っ張っていきます。そんなとき非常に不思議な錯覚が起こるんです。それは、自分が物理的にはピアノの鍵盤しか鳴らしていないのに、まるでバイオリンもチェロも合わせて弾いているのだという意識と---事態を冷静に見つめるならば---自分はピアノしか触っていないという気持ちとの二重性みたいなものが発生する。その場合には、自分のなかに個としての自分と、そこに流れている音楽全体をやっている自分との、垂直の関係が生じるんです。」(木村, p.368)


音楽を奏でるようにうまくできているコラボレーションでは、こういう感覚を僕も味わう。まるで、自分(たち)が生み出しているということをものすごく実感する。単にこれは一体感の問題ではない。全体を動かしているという確かな手応えである。人と人、音と音の間(あいだ)で起きていることが、間に還元されず、全体との二重性をもつ。この不思議な感覚は実に興味ふかいところだ。個人レベルでは、チクセントミハイがいう「フロー」状態になっており、グループレベルでは、キース・ソーヤーが「グループフロー」と呼ぶような状態になっているのだろう。

この本に書かれていたことをもう一度理解し、味わうために、もう少しこの分野のあたりを勉強してから再読したい。

『臨床哲学対話 あいだの哲学 ―木村敏対談集2―』(木村敏, 青土社, 2017)

Kimura.jpg
- | - | -

アレグザンダー、ヴィトゲンシュタイン、ハイデガー:『仏教が好き!』を読んで

河合 隼雄さんと中沢 新一さんの『仏教が好き!』、いまの僕には、めちゃくちゃ面白かった。
宗教を俯瞰してみたときに、仏教的な思考がこれからの世界にとって重要となるということがわかったし、自分がこれまで何をやってきて、これから何をやるべきなのかということを考えることができて、とても勉強になった。なかでも最も「おおおおー!」となったのが、以下の部分。

「ブッダが『空』と言っていることは言語化不能であるというのが原則なんですね。密教だけではなくて、『般若経』でも、『言説不能、言葉で言うことは不能、だけどこれは確実に、肯定的に、ある』と言われます。」(中沢, p.185)

「ユングがよく使う言葉がありまして、英語で circum ambulation、『巡回』という意味です。僕の好きな言葉なのですが、結局、中心には入れないということなんですよ。われわれはまわりをめぐるだけ。まわりを何度も何度もめぐることによって、いわば中心に思いをいたすなり、中心を感じ取るなりということはできるけれども、中心に入ることはできない。僕もそのように思っているわけです。」(河合, p.186)

「すべて比喩で回転しつづけているけれども、その中心部には言葉の能力をもっては踏み込めない部分があるということなんでしょうね。」(中沢, p.187)

「おそらくぐるぐる回っているうちに体験としてはある、ということなんでしょう。」(河合, p.187)


これはまさに、アレグザンダーが目指した質が言語化不可能であるとして「名づけ得ぬ質」と呼んだことに通じるし、僕らがパターン・ランゲージをつくり実践知に対して言語を当てることは、「実践知を記述する」ことではなく、あくまでも、直接は表現できない実践知を指し示す言葉をもつことで意識して実践することができるきっかけをつくり、「巡回」するためである、という僕の感覚に通じる。

この箇所で、ヴィトゲンシュタインとハイデガーについて語られたところを読んで、興味深いことに気付いた。

「『言葉にならないものは沈黙しなさい』というヴィトゲンシュタインのような哲学者もいる。われわれのできることはせいぜい言葉でまわりをめぐることで、中心の言葉にならない領域に関してはもう『黙れ』と。そのとき、ヴィトゲンシュタインはどこにいるのでしょう。彼の心は、この中心にいまあす。ただ、そこについては黙ろうとしている、黙らなくてはいけないという認識をもたらすものがある。」(p.188)

「ハイデッガーが「存在」とか言うじゃないですか。『在る』とか。あれは言ってみれば真ん中のすぱんと抜けたところを『在る』と言っているわけですよね。」(中沢, p.187)

