『思想としての社会学』(富永健一)
富永健一先生の待望の新著がついに出版された。
『思想としての社会学:産業主義から社会システム理論まで』 (富永 健一, 新曜社, 2008)
この本、手にとってまず最初に何が驚きかというと、その厚さ。なんと、全部で804ページ! なにはともあれ、この分量はすごい。もちろん、厚さだけでなく、内容もかなり充実している。
この本が目指しているのは、三世代にわたる9人の社会学者を取り上げ、19世紀から20世紀の社会学の潮流を総克するということだ。社会学の第一世代として取り上げられたのは、サン-シモン、コント、スペンサー、第二世代が、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、第三世代が、パーソンズ、シュッツ、ルーマンだ。
目次構成は次のようになっている。
昨年のSFC関連のイベントや日本社会学会でお会いしたときには、すでにこの本の執筆が最終段階だとおっしゃっていた。それ以来、僕がこの本をとても心待ちにしていたのは、富永先生の新著だからというのはもちろんのこと、「20世紀の社会学を締めくくる最後の章に、ルーマンを選んだ」というお話を聞いたからだ。このことはつまり、社会学において異端的な存在として捉えられることが多かったルーマンを、社会学の中心的な流れに位置づけ直す、ということを意味している。そのような本が楽しみでないはずがない。
このような位置づけで、ルーマンが最後の章に登場することになったという。しかも、単にルーマンを解説するということではなく、第三世代の社会学者としてのパーソンズとシュッツ、ルーマンの三つ巴の関係を論じている。富永先生がお詳しいパーソンズとの関係性については、特に念入りに書かれている。そのあたりの内容については、次の機会に詳しく書くことにしたい。
ここで、この本の紹介から少し離れて、富永先生について少し僕の思い出を。富永先生は、1990年代にSFCで教鞭をとられていた。当時学部生だった僕は、富永先生の「社会動態論」の授業をとって、社会へのまなざしについて学んだ。富永先生は静かでやわらかい感じの方だが、そのやわらかな話に引き込まれて、かなりの影響を受けた。当時映像制作ばかりやっていた僕が、その授業をきっかけに、社会についてももっと知り、もっと考えたいと思うようになった(その結果、僕は竹中平蔵研究会で環境問題の経済学を研究することになったわけだ)。
ちなみに、富永先生の以前の著作である『現代の社会科学者:現代社会科学における実証主義と理念主義』(富永健一, 講談社学術文庫, 1993)も、素晴らしい本だ。社会学の潮流を、具体的なレベルの解説まで含めて書かれていて、ためになる。僕の研究会でも何度か読んだことがある。この本が絶版になっているのが信じられない。ぜひ復刊してほしいと思う。
この『現代の社会科学者』が、社会学における様々な流れの紹介であったのに対し、『思想としての社会学』が目指しているところは、社会の「思想」としての社会学を論じるというところにある。この本から学べることは、実に多くありそうだ。
(つづく)
『思想としての社会学:産業主義から社会システム理論まで』 (富永 健一, 新曜社, 2008)
この本、手にとってまず最初に何が驚きかというと、その厚さ。なんと、全部で804ページ! なにはともあれ、この分量はすごい。もちろん、厚さだけでなく、内容もかなり充実している。
この本が目指しているのは、三世代にわたる9人の社会学者を取り上げ、19世紀から20世紀の社会学の潮流を総克するということだ。社会学の第一世代として取り上げられたのは、サン-シモン、コント、スペンサー、第二世代が、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、第三世代が、パーソンズ、シュッツ、ルーマンだ。
目次構成は次のようになっている。
序章 日本の近代化と西洋思想―――福澤諭吉
第1部 サン-シモン、コント、スペンサー
第1章 産業主義の思想―――サン-シモン
第2章 実証主義の思想―――オーギュスト・コント
第3章 自由主義の思想―――ハーバート・スペンサー
第2部 デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー
第4章 機能主義の思想―――エミール・デュルケーム
第5章 相互行為主義の思想―――ゲオルク・ジンメル
第6章 理解社会学と比較近代化の思想―――マックス・ヴェーバー
第3部 パーソンズ、シュッツ、ルーマン
第7章 行為と社会システムの思想―――タルコット・パーソンズ
第8章 現象学的社会学の思想―――アルルーマンフレート・シュッツ
第9章 「社会」の思想―――ニクラス・ルーマン
昨年のSFC関連のイベントや日本社会学会でお会いしたときには、すでにこの本の執筆が最終段階だとおっしゃっていた。それ以来、僕がこの本をとても心待ちにしていたのは、富永先生の新著だからというのはもちろんのこと、「20世紀の社会学を締めくくる最後の章に、ルーマンを選んだ」というお話を聞いたからだ。このことはつまり、社会学において異端的な存在として捉えられることが多かったルーマンを、社会学の中心的な流れに位置づけ直す、ということを意味している。そのような本が楽しみでないはずがない。
「ルーマンに二十世紀最後の時点において社会学二〇〇年の歴史を総克するという役割を与える」(p.655)
このような位置づけで、ルーマンが最後の章に登場することになったという。しかも、単にルーマンを解説するということではなく、第三世代の社会学者としてのパーソンズとシュッツ、ルーマンの三つ巴の関係を論じている。富永先生がお詳しいパーソンズとの関係性については、特に念入りに書かれている。そのあたりの内容については、次の機会に詳しく書くことにしたい。
ここで、この本の紹介から少し離れて、富永先生について少し僕の思い出を。富永先生は、1990年代にSFCで教鞭をとられていた。当時学部生だった僕は、富永先生の「社会動態論」の授業をとって、社会へのまなざしについて学んだ。富永先生は静かでやわらかい感じの方だが、そのやわらかな話に引き込まれて、かなりの影響を受けた。当時映像制作ばかりやっていた僕が、その授業をきっかけに、社会についてももっと知り、もっと考えたいと思うようになった(その結果、僕は竹中平蔵研究会で環境問題の経済学を研究することになったわけだ)。
ちなみに、富永先生の以前の著作である『現代の社会科学者:現代社会科学における実証主義と理念主義』(富永健一, 講談社学術文庫, 1993)も、素晴らしい本だ。社会学の潮流を、具体的なレベルの解説まで含めて書かれていて、ためになる。僕の研究会でも何度か読んだことがある。この本が絶版になっているのが信じられない。ぜひ復刊してほしいと思う。
この『現代の社会科学者』が、社会学における様々な流れの紹介であったのに対し、『思想としての社会学』が目指しているところは、社会の「思想」としての社会学を論じるというところにある。この本から学べることは、実に多くありそうだ。
(つづく)
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