井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

<< July 2024 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

『社会を越える社会学』(ジョン・アーリ)

Book-Ali.jpg井庭研の今学期最後の輪読文献は、ジョン・アーリの『社会を越える社会学』だった。井関さんの論文から始まり、『リキッド・モダニティ』などの社会論、メディア論、複雑系、量子力学の文献を読んできた今学期の総まとめとなるような文献だ。

ジョン・アーリ, 『社会を越える社会学:移動・環境・シチズンシップ』, 法政大学出版局, 2006


この本では、「移動」(モビリティ)という観点から、グローバリゼーション時代における新しい社会学のパラダイムの提唱が試みられている。特に「国民国家」内における「社会」を主な研究対象としていた従来の社会学に対し、より流動的で移動がベースとなった捉え方をしていこうという。その意味で、(国民国家内における)「社会」を越える社会学、というわけだ。

「本書のねらいは、二十一世紀における一つの「学問分野」としての社会学に必要とされる研究カテゴリーを発展させることにある。本書は、ヒト、モノ、イメージ、情報、廃棄物の多種多様な移動について検討し、これらの移動相互の複雑な依存関係や、その社会的な帰結を研究対象にする〔新たな〕社会学の宣言をおこなう。」(p.1)

「再構成された社会学の中心には、社会(ソサエティ)よりも移動(モビリティ)を据えるべきだ」(p.368)

この本で、まず面白かったのが、「場所」についての次の指摘だ。

「「場所」という単一の範疇は、すでに確立しているというよりはむしろ、主催者、ゲスト、建物、モノ、機械が特定の時刻に特定の場所で何らかのパフォーマンスをおこなうためにたまたま寄り集まるというような複雑なネットワークのなかで、その意味が示されることになる。そして場所はパーフォマンスのシステム、すなわち、他の諸組織や建物、モノや機械とのネットワーク化されたむすびつきを通して現実のものとなり、しかも意図せざる結果として安定的なものとなるようなシステムを介して(再)生産される。それゆえ、場所はダイナミックなもの――「動きの場」であり、ひんぱんに移動し、必ずしも一箇所に停泊しない船のようなもの――である。「新しい移動」パラダイムでは、場所それじたいが人間、非人間の行為主体からなるネットワークの内部で、遅いか早いか、遠距離か近距離かの違いはあれ、旅するものと考えられている。場所は関係のようなものであり、人、物材、イメージ、そしてそれらがおりなす差異のシステムの布置構成のようなものである。」(p.xiv)

場所について考えるとき、まず物理的な場所についてイメージしがちであるが、ここで論じられているのは、社会的な関係性における「場所」である。物理的存在としての固定的な「場所」と、関係性のなかでの浮遊し、ゆらぐ「場所」 ――― 場所について考えるときには、この二重性について考えることが重要だと思う(この場所のもつ二重性については考えていることがあるので、それについてはまた今度書きたいと思う)。この二重性は、やはり「粒子」と「波」の性質を併せ持つ量子の話を思い起こさせる。

興味深いのは、アーリ自身もこの本のなかで、移動パラダイムの社会学に関係するものとして、量子力学的な考え方を取り上げていることだ。以下のように、Zoharらの『The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision』(Danah Zohar, Ian Marshall, William Morrow & Co, 1994) が紹介されている。この本は、ちょうど今学期のサブゼミで読んだ文献だ。

「ゾーハーとマーシャルが『量子的社会』という観念を練り上げている。絶対時間、絶対空間という固定したカテゴリー、相互作用する「ビリヤードの球」からなる剛体の不可入性、そして完全に決定論的な運動法則に基づく古典物理学に見られる、かつての確実性の世界が崩壊したとゾーハーらは述べる。それに代わるのが、「量子物理学の奇妙な世界、つまり空間、時間、物質の境界をものともしない奇怪な法則からなる不確定な世界」である(Zohar and Marshall 1994: 33)。さらにはゾーハーらは、波動/粒子の作用と社会生活の創発的性格との類似性を見いだしている。「量子的実在は……潜在的には、粒子のようでもあり波動のようでもある。粒子は単一体であり、空間的、時間的に定位され計測可能なもので、ある時点でどこかに存在する。波動は『非局所的』で、空間と時間を超えて拡がり、その瞬時的な作用は至るところに及ぶ。波動は同時にあらゆる方向に拡がり、他の波動と重合し一体となり、新たな実在(創発的な全体)を形成する(Zohar and Marshall 1994: 326)。本書では、「創発的な全体」を生み出しているように見える様なグローバルな「波動」をいくらか類推的に分析することを試みる。とはいえ他方では、「空間的、時間的に定位され計測可能」である無数の単体粒子、つまり人間と社会集団が確固として存在している。」(p.215)

このように、この本では、アーリは関連する文献を数多く引用・参照しているが、あまり自身の独自の考え方や具体的な分析事例は書かれていない。そのため、この本は、アーリの主張・研究として読むというよりは、関連文献への索引として読むほうがいいかもしれない。そう考えれば、非常に広範な文献をカバーしているので便利だ。

ただし、アーリはルーマンの理論に批判的な指摘をしているが、僕からするとその指摘は適切でないように思う。むしろ、アーリの議論は、ルーマンの社会システム理論で補強するとよいのではないかと思える。そういう意味で、この本を読むときには、アーリの評価をすべて鵜呑みにせず、実際にその文献を読んで、自分で関係付けをし直す、というのがよいだろう。