「ところがわれわれは『存在』ではなくて『存在者』だから、まわりをぐるぐる回っているに過ぎないものなのに、中心部には『在るが在る』というふうに彼は言うわけですね。何でそのことをみんな驚かないのかと。」(中沢, p.187)

「『私』はその『在る』の中心部にいる。彼は踏み込む。そこからいろいろな言葉が紡ぎだされて来る、その中心点から、あの独特の言葉と思考がつぎつぎと湧き出てくる。」(p.188)


クリストファー・アレグザンダーは、『時を超えた建設の道』では、質そのものについては沈黙した(質を生成するパターンについては語った)という意味でヴィトゲンシュタイン的であり、『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では、その質に踏み込んで語った(センターとその関係性を捉えた15の基本特性)と言う意味で、ハイデガー的であるといえるだあろう。『時を超えた建設の道』から『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』へのアレグザンダーの変化は、ヴィトゲンシュタインからハイデガーへ、ということで捉えられるのかもしれない。

ヴィトゲンシュタインとハイデガーは、僕にとって、気になる存在ではあったが、なかなか切り口がつかめないでいたが、ひとつよい切り口を見つけたと思った。井筒俊彦やホワイトヘッド、ベイトソンなどとともに、読んだり、再読したりしたい。

ずっと気になってた中沢さんの他の本も読みたいし、発見と知的好奇心を刺激される一冊だった。

河合 隼雄 ,‎ 中沢 新一, 『仏教が好き!』, 朝日文庫, 朝日新聞出版, 2008

KawaiNakazawa.jpg
最近読んだ本・面白そうな本 | - | -

仏教へのプラグマティックな関心と「創造におけるマインドフルネス」

最近、よく仏教の本を読み、それについて書いているので、「井庭さん、最近スピリチュアルな感じだ」とか、「病気して、信仰深くなったかな」と見えるかもしれないので(それ自体は悪いことだと思っているわけではないが、僕の意図とは異なるので)、どういう関心でどう読んでいるかを書いておきたいと思う。結論から言うと、宗教的な救いや信仰というよりも、実践の教えと世界の捉え方として関心がある(いまのところ)。僕はやはり、プラグマティストでシステム論者であるということだ。

まず、仏教の本への具体的な入口とステップになったのは、山下良道さんらの『アップデートする仏教』などの本と、そこからつながったティク・ナット・ハン師への本である。

それらの本を読むとき、僕は、呼吸からいまここの身体に気づくという話としてではなく、創造の話に読み替えて、その同型性にワクワクしている。つまり、そこで語られているマインドフルネスの話が、僕が創造性について考える大きな参照点になっているのである。いわゆるマインドフルネスのための瞑想では、呼吸に意識を向けることで身体に「気づき」、いま・ここを生きるということにつながるが、そこから僕がアナロジーで見るのは、創造のマインドフルネスで、創造における発見の連鎖を向けることで、その創造における生成に「気づく」。創造の最中に感じる喜びや満たされている感じ、世界・宇宙の本質に触れている感覚は、瞑想におけるマインドフルネスに近いのではないかと思っている。僕はそういう読み方をしている。どちらもシンキングマインドを落として、世界に気づくことである。身体のみならず、創造における生成も、世界・宇宙とつながっているそれらの一部である。

僕が創造が、思考の話ではなく、発見の連鎖に委ねることだと考え出したのは、カオスの研究をしていたとき。そのとき、僕らは、カオスのシステムのなかに複雑で美しい秩序が潜んでいることを、それまでとは異なる視点で発見した。inventかdiscoveryかという二項対立がよくあるが、僕はどちらもである、と感じた。そのカオスの秩序は、光の当て方という意味ではinventだが、その秩序はもともと潜んでいたという意味でdiscoveryである、スティーブンキングが、物語は、化石のように掘り起こされるのを待っていて、作家は注意深くそれを掘り起こすんだと言っているが、それは同様のことを言っているように思う。つまり、科学的発見も創作的発見も、機能的には同じであるという捉え方が得られ、それが僕の「創造システム理論」のベースになっている。

