井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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パースのプラグマティズムからみたパターン・ランゲージ

パースの「プラグマティズム」と「探究」

前回の考察に引き続き、チャールズ・S・パーズの「プラグマティズム」と「探究」の考え方から、パターン・ランゲージについて考えてみたい。

今回は、『パースのプラグマティズム』(伊藤邦武)と『プラグマティズムの思想』(魚津郁夫)を手引きとして、パースのプラグマティズムと探究についてみていくことにしたい。

プラグマティズムでは「行為」と「思考」のむすびつきに注目する。その特徴を伊藤は次のようにまとめている。多くのプラグマティストが掲げるテーゼは「人間の『思考』とはそれ自体で意味を生み出す独立した内的過程ではなくて、むしろ本質的に『行為』と結びついたものである」ということである。

パースは、「思考のはたらきは、疑念(doubt)という刺激によって生じ、信念(belief)が得られたときに停止する。したがって信念をかためることが思考の唯一の機能である」と考え、その疑念から信念へと到達しようとする努力を「探究」(inquiry)と名づけた。

ここでいう「疑念」(doubt)とは、なんらかの問いを発することであり、信念(belief)とは問いが解決されていることである。

「疑念」は、「我々がそこから自己を解放し、信念へいたりつこうとする、不快で、不満足な状態」であり、そこから解決へと、すなわち信念の確定へと向かうことを促す効果をもつ。

「信念」は、パースの言葉を借りると「私たちの知的生活というシンフォニーを構成するひとつの楽句をくぎる半終止」だということができる。

しかしながら、「信念は行動のための規則(a rule for action)であって、この規則を行動に適用すればさらに疑念が生じ、したがってまた思考が生じるので、信念は思考の終着点であると同時に新しい出発点である」という側面も併せ持っている。

別の言葉でいうならば、信念とは、「我々の本性の内に我々の行為を決定する何らかの習慣が確立していること」(パース)であり、「信念は我々の欲求に応じて何らかの行為を遂行せよという指針を与える効果を有する」(伊藤)のである。

それゆえ、「疑念」から始まり、「探究」によって「信念」の確定がなされた後は、「行為」によって新たな「疑念」が生じ……ということが繰り返されることになる。

パースは「探究の唯一の目的は信念の確定である」という。これは、探究は「真理(truth)の把握を目指すのではなく、信念、つまり行為への傾向性(習慣)の確定を目指す」(伊藤)ということを意味している。

そしてパースは、「人間認識は信念の確定のための認識作用であるかぎり、我々の実際的行為への関わりを明示したものとなって初めて明晰なものとなり得る」とした。これが、パースのいうプラグマティズムの格率(=実践の原則)である。

ここで、「探究」で目指される信念というのは、行為への傾向性、つまり、習慣のことであるから、思考を明晰にするということは「その思考が究極的にはいかなる習慣を規定するのかを明らかにすることである」(伊藤)といえる。

パースは言う。「我々の認識対象について、それが何らかの実際的意味を持つであろうと思われるような効果としてどのような効果を有すると思われるか、を考察してみよ。その時、これらの効果についての我々の認識が、その対象についての我々の認識のすべてである」と。

"Consider what effects, which might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object." (C.S.Peirce, "How to Make Our Ideas Clear", 1878)

このプラグマティズムの格率にもとづくならば、「対象認識の形式は、或るなされるであろう行為という条件に対して、その行為が事実なされるとき(つまりその条件が真のとき)、その結果として生じるであろう観察可能な反作用的現象がいかなるものか、を示すものでなければならない。」(伊藤)

それはつまり、「明晰化された命題は、条件 - 帰結の形式を持つ複文である」(伊藤)ということである。その形式であれば、行為と観察可能な結果によって実際に成り立つのかどうかが明らかになる。

また、探究が最終的に目指す「習慣」は、どのように同定するのかというと、「習慣の同一性とは、様々な状況下にあって、すなわち単に生ずるであろうことが予想される状況のみならず、いかに非蓋然的であれ恐らくは生ずることが可能であろうような状況をも含めた全状況下にあって、それがどのように我々を行為に導くか、ということに存している。習慣が何であるかは、それが我々の行為を『いつ』『いかに』生ぜしめるかにかかっている」(パース)という。

