『音楽を「考える」』(茂木・江村)
『音楽を「考える」』
この本は、江村哲二さんというクラシックの作曲家と、茂木さんの対談の本だ。茂木さんもさることながら、江村さんの話が非常におもしろい。
「なぜ音楽が頭の中で響き渡るのか、そもそも空気の振動としての音ではない、脳内にあるいわば仮想としての響きを聴いているということは一体どういうことなのか。」(p.10)
江村さんがそんなことを考えているときに、茂木さんの『脳とクオリア』を読んで、まさに同じことを考えている科学者がいる!と興奮したそうだ。そして今回、10年越しで実現したというのが、この本の対談だ。江村さんは、音大ではなく、工学部出身というユニークな作曲家。「サイエンスは大学で、音楽は独学で、両方やっていました」(p.15)という。そのような経歴の持ち主であるからか、作曲行為や音楽について語る際に、内と外の両方の視点を併せ持っている感じがして、とても興味深い。そして、茂木さんもそれをうまく引き出している。最近イチオシの一冊なので、ぜひ読んでみてほしい。
この対談では、創造性、作曲、クラシック音楽、科学、教育など、さまざまな話題が取り上げられているが、ここで紹介したいのは、「創造」の本質についての話だ。この本では全体を通じて、創造とは、自分の内なるものを「聴く」ということ、そして「傷つき」ながら生み出すということだ、と語られている。
江村 「自分の体内から出てくる何らかの響き、新しい響きを聴きだすことが、作曲という営みではないか。じっと耳を澄まして自分の内なる音を聴くということ。それが自分の音楽であり、それを楽譜にするというプロセスこそが作曲ではないか、と思い至りました。」(p.81)
江村 「『きく」も、『聞く」ではなく『聴く』、つまり hear ではなく listen です。つまり音に対して自発的に向かっていかなければ聴こえない。自分が音に向かうことで、そこに『聴く』という創造が生まれてくる。」(p.44)
茂木 「現代には『聴く』が欠けている。僕の経験からしても、何か新しいことを思いつくときは、たしかに耳を澄ませています。内面から聴き取ったことが、僕の場合は、ある概念や考えという形になって外に出ていくんだけれども、江村さんはそれを音楽で表すわけです。『聴く』ということは、自分の内面にあるいまだ形になっていないものを表現しようとすることだと思うんです。」(p.33)
しかし、このような自分の内なるものを「聴く」ということは、容易なことではない。なぜなら、それは日常生活で保たれているバランスをあえて失わせ、自分の心を切り裂いて、その奥へダイブしていくような行為だからである。それはある意味、危険な行為でもある。
江村 「作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。」(p.20)
江村 「見たいんだけれども見てしまったらだめで、全てが終わってしまうようなこと。ここでぎりぎりに止めておくのか、それともあっちの世界に行っちゃうのか、その境界線のところが創作という行為の本質だと思います。自分の胸を切り裂いていくことに近いものがあります。それを茂木さんは『自分が傷ついていくこと』と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、『傷ついている』ことそのものを表現してしまったらおもしろくともなんともない。その『傷ついていく』プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。いわばぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続ける。」(p.21)
僕も、自分の創作活動の経験から、同じようなことを感じていた(プロとしてはでなく趣味的な創作ではあるものの)。作詞をするとき、小説を書くとき、絵本を描くとき・・・そういう創作に取り組んでいるときは、ギリギリのところまで自分を追い詰めていく。表面的な思考では、つくるものも表面的になってしまう。そうではなく、表現したいものの奥の方まで降りていかなければならない。しかし、日常生活の自分を保ったまま、そのレベルに降りていくことはできない。そこで心のなかであえてアンバランスな体勢をとって、日常の自分から抜け出すことが必要となる。
この感覚は、なんとも表現するのが難しいのだけれど、歌詞の話でいうとわかりやすいかもしれない。本当は失恋していないのに、失恋した主人公の歌を書くことは容易くない。そのためには、まるで自分が失恋したかのような感情へと、自分を追い詰めていく必要がある。その状況に立ってみて初めて、リアルな歌が生まれる。もちろん、歌詞を書くには、そこで感傷的になるだけでなく、表現者としての自分を発揮しなければならない。それがきわめて、きわどい精神状態を強いることは想像に難くないだろう。しかし、そういう状況に自分をさらすことが、ものをつくる、ということなのだと思う。それがわかっているからこそ、なかなかすぐには創作モードに入ることができない、というのが最近の僕の実感だ。
その意味では、僕にとって、本を書くということは作品をつくることにほかならないので、この創作モードに入ることが必要となる。本気で本を書くというのは、短い論文をたくさん書くのとは全く異なる行為なのだ。そう考えると、逆に、論文を書くというのは、作品をつくるというよりは「手紙」を書くのに近いといえる。同時代の研究者への手紙。きちんと伝えたいことを書いて、しかも少しだけ魅力的でありたいと思う。しかし、本は「作品」なのだ。だからこそ、本を書くのが楽しくもあり、つらくもある。そのモードにどっぷり入れないとなかなか筆が進まないのは、そういうことがあるのだと思う。言い訳ではなく (たぶん)。
茂木 「表現者として何が必要な条件かと考えたときに、色々あると思うんだけど、生命体としての強さというのは間違いなくあると思う。切り刻むことで、自分の中から何かを表出する。それができる人は本当に強い人なんですよ。・・・もちろん、強いと言っても、図々しいとか傲慢だとかそういう意味ではなくて、ある程度自分の中のもろさとか弱さというものをきちんとさらけ出せるんだけれども、塀の外側には落ちないというか、安定を保つというか。」(p.53)
茂木 「大変な嵐の中にさらされて、脳内に大変な運動が起こっているという状況のなかで、その軌跡として出てくるものが創造性だとすると、それを得るために必要なものは何かがわかります。まず一つは、嵐の中に身をさらす自分の勇気。もう一つは強靭な自我。この両方がそろったときに、創造性というものが生まれるのではないか」(p.175)
この点についても、まさにそのとおりだと思う。「自分を保つ」ということは、「自分がつくる」ということを実現するためには、とても重要なことだ。失恋の悲しさに負けてしまって、表現できなければ意味がない。そのきわどく過酷な精神状況でも、なお前に進み続ける力がなければならない。創造のアスリート的側面だ。
しかし、日常の社会生活を行いながら、そのようなバランスを欠くような聴く行為をするということは、とても難しい。そう考えると、その難しさを理解したうえで、それを実行できるのが「プロ」というものなのだろう。本当のプロは、社会生活と創作上のアンバランスな状況を両立させるために、環境や時間のつくり方をきちんと心得ている。
今月は僕もその点にこだわって、本を書き進めたいと思う。(ということで、多少バランスを欠いているときがあるかもしれないけど、あしからず。笑)
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