さて、プラグマティストであるということはどういうことか。命題を、そのままでそれが真か偽かを判定できないという考え方をする。それを「もしこうしたら、こうなる」というかたちに変換してそれで検証する、すなわち効果があることで、その命題を真と言えるという立場である。そういう視点から、ティク・ナット・ハン師の本などを読んでいる。

つまり、どの宗教でも「よい行い」を勧めるときには、「ブッダはこう言った」というように、その言われの元に根拠を置いて説明・説得する。それゆえ、ブッダを信じるかどうか、ということになり、信仰となる。

僕はプラグマティズムで考えるので、「よい行い」がどのようなよい結果を生むかで、その行いを評価する。つまり、その行いが誰によって言われた・実践されたかではなく、その行いそのものと、その結果に注目する。これが、パターンランゲージ3.0をつくることで僕らがやっていることでもある。ある分野の実践において、どういう状況でどうすることが推奨され、それはどんな問題を回避してどういうよい結果(質)を生むのか、というかたちで取り出して記述する。行いそのものの効果を見るので、もはやブッダやイエスやアラーを「信じる」必要はない。パターンがあることとそれが機能するということを信じられればよい。

このことを、ルーマンの社会システム理論的に言うならば、僕の依拠しているのは、「誰々だから」という人格信頼ではなく、「それが機能する」というシステム信頼であると言える。僕が仏教の本を読むとき、行いと結果の話に線を引き、「ブッダは」という部分は背景に退かせて読んでいる(そこは、ふむふむと読むが、言説の論拠として重要と感じない)。

僕にとっては、科学も宗教も芸術もも、すべて、現実・現象の背後に潜む原理・原則に迫り明らかにするという点で、機能的等価なのである。それらが、世界観・認識フレームを提供し、僕らが生きていくための思考や実践を支える(影響する)。誰が言ったからとは関係なく、そのことがよい効果をうむということがわかると、それが認識に作用し、思考・行動が変わる世界の仕組みをどう見るか、というところに興味がある。
神話や宗教的言い方でしか言えなかった、よい結果を生む行い・実践について、以前は「ブッダいわく」としか説明できなかったが、いまなら、違うかたちで説明・お勧めすることができる。パターンというかたちやその連鎖の体系のシステムとして。

仏教も、人類の長い歴史なかで、語り継がれなくならなかったくらいには、よい結果を生み出すのに興味したがゆえに残ってきただろう(そうでなければ、進化的な意味で途絶えただろう)から、その意味での大いなるリスペクトというか、学ぶべきことを含んでいると思っている。特に「生きること」や「よりよく生きる」ということに真摯に正面切って取り組んできた人類の知的営みが宗教だと思う。その意味で、僕は宗教がもつ世界観やおすすめされている実践について興味がある。

そして、それが創造性について考えるための参考・参照点となっている。僕の関心はそういうところにある。
マイブーム・お気に入り | - | -

SFCの履修選抜問題と、「実践を伴う授業先取り選抜課題」という方法

SFCでは、学年進行による科目履修制限がない。つまり、1年生から4年生まで好きなタイミングで取りたい科目を履修できる仕組みになっている。そんな仕組みは、他の大学・学部ではまずありえないし、自由度が高くて僕はよいと思っている。

しかし、そのため、取りたい科目の希望者が多ければ、履修選抜に勝ち残らなければならない。僕の授業はどれも(しっかり取り組むことを学生の間でも知られていることもあり)熾烈な履修選抜の状態にはない。思うに、履修選抜で学生の不満がたまっているのは、楽単科目についてではないかと思う。もちろん、なかには楽ではないが魅力的で人気の授業もある。そういうのは昔からあり、まあ、一定人数(それでも100人とか200人とか)しか取れないのは、仕方ない。それは最近始まったことではなく、以前からあることである。

抽選による選抜なんかは、よくない仕組みだと思うが、履修者500人の枠にたくさん来たら、現実的には、履修選抜課題を読むのも大変すぎて、現実的ではない。そんなこともあり、僕はそういう大人数すぎる科目はやめた方がいいと思っている。

