自ら「つくる」ことで経済から離れる「卒 資本主義」への創造社会ヴィジョン
最近、井庭研の大学院生たちと『人新世の「資本論」』(斎藤 幸平, 集英社新書, 2020)や『日本の大転換』(中沢 新一, 集英社新書, 2011)などを読み、資本主義の外部である自然の搾取や、その結果としての環境問題について議論している。資本主義は貪欲に外部を内部に取り込み搾取しながらどんどん拡大していく。もともとそのような運動性を内在していたわけだが、原発という無尽蔵なエネルギー源をもつことで、その拡大はさらに歯止めが効かなくなり、「暴走」に近いような状態となった。このような資本主義に対し、「脱・資本主義」や「脱成長」という議論がしばしば聞かれる。僕らが1990年代に取り組んでいたような話が、再燃しているような印象を受ける。地球温暖化の話題とあいまって、喫緊の課題である危機感はより高い。そんなわけで、最近、昔、環境・エネルギー問題にともに取り組んでいた熱い友人と、どうしたらいいだろうという話をしたりしている。
このような話をしているなかで、僕が一つ不思議に思ったのは、なぜ経済システムだけがここまでの猛威を振るう存在となっているのか?ということだ。僕が依拠している社会学者ニクラス・ルーマンの機能分化した近代社会像で言うならば、経済システムは、並列して動くいくつもの機能システムの一つにすぎないはずだ(機能分化の近代社会像については『社会システム理論:不透明な社会を捉える知の技法』の序章で紹介しているので参照してほしい)。それにもかかわらず、これほど影響が大きいほど、大きな力を持っているのだろうか? まず、そのことが疑問に浮かんだ。そこから考えを深めていくと、社会の新しいあり方へのシフトの糸口がつかめてきた。まだ大雑把な段階ではあるが、そのヴィジョンの覚書として、ここに書き記しておきたい。
まず、私たちが日常生活において経済から離れられない・依存してしまうのは、衣・食・住とエネルギーが経済的な調達によって得ているからであろう。つまり、経済に参加しないと、住むところ、着るもの、食べるもの、そして生活上必要となるエネルギーが調達できず、暮らせない・生きていけないのだ。だからこそ、私たちは日々働いてお金を稼ぎ、それで物やサービスを買うということしているわけで、それを止められない理由である。
科学システムや法システム、政治システム、芸術システムや宗教システムなどには、必ずしも参加しなくても生きていくことはできる(より精神的に豊かになるということはあっても、それらに参加しないと生存し続けることができない、というわけでは必ずしもない)。これに対し、一機能システムでしかないはずの経済システムは、人が暮らす・生きるためにべったりと寄り添いながら生きていくしかないという状態になっているのだ。経済から離れられない理由、資本主義を止められない理由は、衣食住やエネルギーを経済システムに依存して調達しているというところにある。
このような状態から脱するにはどうしたらよいのだろう? そのような「卒 資本主義」の可能性を考えてみたい。ここで、「卒 資本主義」というのは、「脱 資本主義」と似ているが、少しニュアンスの異なる言葉として提唱したい。この「卒」で表すということは、『クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育』のなかで、鈴木寛さんが「脱近代」ではなく「卒近代」という言葉をつかっていたのに着想を得ている。学校を「卒業」するように、「リスペクトをもちつつ、そこから離れ、次の段階にいく」というニュアンスが「卒」にはある。資本主義が可能にしてくれた恩恵や時期を否定せず認めつつも、そこから離れていくという意味で、「卒 資本主義」。あるいは、もっと身近なレベルの感覚で言うならば、「卒 経済依存」「卒 お金依存」と言ってもよいだろう。
さて、「卒 資本主義」はどのように可能になるのだろうか? その鍵は、実はこれまで僕らが語って目指していたことにこそあった、と最近気づいた。それは、「つくる」ということへのフォーカスである。僕はこれからの社会は、「創造社会」(creative society)と呼び得る社会になると考え、そのことについてここ10年ほど言い続けてきた。その社会では、人々は自らの日常的な創造性を発揮しながら、いろいろなものを「つくる」。「つくっている」ということが生活や人生の豊さの象徴になるような時代だ。この「つくる」ということが、「卒 経済依存」、「卒 お金依存」、そして「卒 資本主義」を可能とする鍵なのだ。