この本の最後に、次のような記述がある。超領域的な研究を志向する僕らを勇気づけるので、少し長くなるが引用したい。

「ドガンとパールは、社会科学の革新における「知の移動」の重要性を示している(Dogan and Pahre 1990)。彼らは二十世紀の社会科学についての広範な調査に基づきながら、革新は基本的に、学問分野の内部に凝り固まった学者からも、あるいはかなり一般的な「学際的研究」をおこなう学者からも生まれないということを明らかにしている。むしろ革新は、学問分野の境界を横断する学問的移動、つまり彼らが「創造的な境界性(マージナリティ)」と称するものを生み出すような移動によってもたらされる。社会科学において新しく生産的なハイブリッド性を生み出すのに役立つのがまさにこの境界性であり、それは、学問分野の中心から周縁へと移動し、その境界を横断していくような学者によってもたらされる。こうしたハイブリッド性は、制度化された下位分野(たとえば、医療社会学)や、よりインフォーマルなネットワーク(たとえば、歴史社会学)を構成することができる(Dogan and Pahre 1990: chap.21を参照)。この創造的な境界性は、複合的で、重層的で、離接的な移動過程、つまり学問分野/地理/社会の境界を横断して生じうる過程に起因する。知の移動は社会科学に適しているように思われる。」(p.368)

この部分から僕は、分野にこだわらず自らの研究をすすめた結果、渡り歩いた領域が、創造的な境界性を生むのだ、というふうに理解した。システム理論、モデリング・シミュレーション技法、コラボレーション技法、パターン・ランゲージ、ネットワーク分析、経済物理学、量子力学などなど、これらは分野としてはかなりバラバラなものであるが、僕の中ではつながっている。もちろん、なんでもつながるわけではないから、内と外を分ける、境界線はある。それこそが、「創造的な境界性」の意味するところではないだろうか。DoganとPahreの文献を実際に読んで、さらに考えてみたい。
最近読んだ本・面白そうな本 | - | -

井庭研 2008年度春学期 研究発表会のご案内

来る7月27日(日)に、SFCにて、井庭研 2008年度春学期 研究発表会を開催します。今学期もいろいろと面白い研究があります。興味がある方は、ぜひおいでください。

t12井庭研 2008年度春学期 研究発表会

2008年7月27日(日) 9:40開場 10:00~16:30
慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス
大学院棟τ(タウ)12教室


《セッション1》 新しいコミュニティ形成原理
● 「トップが持つべき心得: 企業においていままでもこれからも変わらず必要とされるトップのあるべき姿とは」(水野 大揮)
● 「付加価値の連鎖による環境保全と地域活性: 茨城県霞ヶ浦再生事業「アサザプロジェクト」を事例にして」(坂田 智子)
● 「パターン・ランゲージによる創発型地域活性化の支援」(成瀬 美悠子)
● 「「場」とコミュニケーション: 創造的なコミュニケーション・メディアのために」(三宅 桐子)

《セッション2》 学びと成長の支援
● 「育児支援のパターン・ランゲージ: 育児不安の解決に向けて」(中條 紀子)
● 「SFCカリキュラムにおける学びと研究の支援: 学習パターンとリサーチ・パターンの融合へ」(小林 佑慈)
● 「初年次教育の道具箱: 自生的秩序観にもとづいた学習支援方法論とツールの提案」(加藤 剛)

《セッション3》 大学院生セッション
● 「自生的秩序形成の構造とプロセスの分析に向けて」(仮)(伊藤 諭志)
● 「知の成長における秩序と多様性」(仮)(山崎 由佳)
● 「システム、湘南、マーケット: 創発型地域活性とその展開」(仮)(西田 亮介)

《セッション4》 物語世界と創造性
● 「オートポイエティック・システムとしての音楽: ルーマン理論に基づく音楽の創発現象の考察」(花房 真理子)
● 「物語世界創造のためのパターン・ランゲージ: ストーリーメイキング・パターンの提案」(原田 一弘)
● 「物語世界におけるリアリティの創発: 自生的秩序観に基づく演出方法論」(青山 貴行)

《セッション5》 構成的理解
● 「書籍販売市場の謎に迫る: べき乗則生成原理の解明に向けて」(吉田 真理子)
● 「オンライン市場の創発的秩序: オンライン書店における商品ネットワークの可視化と分析」(北山 雄樹)
● 「科学と芸術の関係について: レオナルド・ダ・ヴィンチを事例に」(下西 風澄)

最新情報や発表論文のダウンロードについては、井庭研 2008年度春学期研究発表会ホームページをごらんください。
井庭研だより | - | -

量子力学における「コト」的世界観と、オートポイエーシス

今日のゼミでは、『SFC YEAR BOOK』の撮影があった。「YEAR BOOK」というのは、卒業アルバムのようなものであるが、全学年を対象としているので、SFCでは「YEAR BOOK」と呼んでいる。これまで、研究会撮影のときは、教室内で撮影することが多く、そうでなくても教室のすぐ外で撮影していた。だが、今回はキャンパスにある大きな池「鴨池」をバックに撮ろうということになり、食堂前のスペースへと移動しての撮影となった。今日は休んでいる人が多かったのが残念だが、なかなかいい写真だ。

ilab2008spring


さて、今日の輪読は、『世界が変わる現代物理学』(竹内 薫)と、『動きが生命をつくる:生命と意識への構成論的アプローチ』(池上 高志)の2冊。どちらもそれぞれ刺激的な本だ。これまで研究会で読んできた社会論やメディア論とは全く異なる分野の本であるが、『リキッド・モダニティ:液状化する社会』などとも深いレベルでつながる内容の本だ。

Book-Takeuchi.jpgここではまず、『世界が変わる現代物理学』(竹内 薫, ちくま新書, 2004)の方について書くことにしたい。

『世界が変わる現代物理学』では、相対性理論や量子力学の簡単な解説とともに、現代物理学がもつ「思想」が論じられている。この本が刺激的なのは、単なる解説本を超え、その「思想」について論じているためである。


量子力学について少しだけ解説しておくと、「量子」とは、世界を構成する超ミクロな存在であり、電子や光子などのことである。量子は、「粒子」の性質とともに「波」の性質も併せ持っている。しかも、古典力学(ニュートン力学)が想定するような「確定性」ではなく、「不確定性」がその根本原理に含まれている。このような「粒子と波の二重性」や「不確定性」という特徴が、古典力学的な感覚に慣れ切っている僕たちにとって、量子力学の考え方を理解しがたいものにしているといってよい。