それとは別の話として、学生の間で不満があるのは、履修選抜で通った人にも実際には履修しない人がいるということである。選抜で落ちる科目があるかもしれないリスクがあるので、多めに選抜課題を出すのは、ある意味合理的な判断だ。そこを責めるのは酷である。しかし、その結果、取りたいのに履修選抜で落ちた人がいる一方で、選抜に通ったのに実際には履修しないという人が出てしまう。

そういうことになれば、当然文句も言いたくなる。これは、僕は、履修選抜の仕方の問題だと思う。だいたい、慶応SFCの学生となれば、履修志望理由なんて、本心では思っていなくても、それなりに説得力のあるものを書いてくる。だから、履修選抜に、志望理由を書かせても、だいたいみんなよいという評価になる。そういうのは、よい履修選抜だとは言えないだろう。

もっと工夫をした履修選抜にする方がいいんじゃないかと思う。このあと、書くが、実践を伴う授業先取り選抜課題である。これは、授業の内容を理解することにも役立つし、授業でやることを楽しめそうかのセルフチェックにもなる。そして、そういう履修選抜は、本当にやる気がないとやろうと思えないという意味で、こちらがわざわざ選抜しなくても、自然淘汰型で履修選抜提出者がそこそこに減る。そういう方法だ。

僕の考えるソリューションは、「実践を伴う授業先取り選抜課題」というものだ。授業で行うことを、前出しで実践してもらい、それを履修選抜課題とするのだ。

授業の履修について、最も残念なのは、「こういう授業だったなんてわかってなかった」というミスマッチングで、これは学生はやる気はないし、教える側もそういう相手に教えるということで、よいことはない。シラバスにそう明記してあっても、そういう学生は少しいる。

この「実践を伴う授業先取り選抜課題」をやれば、そういう学生はいなくなるだろうと思う。なぜなら、授業でやることを先に少し経験してから履修することになるからだ。

しかも、指定された実践をしなければならないので、とりあえず志望理由をうまく書いて出しちゃう、みたいなことはできなくなる。実践しなければならなくなるからだ。これは、僕は、クックパッドのアーキテクチャから学んだ。クックパッドでは、「つくれぽ」というのがある。あれは、レシピに対して、自分が実践した報告を、そのレシピにつけるというものである。実践しなければ書けないため、冷やかしや誹謗中傷みたいなことにはなりにくい。これは、ブログのコメント欄やtwitterなどとは大きく異なるところだ。そういう場では、言葉上では何でも言えてしまうので、偉そうに語ったり、ひどいことを書いたりすることも簡単にできてしまう。そうならないための方法が、自らの実践を伴うコメントしか許さないというアーキテクチャだと、「つくれぽ」を見て僕は気づいた。

履修選抜も、さほど思ってもいないのにそれらしく書くということが、実践を伴う履修選抜課題であれば、しにくくなる。しかも、やってみて、面白ければ履修すればいいし、面白いと思えなければ、そもそも履修選抜課題を途中で放棄するか、出さなくなるだろう。

そういう意味で、このやり方であれば、こちらがわざわざ選抜しなくても、履修希望者側が、自分で取りやめるので、自然淘汰のように、そもそもの履修希望者数が減る。そうなれば、定員に最初から収まるか近づくということが実現できる。やるべきことは、あまりにもちゃんとやっていないものを取り除くのと、相対的に質のよくないものを抜くということだけだ。

現在の履修選抜は、教員が履修許可の人を選ぶ、という向きが強すぎると思う。もっと、学生が本当に自分で選ぶということをやれるような課題にした方がいい。ちょっと大変でも、授業そのものが同じように大変なので、それを知った上で、履修希望を出した方がいい。

