井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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自分が「考える」ことの中心にいる。

クリストファー・アレグザンダーの『A Pattern Language』(邦題:パタン・ランゲージ)に、次のような言葉がある。

In a society which emphasizes teaching, children and students --- and adults --- become passive and unable to think or act for themselves. Creative, active individuals can only grow up in a society which emphasizes learning instead of teaching.

教えることを重視する社会では、子供や学生——また大人でさえ——が受動的になり、自分で考えたり行動できなくなる。教えることではなく、学ぶことを重視する社会になってはじめて、創造的で活動的な個人が育つ。

これは、"Network of Learning"(学習のネットワーク)というパターンの冒頭の文章である。まったくもってその通りだと思う。

教えよう、教えよう、とすればするほど、教えられる人はますます受け身になり、「与えられる」ことに慣れてしまう。これは、「教育」という営みが元来抱える葛藤だと言えるだろう。


そんなことをわかっていながら、僕はついつい「教える」モードになりがちで(基本的におせっかいなのだ)、その結果、学生たちの「自ら考える力」を弱めてしまうことが多い気がしてならない。

そういう背景(コンテクスト)があるので、先日書いた「教育しようなんて考えを、僕は捨てることにした。」という話になる。


さて、逆の立場からすると、「教えられない」「与えられない」としたら、どうしたらよいのだろうか?

自分で考え、行動し、学ぶ。

このことに尽きる。

自分が今、考えるべきことをしっかり考える。
自分が今、何を考えるべきかも自分で考える。
どう考えるかも自分で考える。


つまるところ、自分が「考える」ことの中心にいる、ということだ。


物事を自分を中心に考えるのは傲慢だが、自分が考えることの中心にいるのは素晴らしいこと。

しかし、自分で考えるというのは、実際にはかなり難しい。

それでも、それを抜きにすることはできない。実践あるのみだ。



もちろん、「自分で」というのは、「孤立」を意味するわけではない。

中心には必ず周辺が必要なのであって、システムには環境が必要なのと同様だ。



考える中心としての自分と、そこから広がるネットワーク。

もはや、教員 対 学生、という二者関係では考えることはできない。

この意識・感覚は、とても大切だと思う。


References
  • Christopher Alexander, Sara Ishikawa, Murray Silverstein, A Pattern Language: Towns, Buildings, Construction, Oxford University Press, 1977.
  • クリストファー・アレグザンダー 他(著), 平田 翰那(訳), 『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』, 鹿島出版会, 1984.
  • 「研究」と「学び」について | - | -

    探究と方法/道具


    物事を、自分で探究していく。

    このことは、想像以上に難しい。



    「自分で」というからには、他律的ではなく自律的に取り組まなければならない。

    だから、「探究」はそのとき自分が持っている知識と経験から出発するしかない。

    そして、そのたびごとに「考える」ことが求められる。



    考えるなかで、今の自分では「到底 足りない」ということに気づくだろう。

    こうして、探究の支援となるような「方法」や「道具」を身につけることになる。

    むろん、方法や道具を習得し使いこなすのは、簡単なことではない。



    そうこうしているうちに、人は方法や道具に飲み込まれてしまう。

    「与えられた」方法や道具を、ただ盲目的に使うことになってしまうのだ。

    こうなると、「探究する人」どころか、もはや「考えない人」である。



    こういうとき、本人は「一生懸命考えている」つもりであるから厄介だ。

    でも実際には、方法/道具を適合させる「接点」について考えているだけ。

    ただ一点に注目するあまり、意義、経緯、限界への想像力を失っている。



    そうならないためには、どうしたらいいのだろうか?



    各人が十分気をつける ——— たしかに、それは必要なことではある。

    それは重要で、必要なことではあるが、十分ではないだろう。

    人間は、見えないものへの想像力をいとも簡単に失ってしまう生き物だから。



    では、どうしたらいいのだろうか?



    僕の考えは、こうだ。

    「方法/道具をつくる探究」と「各人の探究」とを両方行う。

    この二重構造のなかで前に進んでいく。これしかない。



    もう少し具体的に言うと、こういうことである。

    「方法/道具をつくる探究」を複数人で行う。

    それと並行して、「各人の探究」を行う。



    みんなでモデリング&シミュレーションの方法/道具をつくりながら、各自、個人研究をする。

    みんなで社会分析の方法/道具をつくりながら、各自、個人研究をする。

    みんなでパターン・ランゲージの方法/道具をみんなでつくりながら、各自、個人研究をする。



    こういうことを、僕の研究会ではやってきた。

    振り返ると、こういう二重構造があるときは、うまくまわっている。

    どちらか一方に偏っているときには、うまくまわらなくなる。



    二つのことを並行して行うのは、大変ではある。

    でも、「自分のことで精一杯」と思い込み、実際そう行動する人は伸び悩む。

    なぜなら、自分の視野・能力・想像力の限界を超えるチャンスを逃すからだ。



    おそらく、研究会ごとに独自の方法/道具があるはずだ。

    それらをただ「知る」のではなく、「つくる」ことに参加しよう。

    このことこそが、「自分で探究していく」ことを可能にする。



    僕はそう考えている。
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    未来の「学びのデザイン」!

