井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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説明がうまくなるコツ (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んで考えたことの続編だ。

僕が今回、この本のなかで特にビビっと来たのは、以下の部分。「繰り返し」によってシンプリシティを獲得するという話だ。

「数年前、私はスイスのタイポグラフィックデザインの大家、ヴォルフガング・ヴァインガルトをメイン州に訪ねた。当時彼が受け持っていた正規の夏期講座で講義をするためである。驚かされたのは、ヴァインガルトが毎年まったく同じ入門講義をすることだった。私の考えでは、同じことを繰り返し言うのは、価値のないことだった。そのため正直言うと、この大家に対する私の評価は下がりはじめていた。ところが、確か3度目の訪問の際に、こう気づいた。ヴァインガルトはまったく同じことを言っているにもかかわらず、言うたびにシンプルになっていると。基本の基本に焦点を合わせることによって、彼は自分が知っている何もかもを、伝えたいことの核心にまで煎じ詰めることができたのである。」(p.36)

この点はとても同感であり、多くの人に伝えたいと思う点でもある。

僕は基本的に話すことが苦手で下手なのだが、それでも内容によっては「説明がわかりやすい」といわれることがある。例えば、ルーマンの社会システム理論やカオスの説明などは、なかなか好評のようだ。実は、そのような説明は、何度も何度も説明しまくることによって得られたものだ。最初は言葉が足りなくてうまく説明できなかったり、冗長だったりした話が、徐々に洗練されていく。どのような言葉を選び、どのような順番で話し、どのような例を出せばよいのか。そして、どうすればその話題を面白く聞いてもらえるのか。そういうことを考えながら、何度も何度も話す。その最初のオーディエンス(被害者!?笑)になるのは、僕の近くにいるゼミ生だ。

あるホットトピックについて何度も話していると、誰に話したのかがわからなくなり、すでに一度話している人にも、再び話してしまうということが起きる。その結果、「その話、このまえも聞きました。」といわれることが多い。また、直接その人に向かって話していなくても、同じ場所にいる他の人に話しているのを聞いて、「(また同じ話だ・・・)」と内心思いながら、その話を何度も耳にするなんてこともあるだろう。でも、一度、次のことを考えてみてほしい。僕は、誰に話したかを忘れるほど多くの人に、何度も何度もその話をしているのだ。 もちろん僕が忘れっぽいというのも関係しているが、それを割り引いても、考える価値がある事実だと思う。

学生の場合、先生の近くにいる人ほど、先生のそのときのホットなトピックを何度も聞くことになる。もし、先生が熱くなっている話を1度しか聞いたことがないという場合は、それくらいの密度でしか接していないという表れでもある。僕も学生時代に竹中先生や武藤先生の同じ話を何度も何度も聞いたものだ。きっとこのように何度も聞くことで、ようやく先生の言いたいことの真意に近づいていけるのだと思う。人間は繰り返しインプットしないと、頭にきちんと入らないのだから。

もし同じ話を聞くチャンスがあったら、今度は意識して聞いてみるとよい。よくよく聞いてみると、説明の仕方が微妙に違っているはずだ。相手によって説明のレベルや例示を変えている場合もあるし、説明が若干進化しているはずだ。うまくいっていれば、余計な部分を省き、新しい言葉に置き換えられたりして、徐々にシンプルになっているはずだ。これはまさに、上記の引用の部分の話にほかならない。


さて、ここで言いたいのは、「だから、僕の話を何度も我慢して聞きなさい!」ということではない。話すことが仕事の僕らも、何度も何度も話すことで話が洗練されていく、ということを知ってほしいのだ。みんなだって、もっともっと話さないといけない。それが言いたい。

ゼミで研究発表をすると、内容や言葉があいまいなまま発表がなされることがある。これはおそらく、誰にも話していない状態で発表しているに違いない。自分で話していることを自分でもあまり深く理解できていないし、その説明がどのように伝わるのかがイメージできていない。言葉の選び方に迷いがあり、それゆえ曖昧でわかりにくものになってしまう。これでは研究内容の議論にまで至らず、聞いている方も内容の理解をすることで精一杯になってしまう。そういう発表はいただけない。先にほかのゼミ生に何度も話し、話を洗練させてから、発表の場に臨むべきだ。

話すことが得意な人も苦手な人も、どんどん相手をみつけて、何度も何度も話をしてみる。ゼミ生はそのための仲間なのだから、活用しない手はない。僕の個人指導を受けているわけではなく、研究のコミュニティに所属しているわけなので、何度も自分の研究について話すチャンスがあるわけだ。

この鉄則は、文章を書く際にも同じだ。論文や計画書を書くときには、そこに書く予定の内容を何度も何度も話すことが重要だ。準備段階でひきこもっていては、本番でうまく話せるわけがない。完全主義者は、ひとりで完全なところまでもっていこうとするかもしれないが、真の完全主義者は、事前にたくさん話し、本番で完全な話をする人のことかもしれない。

同じことを繰り返し言うのはばつが悪いこともある。あなたが人目を気にするならなおさらだ―――たいていの人は人目を気にするものだが。しかし、恥ずかしがる必要はない。反復はうまく機能するし、みんなそうしているのだから。合衆国大統領をはじめとする指導者たちも例外ではない。・・・」(p.37)

