井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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西洋と東洋の思想を行き来して考える:『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んで

藤田 正勝著『西田幾多郎:生きることと哲学』を読んだ。勉強になったとともに、「無我の創造」やパターン・ランゲージなど、自分がいろいろ考えていることや研究していることとつながり、とても面白かった。自分的に面白かったところを引用しながら、考えたことをメモしておきたい。

ベルクソンの「直観」について西田は、「物自身になって見るのである」と「之と成って内より之を知る」と説明し、自らの立場も次のように述べている。

「我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。」(西田幾多郎『善の研究』)

「事柄は外からではなく、事柄自身になってはじめて把握されるという考えは、初期の思想だけではなく、西田の思想全体を貫くものであった。後期の著作のなかでくり返し用いられている「物となって見、物となって考える」という表現がそのことをよく示している。」(p.60)

ここで言われていることは、僕が「あるべきかたちに従う」という「無我の創造」で言わんとしていることに通じていると思う。ティク・ナット・ハンも、物と一体化するという話をしている。最近、僕も、「無我の創造」を説明するときに、この「つくっているそのものになる」という言い方をするようにしている。そうすることで、「私」を抜くというよりも、感覚的に実際にやっていることが近くなるからだ。つくり手の視点を者の側に移すということではなく、そのものになる。そのものとして世界を認識する。本当はそのものではなく創造システムに従うのだけれども、わかりにくいので、思い切ってつくっているそのものになる(一体化する)という言い方の方がわかりやすいようだ。

しかも西田も、この話に関連して芸術の話を取り上げており、さらに共鳴する。

「事柄は外からではなく、それに没入し、それと一つになることによって初めて把握されるという考えが、西田の「純粋経験」論の根底にある・・・そのような経験のモデルを西田はしばしば芸術のなかに求めている。」(p.62)

「たとえば「純粋経験」において主客が人等になっていることを説明するために、「音楽家が熟練した曲を奏する」場合が例として挙げられている。」(p.62)

私がこの曲を演奏するという主客の関係にあるのではなく、「私」という主体の意識がなくなり、曲(演奏)そのものになる、曲(演奏)に成りきるという感覚でことであろう。

「行為そのものに没入した境地において究極の芸術が成立するという考えを西田は早い時期から抱いていた。」(p.65)

僕が小説家と物語の関係を用いて「無我の創造」の話を展開するのに重なる。このあとさらに興味深い話につながっていった。感情ということについて。

「西田は芸術とは何かを問い進めていく上で、最初に重要な示唆を与えたのは、ヴィルヘルム・ディルタイ(1833-1911)の思想、とくにその想像力論であった。」(p.70)

「ディルタイの考えを承けて、西田もまた「感情」をあらゆる精神現象の根底にあるものとして、そしてそれ自身を表出する動的な活動として理解している。「人心の奥深く潜める動く或る物」という言葉で「感情」を言い表している。「感情」は、単なる意識現象の一領野ではない。むしろあらゆる意識現象の根底にあってそれらを支えている。」(p.71)


西田は次のように言う。

「私は感情というのは精神現象の一方面という如きものではなくして、寧【むし】ろ意識成立の根本的条件ではないかと思う。」(西田幾多郎「美の本質」)

ここに、クリストファー・アレグザンダーのいう「deep feeling」との関係を、僕が感じる。つまり、表面に表れる感情(エモーション)ではなく、奥底の人間としての深い感情(ディープ・フィーリング)のレベルへの注目。パターン・ランゲージが個を突き抜けた普遍へと至るのは、このディープ・フィーリングの地層まで降りていくからである。


「西田は『善の研究』において、「純粋経験」が何であるかと説明するにあたって、それが「主客の対立」以前の経験であるとともに、「知情意」が一つになった経験であることを述べていた。」(p.72)

パターンを仕上げていくこきに、何をしているのかを説明するのが難しいのは、まさに、ここに書かれているような「「知情意」が一つになった」状態を自分のなかでシミュレートして体感し、その内容と記述を手直ししていく、そういう感覚が僕にはある。


「われわれの自覚的ん意識の根底に、過去の出来事が生き生きと生命を保った「意識の流れ」、現在の感覚と過去の思い出とが直接に結合するような「生命の流れ」が存在することを西田はここで考えている。それはまた、視覚や嗅覚といったさまざま作用が内面的に結びついた場でもある。あるいはまた、われわれが他者の意識に直接触れうるような、「我と彼と身分以前の自我」の場でもある。そのような「意識の流れ」を西田は「先験的感情」という言葉で言い表したのである。西田が「内的生命」という言葉で言い表しているものが、この「先見的感情」と結びついたものであることは、言うまでもないであろう。」(p.74)