さきほど見たように、衣・食・住とエネルギーをお金を払って購入して調達することで私たちの暮らし・生きることが成り立っている。この現状に対して、これからの創造社会では、衣・食・住やエネルギーも、自分で「つくる」(ことができる)ことにより、経済システム経由で衣・食・住とエネルギーを調達する必要性を減らすことができる。
たとえば、トマトを食べるために、それを「買う」からお金がかかるのであり、自分で「育てる」(つくる)のであればそれだけのお金はかからない(もちろん種や苗、肥料は入手する必要があるが)。経済システムを経由してトマトを調達するのではなく、自分で育てて収穫することで調達することができる、この視点の転換が、ここで言いたいことの要である。洋服を自分でつくれば、買って調達する必要はなくなる。つくればつくるほど、経済的に購入して調達する必要性が下がり、それゆえ、ライフコストは低くなる。お金を多く必要としない暮らしへとシフトできる。四角大輔さんは、ニュージーランドで自給自足生活を送る実験を自ら実践中で、彼のような生き方をすると、「ミニマムライフコスト」はかなり低い。完全時給自足は大変で難しいかもしれないが、ここで言いたいことの本質は、自分で「つくる」ということは、「経済」から自由になるということなのだということだ。
これらのことは、現在の時点から見ると、難しそうに聴こえるかもしれない。自分に野菜を育てられるだろうか、あるいは服をつくれるだろうか、と。しかし、それが簡単にできるようになり、多くの人がやるようになる社会が、創造社会なのだ。1990年代の初めのまだインターネットが普及していない段階で、ネット上でお金を振り込むことができたり、ネット経由でテレビを見ることができたり、オンラインで授業ができるということは、難しいことだと思っただろう。それと同じように、なんでも自分でつくることができる世界というのは、いまの段階では、信じにくいかもしれない。しかし、FAB(デジタル・ファブリケーション)の技術や装置も開発されていて、かなりの度合いで可能になっている。太陽光パネルなどの自然エネルギー装置により自分たちのところでつくることができる。そして、それぞれの領域における創造実践の経験則を言語化したパターン・ランゲージも、日々の「つくる」の下支えをしてくれる。
そのような「つくる」ことへのシフトは、単につくる喜びやそれに付随する学びを得られるだけではなく、「卒 経済依存」「卒 資本主義」の道を進むことなのだ、と最近気づいた。自分で「つくる」暮らし・生き方をすることで、経済システムから離れることが可能になる。これが、創造社会の姿であろう。人は、自ら「つくる」ことで、経済システムから自由になることができるのである。
もちろん、経済がまったく不要になるということではない。完全自給自足にこだわってしまうと、それはそれで不自由になるし、経済によって成り立つよいこともいろいろある。その価値を認めた上で、経済から適度な距離をもって関わることができるようにすることを目指すのが、「卒 資本主義」への創造社会ヴィジョンである。
そのような「つくる」ことや「つくる」ことに関するコミュニケーションが展開される社会では、「共創システム」(Co-Creation System)と呼び得るコミュニケーションの連鎖が安定的に生じることになるだろう。そうして、いま以上に、「つくる」ことが継続的に発生しやすい状況になるだろう。そのようなことを促すメディアがパターン・ランゲージである(その点については、以前、次の論文で論じたので、ご覧いただければと思う)。
来年度の井庭研では、このヴィジョンの解像度を上げ、さらに「卒 資本主義」を実現するための戦略も構築するプロジェクトを立ち上げる。みなさんとも、建設的な語り合いができればと思うし、応援をお願いします!
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