    SFCホームページの卒業生の活躍を紹介するコーナー「SFCスピリッツ」に、今、“生涯学び続けられる国フィンランドで考える未来の「学びのデザイン」”という記事が掲載されている。

    大橋裕太郎さんと大橋香奈さんというお二人で、現在、フィンランドのヘルシンキ大学で「未来の学びのデザイン」について考え、実践しているという。まだ、プロジェクトは始まったばかりのようであるが、とても楽しみだ。

    学部が2004年卒ということだから、僕より10個くらい下の世代ということになる。お二人にお会いしたことはないと思うが、目指すところやアプローチにすごく共感できるのは、僕らが「SFCらしさ」を共有しているからだろうか。

    お二人のブログも、写真がとても美しく魅力的。こういう世界に浸りながら、未来の「学びのデザイン」について考えてみたい!と心から思う。

    うーん、ますますフィンランドに行ってみたくなった。


    ■SFCスピリッツ:生涯学び続けられる国フィンランドで考える未来の「学びのデザイン」
    http://www.sfc.keio.ac.jp/alumni_stories/

    ■ジャパンデザインネット:フィンランド 学びのデザイン
    http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/finland_manabi/

    ■大橋裕太郎さんのブログ
    http://utr-web.blogspot.com/

    ■大橋香奈さんのブログ
    http://live-kanax.blogspot.com/
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    「できるだけ遠くにボールを投げて、全力で取りにいく」ということ。

    僕の本気プロジェクトのやり方は、「できるだけ遠くにボールを投げて、全力で取りにいく」というもの。

    ボールを投げるときは、「うわ、これ、取るの無理じゃない?」ってほど高く遠くに投げる。

    投げたからには、全力で走って取りにいく。

    こういうやり方で、ここ15年ほどやってきた。


    先日、後輩と飲む機会があった。PlatBox Projectで一緒に日々奮闘したメンバーだ。

    彼が、今でも僕のこの「できるだけ遠くにボールを投げて、全力で取りにいく」という言葉を覚えていてくれて、さらに仕事でもこのやり方を心がけている、という話をしてくれた。素直にうれしい。

    結局、大学/大学院で身に付けてほしい本当に大切なことは、あれやこれやの知識ではなく、こういう「物事に取り組む姿勢」なのではないか、と考えさせられた。


    そして相変わらず、今取り組んでいる学習パターンの英語版制作でも、僕は「これできたらいいよね!絶対今回やろう!」と、遠くにボールを投げる。

    メンバーはおそらく、「時間が限られているのになんでそんなこと言うんだろう?」と不思議に思っているんじゃなかろうか。与えられた時間でできる範囲に収めておくのが賢明だ、と。


    でもさ。

    近くに投げたら、走る気、おきないでしょう?

    それで走らないとさ、そんな限りなく近い目標も達成できないものだよ。

    しかも、プロジェクトをやる意味がないし、自分たちの成長もない。


    だから、僕はいつも、できる限り遠くに投げる。

    今回もできる限り遠くに投げる。

    遠くに投げたって、僕が走って取りにいくんだから、誰も文句はないでしょう。


    でも本当は、学生のみんなも一緒に走った方が、成長につながるんだけどなぁ。
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    英語能力をどう強化するか

    今回のアメリカ生活は、留学経験のない僕にとっては、いろいろと学ぶことが多い。

    こちらの生活や文化についてもそうなのだけれども、外国語(英語)の習得ということについても、いろいろ考えさせられる。実際、英語が通じなくて苦労することが多い。旅行の英語はあんまり問題ないのだけど、日常的な会話(なにげない話)や研究の話は、相当厳しい。これにはいくつかの理由がある。


    まず、言い回しや表現のパターンが、自分のなかにまったくストックされていないということを痛感している。レゴで、ブロックがないので何もつくれない、というイメージ。竹中先生が『竹中式マトリックス勉強法』に書いていたが、「頭に『英語』が入っていなければ、逆立ちしたって喋れない」は本当だと思う。