しかし、翻ってみると、この慣れ切っている古典力学の感覚こそが、ひとつのパラダイムにすぎないということを示しており、量子力学のパラダイムで捉えれば、世界はまったく違ったふうに見えてくるのだ。そう考えると、物理学的な細かい点を抜きにしても、そのパラダイムがもつ思想性に注目し、それを理解して感覚をつかむことが、重要だといえる。『世界が変わる現代物理学』は、まさにその点を追求している本である。

実は、この点は、まさに僕がこの秋に担当する「量子的世界観」 (Quantum Perspective) という授業と同じ方向性である(この授業では、僕が社会論とのつながりを考え、同僚の内藤さんが生命論とのつながりを論じる予定)。日常感覚では理解できないような量子力学的な現象が実際に観察されている以上、それをどう理解すればよいのかということを、思考の上でつくっていくことが求められている。まだ仮説段階のものも多くあるが、それも含めて思考実験をすることは意味があるだろう。

量子力学の話で僕が特に興味深いと思うのは、古典力学では扱うことのできなかった要素の「生成」と「消滅」の話が登場する点だ。

「量子力学を勉強していくと興味深い概念に出会います。量子の生成と消滅です。」(p.152)

「量子力学においては、量子は生成・消滅します。量子論においては、「真空」という言葉さえ、古典物理学とは別の意味をもつようになります。古典物理学においては、真空というのは、「物質が何もない」状態のことです。・・・ですが、このような真空状態でも、量子論的には、ここかしこに量子がウジャウジャと存在しています。なぜかというと、何もないところからでも、瞬間的に陽電子と電子が対になって生成されて、観測される前に対消滅を起こして消え去る確率がゼロではないからです。イメージとしては、真空は、沸騰するお湯のようにぶつぶつと泡ができては消えているような感じでしょう。このような量子は、ある意味、存在以前の存在であり、仮想粒子(バーチャル・パーティクル)と呼ばれています。」(p.154)

この量子の生成・消滅ということに注目すると、「存在するモノがどのような作用をするのか」を論じてきたのが古典力学であり、「存在するモノがどのように生まれてくるのか」を論じるのが量子力学だと捉えることができる。固体として存在(being)するモノが出発点なのではなく、ゆらぎをもった動きの上に成り立つ生成的(becoming)なものとして世界を捉えるという視点。竹内さんは、これを「モノ」的視点から「コト」的視点の転換と呼ぶ。僕は、後に書くように、コト的な視点が、オートポイエーシスの視点と通ずるものがあるという点に注目している。

「現代物理学の思想性は、量子重力理論という最前線の研究においてもっとも鮮明なかたちであらわれます。そこでは、すべての「モノ」が消え去り、すべては「コト」になるのです。」(p.11)

「われわれは、通常、モノとモノの間の「関係」としてしかコトが存在できないと思い込んでいます。ですが、たとえば粒子という概念よりもエネルギーという概念のほうが基本的だとするならば、少なくとも物理学の構造を見るかぎり、必ずしもモノがなければコトがないとはいえないことがわかります。むしろ、話は逆で、もしかしたら、人類の知の歴史は、世界の基本構造が(実は)モノではなくコトであることに気がつく過程だったのかもしれません。」(p.225)

この点がもっとも鮮明になるのは、「ループ量子重力理論」という最先端の理論においてである(『世界が変わる現代物理学』の後半で取り上げられている)。この理論では、「時間と空間の概念がきれいさっぱり消え去って、世界の根源には『抽象的なネットワーク』あるいは『ループ』しか残らない」(p.187)。つまり、あらかじめ時空を仮定しないのであり、時間や空間は二次的に導き出されるものだというのである。もはや、想像力の限界を超えていると思うが、もう少し踏ん張って読み進めると、次のような言葉に行き当たる。

「ノードとリンクは、いったい、どこに存在するのでしょう? その答えは意味深長です。「どこ」という言葉は、空間というモノが存在してはじめて意味をもつのです。しかし、ノードとリンクは、その空間を紡ぎ出す抽象的な概念装置にすぎないのです。ですから、ノードとリンクは「どこにも存在しない」のです。「どこ」を問うことはできません。」(p.214)

空間が原初から存在するのでなく、二次的な概念である以上、空間のなかの位置を示す「どこ」という問いは不適切だということになる。この点は、論理的には理解できるが、感覚的には納得できないかもしれない。しかし、同じようなことが、オートポイエーシスの議論においても論じられているということは注目に値する。『オートポイエーシス:生命システムとはなにか』(H.R.マトゥラーナ, F.J.ヴァレラ, 国文社, 1991)の訳者 河本英夫さんの「解題」を、以下に引用することにしよう。

「空間的関係を一切導入しないで、システムを規定している点で、オートポイエーシス論は位相学的だと言われるのであり、またシステムが空間に場所を占めるようにするために、繰り返しオートポイエーシスの実現について語られなければならなくなっている。『実現』という言葉は、空間内の現実の存在になる、という程度の意味である。」(p.269)

「オートポイエーシス・システムは、みずからの産出する構成素をつうじて空間化するのであり、構成素はシステムを空間に具体的単位体として構成するのである。空間内に存在する現実の構成素と、それらの間に成立する諸関係が、システムの『構造』である。」(p.269)

先ほどの、ループ量子重力理論における話と同じことを言っているといえないだろうか。このほかにも、社会システム理論における「コンティンジェンシー」の概念も、量子力学の不確定性の話に通ずるものがあるように思う。オートポイエーシスの概念は、しばしば言葉の上の戯言のように思われることがあるが、現代物理学の最先端の量子力学と同じことを言っているとなると、少しはその可能性についての評価も変わってくるのではないだろうか。そのようなことを考えるために、僕はいま量子力学を学んでいる。
- | - | -

「べき乗分布」のインプリケーション (『歴史の方程式』, マーク・ブキャナン)

Book-Buchanan.jpg今週のインターリアリティプロジェクトの輪読では、『歴史の方程式』の前半を読んだ。

この本は、「べき乗分布」に関する研究の歴史を振り返り、「非平衡物理学」(nonequilibrium physics)―――著者の言葉でいうと「歴史物理学」(historical physics)―――の考え方を紹介してくれる、とても刺激的で重要な本だ。ここまで「べき乗分布」の研究について詳しく書いてくれている本は他にはない。

