井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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『10+1 web site』に論文を書きました

建築系のオンライン雑誌『10+1 web site』に論文を書きました。

「自生的秩序の形成のための《メディア》デザイン──パターン・ランゲージは何をどのように支援するのか?」(井庭 崇)


TenPlusOne2009Sep.jpg



今回の論文は、僕らのつくった「学習パターン」(Learning Patterns)の話から、教育と建築における問題の共通性について、そして自生的秩序の形成についての話から始まります。そのうえで、自生的秩序の形成を支援するメディアとして、パターン・ランゲージを取り上げ、それがどのように秩序形成に寄与するのかを考察していきます。

社会と思考の自生的秩序については、ニクラス・ルーマンの社会システム理論にもとづいて考察します。そして、創造における自生的秩序については、現在僕が構想中の「創造システム理論」(Creative Systems Theory)にもとづいて考えます。自分が今構想している最中の理論によって考察するということで、とても大胆かつチャレンジングな試みです(笑)。

創造システム理論というのは、創造のプロセスをオートポイエーシスの概念で捉えるというものです。つまり、創造は、心理的ななにかではなく、ひとつのオートポイエティックなシステムだ、と捉えるわけです。ルーマンが、「社会」を主体から離して定義したように、僕は「創造」を主体から離して定義します。心理学や認知科学の観点からの研究が多い「創造性」(クリエイティビティ)研究のなかではかなりラディカルな理論だと言えるでしょう。分量の制限や文脈の制約で、まだ理論の一部しか示せていませんが、創造システム理論について書くのは初めてなので、この部分はひとつの目玉です。

もう一つの目玉としては、オートポイエーシスの概念について、わかりやすい図を交えて説明しているという点です。図も説明の仕方も、自分なりに今回新たにつくり出したものです。

このように、今回の論文は、全体的にオリジナリティの高い内容になっていると思います。みなさん、ぜひ読んでみてください(感想などお待ちしています)。


今回の特集テーマは「きたるべき秩序とはなにか──システム、パターン、アルゴリズム」ということで、ほかには、濱野智史さんと柄沢祐輔さんが書いています。濱野さんの論文は、彼がこれまで論じてきた内容とうまく絡んでいてなかなか面白い。柄沢さんの論文は、彼が最近アルゴリズム建築としてつくった住宅の話が紹介されています。可能性としての手法の提案ではなく、実際に建築物をつくっているところがすごい。

たまたまなのか、編集者の方の意図なのかはわかりませんが、3人とも慶應義塾大学SFCの出身です。それぞれ異なる方向性に進みながら、このような場でまた交わることができるというのは、うれしいことです。


『10+1 web site』(http://tenplusone.inax.co.jp/)
2009年9月号
特集:きたるべき秩序とはなにか──システム、パターン、アルゴリズム

  • 「自己組織化は設計可能か──スティグマジーの可能性」
    (濱野智史  株式会社日本技芸リサーチャー/情報環境研究者)

  • 「自生的秩序の形成のための《メディア》デザイン──パターン・ランゲージは何をどのように支援するのか?」
    (井庭崇 慶應義塾大学総合政策学部/MIT)

  • 「アルゴリズム的思考と新しい空間の表象」
    (柄沢祐輔 建築家)
  • イベント・出版の告知と報告 | - | -

    別様でもあり得たことへの眼差し (機能分析とは何か? 後編)

    社会学者ニクラス・ルーマンは、ロバート・マートンの機能分析の議論を継承しつつ発展させた。ルーマンは、機能分析の意義を二つ指摘している。まず第一の意義は、マートンと同様、潜在的な機能への気づきを促すということである。

    「『潜在的な』構造や機能について解明することができる。つまり、対象システムにとって可視的ではない諸関係、つまりその潜在性それ自体がなんらかの機能を果たしているがゆえにおそらくは可視的になりえない諸関係を、取り上げることができる」(Luhmann, 1984:p.88)


    次いで、ルーマンが指摘する機能分析の第二の意義は、対象の比較可能性が開かれ、その機能を理解するときに、同じ機能を果たすが「現にあるもの」とは別のもの、について考えるきっかけとなるということだ。