    そんなわけで、今年僕は、これまで日本語で読んでいた本も、英語で読み直している。単語や言い回しを身につけようと思って。そうすると、知りたかった単語や言い回しだけでなくて、日本語では何気なくできてしまうような、話の展開のための言い回しや補足的な文の言い回しについても学ぶことができる。内容的にはすでに知っていることなので、純粋に英語の勉強になっている。


    そして次に、発音や喋り方のリズムというのも、なんとかしないと通じないと痛感している。日本ではしばしば「発音は気にしなくていい。それよりも積極的にしゃべることが重要」というようなことが言われるが、それは一面では正しいが、他方で正しくないと思う。やっぱり、発音やリズムの基本ができていないと、伝わらないのは事実。しかも、話していてつらい。これは、意識して練習しないとうまくならないと思った。

    最近、教会で開催されているESLに行っているのだけど、そこで参加しているAcademic Presentation & Pronunciationというクラスのやり方が、とてもよい。そのクラスでは、自分の研究に関係する単語で、言いたいけどうまく言えないものを持ち寄って、みんなで練習する。これがものすごくためになる。みんな専門分野は違うのだけど、だいたいもってくる単語は、一般的なものになる。例えば、僕の研究に重要な単語、"pattern"とか"theory"("systems theory")とかの発音がよくなった。これまでなかなか通じにくかったんだよね。一般的な単語で発音練習するだけでなく、自分の言いたい単語がうまくなるので満足度も高い。これだけでは足りないと思うけど、いままで考えたことがないやり方なので、日本の大学・大学院の英語教育でもどんどんやったらいいと思った。

    リズムや会話のテンポ・展開については、英語ドラマを見るといいと言われているが、たしかにそうだと思う。僕もたまにDVDで見たりしているが、研究の時間を減らしてドラマを見るというのが、なかなか難しくて、あまり実践できていない。でも、効果はありそう。


    そして最後に、持久力の面でも、限界を感じる。学会で個々の発表を聞くのは、なんとかいけたとしても、一日英語の発表を聞き続けると、疲れ果ててしまう。コーヒーブレイクは交流のチャンスなのだけど、もはや誰かと話そうという気力が起きない。もったいない。でも、これは純粋に経験値の問題だと思う。長い時間英語を聞き続ける経験を積むしかないんじゃないかな。「言語のシャワー」を浴び続けるしかない。


    というわけで、僕の最近の考えとしては、大学・大学院での英語教育では、研究分野の徹底した読書と、各自の研究に関係する発音や喋り方のリズムを強化をすべきだと思う。持久力については、日本で長く英語に触れる環境をつくるのは難しいと思うので、英語のオーディオブックとかインターネットラジオをずっと聞き続けるというのが、いまのところ考えられる現実的な策だと思う。

    いずれにしても、こちらに来ている各国の人たちを見ていると、日本はもっともっと英語を強化しないとまずいと思う。大学・大学院は、多面的に、しかし徹底して学ぶチャンスをもっと提供し、各自はそれをフルに活用しながら、自らの英語能力を強化する。そのための「断固たる決意」が、今必要だと思う。
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    学びのパターン・ランゲージ「学習パターン」公開!

    学習パターンプロジェクトで1年間かけてつくってきた「学習パターン」が、3月にめでたく完成しました! 自分たちでゼロからデザインした冊子もいい具合にできあがりました。

    そして、この4月に、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)の総合政策学部と環境情報学部で、新年度のオフィシャルな配布物として全学生(約3,600人)に配布しました。

    以下のサイト(学習パターンホームページ)でも、学習パターンの紹介とダウンロードができるので、ぜひみてみてください。
    http://learningpatterns.sfc.keio.ac.jp/


    LearningPatternCatalog1 catalog02.jpg

    以前も少し書いたけれども、学習パターンの考え方のベースとなっている「パターン・ランゲージ」という考え方は、もともと建築の分野で、設計の知識の記述方法として提唱されたものです。その後、この考え方はソフトウェア開発の分野で「デザインパターン」として普及し、有名になりました。最近では、デザインや組織マネジメントの分野でも導入が試みられていますが、今回私たちは、学生の学びの支援の手段として、その方法を取り入れました。

    この学習パターンの内容と冊子の制作はすべて、有志の学部生とともに作成しました。この制作プロセスも、とてもSFCらしいものだと思います。冊子のデザインでも、各パターンを象徴する魅力的なイラストを載せたり、ページデザインを工夫したりすることで、興味を持って読んでもらえるよう工夫したつもりです。学習パターンホームページには、リンクで飛べるweb版カタログの他、冊子のPDFも置いてあり、プロジェクトの紹介などもあります。ぜひみてみてください!
    パターン・ランゲージ | - | -

