井庭崇のConcept Walk

新しい視点・新しい方法をつくる思索の旅

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『社会を越える社会学』(ジョン・アーリ)

Book-Ali.jpg井庭研の今学期最後の輪読文献は、ジョン・アーリの『社会を越える社会学』だった。井関さんの論文から始まり、『リキッド・モダニティ』などの社会論、メディア論、複雑系、量子力学の文献を読んできた今学期の総まとめとなるような文献だ。

ジョン・アーリ, 『社会を越える社会学:移動・環境・シチズンシップ』, 法政大学出版局, 2006


この本では、「移動」(モビリティ)という観点から、グローバリゼーション時代における新しい社会学のパラダイムの提唱が試みられている。特に「国民国家」内における「社会」を主な研究対象としていた従来の社会学に対し、より流動的で移動がベースとなった捉え方をしていこうという。その意味で、(国民国家内における)「社会」を越える社会学、というわけだ。

「本書のねらいは、二十一世紀における一つの「学問分野」としての社会学に必要とされる研究カテゴリーを発展させることにある。本書は、ヒト、モノ、イメージ、情報、廃棄物の多種多様な移動について検討し、これらの移動相互の複雑な依存関係や、その社会的な帰結を研究対象にする〔新たな〕社会学の宣言をおこなう。」(p.1)

「再構成された社会学の中心には、社会(ソサエティ)よりも移動(モビリティ)を据えるべきだ」(p.368)

この本で、まず面白かったのが、「場所」についての次の指摘だ。

「「場所」という単一の範疇は、すでに確立しているというよりはむしろ、主催者、ゲスト、建物、モノ、機械が特定の時刻に特定の場所で何らかのパフォーマンスをおこなうためにたまたま寄り集まるというような複雑なネットワークのなかで、その意味が示されることになる。そして場所はパーフォマンスのシステム、すなわち、他の諸組織や建物、モノや機械とのネットワーク化されたむすびつきを通して現実のものとなり、しかも意図せざる結果として安定的なものとなるようなシステムを介して(再)生産される。それゆえ、場所はダイナミックなもの――「動きの場」であり、ひんぱんに移動し、必ずしも一箇所に停泊しない船のようなもの――である。「新しい移動」パラダイムでは、場所それじたいが人間、非人間の行為主体からなるネットワークの内部で、遅いか早いか、遠距離か近距離かの違いはあれ、旅するものと考えられている。場所は関係のようなものであり、人、物材、イメージ、そしてそれらがおりなす差異のシステムの布置構成のようなものである。」(p.xiv)

場所について考えるとき、まず物理的な場所についてイメージしがちであるが、ここで論じられているのは、社会的な関係性における「場所」である。物理的存在としての固定的な「場所」と、関係性のなかでの浮遊し、ゆらぐ「場所」 ――― 場所について考えるときには、この二重性について考えることが重要だと思う(この場所のもつ二重性については考えていることがあるので、それについてはまた今度書きたいと思う)。この二重性は、やはり「粒子」と「波」の性質を併せ持つ量子の話を思い起こさせる。

興味深いのは、アーリ自身もこの本のなかで、移動パラダイムの社会学に関係するものとして、量子力学的な考え方を取り上げていることだ。以下のように、Zoharらの『The Quantum Society: Mind, Physics and a New Social Vision』(Danah Zohar, Ian Marshall, William Morrow & Co, 1994) が紹介されている。この本は、ちょうど今学期のサブゼミで読んだ文献だ。

「ゾーハーとマーシャルが『量子的社会』という観念を練り上げている。絶対時間、絶対空間という固定したカテゴリー、相互作用する「ビリヤードの球」からなる剛体の不可入性、そして完全に決定論的な運動法則に基づく古典物理学に見られる、かつての確実性の世界が崩壊したとゾーハーらは述べる。それに代わるのが、「量子物理学の奇妙な世界、つまり空間、時間、物質の境界をものともしない奇怪な法則からなる不確定な世界」である(Zohar and Marshall 1994: 33)。さらにはゾーハーらは、波動/粒子の作用と社会生活の創発的性格との類似性を見いだしている。「量子的実在は……潜在的には、粒子のようでもあり波動のようでもある。粒子は単一体であり、空間的、時間的に定位され計測可能なもので、ある時点でどこかに存在する。波動は『非局所的』で、空間と時間を超えて拡がり、その瞬時的な作用は至るところに及ぶ。波動は同時にあらゆる方向に拡がり、他の波動と重合し一体となり、新たな実在(創発的な全体)を形成する(Zohar and Marshall 1994: 326)。本書では、「創発的な全体」を生み出しているように見える様なグローバルな「波動」をいくらか類推的に分析することを試みる。とはいえ他方では、「空間的、時間的に定位され計測可能」である無数の単体粒子、つまり人間と社会集団が確固として存在している。」(p.215)

このように、この本では、アーリは関連する文献を数多く引用・参照しているが、あまり自身の独自の考え方や具体的な分析事例は書かれていない。そのため、この本は、アーリの主張・研究として読むというよりは、関連文献への索引として読むほうがいいかもしれない。そう考えれば、非常に広範な文献をカバーしているので便利だ。

ただし、アーリはルーマンの理論に批判的な指摘をしているが、僕からするとその指摘は適切でないように思う。むしろ、アーリの議論は、ルーマンの社会システム理論で補強するとよいのではないかと思える。そういう意味で、この本を読むときには、アーリの評価をすべて鵜呑みにせず、実際にその文献を読んで、自分で関係付けをし直す、というのがよいだろう。

この本の最後に、次のような記述がある。超領域的な研究を志向する僕らを勇気づけるので、少し長くなるが引用したい。

「ドガンとパールは、社会科学の革新における「知の移動」の重要性を示している(Dogan and Pahre 1990)。彼らは二十世紀の社会科学についての広範な調査に基づきながら、革新は基本的に、学問分野の内部に凝り固まった学者からも、あるいはかなり一般的な「学際的研究」をおこなう学者からも生まれないということを明らかにしている。むしろ革新は、学問分野の境界を横断する学問的移動、つまり彼らが「創造的な境界性(マージナリティ)」と称するものを生み出すような移動によってもたらされる。社会科学において新しく生産的なハイブリッド性を生み出すのに役立つのがまさにこの境界性であり、それは、学問分野の中心から周縁へと移動し、その境界を横断していくような学者によってもたらされる。こうしたハイブリッド性は、制度化された下位分野(たとえば、医療社会学)や、よりインフォーマルなネットワーク(たとえば、歴史社会学)を構成することができる(Dogan and Pahre 1990: chap.21を参照)。この創造的な境界性は、複合的で、重層的で、離接的な移動過程、つまり学問分野/地理/社会の境界を横断して生じうる過程に起因する。知の移動は社会科学に適しているように思われる。」(p.368)

この部分から僕は、分野にこだわらず自らの研究をすすめた結果、渡り歩いた領域が、創造的な境界性を生むのだ、というふうに理解した。システム理論、モデリング・シミュレーション技法、コラボレーション技法、パターン・ランゲージ、ネットワーク分析、経済物理学、量子力学などなど、これらは分野としてはかなりバラバラなものであるが、僕の中ではつながっている。もちろん、なんでもつながるわけではないから、内と外を分ける、境界線はある。それこそが、「創造的な境界性」の意味するところではないだろうか。DoganとPahreの文献を実際に読んで、さらに考えてみたい。
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