井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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「創造性資源の枯渇」の時代から「ナチュラル・クリエイティビティ」へ

これまであちこちで語ってきたように、僕はこれからの時代は「創造社会」(creative society)と呼び得る時代であると考えている。以前(1998年〜)は「自己革新的な社会」と呼んでいたが、その後(2010年頃〜)「創造社会」という言い方で表現してきた。Consumptionの「消費社会」から、Communicationの「情報社会」へ移り、Creationの「創造社会」に移行していく、というように3つのCの変化で時代の流れを論じてきた。

自分たちで自分たちのモノや環境、仕組み、意味、価値、生き方などをつくっていく時代。誰かにつくってもらったものを消費するというだけではなく、誰もが「つくり手」側にまわることができる時代。すべてを自分でつくるわけではないが、つくろうと思えばつくることが可能な時代。そのような時代を「創造社会」(クリエイティブ・ソサエティ)という言葉で表現しているのである。

この創造社会について、最近違う角度から考えているので、そのことを書き留めておきたい。

社会が多様化・複雑化・流動化するにつれて、新しい状況に対応したり、問題を解決したり、新しいものを生み出したりすることが求められ、これからますますそれに見合う創造性が求められるようになる。しかしながら、これまでのように一部の人が創造性を発揮して、それを多くの人が享受するというやり方ではうまくいかなくなっている。それにも関わらず、多くの人が、誰か天才が現れて一気に解決してくれるというような、ヒーロー待望論のようなものを漠然と抱いているように思う。

20世紀は、エネルギーの時代であった。エネルギーによって産業が栄え、エネルギー資源をめぐり国家間の戦争が起きた。我々の住む21世紀は、クリエイティビティの時代となる。僕は、エネルギー資源のように「創造性資源」(Creativity Resource)と呼んでいるが、創造性資源こそが鍵を握ることになる。エネルギーの獲得と同様に、クリエイティビティをいかに発掘し、調達し、確保するのかは、個人の生活の意味でも、経済における生き残りにおいても、国家戦略的にも、重要なイシューであり、不可避な課題である。しかしながら、これまでのようなやり方では、「創造性資源の枯渇」(Exhaustion of Creativity Resource)は不可避である。いや、現に枯渇により、問題が生じていると言えるだろう。

石油資源を輸入していたように、多くの人が海外から創造的人材の輸入に熱心である。自分のところに資源がないからと、よそから買うしかないという感覚である。これでは、石油資源の限界が成長の限界を定めたように、創造人的材の限界が成長の限界であると予言される日は近いだろう。

昨年くらいから流行的な話題となっている人工知能(AI: Artificial Intelligence)は、今後研究開発が加速し、人間を超えるレベルに到達するシンギュラリティの段階の恐怖が、よく聞かれるようになった。それは、アーティフィシャルな(人工的な)創造性といえる。その段階での人工知能は、エネルギーでいうと原子力発電にあたる技術であると言える。人間や社会にとって便利で効率的である一方、人類を滅ぼすほどの強烈なパワーをもった危ういものでもあり、私たちの社会・組織はそれをきちんとコントロール・管理できるのかというと、実に怪しいという意味においてである(AIは原発のようなものであるということは、テスラのイーロン・マスクも同様の発言をしているようである)。

このような人工的な創造性の世界はこれからも研究・開発は止まらずに加速していくと思われるが、僕が重視したいのは、アーティフィシャル(人工的)な方の創造性ではなく、より人間的で自然な創造性である。これを、「ナチュラル・クリエイティビティ」(自然クリエイティビティNatural Creativity)と呼びたい。「ナチュラル・クリエイティビティ」は、人間が持っている創造性のことであり、エネルギーで言うならば、太陽光や風力、水力などの「自然エネルギー」(natural energy)に対応するものである。

一部の希少な資源(石油や天才)に頼るのではなく、強力だが危うい技術(原子力や人工知能)に頼るのでもなく、各地域や組織のそれぞれの人が身の丈に合った小さな力(自然エネルギーやナチュラル・クリエイティビティ)を集めて活かしていくことこそが、これからの未来を切り拓く道である。

自分たちで「つくる」時代である創造社会は、各人のナチュラル・クリエイティビティを高め、それを活かしていく方法や組織、文化が重要となる。そのためには、現状の考え方ややり方から変化させなければならない。創造的なシフト、すなわち「クリエイティブシフト」が不可欠である(これが僕の会社「クリエイティブシフト」の名前の由来である)。僕は、パターン・ランゲージを始めとする言語化・共有の方法を駆使して、このナチュラル・クリエイティビティの支援を行なっていきたい。

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創造社会論 | - | -

アンリ・ベルクソン『笑い』から考えるパターン・ランゲージのつくり込み

アンリ・ベルクソンの『笑い』を読んで、メインテーマの「笑い」や「可笑しさ」についてではない箇所で、とてもきになる箇所があった。

僕がパターン・ランゲージをつくり込むということや作家性ということで語っていることに関係することを、言葉にしてくれているところがあった。

正劇の芸術が他の芸術と同様の目的を持つと述べているところで、ベルクソンはこのようなことを書いている。

「この芸術は【個人的なもの】をつねに目指すと言える。画家がキャンバスに定着させるのは、ある場所である日のある時間に、二度と眼にすることがきない色彩と共に彼が見たものである。詩人が詠うのは、彼自身の、彼自身だけの心理状態であり、それは二度と現れない。劇作家がわれわれの眼前に描き出すのは、ひとつの魂の展開であり、感情と出来事によって編まれた生き生きとした連なりであり、つまり一度出現すれば二度と起こりえないものだ。この感情に一般的名称を与えても無駄だろう。なぜなら、別の魂においてはこれらの感情はもはや同じではないからだ。それらは【個人化されたもの】なのである。何よりもそれによって、これらの感情は芸術に属する。というのも、一般性、象徴、類型そのものは、こう言ってよければ、われわれの日常的知覚の通貨であるからだ。一体どこからこの点についての誤解が生じるのだろうか。
非常に異なった二つのもの、すなわち、対象の一般性と、われわれが対象について下す判断の一般性とを混同したというのがその理由である。ある感情が一般的に真実だからといって、それが一般的感情であるわけではない。」(p.149-150)