このことを伊藤は、「この『いつ』とは、個々の行為の誘発因としての知覚的事実がいかにあるか、ということであり、『いかに』もまた、行為の目的がいかなる感覚的結果の内で実現されるか、ということである」と、わかりやすくまとめている。

最後に、「習慣」についてもう少しだけ言及しておきたい。習慣にはいろいろな種類・強度のものがあるので、「我々の認識作用がその効果として習慣を形成するということは、すでにあった習慣の種類を変えるか、その強度を変えるか、である」(伊藤)と言える。

パースは、習慣は生まれつきではなく後天的に獲得されるものだとして、「同種の行動が、知覚と想像の同じような結合のもとで、数多く繰り返されるとき、そこから、未来における同様の状況において、現実に同様な仕方で行動する傾向―これが【習慣】である―が生まれる」という。

「そしてさらに―この点がまさに重要なのであるが―、人は誰でも、自分自身の習慣そのものを変更することによって、自分自身を多少なりとも統御しているものである。しかも、このような作用を行おうとしても、外的世界において、行おうとする種類の行動を実際に繰り返すことができないような状況において、………内的世界における繰り返し―想像による繰り返し―は、それが直接的な努力によって十分に強化されるならば、外的世界における繰り返しと同じように、習慣を形成し、しかも、この習慣が、外的世界における実際の行動に作用する力をもつ」と、パースは言う。


プラグマティックな探究を支援するパターン・ランゲージ

パースのプラグマティズムと探究の考え方にもとづいて、パターン・ランゲージについて考えてみたい。ここでは主に、人間行為のパターン・ランゲージ(パターン・ランゲージ3.0)に焦点を絞って考えることにしたい(ただし、建築やソフトウェアについても同様のことがいえるはずである)。

まず、パターン・ランゲージ(3.0)が目指すのは、行為の傾向性、すなわち習慣の変化である、ということができる。

パターン・ランゲージの個々のパターンがもたらすのは、その場での短期的な行為の変化ではなく、中長期的な習慣の変化である。言い換えるならば、そのパターンを読んでその場で「できる」ようになることに主眼が置かれているわけではないということである。

パターン・ランゲージのパターンは、ある一定の知覚と想像の結合のもとで繰り返し行為を行うことで、習慣の形成を促すのである。

だからこそ、パターンはContext - Problem - Solution - Consequenceという「条件 - 帰結の形式」で書かれるのである。そして、「個々の行為の誘発因としての知覚的事実」と「行為の目的がいかなる感覚的結果の内で実現されるか」が書き込まれる。

パターンは、信念と同様に「行動のための規則(a rule for action)であって、この規則を行動に適用すればさらに疑念が生じ、したがってまた思考が生じる」のである。

パターンのSolution(Action)を実行すると、その結果が生じるが、そのなかには副作用もあり、それは新たな疑念を生み、他のパターンのContextへと導かれる。パターン・ランゲージは、そのようなパターン同士のネットワークになっている。

そしてこのような、習慣の形成は外的世界における繰り返しのみならず、内的世界における繰り返しによっても「直接的な努力によって十分に強化されるならば」可能となる。このように、外的行為のみならず、認識を変えることを指針とするものも、パターン・ランゲージ3.0のパターンのなかにはある。

こうしてパターン・ランゲージ(3.0)は、その人の状況における「疑念」から始まり、パターンを用いた「探究」によって「信念」(a rule for action)の確定に至り、実際に「行為」することによって新たな状況の「疑念」が生じ…ということを続けていくことを支援するのである。

パターン・ランゲージ(3.0)の根底には、まさにプラグマティズムの考え方、すなわち、人間の「思考」は本質的に「行為」と結びついているという考え方があるとみて間違いないだろう。だからこそ、「行為」を支援するために「思考」のメディアである「言語」を用いることが適切だと言えるのである。