今日は、この本のなかから僕が特に面白いと思う部分を紹介することにしたい。

■べき乗分布にはスケール不変性がある → 「典型的」「一般的」な出来事はない。

凍ったジャガイモを壁や床に叩きつけると砕け散るが、そのとき様々なサイズの破片ができる。粉々になった小さな破片は非常に多く、大きな塊は少ないだろう。ここで、この破片の大きさと数を詳しく調べてみると、実は規則正しいということがわかってくる。「重ささが二倍になるごとに、破片の数は約六分の一になっていく」(p.59)というのだ。これは、数学的にいうならば、「べき乗分布」になっているということだ。

「べき乗分布」には、スケール不変的(scale-invariant)な性質がある。つまり、どのスケール(尺度)で拡大してみても、同じような状況が見えるのである。このことをわかりやすくいうと、次のようになる。

「今あなたが、好きなように自分の体の大きさを変えられる存在だったとしよう。・・・どんな大きさでもまわりの景色はまったく同じに見えるので、もし自分を何回縮めたか忘れてしまうと、まわりを見ただけでは自分の大きさがまったく分からなくなってしまうのである。これが、冪乗則の意味するところである。破片の山は必ず、「スケール不変性」や自己相似性と呼ばれる特別な性質をもっているからである。破片が広がった様子はどの大きさにおいても同じに見え、まるで各部分が全体の縮小像であるかのように見えるということだ。」(p.61)

つまり、どのスケールで見ても、同じような秩序が見うけられるということだ。バラバシたちが、リンク数の順位分布がべき乗分布になるネットワークを「スケールフリー・ネットワーク」と呼んだのは、このためだ。

LinearGraph-Ave200.jpgべき乗分布においては、「典型的な」もしくは「一般的な」サイズというものは存在しない。あらゆるスケールのものが同じようなかたちで存在するからである。正規分布では重要な指標であった「平均」や「分散」というものが意味をなさなくなる。というのは、平均をとると、テールに引っ張られて平均値は限りなく小さくなってしまう。また、分散を調べると、ヘッドの値とテールの値にかなりの差があるため、かぎりなく大きな分散値になってしまう。このように、平均や分散という指標は、正規分布でなければ意味をなさないのだ。そのため、対象の分布が正規分布なのかべき乗分布なのかということはとても重要なことになる。

さらに、サンプリングの考え方も、正規分布を前提とする場合とは話が違ってくる。正規分布であれば、サンプリング数を増やすことで、より精度の高い近似ができるが、べき乗分布の場合は、サンプリング数を増やすほど、テール部分を拾ってしまい、値は小さくなってしまう。ここでも、対象となる現象が正規分布なのかべき乗分布なのかは、重要な違いだといえる。


■べき乗分布にはスケール不変性がある → 大きな出来事に特別な理由はない。

べき乗分布のスケール不変性は、大きな出来事が何か特別な理由によるものではない、ということも意味している。それは、大きな出来事も小さな出来事も、同じメカニズムで生成されるからだ。

「ジャガイモの破片の山におけるスケール不変性は、大きい破片は小さい破片を拡大したものにすぎないということを示している。すべての大きさの破片は、あらゆる大きさで同じように働く崩壊過程の結果として生じる。グーテンベルク=リヒターの法則は、地震や、地震を発生させる地殻で起こる過程についても、同様のことが言えるということを示している。地震のエネルギーは冪乗則に従うので、その分布はスケール不変的になる。大きな地震が小さな地震とは違う原因で起こると示唆するものは、まったく何もないのである。大きな地震が特別なものである理由がないという事実は、小さな地震を引き起こすものと大きな地震を引き起こすものはまったく同じであるという、逆説的な結果を示唆している。この考え方にもとづけば、大地震に対する特別な説明を探しても意味がないことになる。」(p.63)

このことを印象的に示すために、コロンビア大学の地震の専門家クリストファー・ショルツの言葉が紹介されている。「地震は、起こりはじめたときには、自分がどれほど大きくなっていくか知らない。」(p.98)。大地震というのは、地震の連鎖の雪崩によって結果として大地震になったのであり、その背後にあるメカニズムは、小規模の地震や中規模の地震と同じメカニズムによるということだ。


以上のことを、僕らの商品市場の研究成果と絡めて考えてみることにしたい。すでに紹介したように(「書籍販売市場における隠れた法則性」)、井庭研では、書籍販売市場などの実データ解析をしているが、そこでもべき乗分布が発見されている。このことは何を意味するのだろうか。

まず最初に、書籍販売市場において「典型的な」あるいは「一般的な」商品というものは存在しないということである。平均と分散で商品を見ることはできない、ということである。これはおそらく現場レベルではずいぶんまえからわかっていたことだと思う。販売冊数-順位のべき乗分布は、それが統計的にも言えるということを示している。

さらに、販売冊数-順位のべき乗分布は、大ヒットをした商品が売れた理由は、何か特別な理由があるからではない、ということ示唆している。このことは、大地震がスケールに依存しない普遍的なメカニズムによって、地震の連鎖の雪崩によって結果として生まれたというのと同じように、商品の大ヒットも市場の普遍的なメカニズムによって、「売れるものがますます売れる」という連鎖の雪崩によって、結果として生まれるのかもしれない。そうすると、僕らはマーケティングや市場戦略というものをどう考えればよいのだろうか………とても興味深い。(この点については、また別の機会に議論することにしたい。)

このように、べき乗分布について考えるときには、商品市場の例がわかりやすく、想像力豊かに考えることができる。そう思って、僕はべき乗分布のインプリケーションについて考えるときはいつも、市場のべき乗分布で考えている。なかなかおすすめの方法だ。
複雑系科学 | - | -

「学習パターン」の制作に携わる学生メンバー募集!

