井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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「2年後」の決意

ちょうど2年前の今日、僕は脳出血で救急車で病院に運ばれ、入院した。その日は、なんてことない日だった。自宅の書斎で英語論文の仕上げ修正を行なっていた。そのあと大学で研究会(ゼミ)があり、その後、夕方からイベント登壇して対談の予定だった。その頃、いつものように毎日たくさん仕事し、とても疲れていた。その日、妻は、様子のおかしい僕を見て、もう仕事に復帰できないだろうと感じたという。それほどのひど状態だったということだ。

脳出血の原因は最終的には特定できていないのであるが、状況から判断するに「疲れて血圧が高めだったところに、ストレスでさらに血圧が上がり出血したのではないか」というのが、最終的な診断だ。右脳の出血だった。僕が得意な領域を司る右脳。

実は、救急車で運ばれたときも、入院したときも、僕自身はほとんど自覚症状がなく、「今日登壇の予定だったのに、対談相手と来場者に申し訳ない」ということと「来週、楽しみにしていた忘年会の予定があったのに、行けなそうで残念だなぁ」くらいの気持ちだった。でも、周囲に言わせれば、僕が話すとろれつがまわっていない(らしい)し、文字でのメッセージや投稿は、誤字脱字が相当ひどかった(これはあとで自分でも確認できた)。担当医師いわく、出血した箇所がマシだったので「この程度で済んだのだ」ということだった。

そんなわけで、ことの重大さを自分が本当に実感したのは少し経ってからのことだった。後遺症は、左半身の麻痺、左半空間無視(視野では見えているのに認識の際に取りこぼされる)、高次脳機能障害。舌が思うように動かず、しゃべりは相当ゆっくりになり、元気がない。ちょっとしたことを忘れやすく、同時に複雑なことを並行してすることが困難になった。電車は逆方向に乗ってしまうし、降り損ねたり、違う駅であると気づかずに改札を出てから見知らぬ景色に呆然としたりする。僕の脳のなかでは、出血によってその周囲の脳細胞が死んでしまい、いろいろ不都合が起こっていた。認知症の方とその家族のためにつくったパターン・ランゲージ『旅のことば』が、自分自身と家族にとても役だったし、救いになった。

その後3ヶ月は仕事は休ませてもらい週5のリハビリに通い、そのあとさらに3ヶ月は、最低限の仕事を再開しながら、週2〜3でリハビリを続けた。半空間無視があったので、運転免許は一度止まり、移動もしんどくなった(その後、リハビリが進んでから、医師の診断と運転試験場での操作検査の結果、許可が得られた)。

幸いにも、倒れたあと約半年後(2018年8月)から1年間はサバティカル(在外研究)が決まっていたので、日本を離れ、米国オレゴン州ポートランドで研究に集中するという期間に入った。今回は、このような経緯もあったので、自分のペースで、休み休み研究・執筆をした。これも一緒のリハビリのようなもので、少しずつ少しずつできるようにしていった。

それでも、30分集中して読書したり執筆したら、脳がオーバーヒートして、つっかえた感じで重く(痛く)なり、20分くらい横になって少しうとうとしないといけないような状況は、そのときも、いまもある。2019年末の今でも、そういう状態なのだ。

ポートランドでは郊外に住んでいたこともあり、日本とはぜんぜん異なり、時間がとてもゆっくりと穏やかに流れていた。そのような環境で自分のペースで仕事ができたのは、僕の身体・精神的にもとてもありがたいことであった。話すことも、以前のようには楽ではないし、うまく舌がまわらない感じが(本人には)するのであるが、スピードはだいぶ戻った。1年間のサバティカルの期間はとても助かった。

そういう生活を、サバティカル終了後(2019年8月〜)、日本でも心がけなければならない。予定が増えないように結構気をつけていたが、やっぱり実際には難しかった。実は、大学の執行部は、僕のことを心配して、重たい仕事を外してくれている(とてもありがたいことだ)。井庭研のメンバー(学生)たちも、僕のことを気遣ってくれている。みんな本当にやさしく、ありがたい。さっきも書いたが、依然として、後遺症を抱えた身なので。