ここで言われていることこそ、村上春樹が小説を書くときに降りていくという「地下二階」のことではあるまいか。また、河合隼雄が個を突き抜けた普遍に至る奥深い水脈というものであろう。そして、アレグザンダーが、デザインの理を表面的な「好み」(taste)ではなく、奥深い感情(deep feeling)に合うようにつくるべきであるというその人間が共通しているdeepな基層、そのことに通じる話である。こういうことが、日本において、西田幾多郎がすでに語っていたということは大変興味深い。ぜひこのあたりのことは、西田本人の著作を通じて、より理解を深めていきたいところである。


「「絶対意志の立場」ないし「純粋視覚の立場」に立つとき、意識の深層にあった「感情」が物のうちに移され(映され)、色が「生きたる色」になる。あるいは生命によって満たされる。そのように生命に満たされた「芸術的対象」がただちにわれわれの手を動かすに至る、それが芸術的創造作用なのである。」(p.75)

「西田が芸術的創造作用を重視するのは、そのような「感情」が知的範疇を超えたもの、つまり知によっては捉えられないものであるからである。「感情は分析することのできない己れ自身の深い内容を有つ」と言われている。この「感情」の「深い内容」は、それを分析することによってではなく、ただ「之と共に動く」ことによってのみ把握される。芸術はまさにその「感情」の内容とともに動くことによて、それを対象化する働きであると言うことができる」(p.75)

僕には、この「分析することのできない己れ自身の深い内容」ということが、アレグザンダーの言う「名づけ得ぬ質」に重なって見える。西田は、芸術とはどういうことかという観点で考えているが、アレグザンダーが、それを一部の人の特殊な行為としてではなく、そこに住む人たちにひらく方法を探究し、パターン・ランゲージというものに託したと言える。

さらに、行為と環境との関係についても重要なことが書かれていた。

「われわれの行為は一面においては、もちろんわれわれの意志に基づく行為であり、われわれの意図を実現する行為である。しかし、ただそれだけにはとどまらない。われわれの自己自身を実現する行為は同時に、「環境が環境自身を限定する形成作用」とも考えられる。「環境」という言葉のもとには、単なる自然の環境ではなく、むしろわれわれ一人一人に対して人格的に行為することを迫る客観的世界 — ヘーゲルの言う人倫に比せられ、「客観的精神の世界」あるいは「共同的精神の世界」とも呼ばれている — が考えられている。われわれの行為は、単に自己自身からではなく、むしろこの客観的世界から発現する。そしてわれわれの行為がこの「客観的精神の世界」を作ってゆく。言いかえれば、われわれの行為を通して客観的世界がそれ自身を完成していく。このような意味でわれわれは「社会的・歴史的世界」のなかに生きている。この「社会的・歴史的世界」を西田は「もっとも具体的なる真実在」と考えるのである。」(p.118)

この部分を読んで、これは、人間行為のパターン・ランゲージ3.0が、単に自発的な行為だけを支えているのではない、ということに気づかされた。例えば、コラボレーション・パターン(コラパタ)。コラパタは、プロジェクトやチームにおける実践のコツが書かれているが、それは同時に、チーム全体としてうまくいくために、個々のメンバーに求められていることでもあると捉えることができる。言い換えるならば、自分がそれをよいと思い実践するということと、チーム全体をよりよく機能させるために求められていることでもあるということだ。

つまり、パターン・ランゲージは、能動的なものと求められている受動的なものとを、中動的に結ぶ(橋渡しをする)という機能も担っているのである。個々人の視点からは抜けやすかったり、気づきにくかったりする全体からの視野を、個々人が自分の内側から捉えよいと思える実践に織り込むことで、全体がうまくまわるようになる。コラボレーション・パターンや、先日井庭研でつくって共有した「クリエイティブ・コミュニティ・コード」などは、そういう働きもしてくれるのである。

今の例は、社会的な(socialな)次元への方向であるが、プレゼンテーション・パターンが、プレゼン全体がうまくいくために、個々の段階で何をどう考えるべきか、ということがまとめられている。そういうように、環境との関係が自身の内側からの視点に織り込まれるところに、パターン・ランゲージの力と可能性があると僕は思う。

そして次のような、西田の「ポイエシス〔制作〕」の話は、より深く理解したいところである。

「西田はまた、この「行為」が単なる身体的な動作ではなく、物を作ること、つまり「ポイエシス〔制作〕」という性格をもつことを強調する」(p.134)