学習パターンポスターCS150.jpg今月から、大学における学びのヒントを「パターン・ランゲージ」の手法を用いて言語化し、共有するというプロジェクトを開始する。

学びのためのヒントを「学習パターン」(Learning Pattern)と呼び、それを多数収録したカタログを制作するのが目的だ。このカタログは、来年度、『SFCガイド』や『講義案内』とともに、オフィシャルな冊子として学部生全員に配布される予定だ。

この制作に携わる有志学生メンバーの募集を、以下のように開始した。

「学習パターン」制作ワーキンググループ
学生メンバー募集!!


◆ワーキンググループの目標
SFCでは、2007年度より「未来創造カリキュラム」が始まりました。この新カリキュラムのもと、学生が「自分自身で “SFCでの学び” をデザインしながら、実際に学んでいく」ことを支援するため、来年度(2009年度)から新しいタイプのハンドブックが配布されることになりました。それが、「学習パターン・カタログ」です。

そこで、この「学習パターン・カタログ」を制作する学生メンバーを募集します。活動内容は、教員や学生へのインタビュー、議論などを通して、SFCでの学びについて考え、「パターン」(考えるためのヒント)としてまとめていくことです。

ぜひ、学習パターン・カタログを一緒につくりませんか? 学年・専門は問いません。SFCの全分野を網羅したいので、いろいろな分野の人の参加が必要です。やる気がある人歓迎です。参加希望の人は、下記のメールアドレスに連絡をお願いします。 SFCでの学びについて考えながら、世界初の試みに一緒にチャレンジしましょう!

◆学習パターンとは
学習パターンとは、SFCで学ぶにあたって「身につけたい知識と能力」と「そのための学習計画のヒント」をまとめたものです。これにより、学生が自分自身の学習計画を作成する支援を行うとともに、学生同士/学生・教員間のコミュニケーションを支援することを目指します。 なお、学習パターンは、建築家のクリストファー・アレグザンダーが提唱した「パターン・ランゲージ」という考え方/方法にもとづいています。大学における学びの支援に用いられるのは、世界で初めての試みになります。

◆活動
定例ミーティング・作業は、水曜日の午後を中心に行います。
(インタビュー等はそれ以外の時間に行います。)

◆連絡先
Learning Pattern WG
教員担当: 井庭 崇(総合政策学部)
学生代表: 仲 里和(総合政策学部2年)

参加希望・質問等は、 LPmail.jpgに、メールでお願いします。
パターン・ランゲージ | - | -

「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関利明)

Book-Izeki1.jpg今日のゼミ輪読で読んだ文献のうち、まず、井関さんの「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」を紹介したい。

「『創発社会』の到来とビジネス・パラダイムの転換」(井関 利明, 『創発するマーケティング』, DNP創発マーケティング研究会 編著, 日経BP企画, 2008, p.11~p.82)

この論文は、魅力的な概念・文献を次々と取り上げ、現代社会と知の潮流について論じているものだ。井関さんの話は魅力的だと思うとともに、僕や井庭研が、いかに影響を受け、また同じ方向性を向いているかということを実感する。ここでは、この文献を読んで考えたことをいくつか紹介したい。

「まぼろしのコンセプト」
冒頭で、ジョン・J・ミュースの"Stone Soup"の童話絵本の話が紹介されている。これは、お互いに交流しない閉塞的な村に来た僧侶が、村の中心で、石を入れた鍋「ストーン・スープ」を煮はじめる。すると、それに興味をもった村人が現れ、何をしているのか尋ねては、持っている食材を持ってきて、その繰り返しで、最後には美味しそうなスープができあがる、という話だ。お互いに協力しようとは思っていなくても、「ストーン・スープをつくる」ということをきっかけに、コラボレーションが実現し、成果が生まれる。そして、この話をうけて、井関さんは次の点に注目する。

「『ストーン・スープ』(Stone Soup)という言葉は、まさにマジカル・ワード、あるいはコンセプトである。誰にも具体的なイメージを与えない。それでいて、不思議と好奇心をかき立て、やってみたい、つくってみたいと思わせ、人びとを動機づける。どうやら人びとに、参加してやってみたいと思わせるのは、魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉であるようだ。」(p.14)

この「ストーン・スープ」の話が面白いのは、スープに最初に入れているものが、ただの石だということだ。最終的には、石はスープの具になるわけでもなく、ダシがとれるわけでもない。むしろ、石は変化しないものの象徴であるといえる。しかし、この話の展開にとっては不可欠なものだ。石を入れずに、ただお湯を沸かしているだけでは、この話は成り立たない。「ストーン・スープ」という耳慣れない不思議な言葉が登場するからこそ、その後の村人の行動の連鎖につながっていくのだ。その点が、非常に示唆に富み、興味深い。

僕がこの話を聞いて思い出したのは、シナリオ・プランニングの話だ。シナリオ・プランニングでは、みんなで自分たちの組織の未来シナリオをつくるのであるが、最終的に得られたシナリオは最重要なものではない。それが当たるかはずれるかはあまり問題とはならない。最も重要なのは、シナリオをつくる段階で、いろいろな情報や考え方が共有され、自分たちについての理解が深まることにある。メンタルモデルがすり合わせられることにこそ意味があるのだ。つまり、シナリオ・プランニングでは、シナリオをつくるという目標のもとに、組織学習が行われる。このことは、まったく一緒ではないが、「ストーン・スープ」を目指すと掲げながら、実はストーンは重要でない、というのに、どこか似ている。

また、井関さんがいう「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、僕も意識して使うことがある。例えば、僕の「コラボレーション技法ワークシップ」の授業では、グループワークのテーマを、「見えないものが見える装置を提案する」とか「新しいテーマパークをつくる」というような抽象的かつ魅力的な言葉で設定する。すると、それが何を意味するのかという具体化は、各グループに任されることになる。すると、そこに創造力を発揮するチャンスがあり、独自性が生み出されるきっかけとなる。それを見守る僕としては、みんなが面白い発表をしてくれるのかは不確実であるのだが、それがまた楽しみでもある。何かが(何らかのスープが)できることはわかっているが、どういうもの(どういう味のどういう具のスープ)に仕上がるのかは事前にはわからない。そして、それに参加する人(村人)は、何かの制約や強制されているわけではないので、自分で具体化の内容(具材)を考えることができ、そこにモチベーションが高まる仕掛けがある。このようにして、創発の間接的なデザインを行うことができるのだ。