しかし、僕の状況を(おそらく)知らない外部の人たちは、どんどん依頼や打ち合わせや相談や面会を求めてくる。僕はもともと、そういうお願いには応えたいという気持ちが根底にある。そんなわけで、以前はすべて受けてきたし、相談にもほぼすべて乗ってきた。しかし、それゆえ、ひどく疲れ、ストレスが高まり、倒れたわけだ。なので、その応えたいという気持ちを抑えて、きちんといますべき対応をしていかなければならない。しかし、実際には、かなり控えるつもりでいた登壇や打ち合わせや相談や面会は、あれよあれよと膨れ上がり、倒れる前のように、ひどく疲れる生活に逆戻りしてしまった。このままでは本当にもたない。かなり厳しい状態だ。

いまは薬を飲んでいるからとはいえ(入院後から2年間、血圧を下げる降圧剤を毎日飲んでいる)、以前と同じような生活をしていたら、また倒れてしまう。「二度目は一度目のようには軽くはなく、致命的になりやすい」と言われているし、本当に気をつけなければならない。このままでは、本当に死んでしまう。このような生活をしていてはだめなのだ。

倒れてから2年目の今日。改めて心に誓う。来年は、本当に自分が疲れるような仕事・予定を入れないようにする。徹底的に排除する。たとえば、人に会うのはとても疲れるのだ。そして、予定にがんじがらめにならないように、ざっくりとしたスケジュールだけにして、細かく予定を入れ込まない。これは本当に死守しなければならない。

そのことで「自分勝手な人だ」と思われても構わない。そんな人にそう思われないということよりも、死なずに生き続けることの方が圧倒的に重要だからだ(本当に近く理解してくれている人ならば、そんなことを思わないだろう)。「嫌われてもよい」という覚悟が今の僕には必要だ。そもそも八方美人的に誰にでもよい顔はできないのだ(つい、そうしようとしてしまって、自分の事情を後回しにしたりしわ寄せしてしまったりするが)。

つまり、みんなに「いい人」であるのをやめようと思う。「いい人」であろうとして、死んでしまっては、「いい人」の「人」が抜けて、ただの「いい」だけになる。そんなこと、ぜんぜん意味がない。

幸い、なんでも自分でやってしまおうとしがちな僕も、倒れてからは仲間により頼ざるを得なくなり、その結果、いろいろなことを仲間に委ねることができるようになった。そして、よいことに、それがかなりよい感じだということだ。だから、僕がこれまで一人でやってきたようなことも、いまはチームでしているし、そのことに新しい可能性を感じている。

それゆえ、来年は、こういうことにしたい。

講演やワークショップの機会自体はありがたいものも多いのだか、以上の理由により、講演やワークショップは僕自身がするのではなく、チームで受け、仲間にしてもらうようにする。さらに、僕やメンバーが予定でがんじがらめにならないように、講演に向けての打ち合わせは一切やらない。そういう事前打ち合わせをしないと不安な人・うまく実施できない組織からの依頼は受けないことにする。要望があるなら、メールでもらえれば十分。相談・面談なども、僕は受けない。仕事になるなら、チームですることになるので、僕でなくメンバーと打ち合わせてもらう。その人に応えたいとは思うが、それによって、本を書く時間が減れば、多くの人に届けることができなくなってしまう。だから、僕がやるべきことの全体を踏まえると、そうさせてもらいたい。

得意なことはストレスを感じないし、疲れもたまりにくい。そのため、これからは、自分の得意なこと(周囲から見て得意そうなところではなく、僕がやりたいと思える得意なこと)に特化して、仕事を相当コントロールしていく。正直なところ、いまどんな小さな仕事でも、自分の命を削って差し出している気持ちが強い。みなさんにとってはたいしたことのない打ち合わせだとしても。だから、自分の時間と労力をどこにかけるべきかをかなり厳選し、大切にしていきたいと思う。

このことを、自分自身、改めて決心するとともに、周囲・つながりのある人にも、しっかり伝えておきたい。みなさん、よろしくお願いします。

p.s. なお、料理をしたり家事をしたり家庭菜園をしたりというのは、根を詰めることのないようにするための手段になっていて、集中していた頭を休め、身体の姿勢・動きを変えるためによい。「仕事」ばかりの日々に、ちゃんと「生活」を入れることは、今の僕にとってよいことだと感じている。どれも僕が疲れる対人的なものではなく、一人作業であるというのが、またよい。
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