「実践ということは、制作ということでなければならない。我々が働くということは、物を作るということでなければならない。制作を離れて実践というものはない。実践は労働であり、創造である。行為的自己の立場から世界を見るというのは、かかる立場よりすることでなければならない。」(西田幾多郎「論理と生命」)

「われわれの身体は単なる生物的身体ではなく、「表現的」な意味をもつ。表現的なものに動かされ、表現的なものを作りだす。しかし、「制作」は単なる刺激に対する反応ではない。「歴史」をその拝見にもつ。・・・つまり、物を作り、行為するにしても、ただ単に物を作り、行為するのではなく、どう行為すべきか、何を制作すべきかと言う課題を歴史から与えられながら行為し、制作するのである。」(p.136)

「我々の身体的自己は歴史的世界に於て創造的要素として、歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現するのである。歴史的世界は我々の身体によって自己自身を形成するのである……。」(西田幾多郎「論理と生命」)

「歴史の課題を意識しながらなされる物を作るという行為が、単なる私の、内に閉じこもった行為ではなく、歴史的世界がそれ自身を形作っていく手段であること、そのような意味でわれわれが歴史的世界の「創造的要素」であることがここで言われている。」(p.137)

これは世界が世界になろうとするという視点であり、物語は物語になろうとする(宮崎駿)ということを、「無我の創造と」して実現させるということと似た視点の持ちようである。いずれにしても、パターン・ランゲージでは、そのような視点も踏まえて、「どう行為すべきか、何を制作すべきか」ということを引き継ぎ、次の実践へと活かすという橋渡しをする。パターン・ランゲージをつくるということは、そのような「歴史」「環境」、そして世界の成り立ちを、行為・実践の観点から理解していくということに他ならない。言い方を変えると、僕らは、パターン・ランゲージをつくりながら、行為・実践の観点から物事・世界を見て、その連関のシステム(系・体系)を理解しようとしているということになる。その複雑なシステムを理解していこうという取り組みは、僕が複雑系の研究から、研究の道をスタートしたということと無関係ではないのである。


最後に自己を超えたものに関する部分が面白いので、取り上げたい。

「自己の底に徹して、自己を自覚的に把握するとき、われわれは、「絶対無限なるもの」に、つまり自己を超えたものに出会う。しかし、この自己を超えたものは、自己の単なる他者ではない。まさにそこに西田の宗教理解の大きな特徴がある。」(p.151)

「一般的には、宗教における絶対的存在は自己の外にあると言われる。しかし、西田は、絶対的なものをそのように単に超越的な存在として捉えることに反対する。・・・われわれがわれわれの自己の底に徹したときに出会われる絶対的に無限なものは、「自己がそこからと考えられるもの」、つまり自己の根底にほかならない。われわれはそこでわれわれを生かしているものに出会うのである。」(p.152)

この「自己と絶対的存在(自己を超えたものでありつつ、自己の根底である存在)」の二重性への視座が西田哲学の重要な部分であると思う。自己とは異なる他者に神を見るのではなく、その自己の底に無限なる絶対的な存在を見るのである。

この根底の話は、何度も取り上げている、村上春樹の地下二階が他の人にも通じるという話や、河合隼雄が「個を突き抜けた普遍」として語ること、そして、アレグザンダーが「deep feeling」と呼ぶ層の話に、通じていると僕には思えるのだ。というよりも、そこがつながると、とても面白いと感じている。

最後に、西田幾多郎の哲学が何をしようとしていたのかということについて、自分の学問の立ち位置を考える上で示唆的なところがあったので、取り上げて締めくくることにしたい。西田は西洋哲学も学び活かしながら、東洋思想との関係のなかで哲学したということについてである。それは、僕ら日本人が哲学し研究することにどのような可能性があるのか、ということでもある。


「西田のなかに生きていた東洋思想の伝統・・・・そのような伝統を踏まえて、西洋哲学が前提にしていた思索の枠組みを明るみに出し、それを突破し、事柄そのものに迫るということが可能になったのではないだろうか。あるいはより正確に言えば、東洋と西洋のはざまに立って、西田は西洋哲学を相対化し、それがはらむ問題点を掘り起こしていったように思われる。」(p.161)

「西田は「純粋経験」について語ることによって、まさにそのような西洋哲学の「人工的仮定」に光を当てたということができる。そしてそれが可能であっったのは、西田が西洋のそれとは異なった言語的、文化的前提に立って思索する人であったからであろう。・・・主語を必ずしも必要としない日本語の場合には、ヨーロッパの緒言説に見られるような主体=主語の優位性は存在しない。そのことと、西田が「主観-客観」という構図から描かれる以前にそのまなざしを向けたことは、決して無縁ではないと考えられる。」(p.192-193)