恥ずかしがらずに、何度も何度も話してみよう!
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シンプルに生きる (『シンプリシティの法則』, ジョン・マエダ)

Book-Maeda.jpg『シンプリシティの法則』(ジョン・マエダ, 東洋経済新報社, 2008)を読んだ。

情報が溢れ、複雑化する現代においては「シンプリシティ」(単純さ)が重要であるということ、そしてそれをどうすれば実現できるのか、ということがこの本のテーマである。John Maedaといえば、『Design by Numbers』などで有名なMITメディアラボの教授だ。著者紹介の情報によると、今年2008年6月には、米国有数の芸術大学であるRhode Island School of Design (RISD)の学長に就任するようだ。

ちょうど10年前、科学や芸術において「複雑性」=「コンプレクシティ」が注目され、単純な法則から複雑な世界がどのように生まれるのかが話題となった。そして10年たった今、複雑な状況においてシンプリシティをどのように獲得するかが話題となっているというのは、興味深い。Webといえば、htmlのベタ書きによるシンプルなページからなる世界だったが、いまや動的なコンテンツが載り、膨大な情報量が詰め込まれた「騒々しい」世界へと変化した。それゆえ、Googleのトップページのシンプルなデザインが効いているのである。同じように、iPodのシンプルなデザインも、そのシンプルさゆえに、相当なインパクトをもつことになる。GoogleもiPodも、どちらもこの「コンプレクシティの時代のシンプリシティ」を先取りした事例なのだ。

ジョン・マエダは、シンプリシティに関する「10の法則」と「3つの鍵」を提示する。

【10の法則】

1. 削除 シンプリシティを実現する最もシンプルな方法は、考え抜かれた削除を通じて手に入る。
2. 組織化 組織化は、システムを構成する多くの要素を少なく見せる。
3. 時間 時間を節約することでシンプリシティを感じられる。
4. 学習 知識はすべてをシンプルにする。
5. 相違 シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする。
6. コンテクスト シンプリシティの周辺にあるものは、決して周辺的ではない。
7. 感情 感情は乏しいより豊かなほうがいい。
8. 信頼 私たちはシンプリシティを信じる。
9. 失敗 決してシンプルにできないこともある。
10. 1 シンプリシティは、明白なものを取り除き、有意義なものを加えることにかかわる。

【3つの鍵】

1. アウェイ 遠く引き離すだけで、多いものが少なく見える。
2. オープン オープンにすればコンプレクシティはシンプルになる。
3. パワー 使うものは少なく、得るものは多く。

それぞれがどのような含意をもつかについては、実際に本を読んでもらうことにしたい(これが上記の内容を知るための一番シンプルな方法だ!)。文章は読みやすく、分量も少なめなので、さっと読むことができる。


まず、この本で取り上げたいのは、「シンプル」というキーワードだ。

個人的なことを言うと、ここ1ヶ月ほど、「シンプルにする」というのが、僕の基本方針であった。この本を読んだからというわけではなく、阿川さん(総合政策学部長)がいつも、大学の制度や説明に対して「複雑すぎる。シンプルに。」ということを言い続けているのを見ていた影響だ。なるほど、たしかに、物事はシンプルにしたほうがいい。

ここ1、2年の間、僕の仕事や生活はどんどん複雑になり、この冬、ついに破綻した。心も身体もついていけなかった。なので、なるべくシンプルにしようと心がける。もちろん、完全にシンプルにすることはできないし、したいとは思っていない。突き進むべきフロンティアは、未知の「コンプレクシティ」に満ちている。やっていること、考えていることが複雑な分、環境はシンプルでなければ破綻する。これを身をもって体感したのだ。

「シンプリシティとコンプレクシティはたがいを必要とする」(p.45)

シンプリシティだけでは飽きてしまう、だが、複雑すぎても破綻する。その両方が必要なのだ。現代社会では、複雑さは自ずと増大していく。そのなかで交通整理をするのであれば、基本方針としては「なるべくシンプルに」を心がけるとよさそうだ。

(次回につづく)
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「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関利明)

Book-Izeki1.jpg今日のゼミ輪読で読んだ文献のうち、まず、井関さんの「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」を紹介したい。

「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関 利明, 『創発するマーケティング』, DNP創発マーケティング研究会 編著, 日経BP企画, 2008, p.11~p.82)

この論文は、魅力的な概念・文献を次々と取り上げ、現代社会と知の潮流について論じているものだ。井関さんの話は魅力的だと思うとともに、僕や井庭研が、いかに影響を受け、また同じ方向性を向いているかということを実感する。ここでは、この文献を読んで考えたことをいくつか紹介したい。

「まぼろしのコンセプト」
冒頭で、ジョン・J・ミュースの"Stone Soup"の童話絵本の話が紹介されている。これは、お互いに交流しない閉塞的な村に来た僧侶が、村の中心で、石を入れた鍋「ストーン・スープ」を煮はじめる。すると、それに興味をもった村人が現れ、何をしているのか尋ねては、持っている食材を持ってきて、その繰り返しで、最後には美味しそうなスープができあがる、という話だ。お互いに協力しようとは思っていなくても、「ストーン・スープをつくる」ということをきっかけに、コラボレーションが実現し、成果が生まれる。そして、この話をうけて、井関さんは次の点に注目する。