    「真の国際化」に向けて

    ここ半年ほど、ずっと気になっていることがある。「国際化」という問題だ。もっと具体的に言うと、現代のグローバル社会で「生き生き」と生きていくためにはどうしたらよいのか、という問題だ。これは、僕個人の問題でもあり、大学・学部の問題でもあり、日本社会の問題でもあると思う。

    僕自身がまだまだ国際化できていないので、大きなことは言えないのだが、現在、日本や大学で語られている「国際化」の議論はどうも手ぬるいと思う。「国際化」といいながら、格差を活用した「アジア化」という印象が拭えないからだ。例えば大学を例にとると、欧米先進国も含めて全世界から留学生を受け入れる体制を整えるというよりは、アジアからの学生をいかに受け入れるのか、という点が議論の中心となっているように見える。アジアとの連携が重要でないとか、欧米を重視すべきだというつもりはさらさらないが、「国際化」の議論がその観点からのみなされているという現状は、問題だと思う。それでは、真の国際化には到達できない。

    また、海外から外国人を受け入れる「大学・学部の国際化」も重要だが、「日本人の学生がどう国際化するのか、それをいかに支援するのか」という話もとても大切だと思う。それを正面切って支援できなければ、これからの大学は使命を果たしていないということになるのではないか。さらに、この問題は、国際化を支援・推進する教職員自身の国際化の問題とも密接に関係している。

    近年、フラット化した世界を基盤として、グローバルなコラボレーションが可能となっている。そのコラボレーションを楽しみながら、新しい物事を生み出していくためには、アウトプット能力もコミュニケーション能力も高めていかなければならない。また、文化の違いに敏感であり、しかしながらその背後にある共通項を見いだすことができるセンスも必要となるだろう。ただし、語学力があったり多文化に精通していたりするだけではだめで、新しい付加価値を含むアウトプット(創造・実践)の力が伴わないといけない。

    このような真の国際化の能力がどのようなものであるのか、また、それをいかにして高めることができるのか、ということについて、今僕は自信を持って語り切ることはできない。いま言えるのは、その能力が今後ますます重要となり不可欠になる、という直観だけだ。

    そこで、自らの実践を通じて、この問題について考えていきたいと考えている。僕自身の活動、そして僕の研究会の活動を「真の国際化」という点から見直し、実践していく。僕がSFCに教員として戻ってきてから5年が経った。これまでの5年間はSFCの「研究プロジェクト中心」というコンセプトを真摯に受け止め、学部生が学術的なアウトプットを生み出すということに注力して教育に取り組んできた。それは、学会発表できるレベルまで研究を高めるという経験を通して、知的なスキルやマインドを高めていく、という試みであった。

    これから5年間は、「真の国際化」ということをテーマに、活動のチューニングをしていくことにしたい。もちろん、研究という軸は外せないと思うが、意識として「真の国際化」を一番の目標に掲げたい。このブログでも、その試みや考えについて、書いていきたいと思う。
    英語漬け生活 | - | -

    「創発する学び」について考える @PCカンファレンス

    PCC0.jpg2008年8月6日(水)~8日(金)に開催された「2008 PC Conference」の初日に参加した。PCカンファレンスというのは、CIEC(コンピュータ利用教育協議会)と全国大学生活協同組合連合会が共同開催する教育系のカンファレンス。今年は、「創発する学び」をテーマに、慶應義塾大学SFC(湘南藤沢キャンパス)で開催された。

    基調講演(佐伯先生)

    PCC1.jpg最初の基調講演は、佐伯胖(ゆたか)先生(青山学院大学社会情報学部教授, CIEC会長)の講演だ。僕は昔から佐伯先生の本がすごく好きで、実際かなり影響を受けているので、講演をとても楽しみにしていた。講演タイトルは、「学習学ことはじめ ~勉強から学びと共感へ~」。

    この講演で、佐伯先生は、“学習学”(学び学)という分野を提唱した。これまで「学び」(学習)については、「教育学」で主に研究されてきたが、それとは異なるアプローチで「学び」に迫っていこうというアプローチを提唱したわけだ。

    「学び」は教育に従属するものではない。「教える」という意図的行為に拠らなくとも、人間は学ぶ。そうであるならば、「教育学」のように「教育」というジャンルにおいて「学習」を考えるのではなく、“学習学”というジャンルをまず設定し、そのなかで「学び」について考えるのがよいのではないか。こうして、人間の「学び」について明らかにし、「学び」を支援することを目的とする“学習学”が必要となるのだ。