「日本の伝統的な文化のなかでは、無心ということ、あるいは己れを空しくするということが理想の境地として語られてきた。そのようなことも、西田のものの見方に深く影響を与えたと考えられる。」(p.193)

「西田は東洋の思想を外から眺める眼をももった人であった。晩年しばしば東洋思想には論理が欠けているという批判を行い、しきりに「東洋の論理」を構築する必要性について語っている」(p.161)

「西田は、西洋文化が「有を実在の根柢と考える」のに対し、東洋文化は「無を実在の根柢と考えるもの」であらるというように、二つの文化を類型化し、対比的に論じている。「無の思想」という言葉で東洋の — 具体的にはインド、中国、日本の — 文化に見られる共通の特徴が言い表されているのであるが、しかし同時に、そこに存在する差異にも目が向けられている。西田によれば、インドの無の思想が「知的」な正確を強くもつのに対し、中国の無の思想は「行【ぎょう】的」な正確を強くもつ。それに対して日本の無の思想は「情的」な特質をもつ。」(p.164)

「「絶対の無」はもちろん単なる無ではなく、そこには「深い内的生命」、あるいは「無限なる生命の流」がある。「場所」が自己のなかに自己を映すということが、ここではこの「内的生命」の自己表現、つまり「生命が生命自身を限定すること」として捉えられている。(p.165)

「この「空間的」に、つまり形をもった「有」として固定化できない「無限に動くもの」に目を向け、それを把握し、それを表現しようと試みてきたところに日本文化の特徴がある、というように西田は考えていたと言ってよい。そしてそれを「情的文化」といように言い表すとともに、その特徴について次のように述べている。「情的文化は形なき形、声なき声である。それは時の如く形なき統一である、象徴的である。形なき情の文化は時の如くに生成的であり、生命の如くに発展的である。それは種々なる形を受容すると共に、之に一種の形を与え行くのである。」(p.166)

いま論理だってうまくは言えないが、パターン・ランゲージで僕らが目指しているのは、こういうことであると共感する。

話を西洋と東洋の学問という話に戻すと、西田幾多郎は、「学問的方法」という講演のなかで、次のように語ったという。

「我々は……何処までも世界文化を吸収して発展して行かなければならない。併し我々はいつまでも唯、西洋文化を吸収し消化するのでなく、何千年来我々を孚【はぐく】み来った東洋文化を背景としてあたらあしい世界的文化を創造して行かねばならぬ」(西田幾多郎「学問的方法」)

「西田は日本の精神的な伝統の最大の「弱点」を、それが「学問」として発展しなかった点に、言いかえれば、厳密な学問的方法の基礎の上に構築された理論として展開されなかった点に見ている。まさにその弱点を克服するために西田は、日本の精神的な伝統に対して、それ自身を「空間的な鏡」に映し出すこと、つまり、異質な文化との対決ないし対話を通してそれ自身の不十分性を明らかにすること(「自己批評」)を求めたのである。」(p.170)

「私は仏論理には、我々の自己を対象とする論理、心の論理という如き萌芽があると思うのであるが、それは唯体験と云う如きもの以上に発展せなかった。それは事物の論理と云うまでに発展せなかった。私は先ず西洋論理と云われ流ものを徹底的に研究すると共に、何処までも批判的なるを要するのである。」(西田幾多郎『日本文化の問題』)

「「事物の論理」にまえで発展しなかったという仏教思想の限界を、西田はまた「意識的自己の問題に止まって制作的自己の問題に至らなかった」という言葉でも言い表している。」(p.176)

この点に関して言えば、僕は、オートポイエーシスのシステム理論という理論的基盤と、パターン・ランゲージという方法を用いて取り組んでいこうとしていると言える。

「我々は深く西洋文化の根柢に入り十分に之を把握すると共に、更に深く東洋文化の根柢に入り、その奥底に西洋文化と異なった方向を把握することによって、人類文化そのものの広く深い本質を明らかにすることができるのではないかと思うのである。それは西洋文化によて東洋文化を否定することでもなく、東洋文化によって西洋文化を否定することでもない。又その何れか一の中に他を包み込むことでもない。却って従来よりは一層深い大きな根柢を見出すことによって、両者共に新しい光に照らされることである。」(p.172)

めちゃくちゃ、かっこいい。まさに、こういうことがやりたいです!西田先生!

『西田幾多郎:生きることと哲学』(藤田 正勝, 岩波書店, 2007)

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