パターン・ランゲージをつくり込むとき、その内容の素となる「種」は確かに、マイニング・インタビューや自分たちの経験、文献に書いてあることなど、誰かの経験がもとになっている。しかし、それを探究し、掘り下げ、言葉に換えていくなかで、どのような表現にまとまるかは、そのつくり手に依存していると、僕は考えている。これは、同じ事実をみたとしても、作家によって、異なるノンフィクションの作品がつくられるというのと同様の事態だと思う。つまり、そこには、どこを切り取り、どう料理し、どう表現するかというところで「その作家らしさ」が不可避的に入る。「作家性」が反映されるのである。ひろく繰り返し見られるものを、ある一人もしくは数人の作家性(一般性ではない)によってまとめる。

これは、それをつくった作者について強調したいわけではなく、そのようにして生み出されたものでなければ、「力をもたない」と、僕は考えているということである。つまり、ある実践の知を、「状況」「問題」「解決」「結果」の形式で記述し、それに「名前」をつけたとしても、たしかにパターンの形式では書かれているが、それが目指している「名づけ得ぬ質」に向かう後押しをするのかというと、そうとは限らない。形式状は、パターン・ランゲージであっても、マニュアルやレシピに近い、「行為」が書かれているに過ぎないことが多い。そこには、それがもつべき世界観も、質感も備わっていない。

これは俳句を例にとるとわかりやすいかもしれない。人の心を動かし、世界の見え方を変えるような作品としての俳句は、質や世界観を備えている。5、7、5で書いたからといって、俳句になるわけではない。それは、単に、5文字、7文字、5文字で書かれた文章・フレーズに過ぎない。川柳にはなるかもしれないし、語呂は良いのでは覚えやすいものになるかもしれない(交通安全の標語のように)。同様に、パターン・ランゲージも、パターンの形式で書いたからといって、それが人を動かすような力をもつわけではないのである。

つまり、僕が本格的に関わる井庭研のプロジェクトでやっているようなパターン・ランゲージのつくり込みは、そのような力を宿す作業だと言える。ここでベルクソンが語っている芸術の世界である。パターン・ランゲージは、そのつくり込みを行ったメンバーが、そのとき、その場所でしか生み出せないものなのである。だから僕は、パターン・ランゲージは作家性が出る、と言うのである。

このことがわからない人にとっては、パターン・ランゲージは、おそらくマニュアルやレシピと変わらぬ便利なツールに過ぎないのであろう。実践ができれば、それでいいということなのだろう。それがある人の世界観になることはないし、ましてや多くの人の共有の世界観になるということもない、そういう道具主義的なレベルでのパターン・ランゲージを言っているに過ぎない。繰り返し現れる一般的な内容を、一般的な表現でまとめる。それでは、本当に力をもったものにはならない、僕はそう考えている。

それでは、そのようなつくり手に依存した作品は、個別的であって、他の人にとっては了解・共感不可能なものなのだろうか。いや、そうではない。

ベルクソンが語る次の箇所は、とても示唆的である。

「諸芸術はどれも特異だが、もし天才の刻印を担っていれば、最後には万人に受容されるだろう。なぜ人はそれを受け入れるのか。もしその分野において唯一のものであれば、いかなる徴しによってその芸術作品は真実だと認知されるのか。私が思うに、われわれがそれを真実だと認知するのは、真摯に物を見るよう芸術作品がわれわれに促すわれわれ自身に向けての努力によってである。この真摯さは伝達可能である。芸術家が見たものについては、われわれはそれをおそらく二度と見ることができない。少なくともまったく同様に見ることができない。けれども、芸術家が本気でそれを見たなら、ヴェールを取り去るために彼が傾けた努力は、模倣するようわれわれを急き立てる。彼の作品はひとつの模範であり、教えとして役立つ。この教えの効力に即してまさに作品の真理は評価される。だから、この真理は自身のうちに説得の力を、回心させる力そのものを含んでおり、それが真理を認知させる刻印となる。作品が偉大であればあるほど、そこに垣間見られる真理が深淵であればあるほど、作品の効果はより遅く現れるかもしれないが、それはまたより普遍的になるだろう。それゆえ、普遍性はここでは生じた効果のなかにあり、原因のなかにはない。」(p.150-151)


つまり、パターン・ランゲージをつくり込むときに、あれだけ真剣に、あれだけこだわり抜いて、内容や表現を磨いていくのは、それが「自身うちに説得の力」「回心させる力そのもの」を持たせるためである。つくり手たちのひとつの捉え方でしかないものが、多くの人の内側から効果を発揮するようなものになるのである。それはここで語られている芸術における特徴なのである。

僕は究極的には科学も同様だと考えているが、少なくとも、芸術とは、そういうものだと思っている。それゆえ、パターン・ランゲージをつくる力を磨くために、作家の創作論やエッセイ、インタビューをたくさん読んでいるのである。

61EnYij4QJL.jpg『笑い』(アンリ・ベルクソン, 合田正人, 平賀裕貴 訳, ちくま学芸文庫, 2016)
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