    “学習学”は、言葉的には似てはいるものの、認知科学における「学習科学」(Learning Sciences)とも異なる。学習科学では、学習について科学的な(特に認知科学的)な立場から考えるが、“学習学”では、いわゆる科学の枠を超えて、理論(学習論)、実践(学習実践)、臨床(学習臨床)から構成される。ここで提唱された“学習学”は、実は新しい考え方というよりは、これまで佐伯先生が言ってきたことを端的に言い表したものだといえる。しかし、端的に言い得た分、その論を知らない人にも伝わりやすくなったと思う。

    これからの「学び」の具体的なイメージについては、佐伯先生は、「教え主義の教育」と「共感的参加型の学習」を比較し、後者が重要であるということを主張した。「参加型」というだけならば簡単であるが、そこには学習者の能動性がどうしても不可欠となる。このような能動性は、学習者自身の中だけから生まれる人依存の性質なのだろうか。佐伯先生は、そうではない、という。

    「近年の状況的学習論や社会構成主義的学習論が示唆しているように,学習者の学習への能動性の源泉は『他者と共にいる』という協同性にある。何らかの『共同体』実践に加わることから,そこでの自律的参加が『いざなわれる』のである。そこでは,『他者と共にある』中での『自分らしさ(アイデンティティ)』の確立が促進されるのである。自分なりの参加に独自性が発揮され,そのことが共同体によって『よろこばれる(appreciateされる)』のである。」(佐伯胖, 2008 PC Conference 基調講演概要より)

    「共感的参加型の学習」という指摘は重要だ。これは、従来からの「教え主義の教育」とは異なる目標をもつということにつながる。「『勉強』の世界では,学習の動機づけは個人能力の高揚だけにある」(佐伯胖, 2008 PC Conference 基調講演概要より)が、「共感的参加型の学習」では、関係性のなかの自分が高まっていく。そしてそれは、個人能力というよりは、関係性における能力なのだ。まさにSFCが設立当初から目指してる方向性であり、僕も「コラボレーション技法ワークショップ」や研究会で目指しているものだ。

    この講演では、このほかにも、「学びを“関係論的”に見る」や「人は共感によって世界を知る」という魅力的な話が出た。興味深かったのは、ミラーニューロンの発見の意義についての話である。佐伯先生が70年代に提唱した「擬人的認識論」(自分の「分身」を世界に投入することで、世界を認識する)が、ミラーニューロンの発見によって科学的に裏付けされたという。そしてそこから、マイケル・ポランニーの個人的知識の話につながったりと、分野横断的に「学び」について語る語り口がとても魅力的な講演だった。


    基調講演(熊坂先生)

    PCC2.jpg2つ目の基調講演は、今回のPCカンファレンスの実行委員長である熊坂賢次先生(慶應義塾大学環境情報学部教授)の講演だ。
    タイトルは、「SFCの挑戦:『未来からの留学生』から未来創造塾へ」。熊坂先生らしいトークで、笑いながら聞いた。

    熊坂先生の講演では、1990年に開校したSFCが何を目指し、今後どこに向かうのか、ということが語られた。SFCの出発点は、佐伯先生の指摘と同様に、「知識の伝達」には限界がある、という問題意識だ。そこで、SFCでは「知識の伝達」ではなく、絶えざる「時代の変化」に対応していける「問題発見・解決の方法論」の開発と共有が目指された。それに応じて、知識の伝達のための「教育」体制ではなく、問題発見・解決を実践し、方法論を開発する「協働的な学習」体制の構築が行われてきた。

    この精神は、「先端と創造のカリキュラム」と呼び得る現行カリキュラムにもしっかりと根づいている。このカリキュラムの特徴は、「階層(教養と専門)の打破」、および「時代性の<先端>と、時代性を超越する<創造>の対抗的相補性」だ。そして、その中核をなす「研究会」では「先端と創造の探究(研究)=研究の本質」が行われる。しかも、それをチームで行うということが重要であり、それこそが「半学半教の精神」につながるのだ。

    今後SFCは、『未来創造塾』として研究と教育と生活の融合を目指していく。このように、この講演では「学び」という観点から、SFCがこれまで何を考え何を実践してきたのか、ということが語られた。興味深い講演だった。


    パネルディスカッション(プロジェクトによる学び)