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パースのアブダクションとパターン・ランゲージ

パースの「アブダクション」

井庭研の必読文献の一つに『アブダクション:仮説と発見の論理』(米盛裕二, 勁草書房, 2007)がある。プラグマティズムの創始者であるチャールズ・サンダース・パースの提唱する推論概念「アブダクション」をわかりやすく魅力的に紹介している本である。今回はこの米盛裕二『アブダクション:仮説と発見の論理』を手引きとして、アブダクションとパターン・ランゲージの関係について考えてみたい。

パースは、推論の種類として従来から言われてきた「演繹」(deduction)と「帰納」(induction)に加えて、「アブダクション」(abduction)という推論形式を見出し、それが科学的思考において重要な役割を担うと主張した。

「推論」とは「いくつかの前提(既知のもの)から、それらの前提を根拠にしてある結論(未知のもの)を導き出す、論理的に統制された思考過程のこと」(米盛)である。その推論の種類として、従来は「演繹」と「帰納」が言われてきたが、パースはこれに「アブダクション」というものを加えたのだ。

アブダクションは、「ある意外な事実や変則性の観察から出発して、その事実や変則性がなぜ起こったかについて説明を与える『説明仮説』(explanatory hypothesis)を形成する思惟または推論」(米盛)である。

このことから、パースは「アブダクション」を「リトロダクション」(retroduction)という言葉で表現することもある。結果から原因への遡及をする推論だからである。

パース自身が取り上げている例を紹介しよう。「わたくしがある部屋に入ってみると、そこにいろいろな違う種類の豆の入った多数の袋があったとする。テーブルの上には手一杯の白い豆がある。そこでちょっと注意してみると、それらの多数の袋のなかに白い豆だけが入った袋が一つあるのに気づく。わたくしはただちに、ありそうなこととして、あるいはおおよその見当として、この手一杯の白い豆はその袋からとり出されたものであろうと推論する。この種の推論は【仮説をつくること】(making a hypothesis)と呼ばれる」(パース)

つまり、この例では、以下のような推論をして、観察結果を説明するための仮説を形成している。

(1)この袋の豆はすべて白い(規則)、
(2)これらの豆は白い(結果)、
(3)ゆえに、これらの豆はこの袋の豆である(事例)

"Rule. - All the beans from this bag are white.
Result. - These beans are white.
∴Case. - These beans are from this bag." (Peirce, 1878)

"This sort of inference is called 【making an hypothesis】. It is the inference of a 【case】 from a 【rule】 and 【result】." (Peirce, 1878)

このように、アブダクションは観察された結果や既知の規則から仮説を生み出すため、拡張的(発見的)な機能をもつ推論だということができる。だからこそパースは「アブダクションは説明仮説を形成する方法(process)であり、これこそ、新しい諸観念を導入する唯一の論理的操作である」という。

このように、アブダクションは拡張的(発見的)な機能をもつが、可謬性(かびゅうせい)の高い推論でもある。つまり、形成した仮説が間違っている可能性があり得るということである。先ほどの例でいえば、手にとった豆が、目の前の袋からではなく他の場所から持ち込まれたものであったかもしれない。

しかしながら、可謬性の高い推論であるとはいえ、仮説はでたらめにつくられるのではない。「アブダクションはたんなる当てずっぽうな推測ではなく、それはある明確な理由または根拠―つまり『そのように考えるべき理由がある』、『そのように考えるのがもっとも理にかなっている』、『そのように考えざるをえない』というふうに納得できる合理的な理由または根拠―にもとづいて、仮説を提案しています。このようにアブダクションは意識的に熟慮して行われる思惟(reasoning)であり、そういう意味で論理的に統制された推論(inference)である」(米盛)。

パース自身も「仮説(アブダクション)はあらゆる意味において推論である。正当なものであれ不当なものであれ、ある理由があって採用されているのであり、そしてその理由は、そのようなものとして考えられる場合には、仮説に対してもっともらしさを与えているからである」という。

このように、アリストテレスによる演繹の論理学と、F・ベーコンとJ・S・ミルらによる帰納の論理学に加えて、パースによってアブダクションによる探究の論理学が創設・確立されたのである。