「『ストーン・スープ』(Stone Soup)という言葉は、まさにマジカル・ワード、あるいはコンセプトである。誰にも具体的なイメージを与えない。それでいて、不思議と好奇心をかき立て、やってみたい、つくってみたいと思わせ、人びとを動機づける。どうやら人びとに、参加してやってみたいと思わせるのは、魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉であるようだ。」(p.14)

この「ストーン・スープ」の話が面白いのは、スープに最初に入れているものが、ただの石だということだ。最終的には、石はスープの具になるわけでもなく、ダシがとれるわけでもない。むしろ、石は変化しないものの象徴であるといえる。しかし、この話の展開にとっては不可欠なものだ。石を入れずに、ただお湯を沸かしているだけでは、この話は成り立たない。「ストーン・スープ」という耳慣れない不思議な言葉が登場するからこそ、その後の村人の行動の連鎖につながっていくのだ。その点が、非常に示唆に富み、興味深い。

僕がこの話を聞いて思い出したのは、シナリオ・プランニングの話だ。シナリオ・プランニングでは、みんなで自分たちの組織の未来シナリオをつくるのであるが、最終的に得られたシナリオは最重要なものではない。それが当たるかはずれるかはあまり問題とはならない。最も重要なのは、シナリオをつくる段階で、いろいろな情報や考え方が共有され、自分たちについての理解が深まることにある。メンタルモデルがすり合わせられることにこそ意味があるのだ。つまり、シナリオ・プランニングでは、シナリオをつくるという目標のもとに、組織学習が行われる。このことは、まったく一緒ではないが、「ストーン・スープ」を目指すと掲げながら、実はストーンは重要でない、というのに、どこか似ている。

また、井関さんがいう「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、僕も意識して使うことがある。例えば、僕の「コラボレーション技法ワークシップ」の授業では、グループワークのテーマを、「見えないものが見える装置を提案する」とか「新しいテーマパークをつくる」というような抽象的かつ魅力的な言葉で設定する。すると、それが何を意味するのかという具体化は、各グループに任されることになる。すると、そこに創造力を発揮するチャンスがあり、独自性が生み出されるきっかけとなる。それを見守る僕としては、みんなが面白い発表をしてくれるのかは不確実であるのだが、それがまた楽しみでもある。何かが(何らかのスープが)できることはわかっているが、どういうもの(どういう味のどういう具のスープ)に仕上がるのかは事前にはわからない。そして、それに参加する人(村人)は、何かの制約や強制されているわけではないので、自分で具体化の内容(具材)を考えることができ、そこにモチベーションが高まる仕掛けがある。このようにして、創発の間接的なデザインを行うことができるのだ。

「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、明確な将来イメージとしてのヴィジョンとは異なる。それに向かって突き進むと、そこが実はゴールではなく、すでにその過程で問題が解決してしまっている、体現してしまっている、というような、いわば「まぼろしのコンセプト」なのだ(この言い方は、井関さんではなく、僕のネーミングによるもの)。人はそれなしでは、動き始めることはできない。そして、コラボすることはできない。しかし、「まぼろしのコンセプト」は、最終的には自然と本質・重要ではなくなり、忘れられていくのだ。

「Becoming」として捉える
散逸構造で有名な物理学者 I・プリゴジンを取り上げ、「Being」と「Becoming」の考え方が紹介されている。井関さんが好んでよく使う考え方だ。僕もこの考え方は普段から話で取り上げるし、僕のなかではかなり定着している考え方だ。

「"Being"(存在)の原義は『…がある。…である』という『一定の存在や状態』を意味している。したがって「確固たる、確立した、動かしがたい存在や状態」が含意されている。つまり、決定論的機械論の世界である。それに対して、"Becoming"の原義は『…になる』ことで、『たえざるプロセス』を意味している。したがって『生成する状態、形成していくプロセス、発展する形』を含意している。それは、生命体、生命進化、あるいは流動体の世界である。人間現象や社会現象をBecomingとしてみることは、それらを変動する環境のなかで、たえず新しい要素を取り入れながら生成し、形成され、自己再組織化していく動的なプロセスとして把えることである。万事を変化の相の下に理解することでもある。」(p.25)

このbecomingの考え方は、まさに井庭研の根幹であり、SFCの本質だ。井庭研は絶えずBecomingであり、SFCもBecomingである。これは、理想の完成形に満たなく形成「途中」にあるということではなく、そのときそのときの実現された理想的な形が、絶えず変化しつづけていくということだ。理想形が変わるのは、自分は変わり、世界・環境が変わっていくからだ。私たちは走り続けなければならない。世界は進みつづけるから。これは、不思議の国のアリスに出てくる「レッドクイーンの法則」に通じるものがある。

「ここではだね、同じ場所にとどまるだけで、もう必死で走らなきゃいけないんだよ。そしてどっかよそに行くつもりなら、せめてその倍の速さで走らないとね!」
ルイス・キャロル(山形浩生訳)『鏡の国のアリス』(2000)