「魔力をもった魅力的な、それでいて具体的には内実が不明確な言葉」というのは、明確な将来イメージとしてのヴィジョンとは異なる。それに向かって突き進むと、そこが実はゴールではなく、すでにその過程で問題が解決してしまっている、体現してしまっている、というような、いわば「まぼろしのコンセプト」なのだ(この言い方は、井関さんではなく、僕のネーミングによるもの)。人はそれなしでは、動き始めることはできない。そして、コラボすることはできない。しかし、「まぼろしのコンセプト」は、最終的には自然と本質・重要ではなくなり、忘れられていくのだ。

「Becoming」として捉える
散逸構造で有名な物理学者 I・プリゴジンを取り上げ、「Being」と「Becoming」の考え方が紹介されている。井関さんが好んでよく使う考え方だ。僕もこの考え方は普段から話で取り上げるし、僕のなかではかなり定着している考え方だ。

「"Being"(存在)の原義は『…がある。…である』という『一定の存在や状態』を意味している。したがって「確固たる、確立した、動かしがたい存在や状態」が含意されている。つまり、決定論的機械論の世界である。それに対して、"Becoming"の原義は『…になる』ことで、『たえざるプロセス』を意味している。したがって『生成する状態、形成していくプロセス、発展する形』を含意している。それは、生命体、生命進化、あるいは流動体の世界である。人間現象や社会現象をBecomingとしてみることは、それらを変動する環境のなかで、たえず新しい要素を取り入れながら生成し、形成され、自己再組織化していく動的なプロセスとして把えることである。万事を変化の相の下に理解することでもある。」(p.25)

このbecomingの考え方は、まさに井庭研の根幹であり、SFCの本質だ。井庭研は絶えずBecomingであり、SFCもBecomingである。これは、理想の完成形に満たなく形成「途中」にあるということではなく、そのときそのときの実現された理想的な形が、絶えず変化しつづけていくということだ。理想形が変わるのは、自分は変わり、世界・環境が変わっていくからだ。私たちは走り続けなければならない。世界は進みつづけるから。これは、不思議の国のアリスに出てくる「レッドクイーンの法則」に通じるものがある。

「ここではだね、同じ場所にとどまるだけで、もう必死で走らなきゃいけないんだよ。そしてどっかよそに行くつもりなら、せめてその倍の速さで走らないとね!」
ルイス・キャロル(山形浩生訳)『鏡の国のアリス』(2000)

数年前、SFCのオープン・リサーチ・フォーラムのテーマがまさにこれだった(ORF2005『レッドクイーンの法則-知の遺伝子変化を加速せよ-』)。SFCは走り続けるという宣言をしたわけだ。

新しいメディアは、人びとの「意識」と「社会」を変える
井関さんは、「プリント・メディアの知」と「デジタル・メディアの知」の違いについて次のように区別する。

「何よりも、プリント・メディアの世界は、『閉ざされた知の世界』である。印刷物は簡単に書き換えることはできない。・・・・また、書物の書き手は、限られた専門家であるのが普通であり、著者と読者の立場ははっきりと別れていた。その意味でも『閉ざされた知の世界』だ、といえるだろう。それに対して、『デジタル・メディアの知』は、誰もが参加し、いつでも修正、発展させることができる。つまり、確定した知の結果ではなく、プロセスの知だからである。いつ誰によって修正され、組み合わされ、発展させられ、新しい知識を生みだすか分からない。自由な参加と相互作用が前提なのである。しかも、プリント・メディアの世界では受け手であった読者が、デジタル・メディアの世界では『書き込む人たち』に変わり、共同して新しい意味を創造する、『開かれた知の世界』なのである。」(p.42)

「デジタル・メディアの知は、たえざる発見と創造のプロセスの知なのである。こうして、新しいメディアの登場と普及は、新しい知のパタンをつくりだし、人びとのコミュニケーションと社会関係の形を変えていく力をもつのである。」(p.44)


もちろん、これはよく言われることではあるが、この点を押さえておくことはとても重要だ。メディア論は、メディアそのものを論じるだけでなく、それがもたらす意識の変化と社会の変化までを含めて考えなければならない。そういうことだ。

ちなみに、井庭研の今後の輪読文献との関係でいくと、文字メディアの登場と普及による変化は『声の文化、文字の文化』(オング)、印刷メディアの登場と普及による変化は『想像の共同体』(アンダーソン)のところで考えることになる。デジタル・メディアの登場と普及による変化については、『リキッド・モダニティ』(バウマン)や、過去に読んだ『フラット化する世界』(フリードマン)、『ウィキノミクス』(タプスコット)などが論じている。

ここで、意識と社会と書いたが、これはルーマン理論でいうと「心的システム」と「社会システム」ということだ。新しいメディアが生まれると、「心的システム」と「社会システム」における連鎖の流れが変化する。その点を分析しなければならない。

中間層を上げる
デジタル・メディア時代における創発の担い手について、以下のような記述があった。

「かなりの知的程度をもち、メディア・リテラシーを備えた多数多様な人びとが、伝統的なテクノクラートや専門家とは異なる地平に、新しい「知的中間層」として登場してきたように思われる。この意味での「知的中間層」こそが、「創発社会」の新しい担い手となり、またビジネスのミライをも大きく左右する新しいパワーなのだろう。」(p.39)

この点はまさに、以前の宮台さんとの対談で僕が主張していた点だ。エリートを伸ばす必要があるという宮台さんに対し、僕はそれも重要だが、中間をいかに上げるかがポイントだ、ということを主張した。僕は、やはり、新しい「方法」と「道具」を中間層に普及させ、その人たちの支援をしたいと考えている。PlatBoxのシミュレーション・プラットフォームも、パターン・ランゲージも、社会システム理論も、僕にとっては、中間層が新しい発想・方法によって飛躍するためのツールなのである。そこを狙って、僕はその方法・道具の研究をしている。それを、新しいタイプの「知と方法」の探究として、学問分野に縛られることなく行っていく。まさにそういうことを目指しているのだ。