    PCC3.jpg午後には、妹尾堅一郎先生(東京大学, CIEC副会長)の司会のもと、「プロジェクトによる学び」(Project Based Learning:PBL)のパネルディスカッションが行われた。パネルには、「プロジェクトによる学びの創発とメディア」の熊坂賢次先生(慶應義塾大学)、「経験学習とプロジェクト型授業」の長岡健先生(産業能率大学)、「ソフトウェア開発によるプロジェクトマネジメント教育」の松澤芳昭先生(静岡大学)、「eラーニングの専門家を養成するプロジェクト型実践演習」の北村士朗先生(熊本大学大学院)が登壇した。

    全体としては、ひとえに「プロジェクトによる学び」といっても、いろいろなタイプがあるんだなぁ、ということがよくわかる展開だった。要は、みんな言いたいことを言って、それがズレあっているということなのだが。それでも、個別の考えやエピソードは、面白かった。

    「プロジェクトによる学び」を実現するには、教員が「面白いプロジェクト」を思いつく必要がある、という指摘が長岡さんからあった。本当にそのとおりだと思う。プロジェクト型教育では、「プロジェクトが面白いかどうか」が重要であり、それゆえ教員が「面白いプロジェクトを思いつくかどうか」が決定的に重要となる。僕も、「コラボレーション技法ワークショップ」や研究会でプロジェクトの設定をするとき、「面白いか」を本気で考えている。参加するメンバーにとって、そのプロジェクトが魅力的にみえなければ、プロジェクトは単なるタスク以外の何ものでもない。それゆえ、プロジェクトの「面白さ」に対してのセンスが求められるのだ。

    「プロジェクトによる学び」では、学生の方も求められることが違ってくる。妹尾さんの言葉だが、「知識伝達型では、皆と同じことが言えるかが問われるが、プロジェクト型では他と違うことが言えるかが問われる」のだ。同一化ではなく、差異化、しかも単なる差異化ではなく、プロジェクトという共通基盤の上での差異化である。これは、プロジェクトのみならず、社会においても重要となる能力だ。

    熊坂先生が紹介した、評価を学生自身に申告させるという独自の成績評価方法も刺激的だ。「自分の評価は自分で決める。他の人に評価を決められるのはこんなに不幸なことはない」。ここで紹介されたものは、教育評価におけるかなり核心的な(そして革命的な)考え方だと思う。授業運営だけが、従来の知識伝達型と異なるだけではだめだ、というメッセージだからだ。これについては、僕もちゃんと考えていかないといけないと思った。

    ところで、ステージ上の熊坂先生が、客席の僕に話を振ったので、僕もステージで一言話すことになった。そこで、「アウトプットから始まる学び」について話した。面白かったのは、妹尾先生がつけ加えてくれた「呼吸法も同じだ」という話。呼吸法では「まず、吐け」と言われるという。吐けば、自然と吸えからだ。そう、「アウトプットから始まる学び」というのは、まさにそういうことだ。SFCでは1年生のうちに創造実践科目において「アウトプットから始まる学び」を実践する。これは、大学入学時までに吸収してきたものを、一度吐き出して(創造・実践して)みることが求められる。その結果、今自分は何が出来て、何が出来ないのか。それを知ることが、それ以降のSFCでの学びに影響を及ぼす。吐き出した分、吸収できるようになる。この呼吸法の話は、かなり僕的にはヒットだった。


    さて、今回のPCCは、熊坂先生が実行委員長だということで、井庭研のメンバーにも裏方のお手伝いをしてもらった。おつかれさま!ありがとう。
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    学習パターンプロジェクトの進捗報告

    LearningPattern3.jpgいま、学習パターンプロジェクトでは、「SFCにおいて、自分の目的に応じてどのように授業を履修し、学習していけばよいのかを考える」ことを支援する方法を研究・開発している。具体的には、「SFCらしい学び」のヒントを、「学習パターン」(Learning Pattern)として記述し、共有する仕組みを考えている。

    この「学習パターン」という方法の背景には、「パターン・ランゲージ」という考え方がある。パターン・ランゲージは、もともとは建築の分野において、古き良き街に潜むパターンを抽出し、それを記述するために提案された。その後、ソフトウェアの巧みな設計についてのコツを記述する方法として導入され、有名となった。最近では、デザインや組織論などにも応用されている。学習パターンは、このパターン・ランゲージという方法を、学習支援に用いるという試みだ。

    SFCでは、国際関係から組織・経営、人文・思想、情報技術、デザイン、建築、生命科学にいたるまで幅広い分野の専門科目が提供されている(注:一般教養としてではない)。しかも、1年生から4年生まで、学年に関係なく好きな科目を好きな時期に履修することができる。それゆえ、「どの科目をどのタイミングで履修するのか」や「どのように何を学ぶのか」という、学生自身によるセルフプロデュースが重要となる。そのための支援を、僕らは「学習パターン」を用いて行いたいと考えている。