数年前、SFCのオープン・リサーチ・フォーラムのテーマがまさにこれだった(ORF2005『レッドクイーンの法則-知の遺伝子変化を加速せよ-』)。SFCは走り続けるという宣言をしたわけだ。

新しいメディアは、人びとの「意識」と「社会」を変える
井関さんは、「プリント・メディアの知」と「デジタル・メディアの知」の違いについて次のように区別する。

「何よりも、プリント・メディアの世界は、『閉ざされた知の世界』である。印刷物は簡単に書き換えることはできない。・・・・また、書物の書き手は、限られた専門家であるのが普通であり、著者と読者の立場ははっきりと別れていた。その意味でも『閉ざされた知の世界』だ、といえるだろう。それに対して、『デジタル・メディアの知』は、誰もが参加し、いつでも修正、発展させることができる。つまり、確定した知の結果ではなく、プロセスの知だからである。いつ誰によって修正され、組み合わされ、発展させられ、新しい知識を生みだすか分からない。自由な参加と相互作用が前提なのである。しかも、プリント・メディアの世界では受け手であった読者が、デジタル・メディアの世界では『書き込む人たち』に変わり、共同して新しい意味を創造する、『開かれた知の世界』なのである。」(p.42)

「デジタル・メディアの知は、たえざる発見と創造のプロセスの知なのである。こうして、新しいメディアの登場と普及は、新しい知のパタンをつくりだし、人びとのコミュニケーションと社会関係の形を変えていく力をもつのである。」(p.44)


もちろん、これはよく言われることではあるが、この点を押さえておくことはとても重要だ。メディア論は、メディアそのものを論じるだけでなく、それがもたらす意識の変化と社会の変化までを含めて考えなければならない。そういうことだ。

ちなみに、井庭研の今後の輪読文献との関係でいくと、文字メディアの登場と普及による変化は『声の文化、文字の文化』(オング)、印刷メディアの登場と普及による変化は『想像の共同体』(アンダーソン)のところで考えることになる。デジタル・メディアの登場と普及による変化については、『リキッド・モダニティ』(バウマン)や、過去に読んだ『フラット化する世界』(フリードマン)、『ウィキノミクス』(タプスコット)などが論じている。

ここで、意識と社会と書いたが、これはルーマン理論でいうと「心的システム」と「社会システム」ということだ。新しいメディアが生まれると、「心的システム」と「社会システム」における連鎖の流れが変化する。その点を分析しなければならない。

中間層を上げる
デジタル・メディア時代における創発の担い手について、以下のような記述があった。

「かなりの知的程度をもち、メディア・リテラシーを備えた多数多様な人びとが、伝統的なテクノクラートや専門家とは異なる地平に、新しい「知的中間層」として登場してきたように思われる。この意味での「知的中間層」こそが、「創発社会」の新しい担い手となり、またビジネスのミライをも大きく左右する新しいパワーなのだろう。」(p.39)

この点はまさに、以前の宮台さんとの対談で僕が主張していた点だ。エリートを伸ばす必要があるという宮台さんに対し、僕はそれも重要だが、中間をいかに上げるかがポイントだ、ということを主張した。僕は、やはり、新しい「方法」と「道具」を中間層に普及させ、その人たちの支援をしたいと考えている。PlatBoxのシミュレーション・プラットフォームも、パターン・ランゲージも、社会システム理論も、僕にとっては、中間層が新しい発想・方法によって飛躍するためのツールなのである。そこを狙って、僕はその方法・道具の研究をしている。それを、新しいタイプの「知と方法」の探究として、学問分野に縛られることなく行っていく。まさにそういうことを目指しているのだ。

以上、面白い部分のほんの一部だけを取り上げたが、この論文ではさらに「クリエイティブ・クラス」や「ハイコンセプト」、「リキッド・モダニティ」、「マルチチュード」、「クラウドの知恵」など、最近話題となっているキーワードはほぼ網羅している。この魅力的な編集の仕方が井関さんらしい。井関先生は、非常に興味深い文献をむすびつけて、新しい「知と方法」については、「メディア」について論じてくれる。この一歩引いてとらえる視点と力量にはいつも関心させられる。とても魅力的なのだ。ただ、よくも悪くも井関先生は思想の方なので、僕らの役目というのは、その思想を受け継ぎ、具体化して実践することなのだと思う。その役目を楽しみながら、がんばりたいと思う。
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『あそぶ、つくる、くらす』(五十嵐 威暢)

Book-Igarashi.jpg本屋さんでとても素敵な本に出会った。デザイナーから彫刻家になった五十嵐 威暢さんという方の言葉と作品を紹介する本だ。

『あそぶ、つくる、くらす:デザイナーを辞めて彫刻家になった』
(五十嵐 威暢, ラトルズ, 2008)

この五十嵐さんという方を僕は存じ上げないのだが、本の質感と「あそぶ、つくる、くらす」というタイトルに惹かれて、手にとってみたというのが出会いのきっかけだ。五十嵐さんは、子供が自然に行っているような「あそぶ、つくる、くらす」が一体化した世界を目指している。

「僕の彫刻家としての活動は、『あそぶ、つくる、くらす』を、ひとつのものに再構築すること。それは大人にとっても極めて大切なことだと思う。」

なぜ大切なのかというと、それらは表裏一体なものだからだ。

「子どもたちがそうしているように
人はあそぶこととつくることを通して
いつのまにか自由を獲得し、豊かなくらしを手に入れる」(p.56)