以上、面白い部分のほんの一部だけを取り上げたが、この論文ではさらに「クリエイティブ・クラス」や「ハイコンセプト」、「リキッド・モダニティ」、「マルチチュード」、「クラウドの知恵」など、最近話題となっているキーワードはほぼ網羅している。この魅力的な編集の仕方が井関さんらしい。井関先生は、非常に興味深い文献をむすびつけて、新しい「知と方法」については、「メディア」について論じてくれる。この一歩引いてとらえる視点と力量にはいつも関心させられる。とても魅力的なのだ。ただ、よくも悪くも井関先生は思想の方なので、僕らの役目というのは、その思想を受け継ぎ、具体化して実践することなのだと思う。その役目を楽しみながら、がんばりたいと思う。
最近読んだ本・面白そうな本 | - | -

インターリアリティ プロジェクト(2008年度春学期)スタート!

interreality.jpg大学院プロジェクト「インターリアリティ」プロジェクトが始まった。

今年度は土屋さんがいないので、熊坂先生と僕の二人での担当となる。今年は僕らの研究室から修士に上がる学生がいなかったので、「このプロジェクトも少し寂しい感じになるねぇ」と思っていたが、学期が始まってみると、新規メンバーや聴講の学部生もいて、それなりの人数になった。

先学期の輪読では、ルーマンをはじめ社会学系の文献が多かったが、今学期は複雑系関連の理論を学ぶほか、データベースを使いこなす、というのがテーマである。まず複雑系関連では、べき乗分布やネットワーク科学の数理的な面を強化する。輪読する本は、『Scale-Free Networks: complex webs in nature and technology』(Guido Caldarelli, Oxford University, 2007)。Book-Network.jpg昨年出たばかりの本で、基礎的な考え方から最近の手法までを紹介してくれている。また、いろいろな分野におけるネットワークの可視化や解析の事例も紹介されているので、全体を見渡すのに適している文献だと思う。ちょうど昨年のネットワーク科学国際会議( International Workshop and Conference on Network Science '07)のころに出版されて、著者がアピールしていたり、バラバシがプレゼンの中で紹介したりしているのを覚えている。


さらに、べき乗分布に関するニューマンの論文も読む予定だ。しかし、いきなりこれらの専門的な文献に行くとなると、初心者にはきついかもしれないということで、イントロダクションとして、最初にひとつ日本語の文献を入れることにした。それは、『歴史の方程式:科学は大事件を予知できるか』(マーク・ブキャナン, 早川書房, 2003)だ。Book-Buchanan.jpgこの本は、僕がとてもおすすめしたい本で、べき乗分布に関する研究の歴史がしっかり書かれている。この本の著者は、この次に出した本『複雑な世界、単純な法則:ネットワーク科学の最前線』で有名なマーク・ブキャナン。博士号をもっているサイエンス・ライターだ。『歴史の方程式』自体はあまり有名な本ではないが、複雑系科学の読み物としてかなりおすすめなのだ。僕の授業「モデリング・シミュレーション技法」でも教科書の1つに指定していて、履修者に宿題で読ませている。

データベースについては、SQLなどの基本と実践スキルを少しでも身につけたいと思っている。このようなテーマにしたのは、最近、データの扱いが巧みな人たちの仕事を目の当たりにして、このスキルこそ、いまの僕たちに必要なものだ!と考えるようになったからだ。僕が初めてデータベースについて知った10年前は、データベースで扱える情報に僕が魅力的だと思うようなものはなかった。いうなれば「データをインプットして溜めるための技術」というくらいの認識だった。しかし、インターネットが普及して膨大なデータが取れるようになった現在では、データベースは、もはや「アウトプットのための分析スキル」の一部になったということを感じた。実データの解析にしても、シミュレーション結果の解析にしても、僕らはもっともっと使いこなせるようにならないと! この春、そう痛感したのだ。そこで、インターリアリティプロジェクトでは、複雑系の数理的な面を強化するだけでなく、データを実際にさばける能力をつけることにしよう、というわけだ。先学期ルーマンを読んだメンバーで、べき乗分布やデータベースのこともやる。新しい社会学には新しい方法と道具が必要だ―――これこそが、インターリアリティ流なのだ。

もちろん今学期も、熊坂先生の昔話や、僕と熊坂先生とのトークは欠かせない。結局、ここが一番面白かったりするんだよね。
井庭研だより | - | -

一緒に学ぶ仲間とともに。

今学期の井庭研は、サブゼミも充実している。今週スタートしたサブゼミは、以下のとおり。

ルーマン サブゼミBook-Luhmann.jpg
ニクラス・ルーマンの社会システム理論を英語で読むサブゼミだ(もともとルーマンの著作はドイツ語で書かれているので、ここで読むのはその英訳版)。読むペースとしては、基本的には授業「社会システム理論」の宿題の進行に合わせて、その該当部分を英語で読んでいく。ルーマン用語の日本語-英語対応リストなども作成してみたいと思う。
『Social Systems』(Niklas Luhmann, Stanford University Press, 1995)

量子社会 サブゼミBook-Zohar.jpg
『The Quantum Society』という本を読みながら、量子力学と社会科学の関係づけを試みるサブゼミ。この本は、量子力学の考え方にもとづく社会観について1冊を割いている、世界で唯一の本だと思う。このサブゼミを通じて「量子力学にもとづく社会科学」を構想したいと思う。
『The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision』(Danah Zohar, Ian Marshall, William Morrow & Co, 1994)

ハイエク サブゼミ Book-Hayek.jpg
「自生的秩序」をはじめとして、フリードリッヒ・ハイエクの考え方を理解することを目指すサブゼミ。ハイエク自身の『法と立法と自由』などや、『ハイエクと現代リベラリズム』などの本を、参加者の興味に合わせて各自が読んできて、報告しあう。
『法と立法と自由〔Ⅰ〕:ハイエク全集1-8新版』(ハイエク, 春秋社, 2007)
『ハイエクと現代リベラリズム:「アンチ合理主義的リベラリズム」の諸相』(渡辺 幹雄, 春秋社, 2006)