    学習パターンでは、学生の多様な状況・将来像に合わせて適用できるようにするように、「身に着けたい能力」と「そのための学習・履修計画案」の組み合わせをパターンとして記述し、まとめていく予定だ。それらのパターンをたくさん集め、カタログ冊子にまとめる。このカタログ冊子は、来年度、『SFCガイド』や『講義案内』とともに、オフィシャルな冊子として学部生全員に配布されることになっている。

    LearningPattern1.jpg学習パターンプロジェクトの学生タスクフォースチームは、春学期、昨年度から始まったSFCの新カリキュラム(未来創造カリキュラム)の構成について、その理念・思想・仕組みを理解することから始めた。『SFCガイド』や『講義案内』を熟読し、さらにカリキュラム改定に深くコミットした僕からいろいろな話を聞いて理解を深めていった。

    その過程でわかってきたのは、新カリキュラムの思想や意図がほとんど学生に伝わっていなかったという事実だった。ガイドブックには書いてあっても、そんなにじっくりは読まないし、読んでも心にひっかかることなくスルーしてしまったのだろう。1年間そのカリキュラムのもとで学んできたにも関わらず、たとえば「創造融発科目ってそういう意図の科目だったのかぁ。確かに!」というような声を何度も聞いた。ということで、この過程を通じて、チームメンバー自身がSFCのカリキュラムを深く理解できた。これが春学期の一番の成果といえるかもしれない。

    LearningPattern2.jpgさて、その後、学生タスクフォースチームが行ったのは、それぞれの科目群における「学び」のポイントを考えるということだ。各科目群はどのような意図をもって設置されたのか、そして、その科目において学生は何を学べばよいのか。そういうことを考えていった。できるところにはキャッチーなフレーズを考えたりしながら、その魅力を表現しようと試みた。

    そして、学期末には、それまで考えてきたことを、最終的にどのようなカタチにまとめていくのかについて議論した。パターン・ランゲージには、これがベストという決まった形式があるわけではない。C・アレグザンダーによる建築のパターン・ランゲージは叙述的に書かれているし、ソフトウェアの世界では項目別に整理されて記述される。各パターンをどのように書くかは、誰が読むのかということや、そこで何が語られるのか、ということと深く関係している。さらに、パターン・ランゲージは、たいてい数十~数百個のパターンから構成されるので、それらはカタログの形式でまとめることが多いが、それをどのようにまとめるのかということも考えなければならない。

    議論の結果、「学習パターン」が本当に有効活用されるためには、次の二点について考えるべきだ、ということになった。

    (1)50~100個のパターンからなる分厚いカタログ冊子はほとんど読まれないだろう。どうしたら読んでもらえるかを考えるべき。
    (2)「SFCらしい学び」の支援であれば、履修選択の時期だけでなく、学期中絶えず参照できるようにすべき。

    この二つのポイントを考慮して、次のようなアイデアや方向性がでてきた。

    ● A4サイズではなく、手帳くらいのサイズにして、厚さも薄くする(そして、ウェブに載せる情報と冊子に入れる情報を選別する)。
    ● 読むだけのものではなく、書き込めるようにする。たとえば、自分の時間割を書き込めるようにする。
    ● 本質的に重要な「学習パターン」を10個程度にする。絞り込んで、本当の意味での「共通言語」化を目指す。
    ● 科目の組み合わせについては「おすすめ履修メニュー」で示すことにして、学習パターンとは分けて考える。
    ● 【学期始め】の履修選択時のコツだけでなく、 【学期中】の学びのコツや、【学期末】の振り返りのコツなども取り上げる。
    ● 「リサーチ・パターン」も10個くらい掲載する。「研究プロジェクト中心」を謳うSFCにおける学びでは、「研究」活動の支援は重要。
    ● イラストやデザインについても工夫する。佐藤雅彦さんの『プチ哲学』のような魅力を入れたい。

    今後は、これらのアイデアや方向性を活かしたパターン作成に取り組んでいく。

    【関連情報】
    「SFCカリキュラムにおける学びと研究の支援:学習パターンとリサーチ・パターンの融合へ」(小林 佑慈)
    パターン・ランゲージ | - | -