パターン・ランゲージを「つかう」過程におけるアブダクション

ここで考えてみたいのは、パターン・ランゲージとアブダクションとの関係である。第一に、パターン・ランゲージがどのようなアブダクションをもたらすのか、第二、パターン・ランゲージをつくるときにはアブダクションがどのように行われているのか、ということである。

僕はパターン・ランゲージを知識記述・共有の方法としてではなく、語り・対話のメディアとして用いている。これは、パターン・ランゲージの分野のなかでは珍しい使い方で、僕が2010年から始めた独自の使い方である(最近、国際学会等でも面白がられ始めている)。

例えば、ラーニング・パターンを用いた対話のワークショップでは、準備として40パターンをざっと読んで、自分に経験があるかをチェックするということを行う。つまり、不可分な全体としての「経験」をパターンによって読み解くという作業をする。まず、ここがアブダクションに関係する。

そこでは、学びに関して、自分の経験のなかでよい結果を生み出した原因が、ある特定のパターンと同様のことを行ったからではないかと推論する。この推論は間違っているかもしれないが、パターン記述との一致からもっともらしい仮説であると判断される。これが、パターンによるアブダクションである。

これは自分の経験に対してだけでなく、他者の行いに対する推論としても行われる。あるTEDトークをみて、その伝え方の巧みさをプレゼンテーション・パターンで読み解くとしよう。その結果を生み出しているのが、どのパターンたちなのかを考えるとき、そこにもアブダクションが行われる。

あるいは、一緒に活動しているプロジェクトのメンバーが行っている行為がどのような意味をもっているのかを、コラボレーション・パターンを用いて理解するということがあるとしよう。ここでも、パターンによって、その行為の理由を推論することができる。

パターン・ランゲージの個々のパターンは、状況→問題→解決→結果というセットで書かれている。それゆえ、ある観察結果から、個々のパターンを用いて遡及的なリトロダクション=アブダクションによって、その原因を推論するということを支援することができる。

しかもパターン・ランゲージでは、個々のパターンだけでなく、体系だったランゲージとして、いきいきとした質(名づけえぬ質)を実現できるようにまとめられている。そのため、全体的なレベルにおいても、質を実現するためにどうすべきなのかをパターン群によってリトロダクションすることができる。

すでに見てきたように、「アブダクション」(abduction)=「リトロダクション」(retroduction)とは、可謬性を伴いながらも、もっともらしい蓋然的な仮説をつくる推論である。

有馬道子は『パースの思想:記号論と認知言語学』において、次のようにわかりやすくまとめている。「アブダクションとは、『規則(rule)』と与えられた『結果(result)』からコンテクスト(context)を参照しながら『事例(case)』についての推論をおこなうことである。私たちは世界を知覚をとおして経験するが、その経験された『結果』についてそれをある一定の『事例』として判断するのは、コンテクストを参照しながらそこに何らかの『規則』を適用することによって『おそらく…であろう』という蓋然性としての推論をおこなうことであるということ」なのである。

つまり、「わたしたちは知覚を『解釈する』ことによって『おそらく…であろう』という仮説的推論を下すことによって、経験を知るということになる」(有馬)のであり、「パースの考えの基調をなしているのは、『解釈』という推論によって世界を知るということ」なのだという。

(それゆえパースの記号論は、「対象」「記号」「解釈項」の三項関係で考えられているのであるが、この話は別の機会にすることにしたい。)


科学的な発見の過程におけるアブダクション

パターン・ランゲージをつくるときにも、仮説形成の推論であるアブダクションが重要な役割を担う。そのときは、科学的思考における仮説形成と同様のことが起きていると僕は考えている。そこで、まずは科学的な発見の過程におけるアブダクションについて見てみることにしよう。

パースのアブダクションは、次のような推論だということもできる。驚くべき事実Cが観察されたとき、もしAが真のときCが当然成り立つのであれば、Aが真であると考えることが理に適っている。科学における発見の際には、このようなアブダクションが起きているとパースは言う。