そんなわけで、僕は、「実践を伴う授業先取り選抜課題」となるような課題を設定している。

今年春学期の僕の授業の選抜課題は以下のような感じだ。

「創造社会論」では、授業で毎週出る宿題と同じようなものを体験してもらう課題にした。

【履修選抜課題】「創造社会論」
受入学生数(予定):約 100 人
選抜方法:課題提出による選抜

(1)次のページに、これまで4年間のこの授業の対談映像のリンクがあります。どれでもよいので、好きなテーマのどれか1回分(前半・後半)を見て、対談(ダイアローグ)型の授業というのはどういうものかを理解してください。その上で、自分がどの回を見たのかを明記して、それを見て考えたことや感想を書いてください(この授業では、これと同じように、その回の対談に参加して考えたことや感じたことを提出する宿題が、毎週出ます)。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid500.html
(2)この授業を通じて学ぶことはどのようなことだと考えている(予想している)か、そして、それを自分の今の活動や今後にどのように活かしたいと考えているかを書いてください。

シラバス(http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid533.html)より


「創造システム理論」は、次のように、授業で取り組む「ゆるい創造実践」とはどういうことかを体感してもらう履修選抜課題にした。

【履修選抜課題】「創造システム理論」
受入学生数(予定):約 100 人
選抜方法:課題提出による選抜

自分を表現する「自撮り動画」を撮影し、魅力的な自己紹介をしてください。動画は30秒以内とし、YouTubeに限定公開設定でアップし(各自アカウント取得が必要です)、そのURLを提出してください。
”魅力的”という表現の解釈は自由です。ただし、単に個人の容姿や声色を評価するものではありません。また、動画そのものの画質や編集・加工技術を評価するものではないので、 特別なカメラ機材などを仕様する必要もありません。スマホ撮影で十分です。
30秒という時間の中にどのような言葉、表情、しぐさ、背景、物語を織り込むと”魅力的”に自分を表現することができるのか、ぜひ工夫を凝らしてみてください。
これは履修選抜課題ですが、この課題を楽しむことができるということが一種の選抜(Natural Selection)になっていると言えるでしょう。ここから、あなたの「ゆるい創造実践」は始まっているのです。

シラバス(http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid534.html)より


最後に、「パターンランゲージ」の授業。この授業の履修選抜の課題では、今年度のグループワークのテーマ(複数あり選択できる)を掲げ、具体的にどういうグループワークをやるのかをイメージできるようにしました。その上で、テーマを事前に選んでもらうことで、こちらがグループを組むのを早めることにしました。従来は、初回に表明してもらい、時間をかけてグループを決めましたが、授業時間がカツカツで7週間に収まり切らない悩みがずっとあったので、テーマ選択を前出しして、時間確保も重ねて狙いました。

【履修選抜課題】「パターンランゲージ」
受入学生数(予定):約 100 人
選抜方法:課題提出による選抜

この授業では、選んだテーマのパターン・ランゲージをつくるグループワークを行います。授業時間外にグループにメンバーでしっかりと時間をとって取り組む必要があります。そのことを十分理解した上で、以下の履修選抜課題に取り組んでください。
今年は、以下の9つのテーマでグループワークを行う予定です。

グループワークで作成するパターン・ランゲージのテーマ一覧
(1) グループワークをよりよくするリーダーシップ
(2) SFCのFab環境の活かし方・学び方
(3) SFCでうまく「研究」生活をおくる秘訣
(4) 数足のわらじの履き方(複数のコミュニティ・活動をしっかりやり抜く)
(5) 一人暮らしで料理をしつづけるコツ
(6) 好きなことの突き詰め方
(7) 研究会のよりよい選び方
(8) 外国語の習得と活かし方
(9) よりよいノートの取り方

【課題1】上記の9つのなかから、グループワークで自分が取り組みたいと思うテーマを選び、その番号とテーマ名を明記した上で、それにまつわる自らの経験・秘訣について、書いてください。テーマを選ぶ際には、自分がそのテーマの実践に日頃から親しんでいるか、ある程度知っているということが重要になります。興味があるものが複数ある場合には、「第一希望」、「第二希望」などを、明記してください。なお、このエントリーの情報に基づいて、こちらでグループを決め、初回に発表します。

【課題2】自分が取り組むテーマ以外で、経験があり、自分が大事だと思うやり方・コツについて語ることができるテーマを、上記の9つのなかから挙げてください(該当するものすべて)。 履修選抜レポートでは、自分が語ることができるテーマの番号とテーマ名を挙げ、どのようなことが語れそうか(経験や秘訣)、ごく簡単に書いてください。ここで挙げてもらった情報を踏まえ、そのパターンをつくっているグループからインタビューを受けてもらう可能性があります。