たくさん紹介したいコトバが詰まっているが、実際に本で読んでほしいので、今はこれ以上引用することはしないことにしたいと思う。「つくる」ということの本質が書かれている素敵な本なので、ぜひ、実際に手にとって味わってほしい。
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『プロフェッショナル 仕事の流儀 13』―――(1) 大きなスケールの研究

ProfessionalBook13最近出た『プロフェッショナル仕事の流儀 13』(茂木 健一郎 & NHK「プロフェッショナル」制作班, 日本放送出版協会, 2007)を読んだ。

 この本は、NHKの同じタイトルの番組を書籍化したものだ。第13巻には、弁護士の村松謙一さん、漫画家の浦沢直樹さん、コンピュータ研究者の石井裕さんの話が紹介されている。どの方の話もとても面白く、おすすめの1冊だ。今回は、石井裕さんの話を取り上げることにしたい。


HiroshiIshii 石井裕さんは、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボ教授で、メディアラボ初の日本人ファカルティ・メンバーだ。現在51歳。「タンジブル」(触れることができる、実体がある)というキーワードで、新しいコンピュータをつくっている(⇒ Tangible Media Group, MIT Media Lab)。

 この石井さんの話に、僕は研究者として、そして大学教員として、とても刺激を受けた。研究というのは、ともするとどんどん小さくまとまっていく傾向がある。研究には新規性が求められるから、いままでの先行研究との差異を絶えず意識することになる。そして、ただ差異があればいいわけではないので、どのくらいの差異ならばきちんと検証・論証できるだろうか、ということも計算する。しかし、そんなふうに差異ばかりに意識がいってしまうと、全体としてどこに向かっているのか、何を成し遂げようとしているのかが、あいまいになってしまいがちだ。

 そんな悩みに僕もいつも直面している。3年ほど前にSFCに着任したとき、僕に課されたのは「スケール感を出す」ということ。小さくまとまるな、ということだ。それまで「新しい思考の道具をつくる」というテーマで、複雑系とシミュレーションの分野の研究をしてきたが、そういう個別分野でのイノベーションではなく、もっと世界にインパクトをもたらすような研究をしろ、ということなのだ。そんなこともあって、ここ数年は社会学や社会哲学などの新しい領域にもどんどん踏み込んでいき、新しい視点と感覚を磨いてきた。学問分野の組み合わせでいうと、普通じゃない動きをしていると思う。それでも、個々の研究の話になると、着実に成果を出そうとして、どうしても小さくまとめがちだと思う。だめだなぁと思いながらも、なかなかそういうサイクルから抜け出せていない。

「現在あるインターネットを使ってちょっと工夫すれば、様々な価値を生み出すことが可能です。それはそれで素晴らしいことですよ。でも、今までになかった新しいものをつくり出すということは、それとは別物です。」(石井, p.141)

 そう、別物なのだ。そして、クリエイター志向だった僕が研究者になろうと思ったのは、まさにその別物の「今までになかった新しいものをつくり出す」ためだった。その意味で、今回の石井さんの話はとても魅力的で、僕の大きな一歩に向かって背中を押してくれるものだった。

「研究は本質的に、オリジナルでなければいけない。でも、ただほかと違っているだけではダメで、ユニークであり、なおかつそこに意味がなければならないんです。」(石井, p.140)

「今までの世界観が大きく変わるようなもの。新しい可能性が突然、目の前に現れてきて、楽しくて仕方がなくなったり、想像が止まらなくなったりするもの。そういったものをいっぱいつくっていきたいですね、命の続く限り。」(石井, p.161)

「われわれが世界で初めてそのアイデアを思いついたグループであればよし、そうでなければゴミなので捨てる。研究成果が世の中に喜んでもらえる、インパクトを与える、そういう方向にエネルギーを集中させる―――。それが僕の仕事です。」(石井, p.121)

 最後の、自分たちで考え出した真にオリジナルなものでなければ「ゴミなので捨てる」、ここまで言い切れるところがかっこいい。そしてこのくらいの気持ちでいなければ、本当の意味で「今までになかった新しいものをつくり出す」ことなんでできないのだ。納得。

「自分の研究がコンピュータの主流とは外れた方向に進んでいることを、とてもうれしく思っています。なぜなら、みんなが同じことをしたら、私の商売はあがったりでしょう。研究することの意味がどこにあるかといえば、世の中で誰もやっていないけれど価値のあるものを創造することです。その価値をわかる人はわかってくれる。」(石井, p.141)

「『誰も理解してくれない』ですって?最高じゃないですか。それは勲章ですよ。もしかしたら、誰も行ったことのない極致に到達できるかもしれないわけですからね。」(石井, p.159)

 僕は博士時代に、結構ここで言われているようなスタンスで研究をしていたと思っている。それに比べて最近は、あんまり理解されないような無謀な目標を立てなくなったなぁ。そんなことに気づいた今、自分を見つめなおし、次なるテーマを考えるチャンスなのかもしれない。そんなわけで、この本、刺激的でとてもおすすめだ。
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『ウェブ仮想社会「セカンドライフ」』(浅枝大志)