"The surprising fact, C, is observed; But if A were true, C would be a matter of course. Hence, there is reason to suspect that A is true." (Peirce, "Pragmatism as the Logic of Abduction", 1903)

米盛裕二『アブダクション:仮説と発見の論理』は、科学的発見におけるアブダクションの例として、ニュートンによる万有引力の法則の発見を取り上げている。ニュートンは、「諸物体は支えられていないときには落下する」という事実から「質量はたがいに引力を及ぼし合う」という法則を発見した。

米盛は、この「万有引力の法則の発見は、われわれが直接観察した事実(諸物体は支えられていないときは落下するという事実)から、それらの事実とは違う種類の、しかも直接には観察不可能な「引力」という作用を想定する仮説的な思惟による発見」であると指摘する。

つまり、「こうした理論的対象の発見は観察データから直接的な帰納的一般化によって導かれるものではなく、それは諸物体の落下の現象を説明するために考え出された『仮説』による発見」なのである。

なので、「諸物体の落下の現象をどれだけ周到に観察し一般化してみても、創造的想像力、仮説的思惟の働かないところでは、直接には観察不可能な「引力」という理論的仮説的対象というものを考えつくことはできない」のであり、ここにアブダクションの推論が不可欠なのである。

アインシュタインのいう「経験をいくら集めても理論は生まれない」というのは、まさにこのことを指しているといえる。

このことは、ケプラーの法則の発見にも当てはまる。ケプラーは、ティコ・ブラーエが長年にわたって集めた惑星の運動についての膨大な観察データをもとにして、何度も仮説を立て直しながら試作を重ね、楕円運動の仮説に行きついている。

N・R・ハンソンも、ケプラーについて「彼は何度もその事実に戻らねばならなかった。事実群から仮説を立ててみる。また事実に戻ってそこから別の仮説を立ててみる。この繰り返しであった。そして最後に、楕円運動の仮説に至った」といい、その過程を理解するにはパースの考え方が重要だと述べている。

つまり、結果から原因への遡及推論であり、パースのいうリトロダクション(retroduction)=アブダクション(abduction)である。ケプラーはまさにそのような遡及的な推論を行ったのである。

「ケプラーは惑星の運動に関する観察結果から、その観察結果をもたらした惑星の運動へと遡及推論を行ったのです。つまり、ティコ・ブラーエの観察結果が正しいとしたうえで、それらの観察結果を説明しうるように考えようとすると、惑星はどのように運動していなくてはならないか、観察結果に合うような惑星の運動とはどういうものでなくてはならないか、というふうに遡及推論を行った」(米盛)のである。

このことは、ヘンペルの次の指摘とも合う。「データから理論にいたるには創造的想像力が必要である。科学的仮説や理論は、観察された事実から【導かれる】のではなく、観察された事実を説明するために【発明される】ものである」。

パースも次のように述べている。「人は諸現象を愚かにじろじろみつめることもできる。しかし想像力の働かないところでは、それらの現象は決して合理的な仕方でたがいに関連づけられることはない」と。仮説を形成するための論理的操作を含む推論、すなわちアブダクションが不可欠なのである。

このように、科学的な発見において、「アブダクションは正しい仮説の形成を目指して意図的に用いられる方法であり、したがって十分に意識的に熟慮して用いられるなら、それは論理的に統制された思惟の方法であり、科学的発見のためのすぐれた推論の方法となりうる」(米盛)のである。


パターン・ランゲージを「つくる」過程におけるアブダクション

拡張的・発見的な思考においてアブダクションが重要であることは、科学においてだけでなく、パターン・ランゲージにおけるパターンの発見にも当てはまると、僕は考えている。

まず、パターン・マイニングの際に、ある結果(いきいきとした質の実現)をもたらす要因(パターン)はなにかを突き止めるとき、そこには帰納的一般化とは異なるアブダクションによる推論が不可欠となる。

そして、パターンにおける「解決」(Solution)からそれが解決する「問題」(Problem)を特定するとき、あるいは、問題が生じる「状況」(Context)や背後に働く力(Forces)を特定するときにも、アブダクションによる推論が不可欠となる。