以上、(1)と(2)を両方入れた履修選抜レポートを、PDFファイルで提出してください(WordやPagesでPDF保存・PDF出力で作成できます)。

シラバス(http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/sb/log/eid538.html)より
授業関連 | - | -

「名づけ得ぬ質」と「巡回」と沈黙:『仏教が好き!』を読んで

河合 隼雄さんと中沢 新一さんの『仏教が好き!』、いまの僕には、めちゃくちゃ面白かった。
宗教を俯瞰してみたときに、仏教的な思考がこれからの世界にとって重要となるということがわかったし、自分がこれまで何をやってきて、これから何をやるべきなのかということを考えることができて、とても勉強になった。

なかでも最も「おおおおー!」となったのが、以下の部分。

「ブッダが『空』と言っていることは言語化不能であるというのが原則なんですね。密教だけではなくて、『般若経』でも、『言説不能、言葉で言うことは不能、だけどこれは確実に、肯定的に、ある』と言われます。」(中沢, p.185)

「ユングがよく使う言葉がありまして、英語で circum ambulation、『巡回』という意味です。僕の好きな言葉なのですが、結局、中心には入れないということなんですよ。われわれはまわりをめぐるだけ。まわりを何度も何度もめぐることによって、いわば中心に思いをいたすなり、中心を感じ取るなりということはできるけれども、中心に入ることはできない。僕もそのように思っているわけです。」(河合, p.186)

「すべて比喩で回転しつづけているけれども、その中心部には言葉の能力をもっては踏み込めない部分があるということなんでしょうね。」(中沢, p.187)

「おそらくぐるぐる回っているうちに体験としてはある、ということなんでしょう。」(河合, p.187)


これはまさに、アレグザンダーが目指した質が言語化不可能であるとして「名づけ得ぬ質」と呼んだことに通じるし、僕らがパターン・ランゲージをつくり実践知に対して言語を当てることは、「実践知を記述する」ことではなく、あくまでも、直接は表現できない実践知を指し示す言葉をもつことで意識して実践することができるきっかけをつくり、「巡回」するためである、という僕の感覚に通じる。

この箇所で、ヴィトゲンシュタインとハイデガーについて語られたところを読んで、興味深いことに気付いた。

「『言葉にならないものは沈黙しなさい』というヴィトゲンシュタインのような哲学者もいる。われわれのできることはせいぜい言葉でまわりをめぐることで、中心の言葉にならない領域に関してはもう『黙れ』と。そのとき、ヴィトゲンシュタインはどこにいるのでしょう。彼の心は、この中心にいまあす。ただ、そこについては黙ろうとしている、黙らなくてはいけないという認識をもたらすものがある。」(p.188)


「ハイデッガーが「存在」とか言うじゃないですか。『在る』とか。あれは言ってみれば真ん中のすぱんと抜けたところを『在る』と言っているわけですよね。」(中沢, p.187)

「ところがわれわれは『存在』ではなくて『存在者』だから、まわりをぐるぐる回っているに過ぎないものなのに、中心部には『在るが在る』というふうに彼は言うわけですね。何でそのことをみんな驚かないのかと。」(中沢, p.187)

「『私』はその『在る』の中心部にいる。彼は踏み込む。そこからいろいろな言葉が紡ぎだされて来る、その中心点から、あの独特の言葉と思考がつぎつぎと湧き出てくる。」(p.188)


クリストファー・アレグザンダーは、『時を超えた建設の道』では、質そのものについては沈黙した(質を生成するパターンについては語った)という意味でヴィトゲンシュタイン的であり、『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』では、その質に踏み込んで語った(センターとその関係性を捉えた15の基本特性)と言う意味で、ハイデガー的であるといえるだあろう。『時を超えた建設の道』から『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』へのアレグザンダーの変化は、ヴィトゲンシュタインからハイデガーへ、ということで捉えられるのかもしれない。