    ルーマンの貢献は、機能の概念を、「複合性」、「コンティンジェンシー」、「選択」という概念と関係づけて明確化した点にある。これまでの機能分析の捉え方では、機能概念の明確さが欠けていたというわけだ。ルーマンの理解では、「現にあるもの」は別様である可能性を持っているという意味において、「偶発的」(コンティンジェント) なものである。つまり、「現にあるもの」は、可能なもののひとつの現れに過ぎず、必然的にそうなったのではない、という捉え方をするのだ。

    以上のことらもわかるように、機能分析では、その機能を満たす「現にあるもの」がなぜそれであったのか、という理由づけは行わない。「機能は決定するのではなくて、さまざまな可能性の同値性・等価性を規制するにすぎない。機能の機能は決定にあるのではなくて、ある前提されたパースペクティブとの関連で諸可能性の交換を規制することにある」(長岡, 2006, p.51) のである。なお、他でもありえた諸可能性の総体のことを、ルーマンは「複合性」(complexity) と呼んでおり、社会における現象を「複合性の拡大」と「複合性の縮減」という観点から捉えている。

    まとめると、機能分析の第一の意義は、顕在的機能だけでなく潜在的機能にも目を向けて考えることができること、第二の意義は、対象となる機能を満たす「現にあるもの」を、別様でもあり得た偶発的(コンティンジェント)なものとして捉え、機能的等価物を考えるきっかけを与えるということなのだ。


    【References】
    『社会システム理論〈上〉』(N.ルーマン, 恒星社厚生閣, 1993, 原著1984)
    『ルーマン/社会の理論の革命』(長岡 克行, 勁草書房, 2006)
    『新社会学辞典』(森岡清美, 塩原勉, 本間康平 (編集代表), 有斐閣, 1993)
    社会システム理論 | - | -

    「顕在的機能」と「潜在的機能」 (機能分析とは何か? 前編)

    社会学者ニクラス・ルーマンは、自らの拠って立つ「方法」を「機能分析」(functional analysis)だとしている。主著の『社会システム理論』のなかでも、「機能的方法は、結局のところある種の比較の方法なのであり、現実へそれをあてはめることは、現存しているものの別様のあり方の可能性を考慮して現存しているものを把握することに役立つのである」(Luhmann, 1984:p.84)として、機能分析の説明に多くのページを割いている。「機能分析」とは、もともと文化人類学で生まれ、その後、社会学において精緻化されていった方法であり、一種の理論技術だ。機能分析の基本的な考え方は、物事の「構造」ではなく、「機能」に着目して分析を行うというもの。

    僕は、クリストファー・アレグザンダーのパターン・ランゲージも、複雑系科学で行われるモデリング・シミュレーションも、「まぼろしのコンセプト」の話も、根底の部分では、この機能分析とつながりがあると考えている。それがどのようなつながりなのかを説明するために、まずは「機能分析とは何か?」について解説しておくことにしたい。


    ここでは、社会学における機能分析の整理を行ったロバート・マートン(Robert Merton, 1910~2003)の話から始めることにしよう。

    かつてマートンは、「機能分析は、社会学的解釈の諸問題を扱う現代の研究方針のなかで、もっとも有望である反面、おそらくもっとも系統立って整理されていない」(Merton, 1964: p.16) として、手法としての機能分析の要件を整理した。マートンの主張のなかで最も示唆的だったのは、機能分析によって「顕在的機能」だけでなく、「潜在的機能」について理解することが重要だという点だ。

    マートンは、機能分析について、雨乞いの儀式を例に説明する。ある部族が「雨乞い」の儀式を慣習的に行っているとしよう。この雨乞いの機能として考えられるのは、この儀式によって天候に影響を及ぼすという機能だろう。これを「顕在的機能」(manifest function)という。しかし、この機能の効果は、現代の私たちの知識をもってすると、期待できるものではないことがわかる。雨乞いをしたからといって、実際に天候が変わるわけではないのだ。それでは、この「雨乞い」の儀式は、非合理で無意味なものなのだろうか?