パターン・ランゲージのパターンにおける「問題」「状況」「力」は観察できる対象ではなく、事例の帰納的一般化では得ることができない。それらは、アブダクション=リトロダクションによって遡及的に考えられる必要がある。

もちろん、アブダクションであるから、パターンそのものも、その「問題」「状況」「フォース」も仮説(hypothesis)にすぎない。理に適ってはいて、もっともらしいものであるが、仮説にすぎないのである。

このことは、アレグザンダーがパターンを「単なる仮説にしかすぎない」と看做していることと合致している。パターンは調査やつくり込みが不完全であるから仮説なのではなく、アブダクションによってつくられるために根源的な意味で仮説なのである。

それゆえ、観察・経験からパターンを捉えるということは、機械的な作業では断じてないのである。パターンを捉えるということは、創造的想像力を駆使しながら論理的操作を行うという知的・創造的な営みなのである。パターンも、ヘンペルが科学的仮説や理論について述べた「観察された事実から【導かれる】のではなく、観察された事実を説明するために【発明される】ものである」ということになる。

パターン・コミュニティでよく、「パターンは発明(invent)するものではなく、発見(discover)するものである」ということが言われるが、この言葉を聞くときに、僕はいつも違和感を感じるのは、以上の理由による。

もちろん、アブダクションは「発見の論理」であると言われるように、発見の仮説形成における拡張的推論である。それゆえ、「発見(discover)するものである」に含まれるわけであるが、他方で本来は発明(invent)の要素も多分に含まれているはずなのである。

それゆえ、「発明」か「発見」かという二分法はミスリーディングである。そのため、僕はこの二分法で語ることはしないようにしている。パターンを捉え・書くということは、(アブダクションの意味で)「発見」であり「発明」なのである。

以上見てきたように、パターンをつくるときにも、それを用いるときにも、アブダクションによる遡及的な推論が重要な役割を担っている。このことから、パターン・ランゲージはプラグマティズムで言われる「探究」(inquiry)のためのメディアであるということもできるだろう。

プラグマティズムの「探究」の概念とパターン・ランゲージの関係については、別途考えてみたいと思う。(なお、「探究」と同様のことを別の概念体系で論じたのが「自生的秩序の形成のための《メディア》デザイン──パターン・ランゲージは何をどのように支援するのか?」(井庭崇, 2009)である。そこでは、発見の連鎖にパターンがいかに寄与するのかを考察した。 )

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アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチとパターン・ランゲージ

アマルティア・センとの再会

アマルティア・センの著作は、15年ほど前に初めて読んでからというもの(当時の僕は新しい経済学の潮流と方法論についての研究をしていた)、研究のなかで様々なかたちでセンに再会し、3年おきぐらいに再読している。今回のきっかけは、ヒラリー・パトナムの文献を読んでいるときであった。

最近、パターン・ランゲージ3.0をプラグマティズムの考え方と結びつけて考えたいと思い、その手の文献を読み漁っている。そして、ヒラリー・パトナムの『事実/価値二分法の崩壊』を読んでいるときに、再びセンに出会った。

この本では、現在の私たちの思考・思想の奥に根付いている事実と価値の二分法、つまり「事実の認識は客観的であるが、価値判断は主観的なものである」という考え方に異議を唱えている。パトナムいわく「事実の知識は価値の知識を前提する」というわけである。

その著作の冒頭からアマルティア・センが登場する。パトナムは、センのケイパビリティ(潜在能力)アプローチについて、「そのアプローチの核心にあるのは、開発経済学の問題と倫理学理論の問題を別々にしておくことは断じてできないのだ、という認識である」とし、2つの章でセンを取り上げている。

アレグザンダーの思想を、そしてパターン・ランゲージ3.0を、プラグマティズムと結びつけて考える理由はいくつかあるが、事実と価値の問題を別のものとして区別するのではなく、相互に浸透関係にあるものと看做すということが、パターン・ランゲージが目指すところを理解する上で重要だからである。