ヴィトゲンシュタインとハイデガーは、僕にとって、気になる存在ではあったが、なかなか切り口がつかめないでいたが、ひとつよい切り口を見つけたと思った。井筒俊彦やホワイトヘッド、ベイトソンなどとともに、読んだり、再読したりしたい。

ずっと気になってた中沢さんの他の本も読みたいし、発見と知的好奇心を刺激される一冊だった。

KawaiNakazawa.jpg

河合 隼雄 ,‎ 中沢 新一, 『仏教が好き!』, 朝日文庫, 朝日新聞出版, 2008
- | - | -

新しい授業スタイル「ダイアローグ型授業」のススメ

僕がここ5年ほど、「創造社会論」という授業で試しているのは「ダイアローグ型」という新しいスタイルの授業である。

それは、ある専門がどのように他の分野と関わることができ、どのような未来が構想できるのかを、ある専門(僕の場合は創造性やシステム理論、パターン・ランゲージ)をもつ教員がホストとなり、多様な分野のゲストを招き、対談(ダイアローグ)を通して、その可能性を感じ、学ぶという新しいスタイルの授業である。「創造社会論」は、2コマ(3時間)×7週間の授業であるが、最初の週から最後の週までゲストを読んで、対談をしていく。

 DialogueClass3.png

ダイアローグ型の授業は、いわゆる講義や講演という「モノローグ」ではなく、学生たちが自分たちで何かに取り組む「演習」や「グループワーク」でもなく、対談・対話を聴くというスタイルの授業である。その場で生成される語り合いを見て、その現場に立ち会い、参加する。担当教員の専門や視点が多様な領域とどのように関わるのかを知ることができるだけでなく、教員の多分野への切り込み力や質問の投げかけ方、相手が語ったことへの反応や共感の仕方なども学ぶことができる。一方的に聴くだけでなく、学生も質問や意見などを言って参加することができる。僕も、対談相手に、自分の専門のことや最新の発見などを、うれしそうに話すことになる。こうやって、相手の分野に合わせて僕が説明をどう変えるのかも、学生たちは観察することになる。

僕自身は、対談本を読むことや、対談を聴くことは、とても創造性が刺激されるので、大好きだ。講演を聴くとなると、その人の考えた文脈の通りに理解していくことになるが、対談というのは、「創造的なスキマ」がある。対談している人のあいだで、コンテクストや意味のズレがよく生じる。話としてはつながっているように聞こえるのだが、実はそこにズレが生じているというときである。それがこちらの「創造・想像を挟み込む余地」となる。また、その場でのやりとりで考えて話すので、話している人も、論理の飛躍があったりする。しかも、盛り上がってくると、ふつう本では絶対描かないような大胆な発想や発言、本音なんかも出たりする。そういうズレとか飛躍がとてもクリエイティブな意味で刺激になるのだ。

 DialogueClass2.png

この授業では、僕は、学生のレベルに変に合わせることなく、ゲストの方と本当に話したいレベルで話して盛り上がる。内容によっては、学生によっては意味がよくわからないところも出てくるかもしれない。その自分がわからないことを、対談者同士が異様に盛り上がっている、というのを目の当たりにする(理解できなくて悔しい)ということを経験するということも大切な学びのうちだと思っている。もちろん、言葉や概念を説明なしに使っては、わかるものもわからないので、そういうものは適宜解説を入れたりする。そういう中で、理論や概念についての理解も深まる。いわゆる座学のモノローグとは違う、ダイナミックな話のなかで、そういうことを学ぶのである。

学校での授業でも、もっと、こういう「ダイアローグ型」の授業があってもいいんじゃないかと思う。

 DialogueClass1.png


この「ダイアローグ型授業」を行う「創造社会論」は、まもなく4月から2018年度クラスがスタートする。来てくださるゲストのみなさま、どうぞよろしくお願いいたします!

「創造社会論2018」(シラバス)
CreSoc2018.jpg
- | - | -
CATEGORIES
NEW ENTRIES
RECOMMEND
ARCHIVES
PROFILE
OTHER