    RainMaking200.jpgここでマートンは、機能分析は「顕在的機能」を明らかにすることが目的ではない、と指摘する。その背後に隠された機能に注目することが重要だというのだ。雨乞いの儀式の場合、よくよく観察してみると、実はこの儀式にも隠れた機能が存在していることがわかってくる。その隠れた機能とは、部族が一体となって儀式を行うことで、部族内の連帯意識を強めるという機能だ。このような隠れた機能のことを、「潜在的機能」(latent function)という。この儀式の機能を「雨を降らす」という顕在的機能のみで判断すると、「合理的ではない」と判断せざるを得ないが、潜在的機能も考慮に入れると、その部族にとってきわめて合理的な儀式であることがわかってくる。

    今の話は、以前取り上げた「ストーン・スープ」の話と通じるものがある。石(ストーン)を煮ることは、表面的には意味がないが、それによって多くの村人が寄ってきて、協力しあうことになる。ストーン・スープの顕在的機能は「石のスープをつくる」ということだが、潜在的機能は「それによって多くの村人が協力しあうきっかけをつくる」ということである。潜在的機能は、あくまでも顕在的機能の背後で、潜在的に存在しなければならない。潜在的機能を表に出してみたところで、それだけでは機能しないのである。このことは、雨乞いの儀式と構図が似ているので、わかりやすいと思う。社会的な仕組みをデザインするときには、顕在的機能と潜在的機能の両方を考えることが重要となる。

    このように、機能分析では、顕在的機能のみならず、潜在的機能も併せて理解することが重要だ。これがマートンの主張した重要なポイントなのだ。

    【References】
    『社会システム理論〈上〉』(N.ルーマン, 恒星社厚生閣, 1993, 原著1984)
    『社会理論と社会構造』(ロバート・K. マートン, みすず書房, 1961)
    『社会理論と機能分析』 (マートン, 青木書店, 1969, 原著1964)
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    ハイエク、ルーマン、アレグザンダーをつなぐ

    最近僕は、経済学者/社会哲学者のフリードリッヒ・ハイエクと、建築家のクリストファー・アレグザンダーの思想を、社会学者ニクラス・ルーマンの社会システム理論を介してつなげることができないかと考えている。

    フリードリッヒ・A・ハイエク(1899年~1992年)は、「自生的秩序」や、その秩序を生み出す行動の「ルール」、そして「現場に分散する知識」などの概念を提唱している。クリストファー・アレグザンダー(1936年~)は、「成長する都市」や、建築における名づけ得ぬ質を関係性の「パターン」として捉え、その知識を「パターン・ランゲージ」として記述・共有することを提唱している。どちらも自生的な秩序形成と知識の役割について議論しているといえる。

    分野が異なるので、あまり比較されることがない二人であるが、とてもよく似た主張をしている。たとえば、ハイエクは、社会は「自然」と「人工」の間の「自生的な」存在であり、一部の人間が「設計」するということはできないと主張し、以下のように語る。

    「文明は人間の行動の産物、あるいはもっと正確にいえば数百世代の人びとの行動の産物である。しかしその意味するところは、文明が人類の設計というのではなく、また、文明の機能あるいはその存続が何に依存しているのかを人間が知っているということでもない。文明を構想しその創造に着手することのできる知性を前もって与えられている、とする人間の概念はすべて根本的に誤っている。人間は知性のなかでつくりあげたある型を世界にそのまま押しつけたのではなかった。人間の知性それ自身、環境適応の努力の結果としてたえず変化する一つの体系である。」(Hayek, 1960: p.39)


    このような観点から、ハイエクは、計画経済の社会主義を批判するのだ。一方、アレグザンダーも、建築の分野で次のように語っている。

    「町の創出や個々の建物の創出は基本的には一つの発生【ジェネティック】プロセスである。いかに数多くの計画や設計をもってしても、このような発生プロセスに置き換えることはできない。しかも、いかに数多くの個人的才能をもってしても、このプロセスに置き換えられない。」(Alexander, 1979: p.197)