プラグマティズムとの関係の話は別の機会にするとして、そんな経緯でアマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)と、この本で再び再会したのだ。

実は2年前、ネパールにおける豊かさについての考え方をパターン形式でまとめた学生が井庭研にいたので、その研究にアドバイスをするときに、センのケイパビリティの考え方を紹介した。そのときにもパターン・ランゲージとの関係の可能性をアツく語ったが、それは開発経済学におけるパターン・ランゲージの役割という限定的な話としてだった。

今回のセンとの再会は、僕にとっての思考の飛躍につながった。開発経済的なパターンとケイパビリティ・アプローチの関係ではなく、パターン・ランゲージ3.0(人間行為のパターン・ランゲージ)とケイパビリティ・アプローチとの関係が見えてきたのだ。


アマルティア・センのケイパビリティ(潜在能力)アプローチ

アマルティア・センは、開発(発展)というものを、所得や富の増加させることではなく、人々が享受する自由を増大させることであると捉えた。富の蓄積は自由を拡大する手段としては重要ではあるが、それ自体は目的ではなく、また唯一の手段でもないからである。

このような捉え方で貧困と開発の問題を考えるために、センは「ケイパビリティ」(潜在能力:capability)という考え方を導入した。ケイパビリティ(潜在能力)とは、ある人が価値を見出し選択できる「機能」の集合のことであり、その人に何ができるかという可能性を表している。

ここでいう「機能」とは、「ある状態になること」や「何かをすること」を指しており、例えば、充分な栄養を得られること、健康状態にあること、回避し得る病気に悩まされていないこと、早死にしないことといった基本的なことから、自尊心をもてることや社会生活に参加できることなどが考えられる。

センは『正義のアイデア』のなかで、「我々の暮らしを評価する上で、現実の生活スタイルだけでなく、様々な生活スタイルから実際に選択可能な自由についても関心を持つ理由がある」といい、「我々の暮らしの性質を決定することができるという自由」に目を向けることの重要性を説いている。

センは「所得と富は、人の優位性を判断するには不適切な指標であるということは、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』でもはっきりと論じられている」と指摘した上で、「富は、それ自身、我々が価値を認めるものではない。また、我々の富を基礎として、我々がどんな暮らしを達成しているかを示す良い指標でもない。」とした。そうではなく、「彼らが享受することのできるケイパビリティ全体を見る必要がある」のである。

「ケイパビリティ・アプローチの焦点は、最終的に実際に行ったことだけにあるのではなく、実際に行うことのできること(実際にその機会を利用するしないにかかわらず)にある」のである。

「功利主義的伝統では、すべての評価を、『効用』という同質的な量に変換し、厳密に一つのものとして『数えること』(多いのか、少ないのか)で、安心感をもたらしてきたが、一方で、多くの異なる『良いものの組み合わせ』を『評価すること』(この組み合わせは、より価値があるかないのか)の取り扱い難さに対して疑念を生み出してきた。」とセンは言う。しかし、「我々にとって価値があると考える理由のあるすべてのものを一つの同質な量に還元することはできない」のである。

ケイパビリティとは「我々が価値を認める理由のあるものという観点から、互いに比較し判断することのできる諸機能の様々な組み合わせを達成する能力のことである」。つまり、個々の機能を達成する能力というよりも、「価値のある諸機能の【組み合わせ】を達成する能力」に関心があるのである。


ケイパビリティ(潜在能力)アプローチとパターン・ランゲージ3.0

アマルティア・センのいう「ケイパビリティは、機能によって定義されていて、とりわけ、ある人が選択しうるすべての機能の組み合わせの情報を含んでいる」のであり、可能なすべての機能の組み合わせに着目することで初めて、「何かを【すること】と、それをする【自由】とを区別する」ことができるのである。

センの提唱するケイパビリティ・アプローチは、その言葉が示すように「アプローチ」にすぎない。その機能に何を入れるべきかという具体性や、それをどのように活かすべきかということについては限定をしていない。つまり、それらの点については開かれているのである。