もう1ヶ月ほど前になってしまったが、『ウェブ仮想社会「セカンドライフ」:ネットビジネスの新大陸』(浅枝大志, アスキー新書, 2007)を読んだ。なかなかよかったので紹介したい。

ウェブ仮想社会この本は、3次元ヴァーチャル世界「セカンドライフ」とは何かを知りたいという人に、僕がいつもおすすめしているものだ。この本には、セカンドライフとはどのようなもので、これまでにどのような企業が参入しているのかなどが、わかりやすくまとめられている。日産やインテル、シェラトンなど初期の参入企業がどのような工夫でその世界をつくりあげたのか、というエピソードはなかなか興味深い。セカンドライフに関する本というと、たいていはカラー画像が多用されていてゲーム攻略本のような雰囲気のものが多いが、この本は縦書きの文章のところどころに白黒の画像が入っているという、いわゆる新書版の本なので、落ち着いて読むことができる。

 内容的な面で、僕がこの本を気にいっている理由は、著者が「2Dウェブから3Dウェブへ」という流れを踏まえて、セカンドライフを捉えているところにある。ウェブは今後3D (3次元)の世界に進化するのではないか、ということを考えていた僕としては、とても面白く読めた(僕がどういうことを考えているかは、また別の機会に書くことにしよう)。

 これまでの電子掲示板やSNS、ブログのような文字・画像ベースの2Dと、セカンドライフのような3Dは、どのような違いがあるのだろうか。3Dでは、身体的な存在や振る舞いを含ませることができるというところが大きな特徴なのだ。「セカンドライフなどの3D空間の構築によって、新しいコミュニケーションがインターネットで可能になるのです。セカンドライフでは、リアルタイム性とアバター利用による個性の表現ができ、文字表現よりもニュアンスに富んだメッセージが可能であると同時に、強制されない会話が可能です。そうした機能を持ちながら、Web2.0的なユーザー発信のコンテンツを基礎に成立しているのが、セカンドライフなのです」(p.55)。

 もちろん、セカンドライフ以前にも、このような3Dヴァーチャル世界というのはいろいろあった。しかし、そのようなサービスでは、アバターの操作の自由度はあっても、環境を構築する(建物やモノをつくる)自由度がここまで高いものはなかったように思う。つまり、これまではサービスの提供側が環境を用意し、ユーザーはそれを利用するだけ、というものだったのだ。これに対し、セカンドライフでは、建物やモノはすべてユーザーによってつくられたものだ。その意味で、セカンドライフは、3Dヴァーチャル世界とWeb2.0が融合した最初の好例なのだと思う。

 著者も、セカンドライフは「2Dインターネットの限界に対して突破口を与えてくれた」(p.53)と指摘している。このような3Dへの変化は、セカンドライフという1サービスにとどまるものではない。「インターネットが、これまでのページ表現から3D表現へと置き換えられていく流れは、ますます加速していきます。この流れと並行して、いまのWeb2.0的なサービスも3D表現化されていきます。」(p.46)と予想する。さらにこの本では、新しいデジタルデバイドの問題についての新しい視点も述べられている。「『デジタルデバイド』とは、パソコンやインターネットが使える人と使えない人の間でアクセスできる情報に段違いの格差があることを示した用語です。10年後には前述のような感性の隔たりによって、インターネット利用者の間にもデジタルデバイドが発生しえます。いうまでもなく、2Dウェブが限界の人と、3Dウェブを活用できる人との情報格差です」(p.155)。

 このように、Web世界の潮流を踏まえて書かれているという点で、ほかのセカンドライフ賞賛本や、遊び方のガイドブックとは一線を画すると思う。薄くてすぐ読める本なので、セカンドライフに興味をもっている人やWebの未来について考えたい人は、読んでみるといいのでは。
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『水うちわをめぐる旅』(水野馨生里)

『水うちわをめぐる旅:長良川でつながる地域デザイン』(水野馨生里, 新評社, 2007)を紹介したい。

『水うちわをめぐる旅』この本を手にすると、まず素敵な装丁に魅せられてしまう。とてもみずみずしく、さわやかなのだ。

そっと表紙をめくってみる。透明感のある写真と、それに添えられた言葉たち。その世界観に浸りながら進んでいくと、「水うちわをめぐる旅」が始まる。

この本の著者、水野馨生里さんはSFC 総合政策学部の卒業生だ(いま卒業3年目)。出身は、この旅の舞台となっている岐阜。テーマになっている「水うちわ」とは、「水のように透けて見える「面」(おもて)をもつうちわで、目にも涼しく、さらに水につけて扇ぐことにより、気化熱の効果によって吹く風をいっそう冷涼に感じることができるうちわ」(p.ii)である。120年ほど前に誕生した、岐阜の伝統工芸品のひとつだ。ここ十年ほど途絶えてしまっていたが、著者も参加している「復活プロジェクト」によって、現在は復活を遂げている。