    こうしてアレグザンダーは、建築家が都市計画や建築物を近代的な方法で設計するやり方について批判するのだ。

    社会の秩序は、自生的に(自己組織的に)成長することが重要なのであって、外から誰かがつくるということなどできない。だからといって、なんでもありというわけにはいかない。そこで、人びとの自由や創造性を阻害することなく、秩序を「育てていく」ための工夫が必要になる。ハイエクは抽象的な「制度」に着目し、アレグザンダーは抽象的な「パターン」に着目する。着目点こそ異なるが、目指すところは一緒なのだ。このほかにも、ハイエクとアレグザンダーには、秩序や知識の議論において共通点が多い。

    もちろん、両者には差異もある。それは、ハイエクは主に社会制度(体制)について考えるのに対し、アレグザンダーは建造物・空間について考えるという点だ。この違いは、同じ「自生的秩序」に注目しているものの、社会哲学者と建築家という違いからくるものだといえる。

    僕は、ハイエクとアレグザンダーの共通部分をとるのではなく、両者の和集合をとって、より包括的な自生的秩序&知識の理論が展開できるはずだ、と考えている(参照)。

    HLA200.jpgそのとき、実は二人とも具体的な秩序形成のメカニズムについては言及していないので、その部分を担う体系が必要となってくる。そこで、同じく自生的秩序観をもっていると思う社会学者ニクラス・ルーマン(1927年~1998年)の社会システム理論をあてがうとよいというのが僕の構想だ。


    以上の内容を、先月鹿児島で行われた進化経済学会で発表してきた。とりあえずは試論として、三者を同じ土台に載せるということはできたのではないかと思う。発表した場が進化経済学会だったこともあり、「ハイエクやルーマンは知っていたが、アレグザンダーは知らなかったのでその点が興味深かった」という感想を多くいただいた。また、研究の進め方についてもアドバイスをいただいたので、それを踏まえてさらに深めていきたいと思う。

    HLAhistory200.jpg今回、ハイエク、ルーマン、アレグザンダーの発表文献の年表もつくってみた。関係性を書き込んでいないので、まだ何ともいえないが、きっとここからもなにか見えてくるだろう。

    『ハイエク、ルーマン、アレグザンダー年表』(PDF, 井庭崇, 2008)


    ● 井庭 崇, 「ハイエク、ルーマン、アレグザンダー: 自生的な秩序形成と知識の理論」, 進化経済学会第12回大会, 鹿児島, 2008年3月
    社会システム理論 | - | -

    ORF2007 トークセッション「新しい社会の捉え方」

    2007年11月22日(木)に、Open Research Forum 2007 (ORF2007)のブックカフェにおいて、以下のトークセッションを行います。

    bookcafe2トークセッション
    「新しい社会の捉え方
     ~コミュニケーション・アイデンティティと現代~」
    (井庭崇 + 国友美千留)
    2007年11月22日 14:30~15:30
    ORF2007ブックカフェ内

    私たちは、流動的な現代社会を捉えるためには、従来のような主体概念に基づく把握から、「コミュニケーションの連鎖」によって把握するという視点への転換が必要だと考えています。このことは、コミュニティや組織、そして社会を、「存在するもの」(being)としてではなく、「絶えず生成されているもの」(becoming)―――しかも自分で自分を生成し続ける「自己生成的なもの」―――として捉えるということにつながります。

    このトークセッションでは、ニクラス・ルーマンの社会システム理論にもとづく「コミュニケーションの連鎖」としての社会観について、お話したいと思います。その場を共有することでしか味わえないような体感的なトークセッションを予定しています。ふるってご参加ください。

    Communication CommunicationSystem

    SFC Open Research Forum 2007
    「toward eXtremes: 未来創造塾の挑戦」


    日時:2007年11月22日(木)  10:00~21:00
        2007年11月23日(金・祝)10:00~19:00
    会場:六本木アカデミーヒルズ40(六本木ヒルズ森タワー40階)
       入場無料(お名刺をご持参ください)
    主催:慶應義塾大学SFC研究所
    HP:http://orf.sfc.keio.ac.jp/
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