僕はここに、パターン・ランゲージ3.0との接合の可能性があると見ている。各種のパターン・ランゲージのなかのパターンを、選択可能な機能として捉えることができるのではないか、ということである。

パターン・ランゲージを 「ある人が価値を見出し選択できる『機能』の集合のことであり、その人に何ができるかという可能性」として捉えるのである。そのことが、その人の「自由」を捉えることになり、また「自由」を支援する可能性へとつながるのではなかろうか。

パターン・ランゲージは、一見すると「何かを【すること】」を支援しているように見えながら、実は「それをする【自由】」を支援していると言えるのではないか。

センの考えのアナロジーで教育について考えるならば、経済における所得や富、効用に還元した定量化というのは、テストで測られるような知識量や、一元的な成績づけというものに対応しているように思われる。

これに対して、ケイパビリティ=パターン・ランゲージのアプローチでは、各自が価値があるとすること(機能=パターン)をどれだけ実現可能かということに注目する。実行した結果の良し悪しではなく、潜在的に可能なことの拡大で評価されるということである。

例えば、添付したグラフは井庭研の4年生たちの3年前(赤)と現在(青)のラーニング・パターンの経験度の違いをグラフ化したものである。仮に40パターンすべてが各自にとって価値があると仮定すると、3年前より現在の方が豊かで自由があると言うことができる。

ラーニング・パターンでは、具体的な状況のなかで「こういう学び方をしなさい」と強制しているわけではなく、「こういう学び方も可能である」ということを示すことで、「それをする自由」を支援していると言える。

もちろん、パターン・ランゲージは、ラーニングについてのものだけではないので、例えば、プレゼンテーションやコラボレーション、いきいきと美しく生きる、自分らしく生きるなど、いろいろなものがあるので、それらはつくられるたびにケイパビリティの選択肢の幅を広げていることになる。

また、各自の価値判断によって機能の組み合わせが異なって構わないということは、国や地域によってパターンの集合が異なる(一部重なりながらもそれぞれ違う要素を含む)ことが許容されるということである。この点も、パターン・ランゲージの考え方と整合的である。

以上のように、パターン・ランゲージを、アマルティア・センの言うケイパビリティ・アプローチに照らして捉えてみることで、単に行為を支援するということに留まらず、豊かさや福祉(well-being)につながる新しい支援の方法であると捉え直すことができるだろう。


再びヒラリー・パトナムのアマルティア・センの評価

アマルティア・センの『正義のアイデア』から、再び今日の出発点であったヒラリー・パトナムの『事実/価値二分法の崩壊』に戻ると、パトナムは「センの意味での『潜在能力』とは単に価値ある機能なのではありません。それは、価値ある機能を享受する【自由】なのです」と端的かつ適切にまとめている。

そして、パトナムは、ケイパビリティ・アプローチについて「このアプローチが実際に行うことは、どのような機能がわれわれの文化や他の文化の善き生活という概念の一部を構成するかを考えるよう、そして種々のそのような機能を達成するためのどれだけの自由を、種々の状況における種々の人間集団が現実に持っているかを調査するよう、われわれに促すことなのです。」という。

そして、そのアプローチが求めるのは、二〇世紀を通じて行われてきた「『倫理学』と『経済学』と『政治学』とを区画することをやめ」ることなのである。

事実/価値の二分法を超えるということについて、パトナムはより明示的に次のように指摘する。「センと彼の仲間や追随者たちが潜在能力について語るときに使用する語句―『価値ある機能』『個人が然るべき【理由があって】価値があると見なす機能』『十分に食物が与えられていること』『【早】死』『自尊心』『共同体生活に参加できること』―のほとんどいずれもが、絡み合った語句」であるという。絡み合ったというのは、事実と価値が絡み合っているという意味である。

そして、そのようなセンの立脚点を「価値づけと事実を『確かめる』こととは相互依存的活動であると主張する立脚点」だというわけである。

パターン・ランゲージがいかなる意味で、価値と事実の二元論では捉えられないことをしようとしているのか、ということについては、また次のときに書いてみたいと思う。


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