 「面(おもて)の紙はトンボの羽のように半透明で張りがあり、光にかざすと透明さをさらに増して輝く―――私たちが思い浮かべる“うちわ”という道具の概念を打ち破る美しさをそれは備えていた」(p.9)と、その美しさに魅せられた水野さんは、なぜ岐阜で水うちわが生まれてきたのか、そしてなぜそれは途絶えてしまったのか、という歴史を紐解いていく。その過程で、水うちわは「ものの成り立ちを、そして手仕事の重要性を教えてくれた」のだという。「教科書からでもなく、学校の先生でも親でもなく、水うちわが教えてくれたことはかけがえのないことばかりであった」(p.96)。これは著者の素直な気持ちであろう。そういった気持ちが、本全体から伝わってくる。

 この本に好感がもてるのは、著者の視点と語り口がフレッシュだからかもしれない。地域の歴史を取り上げるときも、目線が読者と同じなのだ。著者が知っていることを書き、読者がそれを読むというのではなく、著者が歩いた「水うちわをめぐる旅」に、僕たちも案内されているような感覚なのだ。そして、小説のような叙述的な書き方も、モノや地域に対するあったかい眼差しを感じさせるのだろう。

 この本を僕が気にいっている点がもうひとつある。基本的には水うちわと岐阜の話をしているのだが、時折一歩引いて、現代について触れられている部分があるという点だ。例えば・・・

「とても身近なものだけど、あまりにも近くにさりげなくあるものだから、それ以上一歩奥へと踏み込むことはこれまでなかった。いや、うちわだけではなくて身の周りにはあまりにもたくさんの商品が溢れていて、その裏にある物語を何も知らずに通りすぎていくことが多い。あらゆる情報が次々と流れ込んでくる現在において、一つ一つの商品に込められた思いを取り出すことなんてそうそうない。・・・・・うちわの歴史や成り立ちを追究して好奇心を満たしていくと同時に、これまでとっても身近にあったうちわのことさえ知らなかった私自身は、生活のなかで出会うあらゆるものやそこに潜んだ物語を取りこぼしてきてしまったのではないかという危惧さえ抱くようになっていた。」(p.12, 13)

「ところで、「繁栄」、「発展」とはいったい何だろうか。アスファルトで囲われ、高層ビルが立ち並び、あらゆる商品がすぐに手に入り、時間を消費する娯楽を提供してくれる場が人々の「繁栄」と「発展」を示しているのだろうか。現代の科学技術の功績を捨てて過去への回帰を促すわけではない。ただ、脈々と続いてきた私たちの生活の背景にあったものをもう一度認識するときが迫っているのではないだろうか。自分の知らなかった故郷の歴史を辿っていくにつれ、そんな思いを抱くようになっていった。」(p.36)

「モノゴトが成立するためにあらゆる条件が満たされているという状況は、実はとても稀なことなのかもしれない。・・・・・一つのモノを継続的に生産・製造する条件、それは素材となる原材料が持続的に供給され、そのモノをつくるにあたって、それにかかわる人々がそれぞれの役割を果たし、さらにそのモノがあり続けるための社会環境があること、である。逆に、その一つのものがなくなる条件は、それをつくる条件のなかのたった一つが消えることである。現にこうしてなくなってきたものは数知れないほどある。」(p.72, 76)

というようにである。水うちわにまつわる活動を通じて得た実感が、現代社会についての考えに昇華している点がすばらしい。こういった記述があることで、単に水うちわと岐阜の話としてではなく、僕らは自分たちのこととして、イメージをふくらませながら読むことができるのだと思う。

 この本を貫いているのは、現にいま在るものの存在を当たり前として見ない視点―――現に在るものも誰かによってつくられ、それを支えるいくつもの条件が重なるときにのみ成立するという視点である。逆にいえば、存在は絶妙なバランスの上に成り立っているのであり、いつでも消えゆく可能性をはらんでいるという視点。そのような視点・感覚によって初めて、かけがえのなさ、に出会うことができる。そういったことを、この本から僕は感じる。

 ぜひこの本で、水うちわと岐阜に親しみを抱くとともに、私たちひとりひとりの「自分にとっての『水うちわ』」、「自分にとっての『岐阜』」を探してみることにしよう。
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『フューチャリスト宣言』(梅田望夫, 茂木健一郎)

『フューチャリスト宣言』(梅田望夫, 茂木健一郎, ちくま新書, 2007)を読んだ。

FuturistBook
この本は、シリコンバレー在住で『ウェブ進化論』の本で有名な梅田望夫さんと、脳と「クオリア」の観点からマルチに活躍する研究者 茂木健一郎さんの対談を収録した本だ。対談のなかでも言及されているように、とにかく未来に対して明るく行こうという、戦略的オプティミズムとでもいうべき、前向きな二人の対談である。このなかで、研究者や企業家の生き方として、印象に残ったところ、考えさせられたところがいくつかあった。