英語 サブゼミ
スピーキング、リーディング、文法など、英語の勉強をしようというサブゼミ。この時間は英語でスピーキングを行うということにも挑戦。いま井庭研では英語熱が高まっていて、ゼミ生の約半分がこのサブゼミに参加している。

インターリアリティ プロジェクトBook-Network.jpg
サブゼミではないが、井庭・土屋・熊坂で担当する大学院プロジェクト「インターリアリティ」では、今学期はネットワーク科学やべき乗分布の理論について輪読する。また、大量のデータを扱うデータベースのスキルの向上も目指す。
『Scale-Free Networks: complex webs in nature and technology』(Guido Caldarelli, Oxford University, 2007)


これらのうち、時間的に参加できない英語サブゼミを除いて、僕は上記のほとんどに参加する。一緒に学ぶ仲間がいて、本当にしあわせだなぁ。

    SubSeminar2.jpg SubSeminar1.jpg
井庭研だより | - | -

天気がよかったので。

KamoikeSeminar.jpg天気がよかったので、今日のゼミは鴨池のほとりでやることにした。せっかくの晴天なのに教室にいると気分が滅入るかな、と思って。外が明るい分、部屋の中はどうしても影になってしまうから。
こうして、井庭研週2体制の最初の金曜ゼミは、芝生の上で行われることになった。風もあまりなく、とても気持ちよく過ごせた。とはいえ、5時半にはさすがに寒くなったので、共同研究室に移動したのだけど。

今日のゼミの内容は、研究テーマ発表。今学期取り組むテーマについて3分間語る。1枚のレジュメにまとめて、それを配って説明する。「テーマが曖昧な人は、事前に僕のところに相談に来るように」と言ってあっただけあって、みんなだいたいの方向性は定まっていた。新しい教育・学習支援の方法や、コミュニケーションの観点からの社会分析、e302Seminar.jpg自生的秩序の研究、生命・複雑系のアートなど、僕からみると、どの研究もとても面白そうなものばかり。今後の進展が楽しみだ。
来週から金曜ゼミでは、研究レビューが始まる。週3人ずつ自分の研究の中間報告をし、それをみんなでレビューするというものだ。一緒に研究を育てて、かたちにしていきたい。
井庭研だより | - | -

終わりと始まりの季節

春は新しい時代が始まる季節であり、ひとつの時代が終わる季節でもある。

この3月に卒業した井庭研卒業生は全部で9人。学部生が8人、修士が1人だ。大学のほとんどを井庭研で過ごした人、期間こそ短いが深くコミットした人、学部・修士の時代を通じて井庭研をつくってきた人など、研究会にかなりコミットをしてきたメンバーたち。Grad2008.jpg1年ほど前は、みんな頼りなくて「最高学年として大丈夫かなぁ?」と心配したもの。でも、不思議なもので、だんだん最高学年としての自覚がでてきて「腹をくくる」ことができた後は、ますます活躍して輝き、信頼のおける仕事・研究をこなすようになる。今回の卒業生たちも、そのようにして井庭研で花を咲かせてきた。

そんな卒業生たちを心からお祝いしたいと思い、僕は卒業関連のイベントにはできる限り出席する。教員の「仕事」としてではなく、純粋にお祝いにかけつけるために。そんなわけで、今年もテイクオフラリー、卒業式、修了式に参加した。

TakeOff1.jpgTakeOff2.jpgテイクオフラリーというのは、「SFCから飛び立つ(テイクオフする)人たちの集まり(ラリー)」という意味の、SFC独自の卒業パーティーだ。1期生が卒業したときから続いている伝統的なイベントで、僕も学部を卒業した時には実行委員として映像を制作したりした。当時はSFCで開催されていたが、ある時期から船上で行われるようになったのだが、今年は久しぶりに船から陸に戻っての開催となった。会場は、横浜みなとみらいの「アートグレイス・ポートサイドヴィラ」。よく結婚式で使われる会場で、雰囲気のいいところだ。パーティーの最後には、慶應の応援歌である「若き血」を、みんなで肩を組んで何度を歌った。

grad1-200.jpggrad2-200.jpg卒業式や修了式(修士の卒業式)は、日吉記念館で行われた。華やかな袴姿の人たちも多く、みんな晴れやかな笑顔をしていて、とても素敵な空間になる。卒業式の日はあいにくの雨模様だったが、会場はとても晴れやかな空気で詰まっていた。僕は一眼レフのカメラを片手に、井庭研卒業生たちの写真を撮る。パシャ。パシャ。そしてみんなで一緒に撮ってもらう。こんなふうにして、卒業式後の時間は素敵な記念の時間に変わっていく。(この日吉記念館は近々建て替えられるらしい。とてもシックで「深い」感じのする建物だけに残念だ。卒業式の重みは、この建物からもきていると思う。)

master.jpg大学の教員をやっていると、毎年春は複雑な気持ちになる。研究会を通じて大きく成長し、「ようやく一緒に研究や仕事ができるようになった」と思った瞬間、卒業してしまうからだ。僕が教え、学生が教わるという単純な関係性ではなく、まさに「半学半教」のかたちで一緒に考え試行錯誤をともにした「仲間」なのだ。「ようやくここからが面白いところなのに」と思いながら、毎年卒業生を見送る。その反面、卒業生たちが社会のいろいろなところで活躍すると思うと、それはそれでうれしい。

寂しさとうれしさ―――それが共存するから、春は複雑な気持ちに満ちている。別れと出会い、終わりと始まり。きっと僕だけでなく、日本中でいろんな人がその複雑な気持ちを抱えて新しい生活を初めているのだろう。そういう気持ちを味わいながら、新しいスタートをきることにしよう。
井庭研だより | - | -
CATEGORIES
NEW ENTRIES
RECOMMEND
ARCHIVES
PROFILE
OTHER