    「研究」と「勉強」の違い

    研究会の新規履修者の面接を行った。SFCでは、学部1年生から研究会に所属し、研究に従事することができるので、1年生や2年生も新規希望者としてやって来る。

    井庭研の面接は、担当教員の僕が一人で行うのではなく、研究会の現役メンバーを数人交えて行う。というのは、研究会というのは一種の「生き物」であって、もはや僕だけのものではないという思いがあるからだ。僕との相性のみならず、研究会メンバーとの関係もかなり重要なのだ。面接では、新規希望者一人につき、30分の時間をかけて、取り組みたい研究テーマや、興味・関心分野について話をきいていく。

    その研究会面接で、僕が必ず言う話がある。それは、「研究」と「勉強」の違いについての話だ。面接で、研究テーマをきいてみると、「~を勉強したい」と答える人が多くいる。こう答えるというのは、「研究」と「勉強」の違いがよくわかっていない証拠だ。研究テーマについて話しているのではなく、これから知りたいことを挙げているに過ぎない。そこで、僕は面接時に、「研究」と「勉強」はどう違うのか、ということを説明する。

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    まず、「知のフロンティア」があるとしよう。こちら側には、人類が現在知ってる「既知」の領域が、そして向こう側には、人類がまだ知らない「未知」の領域が広がっている。これから研究を始めるとき、当然、僕らはフロンティアに立っているわけもなく、そこから遠いところにいるだろう。そして、少しずつ知識をつけて前に進んでいく。そしてあるとき、フロンティア・ラインの一地点に到達するだろう。このようにして、既知の領域を進んでいくことを「勉強」という。不勉強でビハインドだった自分が、授業や本、人の話などから知識を得て、いまどこがフロンティアなのかがわかるようになる。これが「勉強」をするということだ。

    これに対し、「研究」というのは、まったく異なるアクティビティだ。研究とは、フロンティアからさらに一歩前へ進み、既知の領域を広げるということ。もちろん、道なき道を開拓しながら進んでいくことになるので、それはとてもしんどい作業であり、一朝一夕にできるものではない。さて、ここで重要なのは、かならずフロンティアを開拓しなければならないということだ。すでに開拓されているところで、新たに開拓したとしても、それは「車輪の再発明」であり、研究にはならない。SFCカリキュラムの言葉に照らして言うと、「研究=先端×創造」なのであり、「研究とは、先端領域で創造を行うこと」なのだ。「研究」には「勉強」が不可欠だが、いくら「勉強」をしても「研究」にはならない。この「研究」と「勉強」の違いを意識することが、研究テーマを考える上でとても重要なのだ。

    この「研究」と「勉強」の違いという話は、実は、僕がまだ学部生だったころ、竹中平蔵先生が研究会でよく語っていた話だ。この話は、「研究」と「勉強」の違いを非常にクリアに言い表していると思う。そんなわけで、僕は毎年、この話を面接のときに繰り返し話す。

    研究会は「研究」のための場であるから、研究テーマをもった人たちの集まりだといえる。なので、研究会面接で熱く語ってほしいのは、勉強テーマではなく、研究テーマについてなのだ。荒削りでもいい。「研究」へと向かう志向性がほしい。そして、できるかできないか、という現実性よりも、何をやりたいのかというヴィジョンがほしい。

    以前紹介した『音楽を「考える」』(茂木健一郎, 江村哲二, ちくまプリマー新書, 2007)のなかで、茂木さんと江村さんが、次のように語っている。まさにそのとおりだと思う。

    (茂木)「若いときには自分の使える技法やツールと、胸に抱いている大志、夢見ている世界との間には明らかに大きすぎるギャップがある。それくらいアンバランスなやつじゃないと、表現者としては大成しないんだということが経験でわかりました。これはほとんど例外がない。」(p.47)

    (江村)「結局は、自分に何ができるかじゃなくて、何がしたいかなんです。何ができるかなんて言いはじめたら、何もできなくなっちゃう。まずはそんなことはどうでもよくて、ただただ自分は何がしたいと思っているのか、という問題に尽きます。」(p.48)

    面接で僕らが見ることに、自分の研究・活動をドライブするような内発性をもっているか、ということがある。なかなかそれを感じさせてくれる人がいないのが現状であるが。。。同僚の土屋さんは、研究テーマには「愛」か「憎しみ」がなければならない、という。研究へと自らを突き動かす「情熱」が必要なのだ。そうでなければ、しんどい研究作業など続けられるわけがない。

    繰り返し言うけれども、荒削りでもいいので、自分なりの研究テーマの糸口をもっていてほしい。そして、自分をドライブする内発性をもっていてほしい。それが、研究を志すみんなへの本質的なメッセージだ。
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