 まず、グーグルについて。梅田さんは、「『ネットって何なのか』ということを、グーグルが発見した」(p.19)と評価する。グーグルは、ご存知のようにウェブページ間の関係性から順位づけを行うPageRank(ページ・ランク)というアルゴリズムで検索結果を表示する点で革新的だった。WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)という巨大なネットワーク(グラフ)構造を、数学的な観点から捉え直し、まったく新しいWWWの世界をみせてくれた。
 だからこそ、「グーグルが出てこなかったら、おそらくいまもなんとなく『ネットって何なんだろうね』という模索状態が続いていたのだろうと思います。彼らが、インターネットとは何ぞや、というのを発見したんだと思います。」(梅田: p.20)と言うのである。
 確かにね、と思う。僕は以前から「検索して一覧表示するというだけではネットワークを巨大なブラックボックスのデータベース化するだけで、物足りない! もっとネットワーク性を活かした面白いことができるはず。」と言ってきたが、それでもやはりグーグルがやったことはかなり革新的だとも思う。単なるページ内の情報ではなく、ネットワークの構造自体に付加価値の源泉を見出したからだ。ここでの梅田さんの指摘のような、グーグルのすごさを一言で言い切った文章に出会ったことがなかったので、この部分は、なかなか印象的だった。

 次に、アップル社の話。マッキントッシュやiPodを生み出したアップルね。そのアップルを梅田さんが訪れたときに、メンバーが「アップルというのは世界史の中の三つ目のリンゴ」(梅田: p.38)なんだ、と語っていたというエピソードが紹介されている。それまでの2つのリンゴというのは、アダムとイブのリンゴと、ニュートンのリンゴだ。
 そういうふうに「世界を変えるのは自分たちだ」という自負でもって、自分たちは第三のリンゴだと言っていたそうだ。これもなかなかすごい。そこまで言えちゃうなんて、かっこいいなぁ。

 そして、なるほど!と思ったのが、茂木さんの方針転換に関する話。最近、茂木さんは、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』のキャスターをやったり、小説を書いたり、文芸評論をやったりと、脳科学の研究をはるかに超えたマルチな活躍をしている。
 このような多分野にわたる活動は、真面目な研究者からするといかにも軽い行動に見え、批判的な声もあるのは事実だ。僕からするとなかなか魅力的にも見えるが、その僕でも、脳科学から離れて一体どこまでいくつもりなんだろう、という疑問を多少なりとも感じていた。
 そんななか、今回の梅田さんの指摘・解説で、茂木さんの目指すところが少し理解できた気がした。茂木さんは「いま自分が目指すべきは、アインシュタインではなくてダーウィンなのだ」という発見から、方針転換をしたというのだ。つまり、脳科学において、意識や心の問題をアインシュタインのように理論的にきれいな形で定式化するというのではなく、ダーウィンがビーグル号でやったようにいろいろな現場を見てまわり、「突然変異」と「自然選択」のような、大雑把でもいいからリアリティをうまく捉える概念を提案する、ということだ。そういう方針転換をして、いままさにそれを実践しているのだという。
 実は僕は10年くらい前に、複雑系の関係で茂木さんと飲んだことがあったのだけど、そのときも、クオリアの問題を考えているとなかなかサイエンスにならない、と困っていた記憶がある。そのころは、学術論文ではオーソドックスな脳科学の研究をやって、本ではサイエンスから離れて自由に好きなことを書くという、二重生活を送っていたようだ。その後、特に最近は、そのようなことを考えて、ふつうの脳科学ではないアプローチで、脳と創造性の問題に取り組んでいるんだな、ということがわかり、なんだか少しすっきりした。
 それにしても、茂木さんは多忙で人並みならぬ生活を送っているようだが、梅田さんもネットに重きを置いた相当めずらしい生活を送っているようだ(詳しくは本の方で読んでほしい)。ストイックな感じ。

 梅田さんも茂木さんも、僕が好きな方向性の先にいる感じの人たちだ。いろいろな分野に興味があって、全体的に考えながら、世界の捉え方を提供したいと思っている人たち。梅田さん自身、「好きなことを一つずっと深堀りするというよりも、世の中を俯瞰して理解したいという気持ちがある」(梅田, p.110)とか、「異質なものと異質なものを結びつけるとか、歴史との比較で未来を考えるとか」(梅田, p.111)、そういうことが好きだと語っている。茂木さんも、旧来の枠組みに当てはまらないような進み方で、いろいろなことを考え、言及していく。
 しかし、それと同時に、僕は最近考えてしまう。そういった俯瞰的な思考で、本当に新しいものを生み出せるのだろうか、と。新しい世界の解説者として、また面白くてわかりやすい教育者として成功する姿は、イメージできる。でも、さっき紹介したグーグルやアップルのように、本当に新しいことを成し遂げられるのだろうか。そこが最近、とても気になる。きっと、もう1つ、何かもう1つ、足りないんだと思うのだ。
 やはり、どこで勝負するのか、という実践領域が必要だ。「T字型」とはうまく言ったものだ。ジェネラリストだけではだめで、一部に深い専門性を持たなければ、という。これは勉強の仕方として言われていることがあるが、活動領域の話として捉え直すと、ふたたび注目に値する話だ。そういうことを考えている今日この頃だからこそ、僕にとって、この本はなかなか刺激的だった。

 最後に、茂木さんが紹介しているエピソードを取り上げて終わりたいと思う。MITはこれまでに63人のノーベル賞学者を輩出しているらしいが、そこで教員がテニュア(終身教授資格)をとるには、次のような審査基準があるそうだ。

「それまで誰も手をつけていない分野を切り拓いたかどうか」

この基準のすごさと魅力。ううむ。。。実に考えさせられる。
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